第六章 寵姫の苦悩ー③
林徳妃の視線を受け、鈴舞は黙考していた。
――林徳妃様は、四夫人の関係性から考えて、ちょうどその時間に白賢妃様がいなかったことが関係していないわけがないと思ったんだ。そして、確かな証拠がない中、勇気を出してこの発言をした。きっと、私が何かを迷っていることに感づいて。私を後押しするために。
主にそこまで気遣われては、もう後には引けない。鈴舞は白賢妃の凛々しさにはあこがれているが、林徳妃の懐の深さにはそれ以上に尊敬の念がある。
鈴舞は劉銀に向かって叩頭し、静かに言葉を紡ぐ。
「……陛下。宦官の身で差し出がましい限りですが、私からもよろしいでしょうか」
「鈴鈴、いいだろう。表を上げて発言せよ」
「ありがとうございます」
鈴舞は顔を上げて立ち上がる。そして、白賢妃の方へとゆっくりと近づき、彼女と対峙した。
「白賢妃様。この場で一本、私と手合わせをお願いできないでしょうか」
罪人に裁きを下している最中での鈴舞のその発言は、周囲には荒唐無稽に映っただろう。文官からは「何をふざけたことを」というようなざわめきがいくつも聞こえてきた。
「な、何を馬鹿なこと! 白賢妃様にこの宦官風情がっ! 口を慎みなさいっ」
姚淑妃は発狂するようにそう言って、鈴舞を睨みつける。不自然なほど必死な様子だった。
座についていた劉銀は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。そして朗々たる声を場内に響かせた。
「沈まれ皆の者。――鈴鈴、構わぬぞ」
ざわついていた文官たちは口を噤んだ。姚淑妃は、唇をギリギリと噛みしめ、何か叫び出したいのを必死に堪えているかのようだった。
「白賢妃。鈴鈴とこの場で手合わせをせよ」
劉銀がそう告げると、表情を変えずに白賢妃は小さな声でこう言った。
「……武器がございませぬが。私は棍がないと戦えませぬ」
「では、あちらに立てかけている長箒を代わりに使用してはいかがでしょうか。私も刀は鞘から抜きませぬ」
と、鈴舞は場内の隅に塵取りと一緒に置かれている長箒を目配せした。
「なるほどな。何、殺し合いではないのだ。それでいいだろう」
劉銀があっさり承諾する。白賢妃はか細い声で「承知いたしました」と答えると、ゆっくりと長箒を取りに行った。
――しかし。
長箒を手に取ってから、白賢妃はその場から動かなかった。彼女の肩が、腕が、小刻みに震えている。白粉を塗られているにも関わらず、彼女の顔面が真っ青になっていた。
「どうした、白賢妃。鈴舞と立ち合いをしろ」
「――はい」
劉銀に急かされ、白賢妃はふらふらとした足どりで鈴舞の方へと向かった。しかし、瞳は虚ろで、いつもの堂々たる威厳はまったく感じられない。
白賢妃が鈴舞と向き合うと、劉銀が「始め!」と声を響かせた。
鈴舞が先に鞘付きの倭刀を振るう。すると、白賢妃は反射的に長箒を振るって応戦を始めた。憔悴した様子だったのにも関わらず、俊敏な動作ができるのはさすが武の国出身の姫である。長年の鍛錬が、彼女の体を勝手に動かしているのだろう。
しかしすぐに決着はついてしまった。倭刀で一閃するように長箒を弾くと、箒は白賢妃の手から離れ、くるくると回転しながら宙を舞った。そして刑吏場の隅まで飛んで行ってしまった。
「……やはり。まったく同じでした。その長箒の振るい方、戦う際の身のこなし。地下室で私が遭遇した不審な人物と」
真っ青な顔で立ちすくむ白賢妃に向かって、鈴舞は告げる。彼女は何も答えない。鈴舞はこう続けた。
「以前に、白賢妃様が棍を振るっている場面を見ていたので、地下室の不審者と一戦した時からあなたなのではないかと私は感づいていました。……しかし、認めたくなかった。そう思いたくなかった。姚淑妃様が囚われ、裁判にかけられている間も私は迷ってしまった。――しかし、武官として尊敬している光潤様が冤罪にかけられていること。そして林徳妃様が私を後押ししてくれたことで、真実を明らかにする勇気が出たのです」
「…………」
白賢妃は、俯いて何も答えない。
「――白賢妃様。真に裁かれるべきなのは、姚淑妃様ではありませんね。彼女はあなたをかばっているかのように思います。一連の事件は、あなたが……」
「違うわ! 全部私がやったのよっ! お姉様は関係ない!」
姚淑妃が、鈴舞の言葉を遮るように声を上げた。腕を縛られながらもその場で暴れ出したので、待機していた武官のひとりが彼女を取り押さえる。
「放してなさいこの無礼者! 私がやったって言ってんのよっ。さあ、さっさと私を処刑にして! それでこの事件はおしまいなのっ」
「……もうよい、姚淑妃。よいのだ。やはり私は、あなたを犠牲にして生き、皇后を目指すことなどもはやできぬ。あなたがいくらそれを望んでも」
顔を上げた白賢妃は、微笑んでいた。すべてを諦めるかのような、疲れ切った笑みだった。
「そうだ、鈴鈴。――陛下。すべては私の所業でございます。女官たちをかどわかしていたのも。血を抜いていたのも。地下室で鈴鈴を襲ったのも」
「お姉様っ! やめて!」
騒ぐ姚淑妃は、武官が手で口を押さえた。劉銀は目を細めて、白賢妃を見つめている。
「お前ほど聡明で気高き女が。どうしてこんなつまらぬことをした。正直、いまだに信じられぬ。……俺は信じたくない」
「――申し訳ありません。私は……私は、怖かったのです。子を成さぬまま、老いて朽ち果てていくことが。あなたに捨てられることが」
「…………。俺はお前が石女だとしても、捨てるつもりなど毛頭にない」
「分かっております。お優しい陛下はそんなことはなさならないということは。……ですが、怖かったのです。怖くてたまらなかったのです。私は祖国で、ずっとそのように言われて育ってきてしまったのですから」
白賢妃は静かに、自分の身の上話を始めたのだった。




