第七章 皇帝の真意ー③
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鈴舞の道場に門下生としてやってきたころの劉銀は、小柄で貧弱で、精神的にも脆かった。それまでは皇太子として、何不自由なく後宮で暮らしていたため当然のことであろう。
厳しい稽古のあとは、毎日のように落ち込んだ。兄弟子の祥明には全く歯が立たず、自分より小さく非力そうな女の鈴舞にすら、毎回一瞬で負けてしまう。
後宮では、稽古に付き合ってくれた武官にあっさり勝利できていたのに。「いやー、一本取られました。末恐ろしいですな」と、彼らは微笑んでいたのに。
彼らが自分の機嫌を取るために、そうほざいていたことに鈴舞の道場にやってきて初めて気づかされた。
それは、それまでもてはやされることしかなく、全能感を覚えていた劉銀にとって、恐ろしく恥ずかしいことだった。
その日も、門下生たちにこてんぱんにされた。さらに「未来の皇帝がこんなんじゃ、華王朝も危ういな」などと、からかわれてしまった。
皇太子への侮辱に当たるとんでもない発言だが、道場にいる間は身分などない。そういう風に現皇帝である父に言いつけられているため、劉銀は涙をのんで聞こえないふりをするしかなかった。
稽古が終わった後、道場近くの小川の辺に劉銀は来た。落ち込んだ時に訪れるのは、決まってこの場所だった。そよそよと流れる川のせせらぎは、幾分か心を穏やかにさせてくれる。
しかしいつもに増してふがいなかった今日の自分は、川の水音でも癒されなかった。砂利の上に座り込み、すすり泣いてしまった。
――すると。
「あー、こんなところにいたの? もうすぐ昼餉よ」
鈴舞の明るい声が響いてきた。彼女はいつだって溌剌としていて、まるで太陽みたいだった。外見は小さく可憐な少女なのに、刀を持った途端鋭い気配を発するところも、劉銀にとっては眩しかった。
「……いらない」
劉銀は俯いたまま、涙声で答えた。
「ダメよ。稽古の後はちゃんと食べないと。強くなれないよ?」
「……どうせ僕なんて強くなれないよ」
思わず、卑屈なことを言ってしまう。少し後悔したが、投げやりになっていた劉銀は、それ以上言葉を紡ぐ気になれなかった。
すると、すぐ隣に気配を感じた。鈴舞が自分と並んで腰を下ろしたのだった。ちらりと鈴舞の方を盗み見る。彼女の白い膝小僧がすりむいいて、一筋の血が流れていた。
「鈴鈴! 怪我をしている!」
驚いた劉銀は、不貞腐れていたことも忘れて顔を上げた。言われて鈴舞は自分の膝を見て、「あ、本当ね」と軽い口調で言う。
「すぐ手当てしないと!」
「え? いいわよ別に、いつものことだから」
「ダメだよ、鈴鈴は女の子なんだから」
皇帝の物である後宮の女たちは、傷ひとつつかぬよう、とても丁重に扱われている。できるだけ美しく見せようと、化粧も衣裳も常にこだわりにこだわりぬいていた。
そんな女たちしか見たことなかった劉銀は、「女の子は大切に扱わなければならない」という考えが根付いていた。
だから、最初は男に混じって稽古をし、多少の痣や傷をつくのをものともしない鈴舞の存在は、衝撃的だった。もうだいぶ慣れたとはいえ、やはり傷ができているのを見てしまったからには放っておけなかった。
劉銀は「別にいいのに……」という鈴舞の言葉は無視し、川の水で患部を洗った後、持っていた手巾を膝に結び付けた。
「傷は洗わないと膿が出て酷くなるって後宮の医官が言ってたんだ。よく洗ったから、きっと大丈夫だと思う」
「そうなの? 知らなかったわ、ありがとう」
「もっと気を付けないとダメだよ。女の子は綺麗でいないといけないんだから」
「え、そうなの……? 別に私はこんな傷くらいどうってことないけどなあ」
「後宮の女たちだったら、膝に怪我なんてできたら大騒ぎだよ」
「えー。なんか面倒そうなところね、後宮って」
眉をひそめて鈴舞は言った。
女ならば、誰もが後宮の姫に憧れているのだと劉銀は思っていた。後宮入りさえすれば、着飾って皇帝を悦ばすことだけを考えていればいいのだから。
その後宮を「面倒そう」の一言で片づける鈴舞のその様子に、劉銀は驚きを禁じ得ない。単に後宮がどんな場所なのかを知らないだけなのかもしれないが、武術の腕といい、鈴舞のすべてが劉銀にとって初めての存在だった。
