37.エピデミック
今から10年前。
舞夢たちが住むガルムヘイムに、激震が走った。長らく発生していなかった『黒死蝶病』の患者が出てしまったのだ。
ただ、発症したのが80歳近い老人であったことから、最初は単に患者の体力が落ちたのが原因で発病したのだと考えられていた。とはいえ患者はちゃんと″聖獣の血″を飲んでいたことから、ガルムヘイム内で嫌な雰囲気が漂い始める。
結果として、悪い予感は的中することとなる。長い時を経て復活した『黒死蝶病』が、すぐにガルムヘイムで猛威を振るい出したのだ。病は、″聖獣″の血を飲んでいるものたちにも容赦なく感染していった。
「病原菌がワクチンに耐性ができた? ──いや、それとも突然変異か?」
ガリッとリリスが爪を噛む。
「そのときマイムは7歳でしたワン。だから詳しいことはあまり覚えていないですワン。ただ、新たに発生した『黒死蝶病』に″聖獣の血″は効果が無かったですワン」
老若男女関係なく次々と病に倒れる獣人たち。どんなに予防しようとも関係ない。死者はどんどん増えていった。
獣人たちは被害の拡散を防ぐ為に、死者たちをことごとく火葬にした。場合によっては生きたまま焼いたケースもあったのだという。
舞夢は、それはさながら地獄絵図のようだったと口にした。
「……爆発的流行。いや、風土病だから伝染病拡散か」
この時点で既にガルムヘイムに住む住人の実に約1割が『黒死蝶病』に感染し、死亡していたそうだ。それは、通常であれば町が壊滅的な状況に陥っていることを意味していた。
そして、ついには決定的な事態が発生してしまう。当代の″聖獣″までもが『黒死蝶病』に感染してしまったのだ。
「″聖獣″様の感染は、ガルムヘイムの獣人たちに強いショックを与えましたワン」
ガルムヘイムの守護者である″聖獣″の感染により、ガルムヘイムの民たちの心に一気に絶望が押し寄せた。なにせ風土病を押しのける存在であるはずの″聖獣″までも病に侵されてしまったのだ。
最後の希望の陥落。それは──もはやこの病に対抗する手段がないことを意味していた。
これを機に、ガルムヘイムから一気に住人たちが逃亡し始めた。もはやこの地は人が住める場所ではないと見切りをつけだしたのだ。
狂乱さながらに逃げ惑う獣人たちの様子を目の当たりにした″獣王″は、ついに一つの決断を下すことにする。
「当時の″獣王″様は、マイムたち若い世代の疎開を命じましたワン。健康な15歳未満の獣人たちは、ガルムヘイムから外の世界に出て行くことになりましたワン」
疎開した子供たちの中には、当時7歳だった舞夢や、14歳だった美虎もいた。
子供たちは、それぞれが人族の街にいる親族を頼ったり、はたまた独り立ちしたりして世界中に散っていった。この過程で、奴隷として売られたり酷い目にあったり野垂死にした子供たちも多かったという。
そして舞夢も、他の獣人たちと一緒に孤児院で暮らしたあと、素質を認められて侍女の職に就いたそうだ。
「──ここまでが、10年前にマイムたちの故郷ガルムヘイムで起こった出来事ですワン。マイムたちはこのときのことを『ガルムヘイムの悪夢』と呼んでますワン」
「舞夢ちゃん、あなたのお父さんやお母さんは?」
「父も母も、このときの流行で『黒死蝶病』を発症して死んでしまいましたワン」
「……ぐすっ。あなたも大変だったのね」
ティアが目に涙を溜めながら優しく舞夢を抱きしめる。たぶん自分の境遇と重ね合わせる部分があったのだろう。
ほんの少し前までマイムのこと敵視してたのが嘘のようだ。俺のことが絡まなければ基本的にティアは優しい子なんだよなぁ。……基本的には、ね。
