額縁の埃
その日、Gは慣れない酒を飲み、しこたま酔っていた。彼は普段から酒癖が悪いわけではないのだが、古い友人と会い、五年前付き合っていた恋人が、つい最近結婚したという話を聞かされたのだ。
「写真、見る?」
そう聞かれて、見ないとは言えない。友人が差し出したのは、結婚報告の葉書だった。
写真の中の彼女は、髪を首くらいの長さに切っていた。付き合っていた当時、彼女の髪が長かったが、Gは彼女が髪を切ったことすら知らなかったので、少しショックだった。だが、短い髪もよく似合っていた。
そして彼女は、結婚相手らしい男とにこやかな笑顔をカメラに向けていた。
「結婚か…。五年も経ったんだからおかしくはないけど、時間は誰にも平等に過ぎていくはずなのに、俺の方はと思うと、やるせないよな…」
その後Gは友人と何を話したか覚えていなかった。そしてどう電車を乗り継いで家に帰ってきたのかも覚えていなかった。
マンションに帰宅して、持ち物を無造作に置いてソファに倒れ込むと、あの写真の葉書が、ひらひらとGの顔の上に落ちてきた。
友人に返したと思ったのに、いつのまにか、Gの荷物に紛れ込んでいたらしい。
Gは苛立ちに任せ、それを乱暴に投げた。しかし紙だから思ったように飛ばず、あらぬ方向に飛び上がったあと、どこかに落ちた。
彼女はGが今まで交際したことのある、唯一の人だった。ぱっとしないGの前に現れ、一年ほど一緒にいて、それから去った。
どうして自分と付き合ってくらたのかよくわからなかったが、もっとわからないのは、別れた理由だった。
『この先ずっと、ただ一緒にいるだけというのは、ちょっと耐えられない…』
彼女はそう言った。この言葉の意味するところは、別れて五年、いまだによくわからない。
「俺が何か悪かったのか…?それとも、新たに好きな人でも出来たのか…?」
しばらくはこの疑問を自分に問い続けたが、やがてそれすらしなくなった。そしてその後のGは、何一つ大きな変化のない毎日を繰り返すだけの、味気ない日々が続いていた。
「ん…?」
ソファに倒れこんだまま、つい寝てしまったらしい。
ふと尿意を催して立ち上がる。するとトイレに繋がる廊下に、あの葉書が落ちているのに気付いた。さっき力任せに投げたのが、ここに落ちたらしい。
「今度会ったとき、アイツに返さないとな…。よいしょっと、イタっ」
拾い上げたとき、まだ酔いが残っていたせいか、Gは廊下にかけてある絵の額縁に頭をぶつけてしまった。
「いてて…」
痛みに頭をさすっていると、額縁に積もっていたのか、埃が落ちてきた。
Gは久しぶりにその絵をまじまじとみた。
それは、ただドアが描いてあるだけの、つまらない絵だ。カレンダーほどの大きさで、木製らしい茶色のドアが、青っぽい壁を背景に描かれている。貰い物なので価値があるのかもよくわからない。というか、価値なんてあるはずがない。
改めて絵を眺め、思った。絵というのは、飾った直後は新鮮な感じがして注意を引いてやまないものであるのに、しばらくすると空気と同じくらいの存在感しかなくなるのだ。絵の額縁に埃が溜まるのは、きっとそういう理由だ。
そして絵を見ているうちに、恋人との思い出がよみがえった。
「ドアが描いてあるだけなんて、変わった絵!」
彼女が初めて家に遊びに来た時、彼女はその絵に興味を持ったらしかった。
「わたし子どもの頃ね、テレビの裏側にどんな仕掛けがあるんだろうって、見に行ったことがあったけど、それと似てる感じがする。なんかね、この絵の裏に、ドアの先が続いているように見える…」
廊下の壁紙は白で、絵の中の青い壁とは一致しないとは思ったが、自分では思ってもみなかったことを言われ、好ましく思ったものだった。
それから恋人は冗談めかして、その額縁をひょいと浮かせて、絵の裏側を覗き込んだ。
「どう?何かあった?」
「ええ。埃がね!テレビの裏と一緒だわ…」
「ハハハッ、埃って、いつのまにか溜まっているんだよね…」
今こうして暗い廊下で絵を見ていると、Gはあることに気が付いた。
暗くて廊下の白い壁紙がうっすらと青みがかって見えるせいか、絵の背景と似たような色に見えるのだ。そうなると、かつて恋人が言ったように、『絵の後ろが続いている』と勘違いしてもおかしくないくらいだった。
G氏はふと思いついて、かつて恋人がしたように、額縁をひょいと浮かせて、裏側を覗き込んだ。
「え?あれ!?」
