エラゴニア第三王子①
その夜、キャロルはふと目が覚めた。今までもよくあったことで、そんなときはそのままベッドにいるよりも起き上がり、少し椅子に腰掛けたりしていた。起き上がってキャロルは窓の外を見た。月明かりが眩しくて、庭がよく見える。ドラゴンが集まっていた。サファイアもいる。会議でもしているのか、頭を寄せ合っている。声は小さいのか、まったく聞こえない。
どんな話をしているのか、窓を開けて身を乗り出してみると、急にサファイアがこっちを見た。
音を立てないようにしたのに、驚いたキャロルの目の前にサファイアが飛んで来た。
「また私を見ていたな。」
サファイアがキャロルに呼びかけた。大きな声ではないのに、キャロルの耳元でした。
「ご無礼を、その……。」
サファイアの青い目がキラキラ光る。
「目が覚めたのなら来るといい。」
突然の申し出にキャロルは驚いた。
「わ、私が、良いのですか? 」
「うむ。私はお前が気に入ったのだ。」
羽をひるがえしてサファイアは降りていく。キャロルは上着を羽織って部屋を出た。中庭に行くと、ドラゴンたちがキャロルを見た。
「今日来た伯爵令嬢だ。」
色ははっきりわからないが、サファイア以外に三体。皆濃い色をしていて、目が宝石のように輝いている。
「お初、お目にかかります。キャロライン・ワーグナともうします。」
キャロルが挨拶をすると、ドラゴンたちはじっとキャロルを見た。
その目は観察をしているようだったが、敵意や悪意はなく、キャロルの形や声、色をよく観察しているようだった。
「これは珍しい。」
しわがれた老人のような声が言った。
のそっと動いたのは、奥で座り込んでいた一番大きなドラゴンだった。
「もっとよく目を見せて欲しい。」
ずいっと前に首を伸ばすので、キャロルは近づいた。
「うん、魂の輝きがそっくりだ。」
どういう意味かわからずに、見上げるキャロルにドラゴンは言った。
「私はセレンディバイト。キャロライン、お前の輝きが珍しかったので見入ってしまった。」
ドラゴンがキャロルの名前を呼んだことに驚いた。
「いえ、とんでも。あの、珍しいとは? 」
「魂の輝きは、人には見えないのだろうが、私たちにはよく見える。お前は、少なくとも、私がこの城では他に見たことがない輝きをしていた。」
他のドラゴンたちも顔を見合わせる。
「サファイアも、そうだろう。」
「うむ。ここではこんなに静かにきらめく輝きをした者はいないな。」
ふむっとセレンディバイトはうなづいた。
「我が王の慰めになるかもしれん。」
ざわっとドラゴンたちが動揺した。
「セレンディバイト殿、人間の寿命は短い。また新しいものが必要になる。」
他のドラゴンが言う。サファイアはじっとキャロルを見る。
「しかし、あの方の憂いはもう千年以上続いている。我らの呼びかけにも応えずに眠り続けて何百年と経った。」
サファイアはずいっと触れそうなほどキャロルに顔を近づけた。キャロルをぺろりと一飲みにしてしまいそうなほど大きな口がある。
「セレンディバイト殿、同じ輝きでも、王の持つ輝きはこの娘とはちがうのだ。そう簡単には心は変わらないのではなかろうか。」
サファイアはキャロルの匂いを嗅ぐように、鼻の穴を開いた。
「うむ、王の持っている輝きは灰や煤の匂いしかしないが、これは生きた人の匂いだ。全然違うぞ。」
「サファイア。」
レオナルドの声が暗闇から響いた。びくっとサファイアは震えた。
「令嬢をさらうなと言っただろう。」
庭の奥から表れたレオナルドに、キャロルは思わず両手を広げて立ちはだかった。
「違います。あの、私が眠れずにいたので、相手をしてくださったのです。」
震えながら言うと、サファイアは子供のようにキャロルの後ろに移動して言った。
「そうなのだ。」
ため息を短くつくと、レオナルドは言った。
「自国の娘ならまだしも、同盟国とはいえ他国の淑女だ。人間の政というのはドラゴン殿には理解しがたいだろうが、むやみに夜に連れ出すな。」
「人間はつまらないのだ。こんなに良い夜の匂いもわからないのか。」
サファイアは子供のように口をとがらせた。
「そなたもだ、キャロライン殿。城内とはいえ、夜に部屋の外を歩き回っては困る。」
びくりと震えて、キャロルはうなづいた。
「はい、申し訳ございません。」
か細い声で言うと、サファイアが前足でレオナルドを叩いた。レオナルドが受身をとって、地面を転がって立ち上がった。突然の暴行に、キャロルは驚いて凍りついた。
