表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

あおひとくさ

作者: 德薙零己

この作品は


http://ameblo.jp/tokunagi-reiki


において、2007年11月に連日公開された作品を一つにまとめたものです。

 『援助交際ですかぁ? したことあるってゆうかぁ、してるってゆうかぁ……』

 和泉が生まれて始めてテレビに出たのは昼間のオバサン向けのワイドショー番組。

 顔にはモザイクが施されていて一般視聴者には誰だかわからないが、見る人が見れば着ているものでわかる。

 「あら、和泉の学校。ま、あの娘は関係ないでしょうけど。」

 親を自慢させるほどの名門女子校の制服が映っていても和泉の母は安心しきっている。娘の売春を信じる親もいないが。

 髪。

 ソックス。

 スカート。

 化粧。

 何もかもが周囲に溶けこむ和泉の格好。

 校則では禁止。でも、守っている人のほうが少ない。みんなやってるから和泉もやってる。それが和泉のポリシーというわけでもなく、かっこいいとは思っているけど、時代が変われば決してしない格好。

 和泉は高校三年間を目的をもって過ごすわけじゃない。

 遊ぶだけ遊んで卒業できればそれでいい。進路なんて考えてない。

 「Bの1416……、と。」

 そのワイドショーが流されている間、和泉の通う女子高では授業が、和泉のいるカラオケボックスでは友人による歌が行なわれていた。自分がテレビに出ていると知らずに。

 「それも買ってもらったん?」歌い終わったばかりのクルミが和泉の持っていたバックを手にとって眺めた。

 「そう。いいっしょ。」彼女に目を向ける事なく、和泉は曲選びをしながら答えた。

 「いいなぁ。」

 「そりゃ、これぐらいもらわないと割にあわんよ。彼氏でもないオジサンとデートすんだからさ。」

 「援交か。私もするかな。」

 「当たり外れもでかいし、覚悟しないとまずいよ。オヤジなんてのはセックスしか考えてないんだから、下手すりゃレイプ。」

 「和泉はそんなんないの。」

 「変わったオジサンだからね。」

 「どんな風に?」

 「何て言うか、やらしさがないみたいなんよね。やることはやるけど。」

 「ホモなんじゃないの?」

 「それじゃ私となんかするわけないじゃないの。ノーマルだと思うよ。」

 「わかんないよ。カモフラージュかもしれないじゃない。」

 「いっそのことそのほうが楽かな。セックスを割り切れるし。」

 割り切れるのか? 自分の体を金や物と引き換えに渡して。心をズタズタに引き裂かれないように、抱かれている間ずっと閉ざし続けて。

 いつしか心が身体から離れていきそう。

 これ以上開くことのない身体と、これ以上閉じようのない心が抱かれる度にかけ離れて行く。

 全てを清算するとき、後に残るのはブランド商品と、ズタズタになった身体、そして閉ざされたまま開くことのない心。

 和泉はまだ気が付いていない。自分の心が徐々に狭くなってきていることに。

 「それじゃ、帰るわ。これから彼氏とデートなの。」クルミの彼氏は確か大学生のはず。その関係も和泉のものとは大きく違う。

 「私も帰るかな……。それじゃ、先に失礼するわ。」


 その日の夕方、一旦家に帰って着替えた和泉は着替えて再び出かけた。援助交際の相手と会いに。

 イタリアレストランの窓際の席。そのオジサンに買ってもらった薄いブルーのスーツを着て和泉は座っている。

 「今日は早かったね。」ここまで走ってきたのか、竹内は息を切らしている。

 「三十分も待ったぞ。」

 「テレビ観てたから。」

 「?」

 「今日、和泉がテレビに出てたんだよ。モザイク掛かってたけど。」

 「ウソ!」

 「観てる人にはわかるよ。制服着てて、和泉の声なんだから。」

 目の前にいる人がそのオジサンだが、オジサンというほどの歳でもない。一流企業の若手の営業マンというような感じで、古臭いメガネを掛けていること以外オジサンと言われる筋合いはない。