「でもマイムは幸せな方でしたワン! お嬢様に拾われて……とても満ち足りた日々を過ごせるようになりまひたワン!」
「ええ、わかります! だってラティリアーナお姉様は救いの女神様ですもんね!」
「はいですワン!」
なぜか勝手に分かり合う二人。おいそこ、人をダシにして意気投合してんじゃねーよ。
「じゃあ舞夢や美虎は、その──『ガルムヘイムの悪夢』を経て、街を捨てて飛び出してきた子供たちのうちの一人、ってことなんだね?」
「リリス様、それは少し違いますワン。マイムたちは、いつか病が収束した時にガルムヘイムに戻ることを夢見てましたワン。マイムたちみたいに地方に散った子供たちのことを、獣人たちは『希望の子』と呼んでましたワン」
希望の子たちは、いつかガルムヘイムに戻る日を信じて世界各地に散っていった。街を捨てたのではない。またいつか共に集まって、ガルムヘイムに戻り、復興することを夢見ていた。そのときには、病のない平和な生活を送ろうと誓い合った。
──そしてそれは、ガルムヘイムに残ったものたちにとっても同じだった。
「若い世代が旅立った一方で、年寄りや、既に感染してしまったものたちはガルムヘイムに残りましたワン。病が収束するのを神に祈りながら、『黒死蝶病』の猛威が去るのを必死に耐えていましたワン。その甲斐あって、しばらくして疫病は一旦の収束を得ましたワン」
最終的にガルムヘイムに残ったのは、疫病発生前の半分にも満たない人数だったそうだ。また、英断を下した当時の″獣王″すらも『黒死蝶病』によって命を落としていたのだという。
それでも生き残ったものたちは、歯を食いしばってガルムヘイムでの生活を続けた。
いつか、完全に『黒死蝶病』が無くなる日を──各地に散った希望の子たちが帰ってくることだけを心の支えに。
「残ったものたちから新たな″獣王″を迎え、ガルムヘイムはなんとか存続していましたワン。『黒死蝶病』も、それから今まで──およそ10年ほど再発生することはありませんでしたワン。でも……ついに先日、『黒死蝶病』が再発生してしまったんですワン」
舞夢は一通の手紙を見せてくる。それは、ガルムヘイムに残った舞夢の親族からの手紙だった。
『ガルムヘイムで【 黒死蝶病 】が再発生してしまった。もはや里は死んだ、お前たちは今ある地で生きよ』
「これは……どういう意味なの?」
「里を放棄するという意味だと考えていますワン、リリス様。つまり、もはやガルムヘイムは再興不可能なくらい致命的な状況に陥ったのだと考えていますワン」
里の放棄とは、ガルムヘイムの滅亡を意味している。それほどまでにむごい状況になっているというのか……。
「マイムたちは……いつか故郷ガルムヘイムに帰る日を夢見て、それぞれがんばってきましたワン。ですけど、それも今回でおしまいですワン……。ぐすっ……悲しいですけど、受け入れなければいけないですワン……。ただ……」
「ただ?」
「舞夢は、最後に一度、両親のお墓をお参りしたかったですワン。それだけが、悲しいですワン」
ぽろり。これまで我慢していた舞夢の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。その涙を見た瞬間、俺は居ても立っても居られなくなり、舞夢をティアごと抱きしめていた。
「きゃあ!」
「お姉さまっ!」
「……わかりましたわ。わたくしが連れていきましょう」
「……えっ? お、お嬢様……?」
「お前はわたくしのもの。だから、わたくしがお前の願いも叶えましょう」
思わず口に出てしまった言葉。だけど後悔なんてしていない。だって、こんなにも可愛い舞夢のたっての望みなんだよ? 叶えてあげたいに決まってるよね?
