56.ラティリアーナの死
飛び散る鮮血。
それは──獅子王レオルの血。
美虎が放った一世一代のカウンターは、たしかに獅子王レオルを傷付けた。この瞬間、彼女は獅子王と対等の位置に立ったのだ。
「ぐるるるる……」
「……見事だ、ミトラよ」
だが──それでも届かなかった。
彼女の牙が捉えたのは、レオルの首筋でなく──左腕。
そう。レオルは牙が喉元に届く寸前に、左腕を差し入れて美虎の攻撃を防いだのだ。
「魂を賭した究極の一撃、確かに我が身に届いた。誇るが良い、その気高き戦士の生き様を! だが!!」
ドンッ!!
レオルが激しく足を前に出す。空気が震え、地が唸る。
「オレは獅子王。魂を戦いに捧げるため、常時獣化により人としての人相を捨て、あらゆる獣たちの頂点に立つ存在となった時点から、誰にも負けることが許されぬ存在となったのだ!」
「がるっ!?」
「ゆえにミトラよ。オレもまた──ここで敗れるわけにはいかんのだ」
個として地上最強の生物と称されるレオルは、単に強さだけで最強の位置にいるのではなかった。その魂の在り方を含め、彼は冒険者の頂点に最も近い位置に立っていたのだ。
ゆえに彼は、己が認めた相手──美虎に対して全力を尽くす。
「ミトラよ──我が渾身の一撃、その身に受けるが良い」
──獅子王奥義【 覇王武神撃 】!!
獅子王レオルの全身から、黄金の覇気が噴き出した。全身の筋肉が盛り上がり、腕に噛み付いていた美虎の牙でさえ自然と締め出される。
そうして放たれた究極の拳による一撃は、全身を獣化して強化していた美虎でさえも耐えきれないものとなった。
ドゴンッ!!
次の瞬間、美虎は氷の壁に叩きつけられていた。
「がはっ!!」
激しく血を吐き出す美虎。氷の壁がクレーターのように凹み、ビシッと大きな音を立ててヒビが入る。
既に獣化も解け、氷の壁から崩れ落ちるように倒れる美虎。
そんな彼女を、レオルは優しく支えた。
「……あたしでは……届かなかったがるか………」
「そんなことはない、なにせお主はこの獅子王に傷をつけたのだ。誇るが良い、オレはお主を認めたぞ、ミトラよ」
「レオル……様、ラティリアーナ……様を……お願いするがる……」
「ああ、あとは任せろ。獣人族を代表して、このオレがラティリアーナを──守ってみせる」
ガクリ、と美虎の全身から力が抜ける。同時に半分獣化していた彼女の全身も元に戻ってゆく。
この瞬間──この戦いにおける獅子王レオルの勝利が確定したのだった。
「さて……少し手間取ったがこれでラティリアーナの援護が出来るな。あちらの戦況はどうなっているのかな」
美虎を片手で支えながら、レオルは無造作に氷の壁を殴りつける。するとピシッ、という鈍い音とともに、氷の壁に入った亀裂が広がってゆく。どうやらレオルの一撃は、既にヒビが入っていた氷の壁を打ち砕くに至る威力があったようだ。
ガラガラと音を立て氷の壁が崩れ落ち、レアルの視界が一気に開けてゆく。
「──むっ!?」
だが、開けた視界の先に広がる光景を目の当たりにして、レオルは──言葉を失った。
◆
──吸血鬼魔法【 常闇の銀刃 】。
ティアが放ったのは、吸血鬼魔法の中で最も広範囲に攻撃を加える最高位魔法であった。ティアが放った白銀色の魔力が無数の刃となり、ルクセマリアたちに襲いかかる。
「し、しまっ…!」
「きゃああっ!」
「姫っ!!」
モードレッドとの戦闘を放棄してルクセマリアの身を庇うダスティ。自由人として知られるクラヴィスでさえ、Aランク魔法具の『風護のマント』をかざしてルクセマリアを守ろうとする。
だがティアが放った魔法は、ルクセマリアたちに直撃しない。その横をすり抜けて、向かった先は──″氷の壁″!!
「なっ!?」
「むぅ!?」
「しまったわ!」
そう、ティアとリリスはアイコンタクトだけで″氷の壁″を壊すことを優先したのだ。
目の前の敵を倒すよりも、一刻も早くラティリアーナと合流を果たす。それこそが、性格も価値観も違う二人が瞬時に至った答えだった。
──ガガガゴゴゴッ!!
