竜の国①
港を出て五時間ほどで船は新しい港に着いた。船の客のほとんどは、汚れた荷物を抱えた行商か、商人だった。
キャロルは海の向こうを見た。その時に、船から悲鳴がした。船の上を大きな影が港をよぎっていく。
見上げれば巨大な翼が見えた。鳥というにはあまりに大きく、尾が長い。長い首に鋭い爪をしたドラゴンが悠々と過ぎっていく。腰を抜かすものもいたが、港にいる多くの者は慣れたようで、中には拝む者もいた。
ドラゴンと供に繁栄した国、エラゴニアでは日常なのだろう。騒いでいるのは他国から来た者だけで、陸で店を構える人々はのんびりと見る。噂には聞いていたが、こんなに近くをドラゴンが飛んでいくは思わなかった。
「ワーグナ様。こちらでございます。」
はっと、名前を呼ばれてキャロルは歩き始めた。馬車にはキャロルのカバンが積まれている。
「お疲れでしょうがもうしばらくのご辛抱を。」
白髪の老人はそう言ってキャロルを馬車の中に促した。船に乗ってからずっとキャロルを案内する老人は、愛想がないわけではないが無口だった。
エラゴニアとキャロルの住む国、ヨクジアが同盟を結んだのは二十年前の戦争がきっかけだった。当時エラゴニアとヨクジアの同盟軍は陸と海をヨクジアの軍が、空をエラゴニアの軍が協力し合い、侵略軍から国を守り抜いた。
当時侵略軍はほとんどの小国を攻め滅ぼし取り込んでいた。ヨクジアとエラゴニアは攻め滅ぼされることなく、やがて世界の情勢は変わり、連合国の勝利により侵略戦争は終わった。
キャロルは段々と空を飛ぶドラゴンが増えてきたのに気づいた。かなりの上空だが、白い雲の中にドラゴンの姿が見える。
今回、エラゴニアの第二王子の誕生日を祝う晩餐会がある。キャロルはそれに招かれた。多くの貴族の娘に招待状が届いたが、ほとんどの家では娘を出さなかった。戦時中に一時的にドラゴンが空を飛んだことがあっても、ヨクジアの領土が戦場になったのは国境のシーナのみ。それ以外の国民はドラゴンを恐ろしい怪物だと思っている。
そんな島国に娘を送り出すのは、貴族でなくとも嫌がるだろ。
キャロルは城を見ようと、窓に近づいた。美しく磨かれた城壁が見えてきた。城門の上にはドラゴンの銅像が置かれている、と思ったが身を乗り出してこっちをみた。生きている。真っ白で美しいので銅像だと思ったが、まばたきをしてキャロルを見た。
馬車が止まるとキャロルは城内に案内された。部屋の中には一人のメイドがいた。
「本日よりキャロライン様のお世話をさせていただきます、ルルと申します。」
黒い髪に褐色の肌をした美しい娘だった。顔がはっきり見えるように髪の毛を結い上げて、利発そうな目をしていた。
「よろしく。私のことは、どうぞキャロルと呼んで。」
「かしこまりました。」
ルルは荷物をタンスにしまい始めたので、キャロルは窓の外を見た。鳥のようにドラゴンが城門にとまっている。
「お疲れでしょう。お茶をすぐに淹れます。」
「あ、あの。」
キャロルが呼び止めると、ルルは不思議そうに顔を上げた。
「私、お庭を見たいのだけど、いけないかしら。」
おずおずというと、ルルは目を丸くした。
「お庭に、ですか? 」
「ええ。花が好きで、木も。エラゴニアの植物は初めてだから、ぜひ見てみたいの。」
ルルは微笑んだ。
「かしこまりました。ご案内します。」
ルルの笑顔にキャロルはほっとした。
階段を下りて中庭に出るとそこには野原のように芝生があり、木や花が植えられていた。銅像はない。その場所だけ別の空間があるように、自然が広がっている。
スグリもある、とキャロルが踏み込んだとき、しげみが動いた。しげみの中から、何かが出てきた。
「キャロル様。こちらへ。」
ルルがキャロルの手をとってうしろにさげる。すると、茂みの中から一頭のドラゴンが出てきた。牛のような大きさで、背中鼻の頭に角がはえ、前足と後ろ足がどっしりとしている。草と同じ色のウロコが身体を多い、頭にも前に突き出すように角が二本生えていた。
半目のドラゴンはルルとキャロルをちらりと見た。そしてのしのしと歩いて行った。
「ここはドラゴン様たちが時々お昼寝をなさっているのです。」
「お城で、お昼寝を? 」
キャロルが驚くとルルは説明した。
「ドラゴン族の方々は我が国にとっては大切な存在ですから。この城ができたときに、軍議を開くときに、いらっしゃるドラゴン様たちがくつろげるようにと、この庭を作ったとされています。今では代々新しい庭主様が手入れをされています。」
この城は確か三百年前に作られているはずだ。そんなに前からドラゴンはここでくつろいでいたのかと唖然とした。
「ドラゴン殿は皆この城に住んでいるの? 」
「特に王家と親交のある方たちは城にお部屋がありますので。ですが中庭にいることが多いですね。」
