(14)死、六日目の午前
朝になってもアクアは小屋に戻ってこなかった。
キャロンは身支度を調えて扉を開けた。霧が小屋の中に入ってくる。
「これはひどいな」
ログも外を覗くが真っ白で何も見えない。キャロンがログとルクスに言った。
「朝の方が霧は濃いだろう。町に帰るとしたら昼くらいが良い。それでも霧は晴れないだろうから、湖に落ちないように注意していけ」
そしてキャロンは朝の霧の中に消えていった。
もう小屋には食事もなく、早く町に帰りたいところだが、確かにあまりに濃い霧のため、今帰るのは危険だろう。
とはいえ、ログにやることもない。
ログがルクスを見ると、ルクスは緑色の石を手で持って遊んでいた。
そして、ルクスが首をかしげてログを呼んだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「どうしたの」
「この石、色がおかしくなっちゃった」
言われてログはルクスから緑の石を受け取る。確かに前まで美しい深緑だったのに、今は濁った緑。黒か灰色に近づきつつある。時間が経つと変化する石なのだろうか。
「どうしたんだろう。キャロンならわかるんだろうけど」
ログは石をルクスに返した。ルクスは不満そうだ。綺麗な深緑だったから嬉しいのであって、これでは落ちている石ころと同じだ。だがログが何かできるということはない。
ログはルクスに尋ねた。
「お腹空いたかい」
ログが言うと、ルクスは小さくうなずいた。
「魚を捕ってみようか」
ログが言う。
アクアは魚料理を作っていたが、それはこの湖で捕れたものらしい。ログの生まれたドノゴ村は湖も海もなかったので釣りなどしたことはない。しかし、ログも冒険者なので、食料の調達方法を先輩冒険者から教わっている。その中には釣りに関するものも含まれていた。
ログは小屋の中を探って、道具に使えそうなものを探した。紐は荷物の中にある。それをほぐして細くする。小屋で見つけた鉄くずを石で打ち付けて重りと針を作る。竿は薪用の木を削って作った。
手際よくとまではいかなかったが、一応準備を整えて、ログはルクスと共に小屋を出た。
霧は朝よりは引いたように感じる。それでも10メートルくらい離れると真っ白でなにも見えない。
「なんか、怖いね」
ルクスは言う。
「大丈夫だよ」
ログは言ってルクスの手を引きながら外に出た。
ログは波打ち際で石をひっくり返し、虫を捕まえて針に刺した。そして片方の釣り竿をルクスに渡す。
「見ていてね。こうやって投げるんだ」
ログはもう片方の釣り具を手にとって、針を投げた。それなりに遠くに飛んでいく。少し、重りが重すぎたかもしれない。
ルクスも真似をして投げるが、うまくは飛ばなかった。波打ち際に落ちてしまう。ログも手伝って、ルクスの針も何とか湖に落とすことができた。
ログは釣れることをそれほど期待していない。本当に昼までの暇つぶしのつもりだ。
ログは釣り糸を動かして、魚が食いつきやすいように動かす。ルクスも真似をするが、強く動かしすぎていて、魚なんて引っかかりそうになかった。
しかし、少しするとログの針に魚がかかった。
引くと、残念ながら逃げられてしまったようだ。意外とここは良質な漁場のようだ。
そこでログは二つの釣り竿を回収し、新しく針を作り直した。
「これで釣れるぞ。そら」
ログが針を投げる。ルクスも真似して投げる。
しばらく反応はなかったが、やはりログは食いつく感覚を得た。
「よし!」
ログが素早く引き上げると、小さな魚が一匹釣れていた。
「すごい、お兄ちゃん、すごい」
ルクスは興奮している。
針から魚を外すと、ルクスはおっかなびっくり指でつついていた。
ログは魚をバケツに入れる。
「よし、続けようか」
やはりルクスは竿を動かしまくるのであまり引っかかりそうにない。
ログはまた、食いつきを感じた。強く動かしてしっかり針を食い込ませた感覚を得ると、ルクスを呼ぶ。
「ルクス、手伝って」
ルクスは跳んできてログに言われるがまま竿を持った。
「なんか、すごく引っ張ってくる」
「もっとしっかり。ルクス」
とは言っても実際に引いているのはログの方だ。ルクスにある程度引きを感じさせたところで最後までつり上げる。先ほどより少しだけ大きい。