 「聞いてないよ。テレビだなんて。」

 「インタビューは受けたんだろ?」

 「昨日ね。でも、隠し撮りだよ。マイクはあったけど。」

 「いいじゃないか。テレビに出れたんだからさ。夢だったんだろ。芸能人になるの。」

 「モザイク掛かってスカウトされるとでも思って?」

 少し離れて見ると、竹内と和泉は兄妹のように見える。が、言うなれば和泉は竹内の愛人。血縁関係などなく、金だけでつながっている。

 「で、弟がさぁ……」

 「……」

 一方的に話しかけて、和泉は聞いているだけ。出されている料理は旨い。同じレストランだけど、毎回違う料理が竹内のオーダーで運ばれてくるから飽きは来ない。

 目の前にいる人を無視して食べていれば場は凌げる。心なしか竹内と知り合ってからウエストがきつくなった感がする。

 「それと、和泉の欲しがっていたネックレス、買ってきたから……」竹内は椅子の上に置いてあった小さな紙袋を手渡した。

 「どうも。」

 「いいんだよ。で、何か欲しいのある?」

 「う〜ん、やっぱピアスかな。」

 「前も言ってなかった?」

 「買ったけど空けてないから。自分で空けるコもいるけど、私はできないな。」

 「自分で空けるわけにはいかないんだろ。だったら、病院に知り合いがいるから紹介してあげるよ。」

 そう言うと竹内は手帳に何やら字を書き出した。

 「はい。」

 書き終わるとその一枚を破り、和泉に現金と手書きのメモを手渡した。メモには病院の住所と簡単な地図、そして電話番号が記されている。

 「どうも……」

 料理も宝石も手にしたが、和泉は嬉しさを表さずただ黙って受け取るだけ。このレストランでは、いや、竹内の前ではいつもそう。

 これからこいつとセックスするのかと思うと気も重くなってくる。金がなかったら迷わずに逃げている。

 愛などない。竹内の前では物欲で心を捩伏せているだけ。

 「悪いけど、今日は帰ってくれないか。」

 「はい?」

 唐突の竹内の言葉に、覚悟を決めていた和泉は一瞬たじろいだ。

 「用があって、今日はもう帰らないとまずいんだ。」

 「そうですか。」和泉は嬉しさの表情を隠せずにいる。

 「……」和泉の嬉しそうな表情を竹内は冷静に見つめている。

 竹内だって、和泉が自分とのセックスを喜んでいるわけではないことぐらいわかっている。それでも一度ならず二度も和泉の身体を求めてしまったのは、欲望が和泉の心を捩伏せてしまったから。

 それからの付き合いは惰性と言うべきだろうか。とりあえず毎週会っている。援助交際のさらに先を行く、援助、だけ。

 「それじゃ、私も帰ります。」

 「タクシー呼ぼうか?」

 「いいです。電車で帰りますから。」

 「そう。」

 パーキングメーターに停まっている白い車に竹内は乗り込んだ。助手席には誰も座っていない。かつて和泉も乗った右側の助手席には、書類を運ぶのに使っているのであろう、茶色の鞄があるだけ。

 左ハンドル、品川ナンバー。要素は揃っているが、誘われたとしても今の和泉は乗る気もしない。

 「まだ八時……」

 「何か言った?」

 「いえ。」

 「それじゃ、来週。和泉のピアス、楽しみにしてるから。」

 「じゃ……」

 乗せるでなく送るでなく、真夜中になる前に竹内は帰って行く。

 「顔、まあまあ。背、まあまあ。ヘアスタイル、普通。着こなし、合格。学歴、一流大卒。収入、中の上。ちょっと痩せぎみだけど、問題はそれぐらい。でも、嫌い……」

 竹内と知り合って三ヶ月。その間何度か体を重ね合わせた。それからも毎週のデートを重ねていたが、ここ一ヶ月は食事とプレゼントだけ。手一つ握りはしない。

 「予定が狂っちまったな……、家に帰っても誰もいないし、テレクラにでも電話すっかな……」

 家に帰ってもおもしろくない。かと言って遊ぶには金がかかる。竹内との週に一度の我慢をすれば、手っ取り早く金が手に入る。

 竹内に処女を売り渡したときは十万円。二度目はその半分の五万円。それからは物と、数万円程度の金。

 それでも普通にアルバイトをするよりもはるかにいい金になる。


 「来ない……」

 その一週間後、いつものレストランで待ち合わせをしていた和泉の前に、いつもの外車の現れることはなかった。

 「○△□☆……」

 「うるさいな!」

 「●▲■★……」

 「人を待ってんの!」

 夕日が沈んでもなお佇んでいる和泉にはいかにもナンパというような男が何名か声を掛けてきた。

 何と言っているのかも認識しないうちに彼らを罵倒する。そうして待ち続けていることのイライラを発散させている。

 竹内と知り合う前だったらホイホイついていったかもしれない。それが、愛人とパトロンという立場の、愛すらない関係とわかっていても竹内のためにナンパの全員を断っている。

