第7話:――もう我慢しなくて良いよね?
副学級長を殴ってしまった時に感じた事は、やってしまったとかという後悔ではなかった。
――凄く、すっきりとした気分だ。ため込んでいた副学級長への呪詛が解放された気分だ。
閉まりかけた幕に傾れかかる副学級長を見てそう思った。
体育館は静かだ。ウェンディングソングだけが鳴り響き、人の声はともかく呼吸音すら聞こえない。
「え……?」
だからだろうか。誰かの鳴き声が良く聞こえる。いや、その声は俺の耳のすぐそばから聞こえている。つまり彼女の疑問符だ。
そちらを見てみると、目を見開いて、驚いたような顔をしている。
まぁ当たり前だろう。文化祭前に誓い合った事、面倒ごとを起こさないという事を破ったのだから。
……しかし、本当にどうしよう? 何も考えずに感情的に副学級長を殴ってしまった。
周りだってドン引きして声を上げていない。観客の目は顔面がへこんだ副学級長と、右手を汚した俺に集中している。
「……とりあえず、逃げよう」
そう言って彼女の手を取る。「あ」っという鳴き声が彼女の口から洩れた。
逃げる先は体育館入口だ。裏口はクラスメイトがうじゃうじゃ居る。ちゃんとした入口なら邪魔する人間は居ない。客はあらかた席に座ったままだ。
駆け出す。
俺に手を引っ張られた彼女は、順々に付いてってくれた。
「――な゛に゛突゛っ゛立゛っ゛て゛ん゛た゛よ゛! ア゛イ゛ツ゛を゛止゛め゛ろ゛!!」
叫び声が後ろから突き刺さる。しゃべるのに不自由しているような叫び声なので、俺が顔面を損傷させた副学級長である事が分かった。
その叫び声が呼び水になったのか後ろから物音、足音、叫び声が聞こえてきた。
俺たちは無視して駆ける。
しかし俺らよりも足の速い人間はごまんといる。いや彼女なら大抵の人類よりも足が速いのかもしれないが、今は俺に導かれるままだ。
体育館を出るまでは大丈夫そうだが、出た先で追いつかれるか?
そう思った束の間、後ろから声が疎らに聞こえた。
「――なっ! お前ら何なんだよ、あいつらを追わせろ!」
「うるせぇ! こちとらあのカップルに幸せになってほしいだけだ!」
「お前らに分かるか? いつも幸せそうに惚れ話してくる友人が、顔色青くさせた鬱々しい姿を見せるんだよ! その姿を見る俺らの気持ちが分かるか!!」
「すげぇ気の毒なんだよ! 少しは配慮しろやボケェ!!」
一学期時、同じクラスだった友人たちの声が。
「ふふ。親友に止められてたけど――もう我慢しなくて良いよね?」
「なんだこの女っ! バレーボールは人の顔面に向けてサーブ打つもんじゃねぇぞ!!」
「今後の学校生活がウンチャラカンチャラで手を出さないでって言われて出さなかったけど――今まで溜め込んだ鬱憤が晴らせる時間が来た!!」
「やめっ」
「うるさい! 喰らえ、親友が無理してる顔を見てるのにドウすることもできなかった気持ちアタック!!」
彼女の友達、俺を見ると殴ってくる女子の声が聞こえてきた。
走っていて息が荒くなっていたので言葉の内容は良く分からなかったが、クラスメイトの足止めをしてくれているらしい。助かる。
そのおかげか、俺らは無事に体育館、及び学校を出ることができた。
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逃げ場所は彼女の家となった。学校に近かったからだ。
今俺たち二人は彼女の部屋で、はぁはぁ、という荒い息を吐いている。
「水……とってくるね」
「あ、うん……」
しばらくして、彼女は冷たい水を持ってきてくれた。ヤカンに氷を入れた奴だ。ありがたくコップに注ぎ、一気に飲み干す。思わず、ふーと息が漏れた。
「……」
「……」
それからお互い言葉を出すことはなかった。ただ、机に向かい合う形で座り込んでいた。
声を出さないようにしてるわけではない。ただ、出す内容が考えつかないだけだ。きっと彼女もそう思っているのだろう。彼女の顔の表情、なんだか心あらずな表情を見てそう思考した。
ただ、ずっと無言のままでいるわけにはいかない。
彼女もそう考えているだろうし、俺の行動の事も知りたいだろう。
とは考えてみたものの、なかなか言葉が出てこない。
「……どうしてあんな事をしたの?」
長針が半周したころだろうか。彼女が口を開いた。言葉はどこか震えており、何らかの感情を孕んでいることが分かる。
「……ムカついたから殴った」
答えをオブラートに包もうとしたが無理だった。
「あの副学級長が要らない事をいつもベーチャクチャ言ってさ、ムカついてたんだ。俺はさ、我慢の限界だったと思うんだ。分かっている、分かっている気持ちにはなっているんだ。俺がヤバイ事をしたって事はさ。劇の最後で主役をぶん殴るなんてさ」
頭で言葉を考える事を一切していない。なのに言葉が口から滑り出る。
「……ああでも、あの顔を殴った感触を思い出すだけで――清々しい気持ちになるな」
どんどんと、滑り出てしまう。
「役決まって練習したとき、あいつは何時もお前に近づいて会話しようとしてた。そのたび俺は舌を噛んでいたよ。分かるよ、主役どうしだし語ることもあるだろう。でもさ、黙って何処かへ消えてほしい! っと考えていたよ。
劇中だって許せない事は、ごまんとある。なんだよ見つめあって手を繋いだ瞬間両想いになるって?! 踊りだす? 夜バルコニーで愛を言い合うシーン! 意味分っかんねぇよ!! お前は俺と両想いだっつーの!!
