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第七章 皇帝の真意ー②

 声の主は梁貴妃だった。女官の誘拐事件が落着したためか、護衛も女官もつけずにひとりでやってきたようだった。


「娘々、こんな時にお茶とは……? 俺は任務中ですが」


「うるさいわね! あんたは私直属の護衛よ? 私の命令は絶対でしょうが!」


 首を傾げて尋ねる光潤に、貴妃はつっけんどんに言う。


 しかし確かに、主の命令は絶対ではある。その上に皇帝という国の最高権力者の命があることはさておき。


「いや、しかし……」


「あーもう! ……林徳妃に頼まれたの」


 煮え切らない態度の光潤に苛立った様子の梁貴妃だったが、ぼそりと小声で意外なことを言った。


「林徳妃様に?」


「……そうよ。『うちの護衛がとんでもないことをしようとしている。だけど面白そうだから手伝いたい。だから光潤を無理やり牢から引き離してちょうだい』って」


 鈴舞の方をちらりと見ながら、梁貴妃は言った。


「林徳妃様が、そんなことを……」


 きっと、聡明な林徳妃は最近の自分の様子を見て察したのだろう。そういえば、ここ数日間人目を憚らずずっとこの作戦のことを考えていた。難しい顔をして悩んでいた場面を、林徳妃は何度も目にしたに違いない。


 ――面白そうだから、手伝いたいって。林徳妃様らしいわ。


「し、しかし……。牢の見張りをしている俺を無理やり連れて行くとなると、梁貴妃様も咎められるかもしれません」


「そう? まあ、大丈夫でしょう。私と林徳妃がお茶をしていたところ、『女同士でお茶も飽きたわね。美男を連れてきましょう』ってことで、あんたを連れて行くことにしたっていう(てい)だから。いわば、私と林徳妃と共犯だから」


 と、悪戯っぽく微笑む梁貴妃。


「さすがに、四夫人のふたりがやったことを陛下も周りも強くは言えないんじゃない? まあ、いちゃもんつけてくる輩がいれば泣き落とせばいいでしょ。傾国の美女である私の涙に、ほだされない奴はいないわよ」


 ふふんと得意げに梁貴妃は言った。


 泣き落とし云々はともかく、確かに四夫人のふたりが関わっていれば、気難しい文官も口うるさくは物申せない気はする。


「梁貴妃様……ありがとうございます」


 鈴舞は頭を深々と下げた。すると梁貴妃はぷいっと顔を背ける。横髪の隙間からのぞく頬は、わずかに赤らんでいるように鈴舞には見えた。


「……あんたには、借りがあるから」


「借り?」


「うちの光潤を助けてくれたから。あんたが白賢妃様の罪を暴いてくれなかったら、光潤の命は今頃なかったわ。……だから、これで貸し借りなしだからね」


「梁貴妃様……。借りだなんて、とんでもございません。もったいないお言葉でございます」


 鈴舞が素直に礼を述べると、梁貴妃は「ふん。まあ、うまくやんなさいよ」とそっぽ向いたままぶっきらぼうに言った。


 そして、「いや、しかし大丈夫なのですか……?」と、いまだにぐずぐずしている光潤を急かすように追い立て、梁貴妃は行ってしまった。


 ふたりが姿を消してから、鈴舞はその場で大きく深呼吸をした。「よし」と心中で言うと、布を巻き付けた棍をしっかりと抱え、牢獄の中へと入っていった。


 中は明かりもなく、昼間だというのにぼんやりと暗かった。こもった空気はカビ臭く、鈴舞の足音に逃げ出して去っていた羽虫すらいた。


 何日か前までは豪奢な住まいで何不自由なく暮らしていた姫がいる場所とは、到底思えないほど淀んだ場所だった。


「……鈴鈴か。何用だ」


 彼女――白賢妃が収監されている檻の前にたどり着くと、中からかしわがれた聞こえてきた。中を覗き込むと、白賢妃は美しかった髪を結わずにぼさぼさのまま地に向かって垂らし、簡素な麻布の米俵着をまとっていた。


 彼女は壁にだらしなく寄りかかり、半眼で鈴舞を見据えている。


「……やはり、あまりお元気そうではありませんね」


 白賢妃の様子を見て、鈴舞は眉尻を下げる。彼女は鼻で笑った。


「もうじき朽ち果てる身に、元気も何もないであろう。しかし、存外に心は穏やかなものだ。女である呪縛から、解放されたからであろうな」


「…………。出された食事も全く召し上がっておりませんね」


 牢の中には、昼餉と思われる粥の器が置いてあったが、手を付けられた痕跡はなかった。


「だから。この状況で腹を満たす必要がどこにある? 食欲など、もはやほとんど感じぬ。感じたとして、どうでも……」


「困るのです」


 鈴舞は白賢妃の言葉を遮るように言った。はっきりと、強い口調で。


「え?」


「困る、と言ったのです。あなたにはこの後、無我夢中で走り去っていただかなくてはならないのですから」


「鈴鈴……!?」


 白賢妃から動揺したような声が漏れた。しかし鈴舞は、構わずに鉄格子の側にぶら下がっていた牢の鍵を手に取る。


 そして迷わずに、牢の鍵を開錠した。カチャリという音が、牢獄中に響く。


「鈴鈴……! 何をしておる。気でも触れたか?」


 白賢妃はその場から動かず、鈴舞を咎めるように言った。


 ――きっとこの方は、自分が脱出できるかもしれない喜びよりも、私の今後を案じてくださっている。


 だからだ。だからこそ、逃がしたいのだ。


「いえ、正気です」


「私のような重罪人を逃がしたりしたら、宦官のお前はただではすまんぞ」


「あー、そう思いますよね? ですが、大丈夫なんです。これには光潤も、林徳妃様も、梁貴妃様も、関わっていますから」


「なに……!?」


 白賢妃は大層驚いたらしく、かすれた声を漏らした。


「あまりもたもたしている暇はないので、詳しく説明はしませんが……。だからなんとかなりますよ。四夫人のふたりがすっ呆けて何とかしてくれると思います。ご心配なさらず」


