(9)ベアトリスの場合
アンドリューは驚愕していた。
しかし、恐る恐る扉に挟まっていた手紙を取ると、開いて中を読む。そして震えた。通りかかったチャールズに声をかけられる。
「おい、どうした。青い顔をしているぞ」
アンドリューは素早く手紙を胸のポケットに隠した。
「いや、何でも無い」
そしてアンドリューは足早に部屋に入った。
手紙は第一近衛隊宿舎の自分の部屋の扉に挟まっていた。以前から、どうやってここに手紙を届けているのか不思議だった。そしてこの不思議な届き方をする手紙の差出人をアンドリューは知っていた。
「ベアトリス。なぜ、今になって・・・」
アンドリューはベッドに腰を掛けたまま頭を抱えた。
一年くらい前だろうか。その頃アンドリューはある貴族に仕えるメイドのシャーロットと付き合っていた。近衛隊でも結構知られており、常にからかわれた。
しかし、近衛隊も住み込みメイドも日々の仕事は忙しく、二人きりで会える時間は少ない。それでもアンドリューとシャーロットはできるだけ時間を捻出してデートを重ねていた。
非番のある夜。アンドリューは近衛隊宿舎に戻る途中に何かから逃げてくる女性に出会った。腕の出る黒いローブをまとった女性だった。ローブから出る腕は白く美しかった。
「助けて。追われているの」
そしてその女性はアンドリューの背中に隠れた。アンドリューは剣を抜く。もちろんアンドリューはその女性の言葉を信じたわけではない。背後の女性にも警戒はしている。
遠くで人の声がした。暗くてよく見えない。しかしその声はすぐに去って行った。
後ろで息をつく声が聞こえる。
「ありがとうございます。近衛隊の方」
細くてよく通る声だった。
「いや。しかし誰に追われて・・・」
そしてアンドリューはその女性に釘付けになった。
真っ黒な長い髪。そして透き通るような肌。まるで女神のようだと思った。
彼女は微笑む。
「ちょっと失敗しちゃって。私、冒険者なんです。今戻ると、また奴らに見つかっちゃいそう。もう少しだけ一緒にいてもらえますか」
「いや、しかし・・・」
近衛隊宿舎には門限はあるが、非番だから多少遅くなっても大丈夫だろう。何より、アンドリューは彼女とこのまま別れるのがもったいなく感じていた。
「私、貴族街の方にもたまに来るんですよ。ほんの少しでいいので付き合ってください。イージーって店知ってます?」
女性を使って客を誘い込みぼったくる店もある。初めはそのたぐいかとも思ったが、違うようだ。イージーのことは知っているし行ったこともある。比較的安めだがおしゃれなバーっぽい居酒屋である。高級志向の貴族はあまり立ち寄らないし、ただ飲んで騒げればいいと考えている近衛隊の貴族はおしゃれすぎて近づかない。しかし、デートにはもってこいなのでシャーロットと行ったことがある。残念ながらシャーロットはお酒が苦手で、その後は行っていない。間違いなくぼったくりをするような場所ではないだろう。
アンドリューは少しだけ警戒のレベルを落とす。
「その店なら知っている。まぁ、私も少し飲みたいと思っていたし、付き合ってやってもいい」
「嬉しい。じゃあ、行きましょう。えーと・・・」
「アンドリューだ」
アンドリューは答える。
「私はベアトリス。よろしくね」
結局その日は特に騙されることもぼったくられることもなく、楽しい時間を過ごせた。ベアトリスはアンドリューの話をよく聞いてくれ、少しの酔いも合わさって、色々話したような気がする。
ベアトリスもとても楽しかったようで、別れ際に再会することを約束してしまった。
アンドリューの胸に少しばかり罪悪感はあったものの、シャーロットとは違う魅力を備えたベアトリスにもう一度会いたいと感じていた。
そして、その一週間後、今日のようにアンドリューの部屋の扉に手紙が挟まっていたのだ。
それが始まりだった。
アンドリューはベアトリスと夜の食事デートを重ねた。非番の日はシャーロットと出会わないように、郊外にデートに出かけた。
会う度にアンドリューはベアトリスに引かれていった。近衛隊の愚痴もベアトリスはやさしく聞いてくれた。ベアトリスに笑いかけられると、胸がぎゅっと縮む気がする。