「婦女子をいじめるな。」
サファイアが怒った。どうやらキャロルを庇ってくれたらしい。
「違います。私が……。」
すくっと立ち上がったレオナルドが言った。
「いや、今のは私の言葉に棘があった。」
レオナルドがキャロルを見つめて言った。
「申し訳ない。右も左もわからないそなたを責めるべきではなかった。」
「そんな……。」
言いかけたが、レオナルドが場を治めようとしているのに気づいて、キャロルは言葉を飲み込んだ。
「は、はい。私も軽率でした。」
サファイアはじっとキャロルとレオナルドを見た。
「サファイア、人の、特にご婦人には睡眠はとても大切なものだ。卿らと語り合えてキャロライン殿もぐっすり眠れるだろう。部屋まで送ってもかまわぬか。」
サファイアはしぶしぶ、というため息をついた。
「うむ。今後は気をつけよ。」
「あいわかった。」
場が収まったようなので、キャロルは頭を下げてレオナルドに付いて行った。
窓からさす月明かりが明るく、キャロルはレオナルドの背中を追って歩いた。
「足元は暗くないか? 」
「はい、大丈夫です。」
階段を上がりながら尋ねたレオナルドにキャロルは応えた。
「あの、レオナルド王子、お怪我はありませんか? 」
ドラゴンに突き飛ばされたのだ、軽やかに立ち上がったが怪我をしているだろう。
「なに、いつものことだ。本気で怒ったときは、壁まで吹き飛ばされている。」
サファイアも手加減したのだろうか。
「サファイアはドラゴン族の中でも変わり者で、人間のように好奇心が強い。だが力量は分かっている。あれが本気を出せば人の身など爪の一振りで砕けるだろう。」
それでも、と心配になっているとレオナルドは言った。
「そなたは、ドラゴンたちよりも私のほうが怖いようだ。」
顔を見ずに言われて、キャロルの背中にさっと冷たいものが落ちた。
違うと言おうとした口が震えて、塞がった喉をこじ開けようとしたが言葉は出なかった。
「キャロライン殿、今晩のことは内密にお願いしたい。ルルが気に病むだろう。」
「か、かしこまりました。」
声を押し出していうと、レオナルドは階段で止まり、道を譲った。
「私が部屋まで案内してはいらぬ迷惑がかかるだろう。」
「ありがとうございます。」
思慮深さに、キャロルは胸が詰まった。
数歩歩いてまだレオナルドは立っていた。影の中から見守るようにたたずんでいるのを見て、キャロルは声を振り絞った。
「レオナルド王子、私は、貴方が恐ろしいわけではないのです。」
ぐっと拳を握ってキャロルは塞がる喉を開いた。
「その、これは私の病なのです。貴方が恐ろしい人ではないことは、分かっているのですが。」
影の中からレオナルドが出てくる。歩み寄ってくると、ひざが震えた。近づいてくる彼から目をそらしそうになったけれど、キャロルはまっすぐに見た。
「キャロライン殿、どうやらそなたは私が思っているよりも気丈な方のようだ。」
そんなこと、初めて言われた。キャロルが驚いていると、優しくレオナルドは笑った。
「もし今度から夜眠れないようであれば、ルルをそばに置くと良い。あの娘もサファイアのように貴方が気に入っているようだから遠慮はいらない。」
その笑顔にキャロルのこわばっていた手がゆるんだ。冷たくなった背中が熱くなったようだ。
「あ、ありがとうございます。」
お辞儀をすると、キャロルは部屋に駆け込んだ。
恐怖ではない。心臓がどきどきと鳴っている。息が苦しい、それなのに、苦痛ではない。
こんな動悸は初めてだ。キャロルは思わず自分の頬を押さえた。
翌朝、眩しさで目を開けるとルルがカーテンを開けて回っていた。
「おはようございます、キャロル様。」
元気のいい声に目をぱちくりさせてキャロルは起き上がった。
「おはようルル。」
あくびをして目を開けると、ルルの笑顔がそばにあった。
「昨晩、どちらにいらしたのですか? 」
ぎくりとしたキャロルに、ルルはそっと上着を見せた。
「こちらのお召し物に花粉がついていました。サファイア様がお好きなシャクナゲの花。城には咲いておりません。」
「その、目がさえてしまったの。そしたら、サファイア殿がいらして。」
ルルは話を聞きながらも花粉を落とし、キャロルの服を用意した。
「なるほど。ご承知いたしました。本日より私もお隣で寝かせていただきます。」
にっこりとしたルルの顔が近づいてきた。
