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鶯の声

作者: 壱葉竹鶴

1

 先日から外であまり馴染みのない鳴き声がすると思っていたが、数日経ってその声はホケキョと鳴いた。ああ、鶯かと頬がゆるむ。梅があちこちで咲くのを美しいと見ていたのに鶯という者を忘れていた。袖口から両の腕をつかんで冷える手先をあたため、柱にもたれて外を見る。雲の隙間から天使の梯子がおりていた。

「蓮菊〈れんぎく〉、何をにやついている」

 家の中を大掃除するのが趣味の兄がやけに丈夫そうな生地の作業着を着て木材を運んできた。

「何か作るのか?」

ああ、と自分の抱えている木材をちらりと見てから

「この頃徳利が増えてきたから棚にしまいたくてな。埃にまみれてはめんどうだ」

 毎朝、誰よりも早く起きてその手のものの手入れをしながらうっとりとしている呑兵衛が言う台詞なのかと疑問に思いつつがんばれと右手を上げた。空気はまだ冷える。すぐに私は手を袖の中に引っ込めた。

 こんこんとガラスを叩く音がしたので顔をガラス戸の方に戻すと、近所に住む伯母が布をかけた箱を持ってきた。

「蓮ちゃん、ごはん食べてないんじゃない?」

 いつも伯母は私の休みの日にはごはんを届けてくれる。普段は母が作ってくれているのだが、私の休みの日は自分も家事を休むと何かの折に決めたようだ。

 少し話していたら奥から電動の鋸の音が響いた。

「宗ちゃんもいるの?」

 いつもなら兄はこの曜日のこの時間には仕事に行っているので家にいることを知らなかった伯母は慌てて兄の分も取りに戻ろうとした。

「大丈夫だよ。さっき宗菊〈そうぎく〉から肉を焼いたにおいがしていたから木材を買いに行った時に食べてきてる。お茶を入れてくるからゆっくりしてて」

 台所に行くといつもかけてあるところから紐を取り、たすき掛けをしてやかんに火をつける。伯母のお気に入りの急須と湯飲みを用意して茶っ葉のいれてある棚を開けると、いつの間にやら中の仕切りがそれぞれの茶の葉をしまうのに合わせてあった。その上で新しく見る茶葉も増えていた。何も入っていない場所には恐らくまた知らない茶葉が増えるのだろうなと思いつつ、春のやわらかさのような甘さの茶葉を取り出して入れた。戻ると伯母は火鉢におこした炭を入れて、座布団まで敷いてくれていた。

「蓮ちゃんの入れてくれるお茶はいつもおいしくて癒されるわ」

 とお茶をすする。外を見ると雲はほとんどなくなり、とても晴れた空になっていた。

 鶯がひとつ鳴いた。


2

 夜は私がお好み焼きを作ることになっていたのだが、帰ってきた母が「焼きそばが食べたい」と言い出したためモダン焼きになった。焼きそばが食べたいと言いつつお好み焼きも食べると言ったからだ。父は父でそれなら豚キムチも食べたいと言い始め、最終的に豚キムチモダン焼きになった。

 大きく作って切り分ける。まずは半分に割り、その片方の大きさは父の分を大きめに母の分は小さくしたもの。私と兄は均等に。少し大きく作り過ぎたかもしれないと思いつつ食べ終え、食後の茶を入れに行くと水屋箪笥の隣に新たな棚が置かれていた。もう出来上がったのかと引き戸を開けてみるとお猪口に徳利や盃、菓子用の皿。こんなに増えていたのかとしげしげと眺める。相変わらず良い仕事をすると感心しながら私は戸を閉めた。