だけど、予想外にも激しく拒絶反応を示すものが二人いた。
──舞夢本人と、リリスだ。
「お嬢様! 絶対だめですワン! それだけは……それだけはやめてくださいワン!」
「それはダメだよラティ! 危険すぎる!」
舞夢が断るのはなんとなくわかるけど、なんでリリスが──ここまで拒絶するのだろうか。俺の代わりにティアがリリスに詰め寄る。
「リリス、あなたは人でなしなのですか? お姉様がせっかくこのように言っているのですよ? 舞夢の願いを叶えてあげましょうよ! それともリリスはこの子のことが嫌いなのですか?」
「そんなわけないさ! もちろんボクだって舞夢のためなら、どんなことだって力になってあげたいよ。だけど……疫病はダメだ」
「どうしてですか?」
「ボクが疫病を治すすべを知らないからだよ。もし感染してしまったら……治すことができない」
唇をそっと噛むリリス。こいつのこんな顔は今まで見たことがない。いったいなんでこんな表情を浮かべているのか。
「ボクもね、転生者チートを生かしていろいろとチャレンジしたことはあったんだ。その結果、一つの結論に至ったんだ。それは──病気は治癒魔法では治せない」
リリスにしては真剣な表情で俺の目をじっと見つめてくる。たぶん、こいつがこう言うからには事実なんだろう。
「前世の記憶から、どういったことが原因で疫病が発生するかのメカニズムはある程度知っている。だけど知ってることと治せることは別なんだ」
「お嬢様、″千眼の巫女″であられるリリス様もこうおっしゃってますし、なにより『黒死蝶病』は悪魔の病。″聖獣″様ですら病に侵されるほどの恐ろしい疫病ですワン。マイムのためにそう言っていただくのは嬉しいですが、もしお嬢様が『黒死蝶病』に感染してしまったらと想像すると──マイムはそれだけは耐えられないですワン」
俺のことを心配してくれるのは嬉しい。だけどこのままだと″獣人たちの楽園″と呼ばれたガルムヘイムは滅びてしまう。それは、舞夢や美虎の故郷は無くなり、彼女たちの心の拠り所が無くなることを意味していた。その悲しみたるや──筆舌に尽くし難いものだろう。
対して、今の俺はかつてに比べてとても恵まれている。
信頼できる仲間がいる。帰ったら微笑んで待ってくれている存在がいる。これがどれだけ幸せなことか。
ところが今、そこ大切な人たちの笑顔が消え去ろうとしている。ただ黙って見ていることなど、俺には出来ない。
かつての俺は孤独だった。なんの力も無かった。だけど今は一人じゃない、仲間もいる。こいつらと一緒なら、何か出来ることはあるんじゃないだろうか。
「──リリス。治すことは出来なくとも、あなたの能力であれば病を分析することはできるのではなくて?」
「……できるかできないかは正直分からない。でももし風土病であれば、原因さえ突き止めればどうにか出来るかもしれない」
「では──」
「ダメだよ。リスクが高すぎる。調査の過程で感染したらどうする? 治癒方法すら無い未知の疫病だよ? そんな死地に……行くことはできないよ」
がたがたとリリスの全身が震える。こいつは疫病がこんなにも恐ろしいんだろうか。
俺たちの間に、沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、突如部屋に押し入ってきた一人の乱入者だった。
「ラティリアーナ! いくらお前のワガママでも、こればっかりは聞いてやることはできんぞ! ガルムヘイムへ行くのは、わしは反対じゃ!」
乱入者──マンダリン侯爵は、巨躯を揺すりながら鬼のような形相でそう宣言した。
◇
「お父様──」
乱入してきたパパ侯爵にそう声をかけると、それまで警戒心むき出しで牙を向いていたティアが、急に態度を改めてスカートの裾を摘むと淑女のポーズを取る。
「初めまして、マンダリン侯爵様。わたしはテイレシア・スカーレットと申します。ラティリアーナ様にはとてもお世話になっております」
「おっ? ラティリアの新しいお友達か! こちらこそ初めましてじゃ! それにしても挨拶もできるし、実に可愛らしい子じゃのう!」
ティア……初見で強面のパパ侯爵に、しかもこのシチュエーションでよく平然と挨拶できるな。ティアの鉄の心臓ぶりに思わず感心するものの、今はそれよりも大事な話がある。俺はキッとパパ侯爵を睨みつける。
「お父様。わたくしの部屋の前で盗み聞きとは、貴族の風上にも置けない行為ではなくて?」
「む、むぅ……それはそうじゃが、『黒死蝶病』となると話は別じゃ」
マンダリン侯爵の口からその病の名が出るとは思わなかったので、少し驚く。なんでパパ侯爵が知ってる? この病はガルムヘイムの風土病じゃなかったのか?