「すごいじゃないか、ルクス。釣りの才能があるよ」
「えっ、本当!」
ルクスは全身で跳ねて喜びを表した。
「じゃあ、次もやってみよう」
ログはバケツの中に魚を入れて、針にまた虫をつけた。
「うん、やってみる」
ルクスに持っていた竿を渡すと、置いたままになっていたルクスの竿も引き上げて、虫をつけ治した。
釣りを楽しみながら、ログはルクスと一緒に旅をしたいと考えていた。アクアには振られてしまっているし、彼女の実力に並ぶのは無理だ。だったら、ルクスと一緒に旅をするのはどうだろう。もちろん子連れの旅なんて冒険者としてはかなり困難な道だと思うが、ログはルクスと離れがたく思っていた。
結局釣れたのは二匹だけだった。
「ねぇ、今度はどうするの?」
ルクスがバケツの中の魚を見ながらログに尋ねた。
「せっかく外だし、焼いて食べようか。水を汲んできて」
ログが言うと、ルクスはすぐに湖の方に掛けだしていく。
ログは薪を集めて、山のように組み合わせ、火をつけた。そして魚は水で洗って内臓を取って木串に刺し、残っていた塩を振りかけた。その串を焚き火の周りに刺す。
「ねぇ、まだ。まだ?」
「もう少しだよ。しっかり火を通さないとね」
焼き上がるのを待ちきれないルクスを押さえながら、焼き加減を確かめて、ログはルクスに大きい方の焼き魚を渡した。
すぐにルクスはかじりつこうとする。
「熱いから気をつけて!」
「熱っ、でも、おいしい!」
ルクスは大満足顔だ。
ルクスは魚を食べて満足したようだ。
「ねぇ、ねぇ、これからどうするの」
ルクスは期待のこもった目でログを見た。ログは周りを見渡す。
さっきよりは霧が晴れてきているように感じる。そろそろ街に向かっても良いとは思うが、まだここで遊んでいたい気もする。
「どうしようか」
「ねぇ、剣の練習しようよ。昨日みたいに」
ルクスが言いだした。昨日のバレルとの打ち合いが楽しかったのだろう。食後の運動に丁度良さそうだった。
「じゃあ、またこれで打ち合うかい」
ログは薪から手頃な木の棒を選ぼうとする。するとルクスが言った。
「おじさんとお兄ちゃんの練習がすごかった。僕も剣を持ってみたい」
ログは戸惑った。子供に剣は危険だ。だが、ルクスが剣に憧れる気持ちはわかる。ログ自身も父親の剣に憧れて剣の修行を始めたのだから。
「うーん、危ないけど、ちょっと触ってみるかい」
ログは小屋に戻って自分の剣を持ってきた。鞘ごとルクスに持たせる。
ルクスは剣を受け取って驚いた。
「お、重い。こんなの持ち上げられるの」
「ああ、ルクスも大きくなれば簡単だよ。剣は抜かないでね。危ないから」
ルクスは少しの間両手で剣を持って振り回そうとしていたが、すぐに音を上げた。
「重い。無理だよ」
ログは笑いながらルクスから剣を受け取る。そしてルクスから離れて剣を抜いた。そして型通りに剣を振る。
「すごい、すごい」
ルクスは目を輝かせた。ルクスが近づいてきそうだったので、すぐにログは剣を鞘に収めた。
「ルクスにはまだ早いから、まずは木で打ち合おう」
ログは一旦剣を置いて、ルクスに木の棒を渡した。
「よーし、いくぞ!」
途端にルクスはログに打ちかかってきた。
ルクスは当然戦い方なんて知らないので、全力でぶつかってくるだけ。ログはそんなルクスをあしらうのに結構苦労していた。これを平然とやっていたバレルはやはりすごいと思った。
しばらく打ち合ったところで、ルクスは疲れたようだ。
「そろそろ休憩しよう」
そしてログとルクスは焚き火まで戻った。そしてさっきのように座り込む。
「楽しかったかい」
「うん。お兄ちゃん、強いね。僕もお兄ちゃんみたいになりたいな」
ログは苦笑する。自分が強くないことは誰より自分自身が一番知っている。
ログが話しかけようとしたとき、ルクスが目をこすっていた。眠いようだ。
「ルクス。僕は火を片付けるから、小屋に戻っておいで。少し休んだら出発しよう」
ルクスが顔を上げる。
「わかった。お兄ちゃん」
そしてルクスは小屋に戻っていった。まだ昼までは時間がある。今から一時間くらい休めば出発にはちょうどいいと感じた。