「ねえ、泣いてたでしょさっき」
隣に腰を下ろしている鈴舞は、劉銀の顔を覗き込みながら言った。劉銀は、少し前まで自分の不甲斐なさに落ち込んでいたことを思い出し、再び暗い気持ちになる。
「何かあったの? もしかして、今道場で一番弱いから?」
「……そんなにはっきり言わないでよ」
「そんなに気にすること? 修行を積んでればそのうち強くなるでしょう。私だって、こう見えて何年も父上に稽古をつけてもらってるんだから」
「そんな簡単なことじゃないんだよ。……僕はいつか皇帝になるんだから」
か細い声で劉銀は言った。
――そうだ。自分は華王朝を背負う皇帝になるのだ。誰よりも強く、揺るがない存在でなければならない。
そんな自分は、なんでもそつなく器用にこなさなくてはならないのだ。皆の手本になるように。強さを見せなければいけない自分に、武道の才が無いのは致命的なのである。
初めて刀を持った日から、それなりにうまく立ち回れるほどではなければ。
「え? 皇帝になるのに、それって関係あるの?」
鈴舞はさも不思議そうに、きょとんとして尋ねた。
「そりゃ、あるでしょ。強くなきゃ、みんなついてきてくれないよ。父上だって並みの武官じゃ敵わないほど強いし」
「んー、私は強い人よりも、優しい人がいいな」
何気ない口調で鈴舞は言った。しかし飾り気のないその言葉には、彼女の本心しか感じられない。
「優しい人……?」
「うん。だって、この国全部を守ってくれる人なんでしょ? だったら優しくてみんなのことを大切にしてくれる人がいいな」
「優しくて、みんなのことを大切にしてくれる人……」
確かに、自分の父は強いが深い優しさも備わっている。鈴舞に言われて、父の周りの人間がいつも朗らかそうにしているのは、父の懐の深さもあるのだろうということに、劉銀は初めて気づいた。
「強くなくても……なれるの? 皇帝に。こんな僕でも、なれるのかな」
呟くように言うと、鈴舞が劉銀の前に来てにっこりと微笑んだ。
「皇帝になれるよ! だって劉銀は優しいし、人のことだってよく見ているから。私の怪我を見つけて、手当てしてくれたもん!」
断言するようにきっぱりと言った鈴舞の言葉は、劉銀の心に大きく響いた。劉銀の今までの女の概念を大きく覆す、破天荒な少女がそう言うのなら、きっとそうなのだろうと思わされた。
その後の稽古も、しばらくの間は兄弟子たちに手も足も出なかった。しかし気落ちしそうになるたびに「皇帝になれるよ!」という鈴舞の言葉が脳内に蘇るのだ。
すると不思議と気持ちは落ちずに、自分を奮い立たせることができた。数か月後に、初めて祥明に一撃を食らわすことができてからは、成長が早かった。
一年が経つと、鈴舞や祥明の次くらいに劉銀は強くなっていた。
その後道場を離れ、後宮での暮らしに戻り、そして予定通り劉銀は十六歳で皇帝となった。しかしずっと、あの日傍らで微笑んだ鈴舞の言葉が心の支えだった。
――だが俺は、君が言うほど優しくもなく、人のことを見れてはいなかった。あの頃から成長していないのかもしれない。
女官行方不明事件の解決に至る経緯を思い返し、劉銀は思う。
白賢妃の心の闇に、自分は気づくことができなかった。姚淑妃の葛藤も。
さすがに、光潤のことは姚淑妃の偽証だと踏んでいたが、彼の疑いを晴らすためには、後宮裁判にかけるしかなかった。鈴舞とその周辺が、すでに確かな証拠をつかんでいることを見越して。
鈴舞は、その天真爛漫な魅力で白賢妃や林徳妃、光潤の心を捕えてしまっていた。きっと、本人もあずかり知らぬところで。
――いつも君は、人の心に自然に入り込み、魅了する。
劉銀自身もそうだった。幼い頃のあの河原での出来事以来、鈴舞は自分の心を捉えて離さない。四夫人や他の妃嬪にも、もちろん愛情はある。
しかし鈴舞に対してだけは、特別な思いがあった。女を愛する気持ち以上の何かが。皇帝として欠けたものがある自分を、彼女が補ってくれるような気すらしている。
――そうだ。俺は優しくないんだ。全然、優しくない。だって俺が、君を後宮に呼び寄せた本当の意味は――。




