第一章 無理難題ー②
「まあ、陛下が後宮に御渡りになる時は、俺もついていけるしさ。何か困ったことがあれば、頼ってくれればいいから」
鈴舞にとっては空前絶後の内容が記されていた詔令文書だったというのに、祥明にとってはそれほどでもなかったようで。
彼は軽く微笑みながら、そう言ったのだ。
少し釣った目に、形の良い鼻梁は、薄い唇。長身痩躯なこともあり、なかなかの美大夫だと鈴舞は思う。
しかし性格は、常に飄々としていて、気まぐれな猫のように掴みどころのない。また、女性に人気がありそうな容貌だとは思うが、浮いた話は一切聞いたことがない。
なお鈴舞とは付き合いが長すぎて、男と女というよりは兄弟弟子のような間柄だ。季節の行事で珍しく鈴舞が女らしく着飾る場面でも、「動きづらそうだなそれ」というようなことしか言ってこないし、全く女扱いされていない。
親たちは「で、お前らいつ結婚するんだ?」なんて茶化してくるけれど、鈴舞は黙ってやり過ごすし、祥明は祥明で「別に俺はいつだっていいっすけど」なんて笑って受け流している。
確かにふたりは結婚適齢期ではある。しかし、お互いにそんなつもりはなく、気心を知り尽くした盟友だと鈴舞は思い込んでいる。
そんな祥明が、この無理難題をこなす力になってくれるのは、素直に嬉しい。――しかし。
「……後宮なんかに入ったら、思う存分稽古ができないじゃない」
と、鈴舞は肩を落とす。護衛の任務なのだから常に帯刀しているような状況だとは思うが、四六時中妃嬪の警護にあたらなければならないということは、自分の思うようには刀は振れないに違いなかった。
「そりゃそうなるだろうなあ」
「ですよね……。ああ、本当に憂鬱だわ」
「まあ、詔令文書で来られちゃ、逆らえないよな。腹を括るしかないな」
「……なんだか祥明軽く受け入れ過ぎじゃないですか。後宮に入るだけならいざ知らず、その上男装まで命じられているんですよ?」
「いやー……。お前が男装して後宮で暴れる姿を見るのも、なんか面白そうだなって正直思ったわ。はは」
「……なんですか、それ」
面白そうとはなんだ。人を見世物みたいに。
半眼になって鈴舞は祥明を睨んでしまう。しかし彼は、口元を緩ませたままだった。そんな彼の様子に鈴舞は深く嘆息する。
そんな鈴舞とは裏腹に、実は祥明はと言うと。
――劉銀め。なんてことをしてくれるんだ。
内心、皇帝である劉銀が恨めしくてたまらなかった。
実は彼は、鈴舞にぞっこんだった。武官として任務についている時も、食事をしている時も、寝所で眠りにつこうとしている時すら、鈴舞のことで頭の中は支配されていたのだった。
他の女性など目に入れる暇などない。後宮で美しく着飾っている妃嬪たちを見ても、美麗な風景だなくらいにしか彼は感じないのだった。
中性的だが、灰汁ひとつなく整った美しい面立ち。そして小柄で折れそうなほどに細い身体は、目にするたびに抱擁したくなってしまう。
しかし鈴舞の魅力は、可憐な外見がすべてではない。
その小さくしなやかな身体から繰り出される、華麗な刀術。風に舞うように刀を振るう姿は、もはや芸術と言ってもなんら過言ではない。
皇帝専属の武官である祥明ですら、瞬間の速さは彼女には敵わない程だった。
鈴舞と祥明の両親が自分たちの婚礼に前向きなのは、願ってもいないことだった。鈴舞にそんな気は全然ないらしいが、すでに外堀は埋まっているので、自分が徐々に彼女をその気にさせるように動き始めた最中だったのに。
――早く正式な夫婦になって、思う存分鈴舞を愛でたかったのに。
そんなふしだらな欲望を満たすことを劉銀に邪魔され、祥明は心底苛立ちを覚えていた。
しかし鈴舞へ向けた言葉もあながち間違いというわけではなかった。
後宮は風通しが悪く、常に陰謀の渦巻いているどす黒い空間である。劉銀の護衛になって三年経つが、いまだにあまり足を踏み入れたくない。
そんな混沌としている後宮に、鈴舞という爽やかな風が吹き乱れたらどうなるか。波乱の予感しかしない。
その光景を想像するだけで、祥明の胸の内は深い愉悦で支配されるのだった。