「林徳妃様、梁貴妃様……なぜ、私なんかのために」


「みんなあなたを慕ってるんです。もちろん私も」


 そう言いながら、鈴舞は白賢妃へとゆっくりと近づいた。いまだに壁に背をつけている白賢妃は、涙ぐんでいる。


「……あっ、ちなみに姚淑妃様はこの件には関わっていませんが、無事行方不明事件への関与が否定され、蟄居処分と左降処分で済みました」


「姚淑妃様……! それはよかった、情報感謝する」


 白賢妃は今日初めての微笑みを見せる。よほど、姚淑妃のことを案じていたのだろう。


 鈴舞は棍に巻き付けていた布を取り、白賢妃に向かって差し出した。白賢妃は、ふらりと立ち上がる。


「これは……私の棍ではないか」


「だって、愛用の武器がないと。あなたはこれだけ持っていれば、大丈夫ですから」


「……どういうことだ?」


「四夫人は皆、非常時に備えて後宮外へ繋がる隠し通路を知っていると伺いました。牢を出たら、そこから城外へ出て、とにかく南へ走ってください。何日かかるかわかりませんが、姚家の領地を出て国境を越えれば、南の国があります。そこは何もかも平等な国だと聞き及んでおります」


「何もかも……?」


 白賢妃は、信じがたいという面持ちをしながら聞き返した。


「ええ。生まれで身分は決まらず、肌の色も目の色も、そして性別も、位階や役を決めるのに、なんら関係がないのです。望んだ職に就くのに必要なのは、己に宿した才のみ。文官になりたければ頭脳が、武官になりたければ腕っぷしが。それだけあればいいのです」


 虚ろだった白賢妃の瞳に、徐々に光が宿っていく。


「あなたならば、その棍さえあればのし上がれるはずです。もちろん、武人として」


「そんな……まさか。そんな国が」


 白賢妃は、差し出された棍を受け取った。目を見開き、いまだに衝撃を受けたような顔をしていた。


 しかし棍を立てかけたその動作はやはりきびきびとしていたし、色が戻った瞳は活き活きとしている。鈴舞はその様子に安堵した。


「あなたのような誇り高い方が、こんなところで終わるのは私には耐えられないのです。幸い、女官に死者はおりません。それに、地下室の奥から後で発見された女官たちは、血は少々取られたが、食事は十分に与えられたし体調を崩したら医官が診察してくれたと言っていました。あなたはさらった女たちを丁重に扱っていた。中には、取る血の量を誤ったのか衰弱してしまった女もいたようですが、その方も回復に向かっています。さらわれた女たちの誰もが、あなたの極刑の回避を望んでいました。……あなたを心の底から憎む方など、きっとおりません」


「鈴鈴……」


「あなたは、愛に苦しんだだけ。一族の呪縛に囚われて、もがいてしまっただけ。私はそう思います」


 白賢妃は真っすぐに鈴舞を見つめ返した。すでに彼女は落ち着き払っていた。静かだが、意志の強そうな光を双眸に湛えている。


「――鈴鈴。私は初めてそなたに出会った時から、もしかしたらと思っていたのだが」


「なんでしょうか?」


「今のそなたの発言で確信した。そのような慈悲を男の感性で持つとは考えられぬ。そなたは宦官ではなく、おん……」


 鈴舞は人差し指を立てて、白賢妃の口元へと持って行った。無理やり口を閉じさせられた白賢妃は、言葉を止める。


「それは、白賢妃様の心の中にとどめておいてください」


 不敵に微笑んでそう告げると、白賢妃は「ふっ」と小さく笑った。


 すると白賢妃は、棍を肩に抱えて歩き出した。相変わらず姿勢のよい、美しい歩行だった。


 化粧の施されていない彼女の顔は、暗がりでも小皺やくすみが見えた。やはり若い女の生き血など、何の効果もなかったのだと鈴舞は思う。


 しかし真っすぐと前を見つめる彼女は、肌の老化など些細なことと思えるほど、勇ましく美しかった。


 白賢妃は、すれ違いざまに鈴舞の耳元でこう言った。


「できることならば、あなたとはもっと早く会っていたかった。そうすればきっと、長い付き合いができたであろうな。武の道を追及する、友として」


「ええ。私もそう思います」


 そう答えると、白賢妃は何も言わずにそのまま牢獄を後にした。鈴舞が外に出た時には、すでに彼女の姿は見当たらなかった。


「……達者で。美しく、強いあなた」


 そよ風に乗せる様に、鈴舞は遠くを見つめてそう呟いた。

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