埃が落ちるだけだろう、という予期に反して、その奥には、ぽっかりと空間が広がっていた。空間はカレンダーほどの大きさの絵にピッタリと覆われていたので、表からは見えないが、そこには確かに穴があり、奥には細い通路が続いていた。
「なんだ?俺は酔って幻覚を見ているのか…?」
Gはその空間に向かって恐る恐る手を伸ばしてみた。するとそこはやはり壁ではなく、本当に空間になっていた。微かな風が吹いているのさえ手に感じられる。
「どこに続いているんだ…?」
Gは空間を覗き込んだが、その通路の先は真っ暗で、どうなっているのかわからない。
「ここ、入れそうだな…」
幸いGは痩せていたので、カレンダーほどの大きさのその空間に入り、這っていくことは出来そうだった。
Gは尿意を忘れ、椅子を持って来ると、その穴に身を埋めた。
そろりそろりと少しずつ這う。その管は、思ったよりも深く長く伸びていた。
そうやってしばらくした頃、やがて奥に伸ばした指先が行き止まりに触れた。そっと押してみると、動く感覚があった。支点が上部にある押戸のようになっていたのだ。Gは戸をくぐって、そろそろと通路から抜け出した。
「あれ…?」
埃を払って見回すと、なぜかそこはGの家だった。さっきGが押戸と思ったものは、廊下に飾ってあるドアの絵だったのだ。室内は、先ほどと同じように薄暗く青みがかっており、絵の背景の壁の続いているかのようだった。
「なんだ、変な通路を通って別のところに出た気がしたが、俺は夢を見ていたのか…?」
だがGはわずかな違和感を覚えた。さっきまでいた場所とほとんど同じだが、少し違うようなのだ…。Gは注意深く家を見渡した。まるで間違い探しのようも…。
答えはソファの上に見つかった。女物のバッグが置かれていたのだ。それはかつての恋人のものだった。『あれ?』と思っていると、
「あら、起きたの…?」
懐かしい声に、胸が鷲掴みされるような思いがした。振り向くと、かつての恋人がそこにいた。
「驚いた…、お前、いつのまにうちに来てたのか…!」
そう言いながら、少し変だと思った。葉書で知った最近の彼女は髪を切っていたはずなのに、眼の前にいる彼女は、Gの記憶の通り、髪が長いままだったのだ。
「え?遅くなるけど行くって言ってあったじゃない…」
女はまるで付き合っていたころのように、なんの断りもなく冷蔵庫を開け、お茶をコップにそそぐと、ゴクゴクと飲んだ。そして怪訝そうに言った。
「さっきから何をじろじろ見ているの?あんたトイレか何かに行くんじゃなかったの?」
「あ、そうだった…」
Gは便器に座って考えた。酔いは醒めていた。
『彼女は結婚したんじゃなかったのか…?だったらなんでこんな夜遅くに俺の家に来ているのか…?それに髪も長いままなんておかしい…。それに素振りからしてまるで付き合っていた頃のようだ…』
こうして辿り着いた結論は、きっとこれは夢なのだ、というものだった。
『ああ…、久しぶりに彼女の近況を聞かされて、きっと俺の心の奥底に眠っていた願望が、夢になって現れたんだ…』
さらに思った。
『夢だとしても構わない…。こうして彼女といるんだ、その時間を楽しもう…。そして今度こそは…』
今度こそは、彼女と別れないように、出来るかもしれない。
トイレから出ると、Gは女のため、てきぱきと動いた。
散らかったリビングをさっと片付け、「お腹は空いてる?」と彼女のためにチーズとクラッカーを皿に並べた。それからシンクにためていた食器を洗い、彼女の上着をハンガーにかけた。
「どうしたの…?普段こんなことしないのに、急にご機嫌取りなんて気色悪い…」
「いや、僕はずっと前にするべきだったことをしているだけだよ。もし今が深夜じゃなかったら、花を買いに行っていたところさ。花も飾らないなんて、俺は気が利かないよね…って、俺がこんなふうにするのは嫌かい…?」
「まあ、色々してくれてるんだから、嫌じゃないけど…。でも花なんて言い出して、熱でもあるんじゃないの?」
「熱にもかかるさ。君といるんだから」
恋人はやれやれという顔をして、それきりGを相手にしなかった。そしてチーズとクラッカーを済ませると、「私もう寝るわ」と歯磨きをしにいった。
『「寝る」ってつまり…』
Gはごくりと唾を飲み込んだ。
Gの頭の中は、一つのことでいっぱいになる。すなわち、彼女と今晩セックスできるのか…。いや、ここはなんとでもしなければ…。期待に胸を膨らました。
