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ダークホース  作者: 日南田 魚王
1/5

その1

「やぁ、田中さん」

 自分を呼ぶ男の声に僕は読んでいた小説を膝上に置くと少し驚いた顔で声主を見た。

 僕は大阪N区の図書館の三階の十番と書かれたソファで最近刊行された話題の小説を読んでいたのだが、まさか声主の人物とここで会うとは思わず、その為驚いたとき思わず小さく声を漏らして、周囲で静かに読書をしている人達を振り向かせてしまった。

 彼は「静かに」と小さく言って人差し指を自分の唇に寄せると鼻から少しずれた大きな黒縁の眼鏡を戻しながら周囲の視線に少し肩をすくめるようにして手にしていたビニール傘をそっとソファに横置きすると、僕の横に腰を掛けた。

 仕事が休みの週末、僕はごくたまに大阪N区にあるこの図書館にやって来ては自分の好みの雑誌や小説を読み、趣味である読書に興じるのだが、今、横に座って笑顔を見せる彼とは住む地区も異なり、また僕がこの図書館に休みの時に訪れる習慣性があること等、勿論彼には一度も話したことが無いから、まさかこんなところで奇遇にも会うとは到底思ってはいなかった。

「四十川君、どうしてここに?」

 問いかけにはその気分が少し出ていたが、小さくしかし本人には良く聞こえる様に僕は低く言った。

 僕の問いかけに対して彼は微笑を崩さず、口に寄せた指を離して、僕が手にしている小説を指さして言った。

「田中さん、ほら、前に言いませんでしたっけ?僕・・個人的な趣味で小説を書くって」

 僕は彼が何か僕の謎に足してヒントを与えてくれていることに気付かず、首を傾げた。それを見て彼が僕の腕を掴んで「ほらほら。だから・・」と言った。

「いえ、ほら僕小説を書くでしょう?だからたまにこうして図書館へやって来ては色々と資料を見たり、時には借りたりしているのですよ。ここの図書館は大阪市では中之島の図書館と劣らずの蔵書ですからね」 彼はそう言うなり僕が膝の上に置いた小説を手に取った。

「あ、これ、この前刊行されたばかりの小説じゃないですか。もう刊行されたばかりだというのに既に何でも今年の大きな賞を獲るだろうともいわれている」

 彼はその本を舐める様に見ると羨ましい表情になったが、それを慌ただしく僕の胸元に押し当てると代わりに僕の目前に別の小説を出してきた。

 そしてその小説を軽くポンポンと叩く。

「どうです?田中さん、こちらも中々の小説ですよ。どちらかと言えばこちらの方が今年の賞を獲るとは思いませんか?」

 彼が僕の目の前に出した小説は推理小説で、それも今年の大きな賞を受賞するかと言われている作品だった。

 僕は前回ここを訪れた時に既にその作品は読んでいたから物語の中身は知っており、正直なところ残念ながら今僕が中程まで読み始めている小説に比べれば面白さに欠けるところがあって、エンターテイメント性では落ちると思っていた。だから彼のにこりと微笑む瞳から視線を少し外して「そうだね」と小さく言った。

「おや、おや?田中さん、どうやら僕と同意見ではないようですね」

 少し下から茶化すように見る彼の視線に僕は、小さく咳払いをした。

「僕も、まぁこのようなお二方みたいな小説が書ければいいのですけれどもね」

 そういうと彼は目も前に出した小説を数ページぱらぱらとめくると、興味が無いのか小説をくるくると指の上で回した。

 それには少し僕も気の毒になったので同情するような気持ちで「まぁ、それは」と小さく言った。

 横に座って本を指の上で回している人物、彼の名を四十川仗助というのだが、彼は僕と同じ会社で働いている社員だった。

 大阪市内の本町にある小さな製薬会社で共に働いており、僕は営業、彼は物流というそれぞれの部署で勤務している。

 彼とは僕が先輩に当たり、彼は四つほど年下の後輩になる。

 彼とは会社であった新入社員の歓迎会でその時初めて会った。

 声をかけると彼は先程のような人懐っこい笑顔で分厚い眼鏡を少し曇らせて僕に笑顔を向けた。それが何とも言えない純朴さと言うか、そうした彼が持つ品性と言うものに少し惹かれて連れ込まれそうになりながら話をしていくうちに彼が僕と同様に読書好きであること、そして彼が働きながら小説家を目指していることを聞くと、僕は彼に対する興味と好感が持ち、その後は時折個人的にも会社が終われば二人で連れ立って飲み屋に行くという、親しい間柄になった。

 しかしながら、ではある。

 僕は心の中で頷く。

 それでも住んでいるところは互いに異なり距離もあることから、この場所で会うことは約束事が無い限り可能性はゼロのようなもので本当に偶然と言えるきわめて貴重な体験を僕は今得ていた。

 その偶然に寄りかかる様に僕は再び声を潜め、彼に言った。

「本当に偶然だね、四十川君。君とここで会うなんて」

 僕の問いかけに彼は何も反応せず、本をくるくる回しながらぼんやりとしていた。おやと言う表情で僕は再び彼に言った。

「ねぇ、四十川君・・」

「あ、失礼しました。田中さん」

 彼は僕の問いかけに慌てて僕に向き直った。

「どうしたの?ぼんやりして」

「いえね・・・」

 彼が僕の方を見ていた。

「ある言葉を突然思ってしまいましてね?」

「言葉?」

 そう、と彼は小さく頷いた。

「どんな言葉?」

「ダークホース」

「ダークホース?」

 僕は彼の言葉に反芻した。

「どうしたの、それが?」

「いえね・・・、もしもですよ。僕がこれから体験することを小説にして完成できたらきっと素晴らしい作品になると思うのです。そうなれば世間一般は全くノーマークの新人が現れてその賞を獲っていく、まさしく、それの立場はダークホースなのだろうなと」

 僕は彼が興奮するように話す内容が全く分からなかった。

 僕は彼が何故ここに偶然いるのかということを聞きだしたいだけだったのだが、彼が思いもよらないことを話し出した為、むしろ突然言い出した「これから体験すること」の方に興味が湧いてしまった。

 自然、それを聞けば、何故彼がここに偶然い合わせることになったのかも自然にわかるはずだと、僕は瞬時に思った。

「何だい?その体験と言うのは?もしかしたらそれが僕達をここで引き合わせた偶然の原因のようだけど?」

 僕は彼の方を見た。

 彼は僕の視線に気づくと頭を掻いて眼鏡を曇らせると笑顔を見せた。


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