第三章 凛々しき白賢妃ー④
林徳妃たちと百合園から夏蓮宮に戻る途中、ある場所で鈴舞は思わず足を止めてしまう。
「鈴鈴、どうしたの?」
「娘々、申し訳ありません。どなたかいらっしゃったもので」
そこは、後宮内の鍛錬場だった。宮女の中で武術の心得がある者や、鈴舞や光潤など妃嬪の護衛として仕えている者が主に使用する、石畳で敷き詰められた広い空間だった。
百合園に向かう際は誰もいなかったのだが、現在は空間の中心で誰かが鍛錬に励んでいる。
瑠璃紺色の槍桜のついた、長い棍をひとり振り回していたのは女性だった。その姿に、見覚えがあった上に、とても意外な人物だったので鈴舞は目を見開く。
「白賢妃様、ですよね……?」
空に向かって棍を振り下ろす女性を注視しながら問うと、林徳妃は頷きながらこう答えた。
「ええ、そうよ。あの方は武家の出身で、幼少の頃から武道の鍛錬を積んでいたそうなの。あんな風におひとりで棍を振っている姿を、よく見かけるわ」
「私も、朝餉の後に毎日のようにお姿を見ます」
桜雪も、白賢妃を惚れ惚れするように眺めながら言った。
「そうなのですか。……いや、しかしながら。あの棍裁き、白賢妃様は相当な手練れでございますね」
「そうなの? 武術のことは私にはよくわからないけれど……。でも、凛々しい白賢妃様のあのお姿は、確かに見惚れてしまうわね~」
目を細め、うっとりするような面持ちになって白賢妃を見据える林徳妃。
自身の身長ほどはありそうな細長い棍は、それだけでかなりの重量があるはずだ。ほとんどの女性は、両手で持つのがやっとだろう。
しかし白賢妃は、それを片手で軽々と振り回し、虚空を切り裂いている。大きく振り下ろす時は、空を切る音すら響いてきた。
――賢妃ともあろうお方にこんなことをおっしゃるのは失礼かもしれないけれど……。武官にしても申し分のない身のこなしだわ。
武術家としての血が騒いでしまった鈴舞は、そんなことを思いながらつい白賢妃の動作を目で追ってしまう。
「む、そこにいらっしゃるのは林徳妃様ではないか」
三人で眺めていたものだから、棍に集中していた白賢妃も、さすがにこちらの視線に気づいたようだった。棍を片手で持って歩み寄ってきた。
「申し訳ありません、お邪魔してしまったかしら」
鍛錬を中断させってしまったことを申し訳なく思ったらしい林徳妃が頭を下げたので、桜雪と鈴舞も彼女に倣う。
しかし白賢妃は爽やかな笑みを浮かべる。汗ばんだ頬にへばりつく耳下の後れ毛が、健康的で、しかし妖艶だった。
「構わぬ。そろそろ終いにしようと思っていたところだった」
「お気遣いありがとうございます。それにしても、白賢妃様が棍を操る姿は、毎回惚れ惚れしてしまいますわ」
「なに、私はたいした使い手ではない。ここでは稽古をつけてくれる相手もいないしな。身体がなまらないように、振り回しているだけだ」
「そんなことはございません! 白賢妃様!」
思わず身を乗り出して、鈴舞は言った。「ちょ、ちょっと鈴鈴!」と桜雪がたしなめるが、鈴舞の耳には届いていない。白賢妃は「ん?」と怪訝そうな顔をする。
「そなたは……。徳妃様の護衛の……確か、鈴鈴と呼ばれていたか」
「私のことなどお気になさらず! 白賢妃様、私は棍の心得はまるでございませんが、それでも武を極めようとしている者として、一見して分かります。白賢妃様がたいした使い手ではないなんて、あり得ません。白賢妃様のように鋭く武器を振るえる武官は、広い華王朝の中でもそうそういないでしょう。……あなた様の華麗な棍さばき、美しすぎて永遠に拝見したいと思ったほどです!」
鼻息荒く、白賢妃の腕がいかに素晴らしいかを饒舌に語った鈴舞。当の白賢妃はしばらくの間、目をぱちくりとさせていたが、鈴舞の言葉が終わったややあってから、上品な笑い声を漏らした。
「ははは。茶会の時も思ったが、そなたは面白いな。少年のようないで立ちで、長身の光潤に一瞬で勝利した姿は、とても鮮やかであった」
「私めにはもったいないお言葉でございます……! いや、しかし本当に、しなやかな白賢妃様の動きは、いい刺激になりました。武官として、ますますの精進を心がけようと思います」
「いやいや、そなたも細い曲刀で光潤の槍を、見事に一発で弾いていたではないか。類まれな敏捷さ、私は目を疑ったぞ。あまりにも早すぎる決着だったので、もう少し見たかった」
「今度、また光潤様と立ち会いをする予定です。白賢妃様も、お時間があればぜひご覧ください」
「ほう、それは楽しみだ」
一方は皇帝の愛妃。もう一方は、男性に扮した武官。身分も、表向きの性別も異なるというのに、面白いくらいに話が弾む。
鈴舞は心から楽しい気分になった。白賢妃も、機嫌よさそうに言葉を返してくれる。
齢は三十を超えると聞き及んでいるが、美しく汗を垂らす張りのある頬は、実年齢よりも随分若々しく見えた。きっと、日々鍛錬に励み全身に血を巡らせているから、美しく見えるのだろうと鈴舞は思った。
「娘々、そろそろお時間です」
今まで鍛錬場の外に佇んでいた女官と、専属の護衛らしき宦官が、白賢妃の方に歩み寄ってきた。白賢妃は渋い顔をする。
