第二章 美しき四夫人ー⑤
一瞬で勝敗がついてしまった。
模造とはいえ、重量のある長槍が宙を舞い、回転しながら地に落ちていく。女官たちが団子になっている方へ落下してしまった。
彼女たちは慌てた様子でそれをかわしていたが、槍を飛ばした張本人である鈴舞は「も、申し訳ありません! 当たった方はいらっしゃいませんか!?」と謝罪しながら駆け寄った。
光潤は、呆然として立ち尽くしていた。何が起こったのか、理解していないような面持ちだった。
祥明から放たれた開始の声の直後。大きく槍を振った光潤の懐に鈴舞はさっと飛び込んだ。そして両手で持った倭刀を渾身の力で振るい、槍の柄を弾いて吹っ飛ばしたのだった。
そんな瞬時の攻防を、一体、この場にいた何名が目で追えていたのだろうか。感嘆の口笛を吹いた祥明と、立ち合い前から悠然とした微笑みを浮かべている劉銀くらいかもしれない。
「……陛下も人が悪いですね」
放心状態の光潤と、どよめいている女官たちを尻目に、祥明が呆れたように微笑む。
「何がだ」
「鈴鈴の実力をわかっていながら、けしかけるとは。光潤、衝撃を受けてるじゃないですか」
「よい薬になったではないか。あれを馬鹿にする輩は、何人たりとも許さぬ」
冗談めかした口調だったが、劉銀の目は据わっている。「あ、本気だ……」と、祥明は密かに恐れおののく。
「まあ……。俺だって、速さじゃ鈴鈴に勝てないしなあ」
慌てた様子で女官に頭を下げている鈴舞を目を細めて眺めながら、祥明は独り言ちる。
道場で一緒に稽古に励む時。鈴舞と祥明は、今のような立ち合いの五本勝負を、よく行っていた。
皇帝専属の武官である祥明が勝ち越す確率はやはり多かったが、最初の一本に限っては、祥明が鈴舞に勝利したことは一度たりとも無かった。
日夜鍛錬に励んでいるとはいえ、やはり鈴舞は女性だった。筋力も持久力も、祥明には遥かに劣る。
しかし、瞬間的な素早さについては、祥明はどうしても鈴舞に適わなかった。さらに、女性ならではの柔軟性から繰り広げられる、倭刀の複雑な動きは、気を張っていても毎度虚を突かれてしまう。
一瞬の速さと柔らかな身のこなしからなされる鈴舞の太刀筋を見極められる武官は、華王朝の雄大な歴史を遡っても、そうは存在しないだろうと祥明は思う。
そして何よりも、その華奢な体には不釣り合いともいえる長い曲刀を、自由自在に操りながら鈴舞が宙を舞う姿は、芸術と呼称しても過言ではないほど、鮮やかで美麗だった。流水のように、疾風のように軽やかな動きは、さながら蝶のようだった。
現に、茶会に参加していた四夫人皆は、呆気に取られたように鈴舞を眺めていたし、場は水を打ったような静寂に包まれていた。
皆、鈴舞の速さはきっと目では追えていないはずだ。しかし、その身のこなしの美しいことだけは角膜に焼き付いているらしかった。
「……俺がこんな小柄な者に……? 嘘、だろ?」
いまだに現実を受け入れられないらしい光潤は、虚ろな瞳でぶつぶつと独り言ちていた。
鈴舞はそんな彼の様子など気づいていないようで、「ありがとうございました!」と爽やかに声を張り上げ、行儀よく一礼した。――すると。
「す、すごいじゃない鈴鈴! かっこよかったー!」
林徳妃が、興奮した様子で鈴舞へと駆け寄った。それを口火に、今ままで静まり返っていた女官たちがざわめき出す。
「な、何……? あの小さな宦官が、光潤様を……?」
「まさか……。そんなことって」
「鈴鈴って呼ばれていたわよね。結構、かわいい顔してない?」
「……私さっきから胸の鼓動が収まらないのだけど。恋かしら?」
なんて会話が聞こえてきて、祥明は苦笑を浮かべた。鈴舞の男装した姿を目にした時から「かわいすぎる。女官に恋情を抱かれやしないか」と懸念はしていたことだったが、ここまであっさり想定通りになるとは。
まあ、美少年が背の高い武官をあっさりと倒す姿は、あまりにも絵になりすぎた。女官たちが興奮するのも仕方あるまい。
鈴舞は、林徳妃とその周囲の女官に褒めちぎられて、照れ笑いを浮かべていたが、まんざらでもなさそうだった。
その一方で――。
「……ふん! さっさと帰るわよっ! ほら、光潤!」
自身の護衛があっさりと敗北し、屈辱らしい梁貴妃は、金色の刺繡が入った襦裙をばさりと翻し、藤棚の奥へと消えていった。その後には、いまだに心ここにあらずといった様子で、ふらつきながら光潤が続く。
「……やっぱ面白くなりそうだな」
普段の、女臭さしかない茶会とはまったく違った光景に、祥明は密かに微笑むのだった。