そしてある夜。アンドリューはとうとうベアトリスと一線を越えてしまった。ベアトリスはシャーロットに悪いと一度は断ってきたが、目を見ればベアトリスも期待していることがわかった。だから、アンドリューは半ば強引にベアトリスと関係を結んでしまった。
ベアトリスとのデートは、関係を結ぶまではかなり頻繁であったが、それ以降は一週間に一回程度に落ち着いた。ベアトリスの仕事が忙しくなったからだ。それでもその一度が楽しみでたまらなかった。
逆にシャーロットとは気持ちがすれ違うことが多くなった。久しぶりのデートでも、アンドリューの心はときめかない。シャーロットがわがままを言うと、ベアトリスだったらこんな事言わないと、腹が立った。夜もシャーロットとベアトリスを比べてしまう。ベアトリスの方が圧倒的に美しかった。
そんな日々が続き、数ヶ月後、とうとうアンドリューはシャーロットに別れを告げた。シャーロットは泣き崩れ、そんな姿にアンドリューの気持ちは揺らいだが、それでももうシャーロットを愛せないと思った。心にあるのはベアトリスだけだ。
間もなくアンドリューはベアトリスと会うことができ、アンドリューは素直にシャーロットと別れたこと、これからはベアトリスを愛し抜くことを告げた。
ベアトリスは泣きながらアンドリューに抱きつき、嬉しい、愛していると告げた。
アンドリューの幸せは絶頂に達した。
それから一週間の間、アンドリューとベアトリスは何度も逢瀬を重ねた。
そして突然、ベアトリスからの連絡は無くなった。
もともとアンドリューはベアトリスの居場所を知らない。常にベアトリスからの手紙でデートをしていた。
初めの一週間は悶々と過ごしていたが、そのうちまた連絡が来るだろうと高をくくっていた。しかし二週間、三週間、一ヶ月経ってもベアトリスからの連絡は無かった。
アンドリューはベアトリスを探し歩いた。いつも行っていた酒場やホテルに何度も足を向ける。しかし見つからない。平民街も散策した。平民街では近衛隊はとても目立ち、かなり警戒されるのだが、かまっていられなかった。
何人かに声をかけたが、ベアトリスのことを答える人はいなかった。知っていて黙っているのか本当に知らないのかわからない。
一人の男は知っていると言い、案内すると行ったが、仲間に目配せしているのがわかったのですぐに立ち去った。
平民街の人間は貴族より信用できない。
冒険者の宿の前にも行ったが、中に入る勇気は出なかった。冒険者と近衛隊は協力関係にない。依頼という形でしか彼らに関わることはできない。
アンドリューは毎日のようにベアトリスを探し歩いた。そのせいで近衛隊の仕事にも支障をきたし、マリア副長には気合いが足りないと鉄拳制裁を喰らった。
それでもアンドリューはベアトリスを探すことを止められなかった。
その日もベアトリスを見つけられないまま宿舎にとぼとぼと歩いていた。そして以前ベアトリスと使っていたホテルに向かう人影を見つけた。
「シャーロット?」
横顔が見えた。服装も以前見たことがある。向こうはアンドリューに気づいていないようだ。
「ホテルへ? まさか、もう他の恋人が」
アンドリューは自分のことを棚に上げて怒りを覚える。アンドリューは少し迷ったが、相手を見てやろうと、そっと後をつけることにした。
すると急にシャーロットは顔を上げて走りだした。気づかれたかと思ったがそうではなかった。シャーロットの走る先の闇から突然白い影が現れ、シャーロットを抱き留めたのだ。そして二人はしばらく抱き合うと、共にホテルの中に消えていった。
アンドリューは呆然と立ち尽くした。
シャーロットの相手の姿は一瞬しか見えなかった。しかし、黒い影から現れた白い肌とその独創的な服装は見間違えようがない。
「なんで、ベアトリスが・・・」
アンドリューは混乱した。アンドリューはホテルに駆け寄る。すでに誰もいない。今すぐ中に飛び込みたい気分だが手を強く握りしめてこらえた。
ベアトリスとシャーロットは通じ合っていた? だったら、ベアトリスはわざとシャーロットと別れるように仕向けたのか?