恋人が歯磨きを終えると、Gは彼女に、そっと優しく、抱き付いた。
『こうすればきっと意は伝わるはずだ…』
だが彼女はそっけなく「今日は疲れているから…」と告げて、Gの腕の中からするりと抜けて、寝支度に戻った。そしてあの絵の前でふと足を止めた。
「あれ、絵が斜めになってる…」
「あ…本当だ…」
さっきGがこの絵の裏側の通路から出て来たとき、ズレてしまったに違いない。恋人は額縁の左右のバランスを直そうと手を伸ばした。そのとき、
「いや、待って…!」
Gは自分でもわからないまま、絵を触ろうとする恋人を制止した。
理由はわからなかったが、ただなんとなく、恋人があの絵に触れることによって――絵の裏側の通路を発見してしまうことによって――、この夢のような幻影が崩れ去ってしまうような気がしたからだ。
「えっと…、これは僕が直すよ。この額縁、意外と重いんだよ…」
怪訝そうな顔をしている恋人の手前、そう取り繕った。
Gは額縁の紐のバランスを調節すると、付近に恋人がいなくなる瞬間を見計らって、額縁を浮かせて、こっそり裏側を覗き見た。
『…やっぱり穴があるよな』
絵の裏側には、さっき通ってきた管のような通路があり、風の音まで聞こえた。Gは慌てて絵で蓋をした。
それからGは既に恋人が寝ているベッドに、横になった。すると彼女は気だるげに話しかけた。
「明日、話があるって言ってたじゃない…?」
「え?あ、ああ…」
咄嗟に話を合わせたが、さっきまで別の部屋にいたGは無論、そんな連絡など受けたはずもなかった。
「そのことなんだけど…、やっぱり私たち…」
恋人は口ごもった。だが、それ以上は言わずとも、言わんとしていることはわかった。
『この先ずっと、ただ一緒にいるだけというのは、ちょっと耐えられない…』
きっとそういった内容のことを口にしたいのだろう。以前別れたときと同じように…。
「やっぱり、そうなるんだな…」
Gは空気の抜けたような声で言った。
さっきまで『今度こそ』と張り切っていたのが、馬鹿みたいだった。都合よくいくわけがなかった。そして『むしろこうなる方が自然だ…』という苦い思いが胸にこみ上げて、鉛のように心にのしかかった。
Gは重い口を開いた。
「俺はお前といるためなら、何でもする。絵の額縁の裏にたまった埃も、全てきちんと掃除する。いや、そもそも埃が溜まらないよう常に努力するよ。だからさ、俺の何が悪いのか言ってくれ。そうしたら、俺、全部直すから…」
「そういうことじゃないの…」
「じゃあ、理由を聞いてもいいか…?」
「それは…、ごめんなさい…」
『やっぱり、こうなるんだな…。理由もよくわからないまま、別れることになるんだな…』
それきり二人は会話を交わさなかった。Gは無力感に包まれたまま、いつのまにか眠っていた。
目が覚めると、Gの隣に彼女はいなかった。それどころか、家のどこにも、彼女が昨晩いたという形跡はなかった。ソファに置かれたバッグも、ハンガーにかけたはずの上着も、彼女の歯ブラシもない。
『やっぱり、夢だったのか…』
彼女が部屋にいた証を探して家中を探し回り、やがてGはあのドアの絵に目を留めた。昨晩はこの裏に通路があって、恋人に会いに行けたのだ…。
『もしかして…』
Gの胸に淡い期待が浮かんだ。もし通路があれば、また彼女に会いに行けるかもしれない…。
「えい…!」
しかしGの期待は裏切られた。そこには白い壁紙があるだけだった。
しかし考えてみれば、それは当然だった。絵の裏側に通路なんかあるわけがなかった。たとえ絵に描かれているのがドアであっても、それは一枚の絵に過ぎない。かわりに、埃が落ちて来ただけだった。
それからGはソファに座った。昨日いつのまにかGの荷物に紛れ込んでいた、友人宛ての結婚報告の葉書を手にして、眺めた。
そしてその葉書をどうしたものかと考えた。友人に返すにしても、しばらくあの友人に会う予定はなかった。
『仕方ない…』
Gはソファからのろのろと立ち上がった。そして廊下の絵の額縁を浮かせ、その写真の葉書を額縁の裏に置き、そっと額縁を元に戻した。
『これでいいだろう…』
Gは絵の前から去り、味気ない日常に戻って行った。きっとすぐに、価値のない貰い物の絵のことなんか、気に留めなくなるだろう。以前と同じように、空気と同じくらいの存在感に薄れてゆくことだろう。
Gの去った廊下で、わずかな埃が舞い落ちた。