 「何であんな奴のために待ってなきゃなんないんだよ!」

 怒っても待っている。他に用事があるならそっちを優先させればいいのに、一週間に一度の、このレストランで物欲を満たすことを和泉は優先させている。

 「彼でもいたら今頃デートでもしてるんだろうけど……、何であんなオッサンにセックス売らなきゃならないんだよ……」

 待っても竹内の車は現れない。レストランの前のパーキングエリアは赤から黒、黒から銀色と車体を変えているのに、その中には竹内の白い左ハンドルはない。

 「服部様ですか?」和泉は突然呼び止められた。

 「はい。」

 「竹内様より、こちらをお預かりしております。」

 玄関前に立っている和泉を見かけたレストランのウェイターが、扉を開けて竹内の直筆の手紙を手渡した。

 『出張で今頃は東京にいない。だから今週は会えない。』封を開け、二行しか書かれていないメモを和泉は眺めた。

 「これだけ?」

 「はい。昨日の正午過ぎに当店に参りまして、こちらの手紙だけをお渡しになってお帰りになりました。」

 「そう……」

 メモを見つめながら和泉は歩いてレストランの前から立ち去った。

 それがまさか竹内とのゲームセットを伝えるものとは夢にも思わずに。


 「……」

 「あなたは?」

 「竹内の、竹内貢の、弟です……」

 さらに一週間が追加されても和泉を取り巻く環境は変わらなかった。約束を守って、竹内に買ってもらった服とアクセサリーを身に着けてレストランの前でたたずみながら、竹内の車を待ち続ける。

 その和泉を迎えにきたのは、竹内は竹内でも、竹内の弟。制服のブレザーを着た見知らぬ男性に不意に声を掛けられたとき、和泉はただのナンパと思って無視していた。

 その男性、男性と言っても見た感じ和泉より歳下のようだが、彼は和泉を拉致するかのようにタクシーに乗せ病院に連れて行った。

 「ここに何があるっての?」

 「先週、兄さんが服部さんのところに行かなかった理由が、あります……」

 耳に開けたピアスの穴もこの病院。だが、彼は奥深い部屋へと足を運んでいった。入院でもしたのかぐらいの思いはあったが、どう見ても足取りは診察室や病棟ではない。途中何度もすれ違った看護婦達も、彼の顔を見はしたが、病院の関係者でもない彼の足取りを止めようとはしない。

 「こちらです。」

 「何が?」

 そして、竹内と再会した。

 顔に白い布が被せられ、目覚めることのない竹内と。

 「……」

 「あなただけには、兄の姿を見せておきたかったんです。目を逸らさないでください。現実なんですから……」

 「どうして……」

 「今朝、脈も心臓の動きも止まった。それだけのことです……。遅かれ、早かれ、兄さんには訪れることだったんです……」

 病室ではなく、ここは霊安室。肌寒く、心を陰鬱にさせる、この世での最後の、そしてあの世での最初の空間。

 ここにいるのは竹内と弟の司、そして和泉の三人だけ。

 「兄さんは知ってたんです……。自分の限界を。」

 「……」

 「手術しても無駄だって知ったときには、僕にも兄さんにも、もう何も残っていませんでした。」

 白い布を取り外すと、メガネを外した竹内の顔が真っ白になって現れた。現実が和泉の目の前に突きつけられる。

 「十五年、兄弟やってましたけど、こんないい顔をした兄さんは初めて見ましたよ。」

 「……」

 「服部さんは、兄さんのこの笑顔を毎週見ていたんですよね。」

 再び竹内の顔に布が掛けられた。

 一人の人間の終わりが目の前にある。初めて目の当りにした人の終わりの姿。和泉は何もできない。落ち着いている司とはあまりにも違いすぎる。

 「服部さん……」

 「……」

 どうすればいいのかわからない。竹内に泣いて縋り付くのか、黙ってここから出て行くのか、初めて直面した人の死は和泉に混乱を呼び起こさせた。隣りにいる司の落ち着きようがさらに和泉を混乱に追いやっている。

 だが、司がどんなに冷静を貫いても、司の瞳は潤わずにはいられないでいる。

 弟というわりには竹内貢とは全く違った中性的で童顔で、高校の制服を着ていなければ中学生ぐらいにしか見えないであろう彼は、見掛けの幼さと冷静さとが激しいギャップを生み出している。