アンドリューは震える体を抱きしめながらのろのろと宿舎に向かった。
それから一週間、アンドリューは寝込んだ。何度も悪夢にうなされた。
訓練に復帰してからも、気持ちが入らず、ミスを繰り返した。しかし、マリア副長の鉄拳は飛ばなかった。その代わり個室に呼び出された。
「アンドリュー。何があった。少し休養を取ったらどうだ」
強面のマリア副長が心配そうに言う。そんなマリア副長の様子に、むしろアンドリューの方が驚いた。マリア副長は規律にうるさい人であり、恐怖の対象である。やさしく声をかけられるとは思いもしなかった。
「いえ、大丈夫です」
「恐らく、心の問題なのだろう。悩むくらいなら何も考えずに体を動かせ。訓練に没頭しろ。そのうち悩んでいたことがばからしくなる。休養を取らないのならそれでいい。私は手を抜かないからな。しっかり付いてくるように」
マリア副長はそう言ってアンドリューを帰した。
アンドリューはシャーロットに会うことを何度も考えた。しかし会って何を話せば良いのかがわからない。ベアトリスに会わせろと叫んだところで、シャーロットは従わないだろう。それにシャーロットもベアトリスの居場所を知っているとは限らない。
結局そのまま時は過ぎ、最近になってやっとアンドリューの調子は戻ってきたところだった。
「それなのに、今更」
アンドリューは手紙を握りしめる。そこには「会いたい」というメッセージと共に時間と場所が書いてあった。
アンドリューは夕食の後、宿舎を抜け出して店に向かった。店の名前はあの思い出のイージー。ベアトリスに問いたださなくてはならない。なぜ今まで姿を見せなかったのか。どうしてシャーロットとホテルに行ったのか。
アンドリューがイージーに入り中を見渡す。するとローブを着た黒髪の女性が奥で手を振った。アンドリューの心が歓喜に震える。間違いない。ベアトリスだ。
しかしアンドリューははやる心を押さえる。彼女は自分を裏切ったかも知れない女性だ。気を許してはいけない。
アンドリューはゆっくりと気合いを込めてベアトリスに近づいていった。
「アンドリュー。会いたかった」
ベアトリスが華のような笑顔で言う。アンドリューはできるだけ硬い表情を作って答えた。
「い、今まで何をしていた。どうして、連絡をくれなかった!」
ベアトリスは少し悲しげな顔をした。
「ごめんなさい。遠征の仕事が入って、半年の間ダグリシアを離れていたの。出発前にアンドリューに手紙を書きたかったんだけど、そんな時間も無くて。やっと今日帰ってきたから、すぐにアンドリューに手紙を書いたのよ」
アンドリューはあっけにとられる。
「半、年?」
「ええ、私は治癒の魔法が得意だから、大がかりな遠征の仕事だと呼ばれることも多いのよ。まさか半年もかかるとは思わなかったんだけど、それなりに報酬は得られたから仕方がないわね。アンドリューを半年も放っておいてごめんなさい。これから埋め合わせをさせて」
ベアトリスは素直に頭を下げ、そしてアンドリューをやさしい瞳で見つめた。ベアトリスに惹かれそうになり、慌ててアンドリューは首を振る。
「そ、そんなわけない。き、君はシャーロットとホテルに行っただろう」
しかしベアトリスはきょとんとした顔で首をかしげた。
「シャーロット、さん? えーとアンドリューの前の恋人よね。私が、彼女と? どうして? そもそも私は遠征に行っていてここにはいなかったし」
途端にアンドリューの自信が無くなる。あのときの光景は本当にベアトリスだったのだろうか。見たのはほんの一瞬だった。
するとベアトリスは笑った。
「そもそも、ねぇ。シャーロットさんは女性なのでしょ。なんで私が女性とホテルに行ったと思ったの」
アンドリューもはっとする。自分の見たものを信じ込んでいたが、ベアトリスが女性を誘ってホテルに行くというのはおかしい。シャーロットも女性相手に本気になるわけはない。つまりあのときの影はベアトリスとは違うどこかの男だったという事になる。
アンドリューは首をうなだれた。
この半年の間苦悩していたのは何だったのであろうか。全て自分の勝手な思い込みだった。ベアトリスは相変わらず自分を愛してくれていたのだ。
ベアトリスの手がアンドリューの手の上に置かれた。
「アンドリュー。心配掛けてごめんなさい。その代わり、今夜は一緒の時間を過ごしましょう」
ベアトリスは細く笑んだ。
もちろん全部嘘である。アンドリューをたらし込んで恋人と別れさせたのも、傷心のシャーロットを言葉巧みに口説き落としたのも全部ベアトリスが狙ってやったことである。
ベアトリスは二人の心を虜にしたところで今回の恋愛ゲームを終わらせ、別のターゲットに移ったにすぎない。当然半年も遠征なんてしていない。
午前中にアンドリューとシャーロットを調査し、アンドリューが相変わらずシャーロットと連絡を取っておらず、ベアトリスを愛し続けていることがわかったので、それを利用したのである。
もしアンドリューがベアトリスの事を忘れて別の恋人を見つけていたり、シャーロットとよりを戻していたのなら違う作戦を立てたところだ。今回はたらし込むにはとてもたやすい状態だった。
ちなみにシャーロットの方はもう別の相手を見つけていた。ベアトリスと連絡が取れなくなり、シャーロットは何度も自殺未遂を重ねていたようだ。その時、必死に励ましてくれたメイド仲間と現在は幸せに過ごしている。ベアトリスのせいで女性に目覚めてしまったのだろう。
それからアンドリューとベアトリスは恋人のように語り合い、ホテルに向かった。
翌日もアンドリューはベアトリスと夜を共に過ごした。そしてベアトリスに尋ねられるがままに、近衛隊の内情をつぶさに語ったのである。