激しく激突した白銀の刃たちが、氷の壁を一気に砕いてゆく。
「モードレッド!」
「はい、マスター」
その隙に、冷静に戻ったリリスの指示を受けたモードレッドが、剣に変えた右手を振るう。
「──円卓の騎士【 絢爛たる輝きの一閃 】」
モードレッドから放たれた強烈な一撃は、ルクセマリアたち3人を弾き飛ばすとともに、既に崩壊寸前になっていた氷の壁を砕くのに十分なものだった。
氷の壁が──ゆっくりと音を立てて崩れ落ちてゆく。
「二人とも、ラティと合流するよ!」
「ええ!」
「承知しました」
呆然と腰をついたルクセマリアたちを完全に無視して、リリスたち3人は氷の壁の向こう側へと走り込む。
──だが、すぐにティアが足を止めた。
目を大きく見開き、口元に手を当て、ただ真正面を見つめている。
「ティア! なに立ち止まってるの! 早くラティと合流しなきゃ!」
「……お姉……さま?」
「なに、どうしたのティア」
「マスター、あちらをご覧ください」
いつもより一段と冷え切ったモードレッドの声に、リリスは違和感を覚えながら前を向く。
氷が崩れ落ちた際に発生した煙が晴れていき、キラキラと太陽の光に反射しながら景色を映し出してゆく。
──リリスの目に映ったのは。
──アーダベルトの槍によって胸を貫かれたラティリアーナの姿だった。
「ラティィィイィィイィィイィィイッッ!!!」
◇◇
アーダベルトの攻撃が直前まで迫った時、俺の視線が捉えたのは──ここに絶対に居るはずのない存在。
最初に目に入ったのは、黄金色と白銀色に輝く美しい髪。
白いドレスに身を包んだ、よく似た顔立ちの二人の姿がそこに在った。
なんでだ?
なぜ【 双子の女神 】ノエルとエクレアがここにいる?
戸惑う俺の頭の中に、不意に女神たちの声が聞こえてくる。
『あなたは、ここでアーダベルトに敗れるよう運命が定められていますわ』
『ですので、ここで死んでもらいますの』
時間の概念を完全に無視したかのようなやりとりのあと、双子の女神が緩やかに手を挙げた。
──システムコマンド──《 アクティベーション・ロック 》
──システムコマンド──《 ファンクション・ブロック 》
次の瞬間、体の自由が完全に奪われる。これは──以前ウタルダスがやられたのと同じ女神の力だ!
ということは、こいつらの目的はまさか──『ラティリアーナの排除』なのかっ!?
くそっ、やりやがったな……まさかリリスの言っていた運命とやらを実現するために、こんな手を使ってくるとは……。
アーダベルトとの真剣勝負の真っ最中に水を差すような非道な行いに、俺はありったけの嫌悪と軽蔑を視線に乗せて双子の女神を睨みつける。だがあいつらは機械的に微笑み返してくるのみで気にする気配すらない。
湧き上がってきたのは、猛烈な怒り。
ふざけたことをやりやがって、クソがっ!
いますぐにでもあの女神どもをぶん殴ってやりたい。だけどどうあがいても体が動きやしない。その間にもアーダベルトの槍が迫ってくる。
人間、死の寸前には時間がゆっくりと流れるという話を聞いたことがある。まさに今がそんな感じだった。
身動き一つしない俺に怪訝な表情を浮かべるアーダベルト。そりゃそうだよな、こいつには最後まで辛い役目を背負わせることになっちまいそうだ。
不意に浮かんだのは、リリスの心配そうな顔。
同時に理解する。そうか──リリスはこの事態を危惧してたんだな。
これでまたあいつを悲しませることになってしまったと、なんだか申し訳ない気分になる。リリスは、きっと怒るだろうなぁ。それとも、悲しむだろうか。
──ごめん、リリス。
そうして、身動きもできないまま。
ずんっと、右胸を強烈な一撃が貫いた。
最初に襲ってきたのは激痛だった。
次いで、熱いものが胸の奥から込み上げてくる。
「かふっ!」
吐き出したのは、大量の血。多分右胸の肺が完全に潰されたんだろう。
同時に、否が応でも悟ってしまう。
──この傷は、致命傷だ。
「ラ、ラティリアーナッッ!?」
戸惑いを隠しきれないアーダベルトが、これまで見たことないような表情を浮かべて槍を持つ手を離す。支えを失った俺の体は、この時点でどうやら女神の束縛が解けて自由を取り戻していたらしい。だけど今度は力が入らずに、膝から崩れ落ちた。