 それでも、十五歳の子どもにとって、実の兄の死は重く伸し掛かった事実。

 司が和泉を呼んできたのは、兄と和泉を合わせようとすることよりも自分一人でここにくる勇気がなかったから。

 二歳しか違わない。いや、学年で言えば一つしか違わない。それでも、頼れる人として司は和泉を選んだ。どうすればいいのかわからなくなっているのはむしろ司のほう。

 「いつから……」

 「僕が医者から告知を受けたのが一ヶ月ほど前。服部さん、兄さんがあなたのことを僕に話したのもその頃ですよ。」

 「そうじゃなくて……」

 「病気にかかったのがですか?」

 「ええ……」

 「わかるわけないですよ。わかってたら手術でどうにかできたんですから……」

 「そう……、そうよね……」

 竹内の枕許には線香が三本灯っている。だんだんと短くなってきて、灰が器の中に落ちていく。和泉はその微かな灯をじっと見つめていた。

 「すいません。兄と、二人きりにさせてください。僕にとってはたった一人の肉親なんですから。」

 「一人……」

 「僕を怒らせないでください……」

 竹内の側から離れて、視界から竹内の横になった姿が消えると途端に涙が出てきた。廊下にまで届いてくる司の涙声が泉の涙に拍車を掛け、和泉を立ちつくさせる。

 「死……。いない……。会えない……」

 煩わしく、大嫌いで、金だけでつながっていた竹内との関係が突然断ち切られても、和泉に嬉しさなど起こりはしない。

 「知ってて私と出会った。私を抱いて、私に何もかもをくれた。いったいあなたは何なの? 知らないことが多すぎる。どうして、泣いているの……」

 霊安室の前で茫然として俯いている和泉の中に竹内が思い出となって蘇ってきている。忌まわしき思い出をいい思い出とするなどできるわけないが、記憶は記憶。

 「もう、何もしたくない。」

 愛人をしていたのに、それがいきなりなくなった。嫌がっていたのに今の瞬間は解放だなんて思えない。ゼロから金ヅルを見つけるか? 和泉はそんなドライになんてなれはしない。死を悲しんでいる人がすぐ側にいるというのに。

 力という力が抜けきって、和泉は背もたれにもたれかかっているうちいつしか眠ってしまった。

 「カゼ、ひきますよ。」その和泉に誰かが上着を掛けた。どこかで見たことのあるマリンブルーのブレザーの上着。

 ワイシャツにネクタイだけとなって、司は病院を後にした。


 裏通りの日当たりの悪い小さなアパートの一室が竹内兄弟の住まい。世帯主なきこの部屋の新しい世帯主は和泉達を出迎えた。

 通夜にも葬儀にも顔を見せなかった和泉が竹内に線香をあげたのは三日後。と言うより写真の竹内に会うまで三日かかった。関係をどんなに清算したつもりになっても、身に着けているものの全てが竹内からの贈り物。司の上着は返すという理由を付けても、竹内家に行くのはためらわれ続けた。

 「小さい部屋でしょう。」

 「そんなこと……」

 「いいんですよ。狭いものは狭いんですから。住んでる本人がそう言っているんですからいいんです。」

 一人でくる勇気のなかった和泉は学校帰りに友人の何人かを誘ってここにまできた。和泉の援助交際は知っていたが、その相手を目にするのは今回が初めて。

 写真の中の竹内はどう見てもオジサンではない。でも、援助交際の相手は所詮身体目当てのオジサンでしかない。竹内に線香を捧げるのだって彼女達には儀礼的なことだとしか感じられない。

 「それと、この上着返さないと。ちゃんと洗ってアイロンもかけておいたから。」

 「すいません……、でも、もうそれいらなくなりましたから……」

 「そうか、そろそろ夏服の時期だもんな。でもね、九月までならだいじょうぶでしょうけど、これ、十月からまた着るようになるんじゃないの?」

 「退学しようと思ってるんです。兄さんがいなくなったら、もう授業料払えなくなりますから……」

 「そう……」

 司が一人と言ったことを、和泉はこのときやっと理解した。

 司は兄と二人でこの部屋に住んでいた。両親と、司の姉らしい人と、竹内と、四枚の写真が部屋の中の同じ場所にあるが、竹内以外の三人がここに住んでいたという気配もしないし、司の言葉には多少の訛りが見られるけど、三人が田舎に住んでいて司が一人ここに住んでいるという感じも受けない。

 司がやたらと落ち着いているのは、家族の死に慣れてしまっているから?

 「何か飲みますか?」

司の開けた冷蔵庫の中にはペットボトルが四〜五本入っていた。電話が架かってきてから慌ててコンビニで買ってきたらしく、テーブルの上には今日の日付の入ったレシートと、店名の入った白いビニール袋が畳んで置かれている。

 「それじゃ、オレンジでも……」

 「そちらの方は?」

 「私もそれで。」

 コップはあるが統一されていない。よく見るとヒビが入っていたり取っ手が欠けていたりと、お世辞にもいいものとは言えない。

 「……」和泉は目の前に置かれたコップを眺めた。これもよく見ると、縦に一本ヒビが入っている。

 「紙コップでも買ってくればよかったんですけど、そこまで気が回らなくって……、それで我慢してください。」

 「男ってのは、気を利かせるより、ちょっとぐらい鈍感なほうがいいんだよ。」

 ジュースを受け取ったクルミは自分の体験のように話した。彼女にとって目の前にいる司は和泉が愛人をしていた人の弟ではなく、同情を誘うだけの存在。

 「兄さんは少しどころじゃなかったですけどね。」

 「司クン……だっけ。司クンにとってオニイサマはどんな人だったわけ?」

 「一言じゃ言えないですよ……」

 「ミもフタもない答えだコト。」

 ここにいる女性は和泉を入れて四人、その中でクルミだけが司と平気で話をしている。祖母に次いで祖父の葬儀も体験したクルミには、人の死を和泉達よりも冷静に受け止めるだけの経験がある。

 この四人のうち、クルミを除く三人に共通して言えることがある。人の死というものを見たことがないと言うこと。

 和泉と、両親と、弟という四人だけの核家族にこれまで死はなかった。ペットの死すら体験したこともなく、竹内の前まで、和泉には命の終わりとは意識する必要もなかったことだったのだから。

