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1.空腹

 目覚めは、いつになく穏やかだった。

 仄かに香る花の香りに気づき、そうか、ここは天国なのかと微睡みながら思う。なにせ地獄にしては随分と寝心地が良かったから。


 ──ぐるるるる。

 至福のひと時を邪魔する、獣の唸り声のような音。なんだよ、邪魔すんなよ。俺はもう少し寝ていたいんだ。


 ──ぐるるるる。

 なんだよしつこいな。いったいどこから聞こえてくるんだ? なんとなく下の方から聞こえてくるんが……。


 ──ぐるるるる。

 って、おいおい! もしかしてこれって、俺の腹が鳴ってる音かよ!


 自覚した瞬間、微睡みを貪っていた全身が一気に覚醒する。続けて襲いかかってくる猛烈な空腹。ってか、腹減りすぎじゃね?

 ところが身体はすぐには動かない。体全体が異様に重いのだ。もしかして深刻なダメージを受けてたりするのか?


 だが、生きている。俺はたしかに生きている。

 悪霊女の超巨大魔力を食らって、俺は死んだと思ってた。だけどこの匂い、感覚。間違いなく、俺は生きている。絶え間なく続く空腹感が、俺に生を実感させる。

 ゆっくりと力を込めたら動く指に、己の身体の実感を得て確信する。そうか、俺はあの戦いで生き残ったのか。


 ──それにしても、ここはいったいどこなんだ?

 俺の部屋には花どころか芳香剤すら置いてない。カビた匂いすらする定宿のベッドの上でないことは明白だった。気力を振り絞って重い瞼を無理やりこじ開ける。


 はたしてそこには、全く見覚えのない風景が広がっていた。


 瀟洒なシャンデリア。壁に飾られた風景画。大きくて広くてふかふかなベッド。……どこだ? ここは。

 まるで肉の塊のように重い右手を必死に動かす。にしても重すぎだぞこの身体! 一体どうなってんだ?


 疑問の答えはすぐに判明した。ようやく持ち上がった腕を見て、俺は愕然とする。

 薄い紫色のヒラヒラしたパジャマから伸びた、白くて太い腕。そこにあるのは、見慣れた筋肉の塊だった腕とは別物の、でぶでぶに膨らんだ脂肪の塊のような腕だった。


「……これは、どういうことですの?」


 俺としては「こいつはどうなってんだっ!?」って声を出したつもりだった。だけど出てきたのは全く別の言葉。

 しかもこれは──俺の声じゃない。キーの高い女みたいな声。って、こいつはまんま女の子の声じゃんか!


 声だけじゃない、身体も変だ。

 どうやら身体が重いと思ったのは、ダメージを受けたからじゃなくて異様に太っていたからのようだ。全身にまとわりつく大量の脂肪。ぶくぶくの肉体は、実に動かすのがしんどい。ぶひー、どこいったんだ? 俺の鋼の肉体は。


「ぜはー、ぜはー」


 起き上がるだけでもひと苦労だ。

 やたらだだっ広いベッドからなんとか降りると、近くにあった立見鏡まで這っていく。

 そうして映し出された全身を見て、俺は完全に言葉を失ってしまった。


 紫水晶アメジストみたいに光を反射する紫色の瞳は意地悪に釣り上がり、大量の脂肪で膨れ上がった顔のせいで一重となっていた。中心には赤い大きな唇、頭には艶々の紫色の髪。まるで白い風船みたいに膨らんだ贅肉でパンパンの全身。そして紫色のネグリジェ。


 ──見たことある。見たことあるぞ。

 俺はこいつを知ってる。鏡に映る姿に、俺は震える全身を抑えられずにいた。


 ──見間違いない。間違いようがない。

 こいつは……″オーク令嬢″ ラティリアーナ・ファルブラヴ・マンダリンじゃないかっ!


 恐る恐る右手を挙げてみる。

 鏡の中の″オーク令嬢″も手を挙げた。

 次は髪の毛を触ってみる。

 鏡の中のラティリアーナ嬢も髪の毛を触る。

 頬に手を当ててぶりっこポーズをしてみる。

 うわっ、キモッ!

 ……って、んなことやってる場合じゃないや。


 どうやら俺は、一つの事実を受け入れざるを得ないようだ。どういうわけか俺はラティリアーナ嬢になってしまったらしい。



 トントン。

 不意に聞こえたノックの音に全身が震える。合わせて鏡の中の″オーク令嬢″の肉が揺れる。うわー、ないわーこれ。


「……入りなさい」


 どなたですかー? と言ったつもりが、なぜか口に出たのはこんな台詞。そういやさっきも変な口調が出たよな。


「失礼しますワン、お嬢様」


 そう言って入ってきたのは、茶色いフサフサの犬耳をつけたメイド服姿の少女。

 なんか見覚えが……って、あんとき″オーク令嬢″が連れてた犬獣人のメイドか!


