4.メタモルフォーゼ
左手にはずっしりとした感触。
いつのまにか″赤い本″がしっかりと握られていた。
この本、どこから現れたんだ? もしかして、さっきの腕輪が本に変化した? そんなの聞いたことがない。まぁ俺が知らないだけかもしれないけどさ。
とはいえ、こんな奇妙な変化を起こすってことは、この″赤い本″が魔法具であることに間違いはないだろう。
それ以前にこの本って、あのときラティリアーナ嬢が持ってた本だよな?
ひええぇ、俺を石にした悪霊がまた飛び出してきたらどうすんだよっ! 恐ろしくなって思わず本を放り投げると、バサバサっと音を立てながら本が床に落下する。
……だけど、何も起こらない。慌ててベッドの裏に隠れて、枕を手に取って身構えるも、悪霊どころか虫1匹出てくる気配すらない。
恐る恐る枕の陰から顔を出して見ると、本はただ、床に投げ散らかされているだけだった。
もしかして、もう″呪い″は解けたのか? だとしたらあの″赤い本″はもう安全なのか? 念のため枕を盾にしながら近づいて、机の上にあったペンで本をツンツンしてみるけど、やはり反応はない。
それよりも気になるのは、左手がズクンと疼くことだ。見てみると、まさに腕輪が嵌まってたところに何か模様が赤く浮き出ていた。これは──紋章?
どこかで見覚えのある紋章だと気づいたのは、改めて本の方に視線を向けたときだ。本の表紙──石になる直前に俺が砕いた赤い宝石が付いていた部分に、腕にあるのと同じ紋章が付いていたのだ。
そういえば、聞いたことがある。『力を持つ魔法具は、持ち主を選ぶ』と。
もしかしてこの紋章は、この身体が″赤い本″に選ばれたということなのではないのか。
恐る恐る本を手に取ってみる。よく見ると、表紙の紋章の上には題名らしき文字が書かれていた。冒険者時代によく見たことがある古代神国語だ。
あまり学がない俺は、古代神国語──略して古代語を少ししか読むことが出来ない。だけどこのときはなぜかスラスラと読むことができた。
表紙には《 緋き魔道書 》と書かれていた。
同時に、誰に説明されるでもなくすんなりと一つの事実を理解する。俺は、間違いなくこの魔法具に選ばれたのだと。
魔法具は、魔力を使うことで超常的な力を発揮する。その能力は魔法具の強さに連動し、簡単なものでは火を点ける程度の日常的なものから、戦局を逆転させるほどの強力な力を持つ国宝レベルのものまで様々だ。
そして、力を持つ魔法具は例外なく持ち主を選ぶ。魔力が弱いものは、持つことすらかなわないのだ。
だけど、ラティリアーナはこいつに選ばれた。
ぶるり、と全身が震える。
わかってる、これは恐怖なんかじゃない。武者震いだ。同時にたぷたぷとぜい肉が揺れるけど、もはや気にならない。
だって仕方ないだろう? これまで無魔力で魔法具なんかに縁がなかったこの俺が、魔法具に選ばれたんだから。
果たして、あれほど強力な悪霊によって″呪われて″いたこの本──《 緋き魔道書 》は、いったいどれほどの力を持っているのだろうか。
とはいえ、無魔力だった俺には魔法具の使い方など分からない。魔導眼で魔力を″視る″ことはできても、″使う″方法は知らないのだ。
それこそ美虎みたいな一流の冒険者であれば、流れるような動作で魔法具を使うことが出来るだろうけど、それは血が滲むような努力の結果だ。
さて、どうしたものかと考えていると、ふいに《 緋き魔道書 》がほのかに光を発し始めた。いや、よく見ると光ってるのは本の中みたいだ。
パラパラとなにも書かれていない白紙のページをめくっていくと、光を発しているページにたどり着く。どうやら光っていたのそこに書かれた文字の一文のようだった。光る文字には、やはり古代語でこう書かれていた。
【 変身 】。
変身? これはどういう意味だろうか?
なんとはなしに、ゆっくりと光る文字を手でなぞる。
── 開闢 ── 《 緋き魔道書 》
── 能力発動 ── 【 変身 】
な、なんだっ!? 突然、頭の中に無機質な声が飛び込んでくる。
男? 女? それとも子供? 分からない。だけど、その声に呼応するようにして自分の身に起きた変化は劇的だった。
「わぁぁあっ!」
いきなり、俺の全身が光りを放ち始めた。しかも、思わず声が漏れるほど急激に全身が熱くなる。
なんだ、何が起きている!? あまりの熱さに思わず両肩を抱きしめてうずくまる。
「うぅぅぅっ」
しばらくして、ようやく全身の熱さが落ち着いてきた。ふぅー、熱かったぁ。あのまま子豚ちゃんの丸焼きになるかと思ったよ。
いつのまにか光も収まっていることに気づいて、荒くなった息を深呼吸でゆっくりと整える。それにしてもなんだったんだ、今のは?