 「(どうすればいいの……、慰めたって、同情したって……)」

 和泉の視線の先には懸命に振舞っている司がいる。クルミが何度か話しかけたが、それが途切れると部屋の中には重苦しい空気が流れている。

 「そうだ、何か買ってきます。ポテトチップとか……」

 「いいわ。」

 司は和泉達の前で精一杯振舞っているようにしか見えない。竹内は司にとって文字通り最後の肉親だったからその悲しみを打ち消すように精一杯和泉達を持て成しているが、それがかえって痛々しく感じられる。

 「かなり無理してんね……」

 「うん……」

 和泉達が小声で話していることも、司の耳には入らない。

 ゴトッ!

 「きゃっ!」

 和泉がジュースを注ぎ足そうと手を延ばすと、フタの開いたままのペットボトルが倒れて畳を濡らしていった。

 「あ……」驚きもせず、司はオレンジ色に染まっていく畳を見ている。

 「ご、ごめんなさい。」

 和泉は慌ててテーブルの上にあった布巾を取って畳を拭こうとしたが、司にその布巾を奪い取られた。

 「兄さんの大切な人に、そんなことさせられませんよ。」

 「でも……」

 「服部さんはお客様なんですから、こんなことする必要ないんです。」

 黙々と畳を拭いている司の手が、不意に止まった。右手で畳を拭いているのではなく、自分が泣いていることを和泉達に見せたくないから下を向いているだけ。

 「もう、帰ろうか……」

 「そうね……」

 和泉はもう見ていられなかった。この場から立ち去って、自分一人だけでもいいから逃げたかった。

 「服部さん……」

 「何?」

 「また、来てくれますよね。このままだったら兄さんが寂しがりますから……」

 玄関に立って、靴を履きだした和泉に司が声を震わせながら言ってきた。

 「兄さんはずっと前から気づいていたんでしょうけど、ずっと言えずにいたんでしょうね。僕はまだ信じられませんけど、遺言を、僕は聞いたんです。」

 「そう……」

 「心から喜べる人と出会えて嬉しかったんでしょうね。『和泉と出会えて、俺はもう悔いはない』って言ったのが、兄さんの最後の言葉でしたよ。服部さん、ありがとうございました。」

 「でも……」

 和泉は二度とここに来ないつもりでいた。一人きりになってしまった司を思えば哀れだが、自分を金で買っていた人と死んでまで関係を続けたくもなかった。

 バタン……

 木目のドアが閉まると、和泉達は振り返ることもなくアパートから立ち去っていった。

 「かわいそうと思わないの?」

 「思うけど、これ以上関係を続けたくないんだ。」

 「で?」

 「クルミは私に何をしろっての? あの子に会いに来るだけならいいよ。でも、ここに来ると思い出が蘇るんだ。」

 「ヒトデナシ。」

 「じゃぁ、クルミが慰めてあげればいいじゃないの。」

 「それもいいかもね。私はタケウチミツグを知らないし、司クンとも何の関係もない。彼氏と別れたばかりだからフリーだし……」

 「傷を舐め合おうっての?」

 「和泉だってそうじゃないの。金のためだとか言って、結局は寂しいから身体を開いたんでしょう。」

 「誰が!」

 駅のホームから和泉とクルミは二人を残して各駅で帰っていった。三駅隣りの各駅しか停まらない駅が二人の最寄り駅。

 「和泉が行かないと言うなら私一人だけでも司クンに会いに行こうかな。」

 「いいんじゃない。私には関係ないことだし、クルミの好きにすれば。」

 クルミが本心からそう言っているのではないと和泉にはわかっていた。司の側にいてやれと言う代わりに和泉にけしかけていて、それを和泉は無視している。

 司の側にいてやることが責任だと。

 「和泉の贅沢の代わりにあの子は退学する。それでも平気なわけ?」

 「その代わり私だって……」

 「和泉だって?」

 「……」クルミに言い返そうとしたが、和泉は何も言えなかった。

 司の部屋の中には何もないけど、アパートの前の駐車場には、和泉とつき合いだしてから買った竹内の運転していた外車が停まっていた。コップが欠けている代わりに指輪もピアスも和泉は手にした。

 竹内は弟の授業料は払わないで和泉の欲望を叶えた。そのツケが今になって司に回っている。それでも司は和泉に「ありがとう」と言った。

 「もう、関係ないよ……」

 「そうやって逃げるつもり?」

 「逃げてなんていない。」

 「まあ、和泉がそう言うならそういうことにしとこう。」

 駅の建物から出て、クルミは和泉に背を向けて歩いていった。


 「ただいま。」

 家に入っても誰もいない。その代わり、八歳のときから飼っているトラネコが和泉を出迎える。

 「そう、今日もミーコだけ。」

 去勢されて、オスでありながらメスと遠ざけさせられた愛玩ネコ。宦官となったミーコにとって、食欲だけが生きることの楽しみになっているのだろう。少しでも自分の食事が遅れると騒ぎ出して、一番先に帰ってきた人にキャットフードを催促する。