胸を貫いた槍が支えとなって倒れることだけは避けることができたのは、皮肉な事実だった。
「ラティリアーナ……どうして、どうして……」
現在の状況が信じられないのか、声を震わせながら手を差し伸べてくるアーダベルト。
考えてみるとこいつも哀れだよな。まさかこんな形で決着するとは思わなかっただろうに。
「けふっ!」
何か言葉を発しようにも、肺を潰されてるせいか血しか出てこない。くそっ、これじゃアーダベルトに真相を伝えることもできやしないじゃないか。
大丈夫、お前は何も悪くないよ。言葉の代わりに、俺は精一杯優しい顔で笑みを浮かべて、真っ青な顔のアーダベルトの頬を優しく撫でる。血の跡が、アーダベルトの頬をなぞった。
「ラティィィイィィイィィイィィイッッ!!!」
後ろから聞こえてくるこの──身が引き裂かれるかのような悲鳴はリリスか。
わずかに頭を傾けて見ると、モードレッドが呆然と立ち尽くし、その横でティアがこの世の終わりみたいな顔をしている。
「アーダベルト! 貴様、ラティリアーナに何をしたっ!!」
続けて怒号とともに獅子王レオルが突入してきて、アーダベルトを殴り飛ばす。哀れイケメン貴公子は、レオルの一撃を食らって崩れ落ちた氷の山に吹き飛ばされてしまった。
そのままアーダベルトを顧みることなく俺を抱えるレオル。頼むからお姫様抱っこはやめてくれよ……。
「ラティ! ラティ!」
「お姉様! なんてことに……リリス、早くお姉様に治癒を!」
「はっ! そうだった──【 簡易治癒 】!」
キラキラと優しい光が包み込む。だが俺の傷は何一つ変わらない。
「マスター、症状に変化が見られません」
「なっ……治癒魔法がお姉様に効いてない!?」
「どうなっているんだっ!?」
「こ、これは……」
リリスが《 千里眼情報板 》を操作しながら絶句する。
「ラティの状態が【 運命の戦いの呪い:治癒無効 】になってる! これじゃあ治癒魔法を受け付けないわけだよ! 誰がラティにこんなことをっ!!」
悲痛な声を上げるリリスの手を、俺はなんとか掴む。血まみれの手に触れられて、リリスはハッとして俺の顔を見た。
「けふっ!」
だめだ……言葉が出ない。出るのは血ばかり。
だけどなんとかリリスには伝えなくちゃいけない。
頼む……最後くらい言葉よ出てくれ。 でないと俺は──無駄死になっちまうじゃないか……。
「リリス……アーダベルト様は……何も悪くないわ…けふっ!」
敵は──他にもいる。
双子の女神が、何を目的にこんなことをしてるのかは分からない。だけど運命を切り開こうとすることが、あいつらにはどうしても気に食わないらしい。
「めが……みに……気をつけ……て……かふっ!」
なんとか口にすることができたのは、たったそれだけ。小さな掠れたような声は、はたしてリリスに届いたのだろうか。
だけどもう時間切れみたいだ。これ以上……言葉を出せそうにもないや。
「ラティリアーナ!」
「ラティリアーナお嬢様がるっ!」
ルクセマリアと美虎の声が、近くにいるはずなのにすごく遠くから聞こえる。他の人の声もだんだん遠くなってきた。
血を流しすぎたせいかな……あぁ、なんて寒いんだ。
槍で刺されたままの俺の身体をレオルが抱き抱え、頭をモードレッドが支え、右手をリリス、左手をティアが大粒の涙を流しながら握りしめている。
足元では、ルクセマリアと美虎が這うようにして泣き崩れ、その後ろでは頭と口から血を流すアーダベルトが愕然としたまま立ち尽くしている。
あぁ、このまま死んでしまうのかな。
こんな死に方はまったく納得いかない。思い残すことなんて山ほどある。
だけど同時に、死は不意に訪れることも知っていた。とはいえ、よりによって″神″によって死を無理矢理与えられるなんて、夢にも思わなかったな……。
あぁ……悔しいなぁ。
なんだかみんなの声も聞こえなくなってきたよ。
おまけにずいぶんと身体が重いや。血がなくなって軽くなるはずなのに、どうして重くなるんだろうか……。
レオル、せっかく仲間になってくれたのに、最後まで共に歩めなくてごめん……。