最後のはもう悪意しか感じないわ! 誰が自分の彼女が他の誰かと結婚するシーンの牧師になりたいって言うーんだよ!!」
声はだんだんと大きくなってしまい、最後の方ではもう雄たけびという形で口にしていた。
そこまで叫んで、ハッと我に返る。
やってしまった。今さっきの自身の言葉は愚痴みたいな物だ。彼女に直接吐きかけて良い物ではない。
彼女を見る。顔はうつむいている。表情は見えない。
「……」
彼女から物音は一切しない。無言。無動。耳を澄ませば呼吸が辛うじて聞こえる程度。
俺はどうすれば良いのか分からなかった。彼女のこんな状態を始めて見たからだ。彼女をじっと見つめるしかなかった。
彼女が立ち上がる。予備動作もない動きなので、驚いて体がビクリと動いてしまう。
彼女が歩く。人間なら当たり前にする行動だが、ゆるりゆるりと動くので何だか少し不気味であった。
だから、その後の行動には驚愕した。
――ぎゅっと、体を抱きしめられた。
「ふ、ふふふ」
それと同時に聞こえてくる笑い声。
「ふひへへへ」
笑い声がいつもと少し、おかしい。壊れたおもちゃのように笑い声をひたすら続けている。
彼女の顔は俺の胸に蹲っていて見えない。だからこそ、不気味さを増幅させている。
「へへへ、やったぁ。貴方に本当に本当にホントウニ愛されているって実感できちゃう」
彼女は、いきなり語りだした。慌てて返答をする。
「……愛してるよ。いつだって愛しているよ」
「でも最近は邪魔な人が多かったよね?」
「副学級長は邪魔だったな」
「それはどうでも良いわ……あなたの方に変な女が付いてたじゃない」
変な女?
「誰の事を言ってるんだ?」
「ロザライン役の子。私が居ない間、いつも貴方に話しかけていたわ」
「いやぁそこまで話しかけられる様な事は――」
瞬間、埋められていた彼女の顔がこちらを向いた。
「はぁ!? そこまで話しかけられる様なコトハ?! 話しかけられていたわよ! 十分たんまり、貴方の方へ向かっていたわよあの女!!」
目は皿のように開いており、口は裂けるんじゃないかと思ってしまうほど大きく開けて言葉を吐いている。
「何時も何時も私が誰かと話している時には貴方のすぐそばにアノ女が居たの忘れないわ。
あの女がしてる行動を見てる気持ちが分かる? 私がそばに居ない間に、水はどうですかとか、肩もみましょうかとか、逆に肩を揉んでくださいとか! 貴方が飲んだ水を吐き出させたい気分だったわ!! あの女の肩を破壊させたい気分だったわ!!
こんな下らない劇の役なんて、ほっぽり出して貴方と一緒に居たいのに、立場が邪魔するのよ。学校生活の事とか守らないといけないとか考えていると何も動けないのよ。だから我慢するしかないじゃない。動きたくてもさせてくれない理由があるからそうするしかなかったのよ。
そしてっ、最近の貴方の対応! なぁに親しげに対応しているのよ!! なぁに肩揉んでんのよ!!」
目の前で叫ばれたので耳が物理的に痛かった。
彼女はぜぇぜぇと息を荒くさせる。だが数秒後には収まった。
「――でも貴方は、私へ独占欲を抱いてくれた」
そして、さっきとは違う、緩やかで艶々しくて、滑らかで優しい官能的な声を出す。
「嬉しかった。約束を破った事なんて吹き飛ぶくらい、嬉しかった」
腰に回されていた彼女の腕が、せわしなく動き始める。
「あんな女じゃなくて、私を見てくれている。あの女への行動が事務的な行動であったって理解できる感情的な行動をしてくれた!! ――ああ、感情が極まって言葉が出ないってこう言う事なのね!!」
急に彼女の顔が一気に近づき、唇が触れて――
……顔が離れる。彼女が耳元にささやく。
「言葉が出ないのなら、言葉以外の手法をとれば良いのよ。……言葉以外に愛を感じる方法は幾つもあるわ。此処で感じましょう」
気が付いたら彼女に担がれていた。そして彼女のベットに投げ飛ばされる。
ドサッと腰をベットマットにぶつかる。彼女の顔を見ると目が座っていた。
「ちょっと待ってくれ、急に色々言われて混乱しているんだ。考える時間をくれ!」
「大丈夫。愛を感じるのに言葉は、思考はいらないのよ」
彼女が持っているのは俺の服。いつの間にか脱がされていたらしく――そのあと色々あった。