 「あんたはいいね。」

 キャットフードの入っている缶詰が開けられると、ミーコは今まで和泉の側に擦り寄っていたのに掌を返して食らいつく。

 ネコで九歳と言ったら人間に直すといくつになるのだろうか。年寄りと呼べる人のいない服部家で、ただ一人老いを漂わせて生きているのは彼一人ということになる。

 「そうか、ミーコは恋なんてしたことないんだよね。私もそう……、好きでもない人とお金のために……」

 竹内を失ってみて初めて自分の身体を思い返すようになった。部屋に戻ってみると竹内に身体を売り渡した見返りが散乱していて、ブランド物のスーツも、本物の宝石の散りばめられたアクセサリーも、竹内に身体を売り渡す前には手に入りようもなかったもの。

 それも司の貧乏を引き換えにしての。

 「同情はするけど……」

 RRRR…RRRR…

 和泉の携帯電話が鳴り、三度ほど鳴らしてから取ると受話器の向こうからはクルミの声が聞こえた。

 「何の用?」

 『司クン家の電話番号教えて。』

 「自分で調べれば。」

 『ずいぶんと冷たい言い方じゃない。何か嫌なことでも……あったんだよね……』

 「あんた、本当にあの子のところに行くつもりなの?」

 『行かない理由が見つからないからね。私は司クンのお兄さんに思い出なんてないし、思い出してみなさいよ。私たちを出迎えたときの嬉しそうな顔。』

 「ヤケになってるんじゃないの。彼氏にフラレて寂しいから、誰でもいいから優しい人に慰めてもらいたいだけなんでしょ。」

 『それは和泉も一緒でしょ。』

 長電話をしているうちいつしか服部家は人数が揃う。残業で遅くなる父親、パートで遅くなる母親。弟はまだ帰ってこないが。両親とも一年前まではもっと早く帰ってきていたし、弟も七時には帰っていた。

 和泉は知ってしまった。父親は会社のOLとホテルに入り浸り、母親はパートで稼いだ金をホストクラブに貢いでいることに。それを知った弟は部活が終わってもなかなか帰らなくなり、いつしか学校にも行かなくなり、家にも返らなくなっていた。竹内と関係を持ち出してから一度も弟の顔を見ていないし、今はどこにいるのかもわからない。

 「私のどこがヤケになってるっての。」

 『援助交際。今だって和泉のヤケは続いているんじゃないか?』

 全てが崩れ去ろうとしている。その現実から逃れたくて、テレクラに電話をして竹内と知り合った。

 着飾って現実から逃げたかった。そのためにはセックスすら武器にした。竹内に処女を売り飛ばして贅沢を手にした。その贅沢も、今では空しさだけが残るのみ。

 崩れつつある家庭の現実から逃げるために手にしたものは、崩れ去ってしまった家族の残骸が生んだ最後の一滴の富。

 『私が誰のところに行こうと和泉には関係のないことでしょう。』

 「そうね。〇四五の……」

 『ありがとう。』

 一度しか使ったことのない電話番号を和泉は教えた。これで竹内との関係を終わりにしたかった。クルミに司を託せば、もう永遠に竹内との縁を断ち切れると思った。

 「じゃぁ、切るよ。」

 プツ……

 「イズミ、ごはんよ!」

 和泉の電話が終わるのを待っていたかのように、階下から母の声が聞こえてきた。

 「は〜い。」

 夕食のテーブルには今日も弟がいない。三人で取る夕食がいつからかギクシャクしたものになった。

 愛人がいて、ツバメに貢いで、愛人をしていた。こうしてみると、弟だけが正常なのかもしれない。

 「あさってから金沢に出張だ。」

 「そう。どれぐらい。」

 「二泊の予定だが、三泊になるかもしれないな。」

 またOLのマンションに泊まりこむのだろう。母も和泉もそのことはわかっているが何かを言える立場ではない。誰かが誰かの否を口にすれば、服部の家は壊れる。壊れないように黙っていて、表面だけで家族を装っているのが暗黙の了解。

 それを守れなかったのが和泉の弟ということか。黙る代わりに家に帰らなくなって。

 「ごちそうさま。」

 和泉は食器を流しに持って行くと、親の視線から逃れるために二階へ上がっていった。


 「あれ、クルミじゃない?」

 「そうみたいね。」

 「この間まで大学生だと思ったら、今度は年下の男。やっぱウチラと違うわ。」

 梅雨の最中に珍しく晴れた、週休二日の一日目、新宿に行こうと友達から誘われ、東横線で渋谷まで行って、渋谷から山手線に乗って、東口に行ってみると、こういうときはいつもはいるはずのクルミが和泉達の輪の中にいなかった。

