姫の首を落とす
とある小さな国の領主夫妻には、一人の姫君があった。長らく子を授からなかった夫妻は、ようやく授かったこの一粒種を、目に入れても痛くないくらいに可愛がった。
澄んだ水を擁した大きな湖のある国は、小国ながらに豊かであった。姫は親にも家臣にも民にも、大層、愛されて美しく成長した。
姫の傍らには、常に一人の少年が控えていた。
名を鳥彦。
まつろわぬ民の末裔である鳥彦が、姫の近くに置かれた由来はわからない。見目が良く、才気煥発、何より領主に従順であったところが気に入られたのかもしれない。鳥彦が八つの時、領主は一振りの刀を彼に与え、姫を守れと命じた。鳥彦は刀を押し頂き、命に代えても、と誓った。
姫もまたよく鳥彦に懐いた。鳥彦より三つ年少の姫は、どこに行くにも何をするにも、鳥彦と一緒であった。
余りに二人が親密であることを、危惧する声もあったが、領主は鷹揚な笑みを浮かべ、それらを沈黙させた。姫は年頃になっても、変わらず鳥彦を傍に置いた。
ある日、湖面に春風が吹き渡り、桜の花がひらひら舞う地で、姫と鳥彦は口づけを交わし、愛の言葉を囁き合った。姫には隣国の若君という許嫁がいたが、少なくともそれは二人にとって形ばかりのものだった。
鳥彦は姫を心底、慕っていた。
姫も同様だった。互いが世界の全てだった。生も死も分かち合おうと、唇と唇が約束した。二人の仲に嫉妬の炎を燃やす者もいた。姫付きの、まだ年若い侍女である。侍女は再三、再四、領主に姫と鳥彦の仲を注進したが、聞き入れられることはなかった。それを知らぬ姫は侍女を姉のように思い、鳥彦の話をよくした。
侍女は表向きにこやかに、姫の見事な黒髪を朱塗りの櫛で梳きながら相槌を打っていたが、内心は姫を縊り殺したいくらいに憎んでいた。
恐れながらと隣国の若君に、事の次第を密告する手紙を書く大胆すらやってのけた。
若君はこれに驚き、許嫁の不実を看過できぬものと考えた。そしてそれを口実に、姫の国に大軍で攻め入った。戦に長けた若君の国の兵たちと、文化の成熟を尊び、平和慣れしていた姫の国の兵たちとでは、勝負にならなかった。
城は火に包まれ、領主夫妻は自害した。
鳥彦は領主から授かった守り刀を手に、姫を連れて城の麓の小さな宮まで逃げた。姫の柔らかな白い足は傷だらけになっていた。侍女はとうに敵兵の手にかかり死んだ。
ほろりほろりと姫の頬を涙が滑る。
鳥彦は姫の細い身体を掻き抱いた。金色の火の粉が眩いように、二人を囲み躍っている。
鳥彦。わたくしを許しておくれ。
わたくしの愚かが、これを招いた。
いいえ、姫様。これは私の罪でございます。
二人に残された道は一つしかない。姫は懐剣で咽喉を突き、鳥彦は刀で姫の首を落とし、自らも返す刃で死んだ。
宮は二人の亡骸を守るように天を焦がさんばかりの炎で燃えた。
隣国の若君が懸命に姫を捜したのにも関わらず、姫は亡骸すら見つからなかった。
姫の首を抱いて鳥彦は走っていた。足下は灼熱地獄だ。
腕の中、姫は安らかな笑みを浮かべている。髪からは、いつもの香油の良い匂いがした。
鳥彦はひたすらに駆けた。
駆けて駆けて、気づくと湖にまで来ていた。不思議なほどに人の気配がしない。
もう逃げる必要はないのだと悟る。姫の唇に、唇を重ねた。
首だけになっても、姫は愛らしく美しかった。
やがて湖に住まう龍神が、二人の魂を憐れんで、湖底深くに招き入れた。
鳥彦は姫とともに永久の眠りに就いた。
桜の花散らす風の吹く、晩春のことだった。