「む……そうか。鈴鈴殿、所用があるので私はお暇する」
「承知いたしました」
「もう少しそなたと話をしたかったが……。またの機会に」
「はい、私めなどでよければ喜んで!」
「ふっ。……林徳妃様、今度また茶会でも」
「はい、もちろんですわ」
「では、私は失礼する」
ばさりと襦裙を翻し、女官と武官を従えながら歩む白賢妃。背筋は木の幹のように真っすぐと伸びており、気品ある堂々たる足取りだった。
「ああ……白賢妃様。下手な男子より、凛々しいわよねぇ~」
思えば、鈴舞が白賢妃と会話している間、桜雪は終始うっとりとした面持ちになっていた気がする。両の手を頬に当て、間延びした声で彼女は言った。
そんな桜雪を、林徳妃はからかうように小突いた。
「あら桜雪。あんたは光潤一筋じゃなかったの~?」
「それとこれとは別なのです! 光潤様とは夫婦になりたいと思っておりますが、白賢妃様の美麗さは遠くから眺めているだけで胸が満たされるのですわ!」
「夫婦になりたいんだ……。あんた、そこまで」
桜雪の力強い主張が想像以上だったらしく、林徳妃は呆れたように言った。鈴舞も苦笑いする。
「まあ、それにしてもよかったわ。白賢妃様、前よりも元気になったみたいで」
鍛錬場から、自分の宮である冬梅宮に向かって歩く、白賢妃の背中を目を細めて見ながら林徳妃は言う。
「え、今日の白賢妃様はとても生気に満ち溢れている様子でしたが……。以前は違ったのですか?」
「そうなのよ。実は、半年くらい前に身ごもっていた陛下の子が流れてしまってね。あの時は見るからに消沈なさっていたわ」
「ご懐妊された時は大層喜んでいらっしゃいましたものね……」
鈴舞が尋ねると、林徳妃と桜雪のふたりは切なげな面持ちで答えた。
「そうだったのですか……。それはお辛かったでしょうね」
「劉銀様が即位されてから、四夫人の中でのご懐妊はそれが初めてだったの。流産が分かった時は、後宮中が暗い雰囲気になったわよね。……喜んでいる人もいたようだけど」
「……喜ぶ? なぜです?」
「そりゃ、無事にご出産なさっていたら、白賢妃様はきっと皇后になれたもの。それを面白く思わない人間なんて、ここにはごまんといるわよ」
寂しげな林徳妃の言葉。確かに、皇后不在の現在の後宮で、もっとも位の高い四夫人の中で御子を授かった者がいれば、立后できてもおかしくはない。
そして、白賢妃以外の四夫人を慕っている者にとっては、彼女が死産したことが喜ばしいということも。
――言われてみればその通りだわ。でも、子が亡くなったことを喜ぶなんて。
後宮は女たちの陰謀、妬み嫉みが渦巻く場所。分かってはいるつもりだったが、改めて鈴舞はこの場所のどす黒さを感じた。
だが、それにしても。
「林徳妃様は、皇后になりたくはないのですか?」
不思議に思ったので鈴舞は尋ねた。
白賢妃と同じ四夫人である林徳妃だって、きっかけさえあれば皇后を狙える立場だ。市井でも、皇后の最有力候補として名が挙がっていた。
もちろん彼女が人の流産を喜ぶような人間ではないと鈴舞は思っているが、白賢妃について心から案じているように見えた。
もし、林徳妃が立后を考えているのだとしたら、後ろ暗さを覚えつつ、安堵してもなんらおかしくはない。
「私? あー、私は全然。皇后なんかになったら、日々しがらみが多くて大変そうだし。それこそ陰謀に巻き込まれそうだし?」
笑いながら軽い口調で林徳妃は言う。自分が皇后なんてちゃんちゃらおかしいわ、とその表情が物語っていた。
「でも、娘々が皇后になられたら、林家も潤うのでは? ご家族やご親族は望んでいらっしゃるんじゃないですか?」
「うーん、たぶんあんまり……。ていうか、そもそも私の家って、元々四夫人になれるような家柄でもないのよ。陛下の幼馴染みだから運よく祀り上げられただけで。そのおかげで、もうすでにうちの家系じゃ信じられないほどの富を得ているみたいよ。うちの血筋の人たちってあんまりガツガツしてないから、今で十分って思っているんじゃないかしら」
桜雪の問いに、やはり軽く笑ったまま林徳妃は答える。どうやら、本気で立后争いに加わるつもりはないらしい。
「私は娘々が正室になられたら嬉しいですけど……」
「あらー、ありがとう桜雪。うん、でもごめん、やっぱり私には荷が重いわー。今みたいに、昼間はあんたと茶菓子を食べながら楽しく談笑して、時々陛下が私のお相手をしてくれるのが、ちょうどいいのよ」
「娘々……。皇后だろうと四夫人だろうと私は一生ついていきますからね! あ! でも光潤様と結ばれたら後宮は出ますので残念ながらお別れです!」
「何よ~、この流れであんたは男を取るっていうの~?」
くすくすと笑いながら、仲睦まじい会話をするふたり。鈴舞は微笑ましい気持ちになる。
そして、半年前の白賢妃の悲哀を想像した後、先ほどの彼女の溌剌とした様子を思い出す。
――お子を失った悲しみは、時が解決してくれたのかな。
華麗な棍さばきを披露した白賢妃の姿に、心からよかったと鈴舞は思ったのだった。