 クルミは新宿にいたにはいた。和泉達を視界から逸らしながらも、自分を和泉達に見せつけていたのだから。

 「あっちの帽子被ってるの、ひょっとして司クンじゃないの?」

 「だろうね……」

 「いつの間に……。いいの? クルミに取られたって。」

 視線が和泉に集まる。竹内の部屋に行った者だけでなく、竹内の存在そのものすら知らない者も、誰よりも司を知っているはずの和泉に視線を集める。

 「関係ないよ。」

 「またまた。強がったって……」

 「忘れたいよ! 何もかも。みんな、みんな……」

 「どうしたの?」

 「……、帰る!」和泉は走って彼女達の前から去っていった。

 少し忘れかけてきたのに司を見て無理やり思い出させられた。自分のことなんて放っておいてほしかった。誰も自分のことなんて考えないで、好き勝手に遊んで時間をつぶしたかった。カラオケでもゲーセンでも、何でもいいから竹内のことを忘れられるぐらいに楽しいことを見つけたくて、新宿にまで足を運んだというのに……

 「みんな、みんな、大っ嫌いだ……」

 新宿の雑踏の中に身を寄せていれば誰か一人ぐらいは声を掛けてくる。そのうちの一人でもいいから竹内との思い出を捨てさせてくれる人が見つかればいい。そう思って和泉は人の集まる場所へ走って行く。

 「誰か、声を掛けてきて……」

 歌舞伎町の映画館の前で何もせずに座っていても、誰も声を掛けてこなかった。皮肉なのか、運命なのか、待っている人がいるときは何人も声を掛けてくるのに、声が掛かるのを待っていると誰一人として声を掛けてこなくなる。

 「このまま夜になったら、竹内さんみたいな人が声を掛けてくるだけ。もう、売春はしたくない……。本当に帰ろうかな……」

 意識して、竹内の買ったものではないものばかりを着て新宿に来た。それだって決して悪いセンスじゃない。今でも充分流行の中で通用している。

 それでも街を歩いている男達は和泉に声を掛けようとはしなかった。理由は一つ。一緒にいても楽しいとは思えないから。

 「ハハハハ……」

 「ハハ……」

 「……」

 その和泉の前を、司と腕を組んで歩いているクルミが通りすぎて行った。微笑みながらお互いを見つめ合って、二人の間に誰も入れないように寄り添っている。

 「クルミ……、見せびらかそうっての?」和泉はクルミに聞こえるように声を掛けた。

 「和泉! こんなとこでどうしたの?」

 「それはこっちのセリフよ。何であなたが彼と……」

 「デートの約束をしたから。これから映画に行くのよね。それじゃ。」

 純粋にこの映画を楽しむために、デートの一場面として、司の右腕を取ってクルミが映画館の中へと入っていった。

 「映画か……、恋人と行くにはいいシチュエーションだけど、男となんて行ったことないよな……。私だって、私だって……。嫌いだ! クルミも嫌いだ……」

 二人の側にいたくなくて、映画館の前から離れたくて、和泉は走って歌舞伎町を後にした。それでも新宿という街には和泉の苦しみを救ってくれるような趣がある。西口に行って都庁に行って屋上から自分の生まれ育った横浜の街を見るのもいいだろうし、中央公園で何もせずにベンチに座って時間をつぶすのもいい。何でもいいから新宿にいたい。

 和泉は日が暮れるまで新宿という街に居続けたくなった。いや、このまま横浜には帰りたくなくなっていた。

 「運命的な出会い……、期待はしているけど、そんなにあるわけない……。これだけ人がいるのに私は一人ぼっち。クルミのことも、司のことも、私、人のことを言えたギリじゃない……」

 誰かが言った。東京という街なんてないんだと。新宿や池袋、渋谷、銀座といった街があって、たまたま街と街との間が近いから一緒に見られるだけ。だから、横浜も川崎も、浦和も所沢も、千葉も松戸も、途中に県境があるだけで同じ東京という街なんだと。

 「ふう……、中学生か……」

 都庁に入って展望台へとエレベーターで上ると、就学旅行で来たらしい中学生が東のほう、国立競技場のあたりを見つめていた。その中では何かのサッカーの試合が行なわれているらしいが、ここからではよく見えない。

 出会いを求めながらも、和泉は人から避けたがっている。パラレルワールドで和泉以外の人がいない世界に入りこんだとしても、今の和泉はそれを喜んで受け入れられるだけの心の空白を生み出している。

 「みんな、大っ嫌い……。同情も愛情もいらない。優しさも、いらない……。……。そっか、私、一人になりたかったんだ……。でも、回りに人がいないとだめ。歌舞伎町も、アルタ前も、もういたくない。どこでもいいから、人がいて、私一人が一人になれる場所に行きたかったんだ……」

