第三章 凛々しき白賢妃ー⑤
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次の日の朝のこと。
林徳妃が朝の支度をしている最中、鈴舞は後宮内を散策していた。
衣裳係、化粧係など、林徳妃の支度には何人もの女官の手によって行われるが、彼女は気の置けない仲の女しか手元に置かないため、支度の時間はもっとも安全だという。
また、仕上げるには時間を要するため、護衛の鈴舞が林徳妃を離れて自由に後宮をうろつけるのは、この時間くらいだった。
――後宮内の地理を、きちんと把握しておかないと。
一応、見取り図はもらっているから大体の配置は把握している。しかし実際に歩いてみると、意外に遠かったり広かったりするものだった。
洗い場では、洗濯女たちが並んで布をこすり洗いしていた。近くの厨からは、朝餉の残り香が漂ってきた。後宮の朝、女たちは皆忙しそうだ。
そんな光景をなんとなく眺めながら歩き回っていると、桃園にたどり着いた。今が咲頃の桃の花から、甘い香りが漂ってくる。近くに薔薇園や百合園もあり、後宮に閉じ込められる日々の女たちは、この花々に癒されているのだろうなと鈴舞はふと思った。
――そういえば、この場所でもうすぐ桃花祭あるって林徳妃様が言っていたっけ。
春の訪れを祝う祭りらしいが、祭事の時は皆が浮足立つので、そういう時こそ武官としては緊張の糸を張り巡らさなければならない。
もしもの時に後れを取らないように、鈴舞は桃園内の作りについて把握しておこうと、園内を歩き回ることにした。
――この石畳が敷かれた開けた場所で、祭りが行われるのかしら。あっちの蔵には何が置かれているのだろう? それにしても、咲き乱れた桃の花、とてもきれいだわ。
そんなことを考えながら、歩き回っていると。
「……う」
そんな声が聞こえた気がして、鈴舞はぴたりと足を止めた。耳をそばだてたが、それ以上は何も聞こえない。
――だけど、確かに聞こえたわ。女性のか細い声だった。
あまり状態はよくないような声音だった。ひょっとすると行き倒れかもしれない。誰かに襲われて倒れていることだってありうる。
さまざまな可能性を考え、鈴舞は気配を殺して声の主を探すことにした。すると、桃の木の下の茂みをかき分けた時。
「……!」
思わず息を飲む。女官服を着た女性がひとり、青ざめた顔をして倒れていた。まだ若い女だと思うが、顔色の悪さから年齢を予想しづらかった。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
女性を軽く揺さぶりながら、優しく声をかける鈴舞。しかし彼女は「う、う……」と呻くだけで、瞼すら開かない。
――本当に顔が真っ青だわ。病かしら? 治療が必要よね。
鈴舞は女性を抱きかかえた。自分より身長が大きかったので、腕にずっしりと重みが来た。しかし鈴舞の筋力ならば、なんとか医局まで運べそうだった。
――とにかく、早く医官の元へ運ばないと。
そう思った鈴舞が一歩踏み出した、その時。
「っ!」
女性に気を取られていたせいで、反応が遅れた。しかしその殺気に気づいた瞬間に屈んだため、致命傷は避けられた。
鈴舞が女性を気遣っていた近くの桃の木の陰に、その人物はいたらしい。黒装束に身を包み、覆面を被った正体不明の不審者が。
鈴舞の頬から、一筋の血が流れている。攻撃を完璧にかわすことは叶わなかった。しかしかすり傷で済んだのは、日ごろの稽古の賜物であろう。
「――この女性に何かしたのか」
鈴舞は目を細め、鋭い視線をぶつけながら低い声で言った。小太刀を持ち息をひそめた不審人物は、それなりの使い手のようだが、不意打ちで自分を仕留められなかったことを考えると、そこまで厄介な敵ではないだろう。
――だけどこの女性を守りながらだと、ちょっと大変かも。
相手の思惑がわからない。ひょっとすると、この女性を始末したいのかもしれない。そう考えると、抱きかかえた彼女を地に降ろすことはためらわれた。
――この人を抱えたまま、こいつから逃げるしかない。
もしかすると、この相手もこの女性も女官の行方不明事件に関連しているかもしれない。できれば眼前のあやしい輩を捕え、刑吏の元へとしょっぴきたいところだ。
しかし女性の身の安全が最優先である。
――あやしいやつをとらえることは諦めよう。とにかく、この女性と一緒に逃げる!
そう決意した鈴舞が、地を蹴ろうとした――その寸前のこと。
「ぐっ!」
急に不審者がうめき声をあげ、その場に倒れ伏した。鈴舞は呆気に取られ、思わずその場で立ち尽くす。すると、倒れた不審者の奥から現れたのは。
「鈴鈴、大丈夫か!?」
青龍刀を構えた祥明だった。不審者に食らわせたのはみねうちだったようで、刃には血はついていない。
「祥明!」
「顔に怪我してんじゃねぇか! ……くそ、なんてことしやがる」
駆け寄ってきた祥明は、心配そうな面持ちで鈴舞の顎をそっと掴み、傷の具合を食い入るように見つめてきた。
「え……いや、かすり傷なんて大丈夫ですけど」
「そういう問題じゃねぇ! ……俺の鈴鈴に何しやがる」
「俺の……?」
どういう意味か分からず首を傾げる鈴舞。祥明のものになった記憶は一切ない。俺の妹弟子に、という意味だろうか。
などと、不思議に思っていると、祥明はハッとしたような顔をしたのち、こほんと咳ばらいをした。
「――ま、まあ、大した怪我じゃなくてよかったけどよ」
「あ、はい。ところでどうしてここに?」
「ああ。劉銀が後宮内を見回りたいっつーんでついてきたんだ。だけど途中で梁貴妃につかまってな。茶に付き合わされていたんだが、劉銀に『俺の代わりに散策してきてくれ』って耳打ちされたから、この辺を見回っていたんだよ。茶の場には光潤もいたから、俺がいなくても問題なかったし」
「なるほど、そうだったんですね」
確かに、劉銀も祥明も「相当の使い手」と言っていた光潤がいるならば、安全面では問題ないだろう。
「そんなことより。こいつ誰だ。そしてその女官は?」
「私だってわかりません。倒れているこの人を見つけて医局に運ぼうとしたら、その黒装束が襲ってきて」
「ふむ……。じゃ、とにかくそいつは刑吏んとこに連れていくか」
ええ、と鈴舞は同意したのだった。




