第五章 白薔薇の下にー⑨
祥明が扉を開け奥の部屋に入り、後に続こうとした鈴舞だったが……。
「……!」
驚愕し、足と止める。寝台と土壁の隙間に、人がひとり倒れていたのだ。鈴舞は寝台を壁から遠ざける様に移動させると、倒れていた人物に駆け寄る。
内食司の女官服を着た、まだ若い女だった。
「大丈夫ですか!?」
身体を揺さぶりながらそう声をかけると、女は「う……」と小さく呻き声をあげる。
――よかった、生きている。
暗がりでも分かるほど、彼女は顔色が悪かった。内食司の女官たちは、味見や残り物によってふくよかになりやすく、健康的な者が多いはずなのに。
今まで気を失っていたらしい女官は、目を開く。意識を取り戻したばかりでぼんやりとしている。
「お怪我などはございませんか? なぜ、このようなところに……」
「私の血が、血……やめて、ください……」
うわごとのように言う女官の言葉に、劉銀からの情報を鈴舞は思い出す。
――西の書に人の生き血を抜いて薬にしている描写があったから、女官は血を抜かれるために誘拐されているかも……という話だったわ。
眼前の女官の顔面が蒼白なのも、極度の貧血状態だからなのかもしれない。
――とにかく、早く医官の元へ連れて行って治療させないと。奥の部屋に入ってしまった祥明にも伝えないと。
そう考えた鈴舞が、祥明を呼びかけようと口を開きかけた――その時。
「っ!」
突然背後から殺気を感じ、鈴舞はその場から飛びのいた。しかし攻撃がこめかみをかすめたらしく、鈍い痛みが走る。そのこめかみから、液体が一筋流れる感触も感じた。恐らく、少々流血している。
「――誰だ」
倒れている女官をかばうように立つと、鈴舞は低い声で凄みを聞かせて言う。眼前に立つ人物に向かって。
頭から黒装束を被っているため、その人物の顔を拝むことはできなかった。男性なのか女性なのかも判別できない。
その人物は、長箒を鈴舞に向けて構えていた。先ほどの攻撃は、長箒によるものだったらしい。
――いつの間にここに。光潤が外を見張っているはずなのに。まさか、最初からこの場所にいた? それとも、外にいる光潤を倒して侵入した?
どちらにしろ、攻撃が当たる直前まで鈴舞に気配を察知されることなくこの人物は行動していたのだ。
間違いなく、相当な腕の達人である。
「……手加減はしない」
押し殺した声で相手にそう告げると、鈴舞はゆっくりと愛刀を抜刀した。そして切っ先をその人物にむける。
相手が一瞬怯んだ気がした。長箒と倭刀では、圧倒的にこちらが有利だ。さきほどは不意打ちだったため攻撃を食らったものの、面と向かって対峙すれば、間違いなくこちらに軍配が上がるだろう。
するとその人物は、箒を鈴舞に向かって素早く振り下ろした。そのあまりの思い切りのよさに、一瞬鈴舞は動揺する。
――圧倒的に分が悪いはずなのに、まさか先手をしかけてくるとは。
しかしすぐに気を取り直し、倭刀で箒を一閃した。箒はすっぱりと真っ二つになった。
ふたつになった箒が地に落ちる前に、相手は身を翻し地下室の出口の方へと駆けて行った。暗がりの地下室にも関わらず、素早い動きだった。
追いかけようとも思ったが、この場には倒れた女官がいる。離れるのはあまり得策ではない。
また、鈴舞には別の思いも生まれていた。あの人物を、追いかけたくないと考えてしまっていたのだ。
長箒を振るうあの構え、素早い動き。既視感があった。どうしても、ある人物を思い起こさせられた。
――まさか……? いや、でも、そんな……。
生き血を抜くために、女官をさらうような人では決してない。
――でも、あの身のこなしはどうしても……。
そのように、鈴舞が動揺としていると。
「鈴鈴! 何かあったのか!?」
奥の部屋を調査していたはずの祥明の声が響いた。
「祥明! ちょっと敵襲に遭いましたが、私は大丈夫です!」