そのときになってようやく俺は、全身を包む違和感に気づく。なにかが変だ。まるで自分の身体じゃないみたいだ。
恐る恐る近くにあった姿見の前に立つ。そこに映し出されるのは、本来であれば″オーク令嬢″の巨体であるばすだった。
だけど、映っていたのはまったくの別人。
そこには──ひとりの天使が映し出されていた。
最初、その天使が自分であるとすぐに気づけなかった。だって、あまりに美しくて、なによりほっそりとしていたから。
だけどしばらく眺めていて、ようやく気づく。
紫色の髪に、紫水晶のような瞳。大きさはまったく違うものの、見覚えのあるパーツに思わず息を飲む。
鏡に映っているのは、やせ細ったラティリアーナの姿だったんだ。
《 緋き魔道書 》の能力──【 変身 】が発動したあと、俺の姿は劇的な変貌を遂げていた。
やせ細った身体は、″オーク令嬢″と呼ばれていた頃の面影はない。むしろ花園を舞う美しく可憐な妖精のようだ。
ほっそりとした長い手足は均整が取れ、スラリと伸びていて、一流の舞台女優すら凌駕している。
そしてなにより、完璧なまでに整った顔立ち。大きな瞳はアメジストの輝きを湛え、わずかにつり上がった眦は強い意志を感じさせるように鋭く美しい。今まで肉に埋もれて気づかなかった気高く均整の取れた高い鼻に、厚みを持った赤い唇はまるで熟れた果実のように瑞々しい。
これが、本当に……ラティリアーナ?
思わず身震いすると、体型に合わなくなった夜着がするりと肌を滑り落ちていく。
鏡に映し出されたのは、下着姿になった一人の美少女ラティリアーナ。まだ15歳という幼さゆえか、残念ながらさほど胸は大きくないものの、キュッと締まった腰はセクシーそのもの。
その姿を見て、俺は一つの事実を認識する。
そうか、ラティリアーナって痩せたらこんなに美人だったんだ!
不摂生でデブで傲慢。ついた二つ名は″オーク令嬢″。
だけど痩せたその姿は──天使そのもの。
気がついたら俺は、涙を流していた。
知ってるか? 人は真に美しいものに出会うと涙が自然と流れてくるんだぜ?
あぁ、神様ありがとう。俺に、こんな出会いをプレゼントしてくれて。
少し落ち着いてきたので、涙を拭う。同時に湧き上がってきたのは、ラティリアーナに対する怒り。
あいつなにやってんだよ!なんで痩せようとしないんだよ! 痩せたらこんなに美少女なのに……せっかくの素材が台無しだじゃないか! なんでこんなもったいないことしてやがんだよ! こんなの宝の持ち腐れだよ!
込み上げる激情を抑えられずにいると、体格に合わなくなった下着がずるりとズレ落ちそうになる。慌ててブラの肩紐を手で押さえた瞬間、俺は自らの行動に愕然とした。
ば、ばかな。
裸で水浴びすることに何のためらいもなかったこの俺が、身体を隠そうとする、だと?
無意識に取った行動は、可憐な美少女の身で裸を晒すことに対する激しい抵抗感。
おかしい。今までの俺だったら、美少女の裸なんて嬉々として見ようとしたはずなのに。
も、もしや俺は……恥ずかしがっているのか?
何度目になるだろうか、改めて鏡に映った姿を凝視する。少し気の強そうな、美しい顔立ちの美少女がそこには映っていた。俺が今までの人生で見てきた中で、間違いなくナンバーワンの美少女だ。
少し首を傾げてみる。
か、可愛いい……。
頬に手を添えてみる。
な、なんて可憐なんだ……。
俺はポーズを取るのを止めれなくなる。
なんてこったい、この美少女が俺だなんて、本当に信じられない。だけど事実を受け入れ恥じらいを無くしていくことで、仕草や動作がどんどん自然に可愛らしくなっていく。
こんなポーズを取ってるのがおっさんだと知れたら、人々は俺をどう思うだろうか? 変態? 不審者? それとも──。
だけど止まらない。止めることができない。
だって、だって可愛いんだもーん!
天が与えしこの機会で、もしや俺は新たな性癖に覚醒してしまったのだろうか。
わからない。全くわからない。
ただ一つだけ分かることがある。
──″俺は、痩せたらとてつもなく可愛い″という、疑いようのない事実。
改めて鏡の中の天使を見て、俺は心に誓う。
いいよ、わかったよ。やってやるよ!
俺が痩せてやる!
そしたらこの超絶美少女が完全に俺のものに……いや待てよ、この【 変身 】を使えば、もしかしてこの姿を維持して──。
ズキン! そのとき、いきなり頭に強烈な頭痛が走った。
同時に、一気に意識が遠のいていく。これは……もしかして気絶!? うそっ、またかよっ! なんでだよっ!
薄れゆく意識の中、鏡に映る自分がまた元のように太った姿に戻っていく様子を目の当たりにして、俺は一つの真実を知ることとなる。
どうやら《緋き魔道書》の固有スキル【 変身 】とは、魔力を使って痩せる能力であるらしい。
そして、今意識が遠のいている理由にも心当たりがあった。
噂には聞いたことがある。
『魔力が枯渇すると気絶する』と。
これは魔力持ちにとっては当たり前過ぎる事実なんだけど、今まで無魔力だった俺には生まれて初めての経験だった。
なるほど、魔力が尽きるとこうやって気絶しちまうんだな。
そんなことを呑気に考えながら、俺は下着姿のまま、本日3度目となる″失神″をしたんだ。