「あっ! お嬢様お目覚めになったのですね、よかったですワン!」


 えーっと、なんか返事を返さなきゃな。

 とりあえずこの子の名前がわかんないんだよ。そしたら……来てくれてありがとう、あなたの名前はなんだっけ? って聞けばいいかな。


「……ふん、来るのが遅いわ舞夢マイム。駄犬なら駄犬らしく尻尾を振ってすぐに来るのね」


 だーっ! だからこの口はなんで勝手に変なこと言うんだよ! そんな口調で話したら犬耳メイド──舞夢マイムちゃんだっけ、に嫌われるやんけ!


「ひっ! す、すいませんお嬢様ワン! お守りも出来ずにマイムだけ先に吹き飛ばされてしまって……3日間も寝たきりで心配したんですワン」


 嫌われるどころかひたすら恐縮して頭を下げるマイム。驚いたのは、あれから3日も経過してたという事実。どうりでこんなに腹が減ってるわけだ。

 ……ぐるるるる。ほーらまたお腹が鳴ったじゃないか。


 いや待て待て、そんなことより気になるのは、俺の元の身体についてだ。

 あのとき俺はラティリアーナ嬢を助けようとして庇って死んだと思ってた。だけど目覚めたら、心は元のまま身体はラティリアーナ嬢になっていた。

 もし中身──魂だけがラティリアーナ嬢の身体に乗り移ったのだとしたら、残された俺の肉体は、はたしてどうなっているのか……。


 もしかしたら、この子に聞けば何か分かるかもしれないな。でも口の聞き方には気をつけないと、さっきみたいになっちまうぞ。

 えーっと、舞夢マイムちゃん。あのおっさん冒険者はどうなったのかな?


「わたくしのことはいいわ、それよりもあの汚らしい冒険者はどうなりましたの?」

「あ、お嬢様を身を呈して守られた英雄様ですか? あのお方は……」


 あいかわらずの口調はひとまず置いておくとして、気になるのは悲しそうな表情で言い淀むマイムの様子。なんだ、俺の身に一体なにが起こったんだ?


「何があったの、早く言いなさい」

「わ、わかりましたワン……実はあの方は──」



 ◇



 案内された豪華な部屋。その中央に鎮座するのは、一人の冒険者の石像。顔をかばうような格好で立つ姿は、実に凛々しく雄々しい。

 その顔は──間違いない、元の俺だ。

 マジかよ。俺、石になっちまったのか。


「この通り。お嬢様を庇った英雄様は、魔物の呪いを受けて、石像となってしまわれましたワン」


 あの悪霊女の魔法攻撃を受けた結果、俺の身体が石化したこと。そして俺の心がなぜか″オーク令嬢″ラティリアーナの身体に移ってしまったこと。その結果が今のこの状況であるということは、なんとか理解することができた。

 だけど、改めてマイムにそう説明され、目の前に石化した自分の姿を見せつけられたとしても、この現実をすぐに受け入れることはできなかった。


 震える手で石化した俺の身体を丁寧になぞる。

 あぁ、筋骨隆々たる自慢の俺の肉体が、こんな石像になっちまったよ。いざ離れてみると、おっさん臭かったこの肉体もなんとなく愛しく感じてしまうのは何故だろうか。


「ああ、お嬢様おいたわしや。そんなにもショックを受けられるなんて……お気持ちはわかりますワン」


 いや、絶対わかんねーだろ。残念ながら俺はマイムが想像しているようなことで落ち込んでなどいない。

 それにしても、なんでこんな不可解な状況になっちまったんだ?


「原因は……どうしてこうなったのかはわからないの?」

「お嬢様が目覚められないことも含めて、旦那様が城下の高名な魔法使いを呼んで確認されたのですが……結論としては原因不明でしたワン」


 なんだよそれ、もうちょっと分かるマシな魔法使いはいないのかよ。


「……その魔法使いはヤブね」

「旦那様もそうおっしゃって、別の超有名な魔法使いを招聘しているようですワン。ですけど、お嬢様がお目覚めになったとお知りになれば、旦那様もきっと喜びますワン!」


 旦那様ってのはラティリアーナ嬢の父親である現マンダリン侯爵のことか。確かあんまり評判の良くない貴族だったよなぁ。

 それよりも″超有名な魔法使い″とやらに早く来てほしいな。そしたら俺が元に戻る方法も分かるかもしれないし。


 ──ぐるるるる。

 えーい、煩いなあこの腹の虫は! さっきから何度も何度も鳴りやがって!

 ……いや待て、なんか目が回ってきたぞ。しかも腹が減りすぎて力が、出な、い……。


「お嬢様! お嬢様! 気をしっかり持つワン! 誰かー、お嬢様が英雄様の様子にショックを受けて倒れてしまわれたワン!」


 いや、単に腹減って力が入らなくなっただけだし!

 だから頼む、何が食べ物を……できれば肉をください。

 甘いものだけは勘弁してくれよ、糖分の取りすぎは筋肉の敵だから──。


 ドサリ、という音が聞こえると同時に、俺の意識は再びまた暗転する。すぐ近くでマイムが出す大声も、すぐに遠くなって聞こえなくなったんだ。


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