ティア、俺の血を飲みたかったよな。手と服に血を染み込ませておくから、少しでも飲んでくれると嬉しいな……。
モードレッド、君は自分が機械人形だと言っていたけど、俺は違うと思うんだ。君はもう、十分人間だと思うよ……。
リリス、最後まで約束を破ってばかりでごめん。あとのことは、頼んだよ……。
そして、ラティリアーナ。
君の身体を借りていながら、こんな事態になってごめんよ。
俺は──他でもない君と、いつか一緒に冒険をしてみたかったな……。
キラキラと……何かが俺の体から出て行き、四人の体にまとわりついて行くのが見えた。なんだろうか……でもなんとなく俺の想いが象ったような気がする。
最後にみんなの顔を見渡したところで、抗いきれない猛烈な疲れを感じ……ゆっくりと瞼が落ちる。
そうして──。
────俺の意識は、永遠の暗闇の中へと堕ちていった。
◇◆◇◆
ラティリアーナが、慈愛を秘めた瞳でパーティメンバー全員を見つめたあと……ぱたり、とその手が落ちた。
「ラティ!!」
「お姉様!!」
「ラティリアーナ!!」
「サブマスター……」
次の瞬間、ティアの顔が激怒に染まり、全身から漆黒の炎のような魔力が噴き出す。溢れ出す殺意が向けられた先は──アーダベルト!
「アーダベルトォォッ! 貴様ッッ!! きさまよくもお姉様をっ──ッッ!! 殺す! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!」
だが今にも飛びかかろうとしたティアを、獅子王レオルが手を伸ばして動きを止める。
「待てティア。この男に手を出すな」
「離せレオルッ! 邪魔するなッ! 邪魔するなら貴様から先に殺すぞッ!」
「落ち着けティア! ラティリアーナはこの男のことを恨んでなどいないっ! 最後にそう言っていたではないか! それに……まだラティリアーナは完全に死んだわけではないっ!」
その言葉に、ティアはハッと正気を取り戻す。振り返ると、リリスが必死にラティリアーナに治癒魔法をかけていた。
何度も何度も、暖かい光がラティリアーナの全身を包み込む。だが──傷口が治癒している様子はない。
「ふざけるな! 運命の戦いの呪いってなんだよ! なんで治療できないんだよっ!!」
リリスの問いに答えるように、ふいに出現した情報ボードが文字を打ち出す。
〈 System Message 〉アラート! まだ『運命の戦い』の決着はついていません。戦いの最中の治癒行為は禁じられています。
「はぁ? 何言ってんのっ!? ラティがこんな状態なんだから、ボクたちの負けだろっ!?」
〈 System Message 〉アラート! 勝敗の条件は『パーティメンバーの全滅もしくはリーダーによるギブアップ宣言』となっています。リーダーのみの戦闘不能は条件には含まれません。
「リーダーのギブアップ宣言って……ふざけんなっ! ラティは昏睡してるんだぞっ! そんなの無理に決まってるだろう!!」
「リリス、だったらあたしたちがギブアップを宣言すれば……」
〈 System Message 〉アラート! ギブアップ宣言が認められるのはリーダーのみです。他のメンバーは戦闘不能をもってのみ勝敗を決します。
「そ、そんな……そんなのって……」
「待てっ! 僕は負けを宣言するっ!!」
絶望感に満たされていたリリスの耳に飛び込んできたのは、アーダベルトの敗北宣言だった。
彼は自分たちの勝利よりも、ラティリアーナを救うことを選択したのだ。
驚くリリスやティアを横目に、アーダベルトは歯を食いしばりながら呻くように呟く。
「みんな、すまない! 僕は……ラティリアーナがこのまま無為に死んでいくのなんて、耐えられないんだ……」
アーダベルトの言葉に、美虎も、ルクセマリアも、ダスティもクラヴィスもすぐに頷く。彼らもまた、リーダーと同じ思いだった。
〈 System Message 〉アーダベルトのメッセージを受け付けました。
〈 System Message 〉《 自由への旅団 》 対 《 紫水晶の薔薇 》の【 運命の戦い 】が決着しました!
〈 System Message 〉《 紫水晶の薔薇 》の勝利です!