 茶を持って行くと机の上は綺麗に片付けられていた。茶を出すと父がまずひとすすり。

「やっぱりお前は茶を選ぶのが抜群にうまいな」

 急にどうしたのかと思えばどうやら帰り道に会った伯母と話していたらしい。

「今日、鶯が鳴いていたわ。春ね」

 ああ、あちこちで鶯の声が響くようになったのだなと鶯の姿を思い描く。ほんのり体が温まる気がして目を閉じる。すると兄が

「春って言ってもまだ肌寒いものだよ」

と言って父と母、そして私に丹前を持ってきて渡した。そして最後に自分が羽織って一回り大きい火鉢を持ってきた。

「気持ちだけで温まるには父さんも母さんもそろそろ無理だよ」

 にやりと笑う兄は私が気持ちだけで温まれる若造だということも含んでいるのだろうが、年も生まれた日も同じ人間にそういう含みを入れるのはどうなのだろうか。

「宗菊の嫌みは憎めないから恐ろしい」

 父が笑う。実際のところ兄は非常に同性からも異性からも好まれる。先日なんて伯母の娘に交際を申し込まれてそれをさらに惚れさせてしまう形で断っていた。今朝、伯母と茶を飲みながら私はそれの愚痴を聞いていた。こっぴどくふればいいのにあれじゃあ、あの娘は一生独り身よと。憎まれるどころか愛される。平凡な私には羨ましく思えてならないが、天性のもので真似出来るものでもないだろうとその辺は諦めている。

 今夜は良い月だ。兄はどれで呑むつもりなのだろう。


3

 それぞれが部屋に戻って落ち着いた頃、私は兄の部屋に行った。

「宗菊、開けるぞ」

 襖を開けると窓から片手を出して酒を呑んでいる兄の姿があった。酒を持った手には白い盃があり、銀色の何かが見えた。

「お前も呑むか?」

と兄は窓にもうひとつある盃の酒を指した。私はそこに座り、火鉢を少し寄せる。先程の体まで温もりはしないと言った言葉はどこに…と苦笑する。それに気がついた兄は

「俺たちはまだ若いんだよ」

と見透かした上で言う。

 手に取った盃は兄の呑んでいるものと同じで銀色の蔓だった。

「良いことでもあったのか?」

 兄は壁にある振り子時計をちらりと見て、後三十分もすればわかると言った。そしてたしかにその頃にそれはわかった。二人呑んでいた部屋の襖の向こうから母の呼ぶ声がした。兄が白湯を口にふくんで出たので私も同じようにした。三人連なって客間に行くと父が座っていた。紋付きを着ている。よく見ると母もそうだった。それで初めて、私と宗菊の生まれた日になったのだと気づいた。

「宗菊、蓮菊、誕生日おめでとう」

 父が祝いの言葉をくれた。

「もう二十歳になったのね」

 母はしんみりとしている。おもむろに奥に行き、たとう紙を二つ持って戻ってきたと思うとそれぞれを宗菊と私の前に置き「おめでとう」と手をついた。父は胸をしゃっきりとはって少し体を前に傾けた。

「父さんと母さんはずっと一緒に、お前たちそれぞれに合う菊を考えていたんだ」

 どうやら私が仕事の休みの日に母が出掛けていた先は呉服屋だったらしい。何度も通って話し合い、帰ってきては父と相談をしてを繰り返していたようだ。兄はとっくに気づいていたらしく私を見てほくそえんでいた。

「感が鈍くて悪かったな」

と兄に小声で悪態をついた後、感謝の言葉を伝えてたとう紙を開いた。そこには鶯の色地に桜色の菊の花が咲いていた。愛しさに吐息がもれる。隣にいる兄からは

「おお、これは酒にいい」

という言葉が聞こえたのでそちらを見ると、艶のある黒の生地に銀色の菊が散りばめてあった。宗菊は灯りをつけずに月を見ながら酒を呑むのが好きなのだ。私たちはそれらをしまいその場から少し離れると、茶を入れに行った。ついさっきまで何も入れてはなかった所に新しい茶葉が二つあることに気づく。これまでに父と母がそれぞれに一番好んでいた目出度い席で飲む茶葉だった。新しく作った棚から皿を取り出し、後ろで茶菓子の用意をしている兄を見てもう少しで涙が出かけた。この日のために兄はみんなが気づかないように少しずつ、それが自分の本分なのだと思わせて用意し続けてきたことを知った。

「お前は涙腺が弱いな」

 背中を向けたまま兄が微かに笑う。

「お前と兄弟で良かったよ。他人だったら惚れてしまいそうだ」

と私が言うと、そういう嫌みは言ってくれるなと従妹の顔を思い出したのだろう兄は苦虫を噛み潰したような顔をした。私は小さく笑った。

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