「キャロル様はセレンディバイト様にも気に入られているご様子。あの方は穏やかな方ですが、うっかり、ということがあるやもしれません。ドラゴン様と人、ましてやキャロル様のように華奢な方ではもしやということが起きてはいけませんので。」
キャロルを立たせて寝巻きから着替えさせ、ドレッサーの前に移動し、髪をとかしながらルルは言った。
「けれど、見つけられたのがレオナルド様でよかったです。あの方は王様と王妃様の次にドラゴン様たちと信頼関係を築いていらっしゃいますもの。」
キャロルの髪をきれいに結い上げて、ルルは言った。
「第三王妃様がトロル退治の最中に臨月を迎えられて、そのままぽろりと。ドラゴン様たちが産湯につけられたそうです。」
想像できない話だ。どうやったのだろう。
「しかしそれも、ドラゴン様の中ではとても珍しいことです。多くの場合、ドラゴン様は人を嫌っているか、意に介さない方が多いので。」
「それは、何か理由があるの? 」
ルルは少しだけ言葉を考えて言った。
「ドラゴン様たちは嘘や約束の反故をとても嫌います。取り決めたことを破ることは最大の侮辱なのです。人が嘘を吐くことをドラゴン様たちはよくご存じですから。」
ルルのおかげですっかり身支度が整った。
「ですから、もしキャロル様がドラゴン様たちとお話しなさる時は、できない約束をなさらないようにご注意ください。」
「ええ。肝に銘じるわ。」
ルルに見送られ、キャロルは食堂へ向かった。その途中だった。
「おはようございます。キャロライン様。」
金色の巻き毛をした美しい少女がキャロルに微笑んだ。
「おはよう、ございます。」
大きなぱっちりとしたハニーブロンドの目、白い肌、にっこりと微笑んだ顔は妖精のようだ。こんなに愛らしい顔立ちをした少女に見覚えはない。
「失礼いたしました。私、アーチノース家のセレナともうします。昨日は動揺してしまって、すっかり挨拶が遅れてしまいましたわ。」
「アーチノース、あの貿易商会の? 」
ヨクジアで一番といわれるほどの規模をもつアーチノース商会は食料品や香辛料をはじめ、鉱石などさまざまなものを輸出入している。金融業も行い、彼らに借金をしている貴族も多い。
「父より、晩餐会では多くの貴族の方にお会いする機会だからと、恐れ多くも参りました。」
「そんなこと。エラゴニアの王家の方は気にされてはおりませんわ。」
セレナは安心したような笑みを浮かべた。
「キャロライン様がお優しい方で安心しました。実は私、どうしても昨日のことをお尋ねしたくて。」
「昨、日? 」
昨晩のことがよぎった。
「ええ。キャロライン様、ドラゴンの方にさらわれていってしまいましたでしょう? 私、窓から見ておりましたの。」
昼間の出来事だった。
「そんな、さらわれたというか、その、私を何故か気に入られてしまったようで。」
なんと言っていいのか、キャロルは口ごもった。
「無事夕食の時にはお出ましになられたので安心していましたけれど、あれを見て皆様いっそう恐れをなしてしまったご様子。今朝もすでに何人か、お逃げになられましたようで。」
自分のせいでとんでもないことになった。青ざめるキャロルにセレナは続ける。
「私の召使たちも、荷物をまとめて帰ろうと泣き出す始末。」
「そ、それは、誤解です。」
セレナの目が、それまでの柔らかくおだやかな様子から、一瞬きらっと光った。
「その、決して私を傷つけるためではなく、ただお話をするためにサファイア殿は、あのような形でお連れになったのです。」
セレナの目がふたたびにこっと微笑んだ。
「キャロライン様、ドラゴンの方々も魅了されてしまうなんて、魅力に溢れた方なのですね。」
「いえ、決してそういうわけでは。」
セレナの顔がじっとキャロルに近づいた。
「私も、実はドラゴンの方々とお話がしてみたかったのですが、とても難しくまだどなたともお話できてませんの。」
そっとキャロルの手をとるとセレナは言った。
「ぜひ、ご紹介くださいませんか? 」
迫り来る圧迫感にキャロルはごくりと飲み込んだ。
「あの、私、その……。」
「おはようございます。キャロライン殿、セレナ殿。」
幼い声に振り返るとエスターがいた。
「おはようございます。エスター様。」
「お二人もご朝食を召し上がられるのですか? 」
「はい。ぜひご一緒に。」
エスターが嬉しそうに笑う。キャロルは引きつった頬を元に戻すために、ぐっと奥歯を噛んだ。
朝食の味はわからなかった。