情報ボードが、無機質にリリスたちの勝利を告げる。
だがリリスたちにとってはこんな勝利になんの価値も感じていなかった。なぜなら──他の何よりも大切な命が、目の前で完全に消え去ろうとしていたのだから……。
「よしっ! 呪いが消えたのは確認できた! アーダベルト、ゆっくりと槍を抜いて! すぐに治癒魔法を施すからっ!」
「あ、ああ……わかった」
ずぶり。レオルに支えられたラティリアーナの身体から槍が引き抜かれる。どぷりと傷口から血が溢れ出すが、心臓の鼓動はもう僅かしか感じられない。
「かかれっ──【 簡易治癒 】!!」
リリスは己が簡易な治癒しか使えないことがもどかしかった。もし自分が聖女ファルカナのような治癒力を持っていたら、この深刻な状況を治癒することはできたのだろうか……まるで己を呪うかのように自問する。
「治れ! 治れ治れ治れ治れ! 治ってくれーっ!!」
渾身の魔力を注ぎ込んだ成果か、はたまたリリスたちの祈りが通じたのか、ラティリアーナの傷口からの出血が止まる。だが──傷が治る気配がない。
本当は、リリスは知っていた。
この世界の治癒魔法が、あらゆる怪我や病気を治す万能薬などではなく、本人の持つ治癒能力を高めるための手段でしかないことを。
逆に言えば、既に生命力がほとんど残っていないラティリアーナの治療は、もはや不可能であるということを意味していた。
「ダメっ! 血は止まったけど治らないわ!」
「サブマスターのバイタルサインが消えかかっています」
避けようのない死を目前にして、あまりの歯がゆさに、リリスは無意識のうちに爪を噛む。指先から血が出るのも厭わない。
「何か手はないのか、手は……」
そのときリリスは、手に持つ魔法具の存在に気づく。そうだ、こいつはあらゆる情報を持つ最高峰の神代魔法具じゃないか!
「教えて! 《 千里眼情報板 》、どうしたらラティを救えるのっ!?」
【 解:現在のマスターの手によって実現可能な手段はありません。】
手は……ない。
なんということか。もはや自分には何もできないというか!
考えろ、考えるんだリリス。
リリスは己の内に何度も問いかける。
自分は知っているはずだ。たとえ《 千里眼情報板 》が知らなくても、前世の知識を持つ自分だからこそ知っていることがあるはずだ……。
そのとき、ふいに視線がルクセマリアと合う。
その瞬間、リリスの脳裏に天啓のようにあるアイデアが閃いた。
「水……氷……氷? そうだっ! もしかしたら──」
リリスは思いついたアイデアを《 千里眼情報板 》に問いかける。
「ねぇ! もしラティを凍らせたら……仮死状態にすることはできるっ!?」
【 解:『凍結』による暫定的な延命処置については、事例がありません】
「事例がない? つまり不可能じゃないってことだな!」
もしかしたら都合のいい解釈かもしれない。だけど他にすがるものもないリリスはすぐに行動に移す。
「ルクセマリア王女! すぐにラティを凍らせて!」
「えっ……ラティリアーナを? 凍ら、せ?」
「あんたは氷の最上位魔法【 氷の棺 】を持ってるだろうっ! グズグズぜずにさっさと凍らせろっ!! 」
「わ、わかったわ!」
リリスに促され、ルクセマリアは魔法の詠唱を行い、氷の最上位魔法【 氷の棺 】を発動させる。ラティリアーナの全身は、ゆっくりと氷によって覆い尽くされてゆく。
やがて──水晶のような美しい氷に覆われた、ラティリアーナの【 氷の棺 】が完成した。
「ラティ……あぁ、ラティ……」
氷の柱にしがみつきながら、リリスが声を漏らす。氷に閉じこめられたラティリアーナは、目を閉じて少し微笑んでいるようにすら見える。
だが──ラティリアーナの頬に触れようとしても、氷に閉ざされた彼女にもはやその手が届くことはない。
「ラティ……うわぁぁぁぁぁあぁぁあっ!!」
堪え切れなくなったリリスの悲痛な声が、誰も身動きすらしないこの場に響き渡る。
失われて初めて知る、本当に大切な存在。リリスはかけがえのない存在に触れることさえ叶わない現状に、ただ泣き崩れるしかなかった。
──ラティリアーナを包み込む氷の棺。
その色は、彼女の血と夕焼けの太陽の光に照らされることで、まるで──巨大な紫水晶のように輝きを放っていたのだった。
〜 第8章 完 〜
第8章はこれにて終了です。
次章が最終章となります。