「お父様は『黒死蝶病』をご存知ですの?」
「……もちろんじゃ。とはいえガルムヘイムまでは行っておらぬがな。各国団を代表して当時の″獣王″とも会っておる」
「えっ? 獣王様とですか?」
舞夢が驚くのも無理はない。まさかこんな身近な人が自分の故郷と接点があるとは普通思わないだろう。
「当時、致死率の高い風土病の発生を知った【 4カ国連合 】は、ガルムヘイムの対処をどうするか悩んだんじゃ。その結果、わしら代表団が近隣まで派遣されたんじゃ」
「連合の代表団……お父様、いつからそんな重要な役割を任されるようになったんですの?」
「見くびるでないわ! 我がマンダリン侯爵家は由緒正しき武人の家系ぞ!」
マンダリン侯爵は、世界屈指の大国たちの連合である【 4カ国連合 】のイシュタル王国代表に選ばれるほど国王の信頼厚かった。その結果、代表団としてガルムヘイム近郊まで視察と対策を検討に行ったのだという。
「わしら当初の最終的な目的は、ガルムヘイムを民ごと全て″浄化″──すなわち焼き尽くすか否かを判断するためじゃった」
「なっ!」
「良いかラティリア。新たな病気の蔓延は、それだけで世界の危機じゃ。決して獣人たちだけの問題ではない。そもそも世界に散らばったガルムヘイムの民でさえ″浄化″すべきだという過激な意見さえ、エルエーレ神聖帝国からは出ていたくらいじゃ。……もっとも、あのクソ聖職者たちなら簡単に言い出しそうなことではあるがな」
舞夢の体が小さく揺れる。それはそうだろう、一歩間違えば舞夢や美虎たちだって皆殺しにされてたのかもしれないのだから。
「まぁさすがにそこまで残忍なことは他の三ヶ国が反対したんじゃがな。それに、わしらが行った時点で既に『黒死蝶病』はだいぶ収束してはいた。とはいえ、このまま放置しておくわけにはいかない。そこで対策を検討するために、新たに就任したばかりの″獣王″邪雁殿にお会いしたわけじゃ」
マンダリン侯爵によると、当初4カ国連合の代表団は、ガルムヘイムの街を焼き払うつもりだったらしい。だが″獣王″はそのことに大反対した。
「わしらに対して″獣王″は、頭を下げながら『今少しの猶予が欲しい』と言われた。今回の『黒死蝶病』は突然変異であり、そう簡単には再発しないはずだと。わしらは悩んだ。実際、一つの街を浄化するというのはあまりにも重すぎる判断でもあったからな」
その後、視察団の一部のものたちがガルムヘイムに入り、病の収束を確認した。現地の状況や、各都市の思惑が交錯した結果、4カ国連合は一つの決断をする。
「ガルムヘイムの民の入出国禁止。および今後10年間の経過措置観察。この二つが、わしらが下した判断じゃった」
つまり、ガルムヘイムを外界から遮断したうえで、10年間再発しなければまた外との接点を許可するというものだった。
「この二つの条件を獣王が飲むことで、ガルムヘイムの存続が決定したんじゃ。それから約10年、ずっとわしらはガルムヘイムを見守ってきた。約束の10年の期日まであと僅かであったのじゃがな……無念じゃ」
「マンダリン侯爵様! 10年以内に再発した場合、どうなるってしまうんですかワン?」
震える声で尋ねる舞夢に、マンダリン侯爵は沈痛な面持ちで答えた。
「その場合はな──ガルムヘイムを″浄化″することになるんじゃ」
「なっ!」
「実際、今回の『黒死蝶病』再発生の連絡は、既に関係各国に連絡が行っておる。そしてつい先ほど、魔法通信会議により4カ国連合の決定が下された」
「決定? なんの決定ですの?」
「それはな──」
マンダリン侯爵の口から発されたのは、恐ろしいまでに残酷な宣言だった。
「これから一週間後に、各国軍およびSランク冒険者が合同で、″ガルムヘイム浄化作戦″の決行するというものじゃよ。これにより、つい今しがた世界各国のSランク冒険者に対して、4カ国連合合同声明による″強制依頼″が発動されたんじゃ」