「敵襲!? 何か物音がしたかと思ったら……!」
そう言いながら奥の部屋から戻ってきた祥明は、顔色の悪い女性を負ぶっていた。この部屋で倒れていた女官とは、別の女だった。
「祥明! その人は!?」
「奥の部屋に倒れていたんだ。具合は悪そうだが、医官に見せれば大丈夫だと思う」
「……そうですか。実は、ここの部屋にもひとり倒れていたんです。奥の部屋に入る直前に気づいて、その方を看ていたら敵が現れて」
「なんだって!? ……じゃあ、ここにふたり女が匿われていたってことだな。ってことは、間違いなくここは女官行方不明事件の首謀者の隠し部屋ってわけか」
鈴舞は頷く。祥明の言う通り、それはまず間違いない。
「そうだと思いますが、とりあえず人命救助が先決ですね。このふたりをすぐに医官の元へ運びましょう」
「そうだな」
鈴舞は、自分が発見した女官に駆け寄る。極度の貧血であるためか、自力で立つのは難しそうだったので、祥明と同じように彼女を背負う。
女官を気遣いながら、地下室から外に出ようとすると、光潤が血相を変えた様子で階段を駆け下りてきた。
「鈴鈴! 祥明! 無事か!?」
「あなたこそ! あやしい輩がここから出て行ったはずですが!」
あの不審人物は、間違いなく光潤と鉢合わせているはずだ。
「そうなのだ。しかし実はたった今、取り逃してしまった……。俊敏な動作だった。あれは相当な手練れだな。純粋な戦闘なら負けはしなかっただろうが、相手は逃げることが目的だったようだからな」
なるほど。光潤が相手だとしても、逃げるだけならば可能だろう。あの人物の身のこなしなら。
「追おうかとも思ったが、そなたたちふたりのことが気になってな。出入り口で俺が見張っていたのだから、不審者は元々地下にいたのだろう? 怪我はないか? そして、その女たちは!?」
「ありがとう光潤様、私たちは大丈夫です。この女官たちは、地下に閉じ込められていたみたいです」
「そうなのか! やはり、この場所が行方不明事件に関わっていたのだな」
「はい、そうみたいです。……しかし、光潤様から逃げだした人物の存在には、襲い掛かられるまで私も祥明も気づきませんでした」
「ふむ。やはり、かなりの使い手だな。いや、しかし……」
鈴舞の言葉に、首を捻りながら考え込む光潤。
――この後宮に俺たちを一瞬でも怯ませられるほどの武官なんているだろうか……光潤様はそんな風に考えているんだわ。
実力では祥明と光潤で一位、二位を争うと鈴舞は林徳妃から聞いている。そして鈴舞もふたりには引けを取らないはず。
そんな三人を、一瞬でも出し抜けるほどの武の道に精通している者など、数えるほどしかいないはずなのだ。
きっと光潤は、武官の中で力ある者たちを今思い浮かべて、容疑者になりえるかどうか考えている。
――だけどきっと、私が思い浮かべている人を光潤は思い当たってはいないだろう。
鈴舞ですら、信じがたい……信じたくない人物だったのだから。もっときちんと裏が取れるまで、口にすらしたくないほど。
「とりあえず、さっきの奴のことは後回しだ。まずはこの女官ふたりを医官のところに運ぼうぜ」
「そうですね」
「俺も手を貸そう」
三人は自力では立てない女官ふたりを、医局まで運んだ。
その、途中のこと。
「……様を、お助けください」
鈴舞が負ぶった女官が、耳元でうわごとのように呟いた。か細い声だったので、きっと鈴舞にしか聞こえていなかっただろう。
彼女が口にした人物が、この一件の首謀者の可能性が高い。
――だけど、どうして。『お助けください』なのだろう。
その者が自ら望んで行方不明事件を起こしているのだとしたら、そんな言葉は女官からは出てこないはず。
この事件、まだまだ自分の想像が及んでいないことがたくさん秘められている。
呟いた後意識を失ったらしい女官を背負いながら、鈴舞はそう考えたのだった。