キャロルは庭を見渡した。
そのとき、上空を真っ白なドラゴンが飛んできた。
「サファイア様です。お部屋は東の離宮にあるので戻られるようですね。」
ルルが穏やかに説明しているが、どう見ても近い。こっちにぶつかりそうな勢いで滑空している。
「危ない。」
思わずキャロルはルルを押した。すると、急に上空に引き上げられた。キャロルの身体が何かに掴まれ、上空に上がっていく。
「キャロル様!」
ルルの声が遠ざかる。城が小さくなったかと思えば、今度は突然体が下がった。
恐怖のあまりキャロルは悲鳴もあげられない。目も開けられないほどの風に震えていると、柔らかいものの上に落ちた。
ふかふかで、力を入れようとすると体が沈む。泳ぐように進んで行くと、今度は足元が滑って体が転がった。
「サファイア。寝床に何を落とした。」
男の声に、キャロルは慌てて体を起こそうとするが、もがけばもがくほど沈んでいく。
「私の寝床なのだ。レオには関係ないのだ。」
子供のような声が口答えをする。
「この前お前が獲って来たヤマネコが城中を暴れたのを忘れたのか。生き物ならば仕留めて……。」
覗き込んだのはルルと同じように褐色の肌と黒い髪をした男だった。男の目は真っ青で、キャロルを見つけて驚いた。
息をのんだ男は、キャロルが生きた人間だと気づいて声をかけた。
「大丈夫か? どこか怪我は。」
男の手は易々とキャロルを引き起こした
男はゆったりとした服を着ていた。襟や袖から見える彼の肌には刺青がしてあり、胸やわき腹に彫られていた。それは文字のようにも見えた。
「……っ大丈夫です。」
震えてキャロルは男から距離を置いた。
周りを見ると、そこは広い池のようだった。水の中を大きな魚が泳いでいる。起きた場所は丸い寝床のようで、その向こうに部屋が見えた。いったいどこなのだろう。城内なのは間違いないはずだ。
その時、ドラゴンがキャロルの顔の前に頭を伸ばした。白いウロコが輝き、青い宝石のような目をしていた。
「サファイア、どこからこの娘をさらってきた。」
「庭に落ちていたのを拾ったのだ。」
男が言うと、ドラゴンはすました顔で言った。
「その娘がもの言いたげに私を見たのだ。港でも城に戻る途中でも目が合った。だから部屋に持ってきたのだ。」
ドラゴンは少女のような幼い声で言った。
「見るのだ。どこもかしこも真っ白で私にそっくりだ。雪のように白い肌に、髪も白金のように輝いている。」
ドラゴンがキャロルの顔を覗き込む。
まつげが長く、大きな瞳にはキャロルが映っていた。
「だからといってむやみにさらうな。兄上の花嫁候補だぞ。」
「花、嫁? 」
驚いてキャロルは口を挟んだ。
「あの、失礼します。私、キャロライン・ワーグナと申します。第二王子の晩餐会に招待されたのですが、その、そういったお話はうかがってません。」
ドラゴンはずいっと一歩踏み出すと、男の制止を気にせずに首を伸ばした。
「うむ、知らぬのか。清らかな乙女よ。」
真っ青な目がキャロルの目の奥をじっと見る。
「ヨクジアはなんとしてもエラゴニアとの縁をきつく結びたい様子。そのため、人の王は婚姻相手に身分をいとわないというエラゴニアの法を利用することにしたのだ。」
表向きには晩餐会といわれている。しかし、まさか自分がその中に選ばれるなんてとキャロルは思った。
「ユークリッド王子だけではなく、レオも探さねば。妻は一人でなくともよいのだから、二三人選んで後考えればよいのではないか? 」
「サファイア。」
ぐいっとドラゴンの頭を持って男は言った。
「ヨクジアのご令嬢は繊細なのだ。お前が部屋の周りを飛び回るので、怯えて出てこなくなったと姉上に言われたばかりだろう。」
「なにを申す。エラゴニアに嫁ぐのであればその程度で部屋にこもっている娘などに王子の嫁は務まらぬわ。」
大きな犬でも扱うように、男はドラゴンの鼻をぺしっと叩いた。
「兄上は外交が主だ。この国にもそう何度も戻ってこられはしない。兄上の嫁取りを邪魔するな。」
不満そうなドラゴンをおいて男はキャロルに言った。
「キャロライン・ワーグナ殿だったな。わが国のドラゴンが迷惑をかけた。」
はっと気づいてキャロルは跪いた。
「とんでもないです。私こそ、不躾に視線を向けてしまって。どうかお許しを。」
第二王子を兄というならば彼もまた王子だ。
「王子、サファイア様がワーグナ伯爵令嬢をさらったと。」
部屋の奥から召使がやってきた。ルルと似た服装だが、彼はズボンでエプロンがない。銀縁眼鏡にすらりとした細身の男だった。
「彼女だ。」
召使の顔が引きつった。
「なんということを。」
ドラゴンはそ知らぬ顔でしっぽをふった。
「あの、私が先に無礼な真似を。だから、どうかお気になさらず。」
キャロルはそう言うと召使に案内され部屋を出た。