ログが火を片付けていると、霧がログの方に流れてきた。風に流されてきたようだ。さっきまでは10メートルくらいあった視界がもう数メートルしかない。
ログはすぐに小屋に戻ろうとしたが、霧の中に人影を見た気がして立ち止まった。湖の方向だ。
「あれは?」
ログの前の霧が開けて、遙か先の湖の霧の中に人影が見えた。かなりくっきりとしたシルエットが浮かび上がっている。
ログは湖の方に歩き出した。
「アクアとベアトリス?」
その人影は二人の女性だった。影だけとはいえ、体付きからアクアとベアトリスに感じられる。
「アクア!」
ログは大声で叫んだ。でも反応はなかった。
二人はどうやらいちゃついているように見える。抱き合ったり、体を触り合ったり、そんな光景がシルエットで映し出されている。
「これは、なに?」
ログは唖然としてそれに見入った。足に水が触れて、慌てて数歩引き返す。でも目は離せなかった。
二人の絡み合いはかなり生々しかった。なまじ二人の体を隅々まで知っているので、シルエットから何をしているのかがほぼ正確に読み取れてしまう。
声も聞こえたような気がする。
「アクア、もっと強く○○て」
「ベアトリス、手が止まっているぞ」
二人の○○の声が聞こえる。
霧が再びログの周りに漂った。
「お兄ちゃん」
ログはいきなり霧に呼ばれた。それは聞き覚えのある懐かしい声だった。まだ十一歳のあのか細いレクシアの声。レクシアが自分に迫ってくる。
「レクシア、ダメだよ」
ログはレクシアを拒絶した。しかし体がいうことを効かない。あの頃のレクシアとログは愛し合ってしまった。その時の記憶が鮮明によみがえってくる。
「レクシア」
「お兄ちゃん。苦しいよ」
レクシアの声が聞こえる。それはまるで誘っているかのようだ。
「レクシア、レクシア」
ログはレクシアの名前を呼びながらも、逃げ出したかった。
「お兄ちゃん。僕、これ、嫌いじゃないよ」
霧の中で、レクシアが立ち上がってログを見上げた。それはあの頃のままの裸のレクシアだった。
「お兄ちゃん。次はどうしたらいいの」
レクシアが妖艶に迫り、ログの体に触れる。
ログの体に悪寒が走った。ログはレクシアを突き飛ばした。レクシアは悲しそうな目でログを見ていた。
「僕のこと、嫌いになっちゃった。ごめんなさい。お兄ちゃん」
「違う、レクシア。嫌いになったわけじゃない。そうじゃない」
ログは叫ぶ。
レクシアがゆっくりと近づいてきた。
「これからもお兄ちゃんと一緒にいたい。ダメ?」
ログの頭は混乱する。レクシアと一緒にいる自分が想像できない。
「お兄ちゃん。僕のこと、嫌い」
「嫌いなわけない」
レクシアが近づくとログは思わず後ずさりした。レクシアがショックを受けて悲しそうな顔をする。
「レクシア」
ログの胸に痛みが走る。この頃のレクシアは好きだったのだ。いつもお兄ちゃんと言いながら頼ってくれた。体の関係になってしまってもまだ愛しいと思えた。
でもこの先のレクシアは違う。レクシアはこの先変わってしまう。
そこでログは思い出す。キャロンがこの霧は魔法だと言っていたことを。
「そうだ、これは、幻覚」
レクシアはもう十五歳だ。十一歳のレクシアがいること自体がおかしい。でも、幻覚とは思えないほど、その女性はレクシアだった。
「うわーっ」
ログは走り出すと、落ちていた剣を取った。
これは敵の攻撃だ。負けていられない。
ログは剣を振り上げ駆け寄ると、まっすぐレクシアに振り下ろした。しっかりとした手応えを感じる。
「おにい、ちゃん・・・」
その時、霧がすっと晴れた。そして目の前には目を見開いたルクスがいた。
「ルク、ス?」
ルクスはまるでスローモーションのように倒れた。ルクスの懐の石が転がり落ちてログの足下に来る。もうその石は緑ではなく灰色だった。
「な、なんで。そんな馬鹿なことが・・・」
倒れたルクスの周りに血が広がっていく。ログの持つ剣も赤く染まっていた。ログは両膝を地面につき、剣を落とした。
すぐにルクスを助けなくてはいけないと思うのに、ログの体は動かなかった。斬った感覚でわかっていたのだ。もう助からない。
ルクスから流れていく血を見ながら、ログはレクシアの笑い声を聞いた気がした。