 展望台の閉まるまでが和泉に与えられた安らぎの時間。観光客も就学旅行の中学生も、一人として和泉に声を掛けてこようとはしない。


 「余命六ヶ月で降りる保険知ってる?」

 「コマーシャルでやってたよね。」

 「本人が使える生命保険。それを司クンの兄さんは何に使ったのか、和泉には言わなくてもわかるよね。」

 「うん……」

 全く対照的な週末を過ごした二人の月曜の朝、駅のホームでクルミは和泉を待ち構えていた。

 「司クン、退学はしないって。」

 「そう。」

 「でも、転校はするって。今までのトコは授業料も高いし、お兄さんが亡くなっても本当なら通えたんだけど、誰かさんが授業料に使うべきお金を自分のゼータクのために使っちゃったからね。」

 「わかってるわよ! でも、そんなの今更どうにもならないことでしょ! 私だって、あの人から貰ったの全部捨てたいわよ。売り払ってそのお金をあの子に返そうとも思ってるわよ。」

 「お金の問題じゃないでしょ。少しは謝ったらどうなの? 司クン、ずっと和泉のこと待ってるんだよ。今でも。」

 「『今でも』って、何年も経ったみたいな言い方しないでよ。」

 「あなたに電話番号を聞いてから一ヶ月。和泉には短いようでも、司クンには長い長い時間だったはず。」

 その一ヶ月という時間は司とクルミを結びつけるには充分すぎる時間だった。そっとしておけば勝手に流れる三十日は、目的を持った人には短く、待つだけの人には長く感じられる時間。

 「彼の側にいるのだったらクルミのほうがいいでしょ。あの子とデートしてたのは誰だったっけ?」

 「それで?」

 「私が入る隙間なんてないよ。」

 「何か勘違いしてない? 司クンが待ってるのはお兄さんの愛人としての和泉だよ。彼は全部知ってた。和泉と司クンのお兄さんとがお金だけでつながってた関係だってことも、お兄さんがあなたに全てを注ぎ込んだことも。」

 「だったら、なおさら行けるわけないじゃないの!」

 「今日、私と一緒に行きましょう。司クンは今日ずっといるって言うから。」

 隣りのクラスにさっさと入っていったクルミから逃げようにも、小学校から一緒だったクルミをまくなど和泉にはできるはずもない。学校という建物の中での行動は全て知り尽くされている。

 放課後、クルミは嫌がる和泉の手を無理やり引いて、司のアパートに連れていった。

 「ただいま。」

 「ただいま?」

 鍵の掛かっていないドアを、クルミはこう言いながら開けた。

 一ヶ月ぶりに訪れた司の部屋の雰囲気が少し違っている。何と言ったらいいのか、今までこの部屋にはなかった華やかさが生まれたような感じがする。

 部屋の中に干されている洗濯物を見ると、司のだけではなくクルミのも干してあった。新宿で見たときクルミの着ていた服が、女物の下着を覆い隠すように。

 「わりと早かったんですね。渡辺さん。」

 司はクルミを苗字で呼んでいた。そこにはどこかクルミに対する心の壁があるように感じられた。

 「服部さんも来てくれて……。そうだ、この間のと同じジュース買ってありますから、飲みますか?」

 「ううん……」

 二枚のフスマで仕切られた部屋の中に入ってからしばらく経って、パジャマを着たクルミは、制服をハンガーに掛けて持ってきた。

 「あなた、ここに住んでるの?」

 「泊めてもらってるだけよ。二〜三日家を空けるのも珍しくなかったからね。それに、家には帰りたくないし。できればここにずっと住んでいたいけどね。」

 少し横の長い小さな長方形のテーブルの三辺に座っている。この間買ってきたのと同じジュースが、新しく買ってきたガラスのコップに氷と一緒に注がれてそれぞれの前に置かれている。

 ここに泊めてもらっているだけとは言いながらも、クルミは司と一緒に暮らしているようなもの。完全にこの部屋の住人になり切っていて、カーテンや和泉の目の前に置かれているガラスのコップなど、部屋のあちこちにクルミの家で見たのと同じものがある。

 「それでずっとここで傷を舐め合ってるわけか。情けない。」

 「勘違いしないことね。私は好きでここにいるんだから。」

 「どうだか。おおかた、同情とか、寂しいからとかそんな理由で司クンを縛りあげてんじゃないの?」

 「寂しいからがないとは言えないけど、それが理由だとしたら、和泉が今までしていたことと基本は一緒だよ。それにこの部屋の家賃ってのは、一人で暮らそうと二人で暮らそうと同じなんだから二人で暮らしたほうがいいじゃないの。」

 「あなたに金のアテでもあるの?」

 「アルバイトしてるし。もちろん和泉みたいに手っ取り早くお金を手にするなんてことはしない。絶対にね。」

 「よく言うわよ! この間まで大学生に貢がせてたくせに!」

 「それでも、セックスなんて一度もさせなかった! 和泉みたいに売春して金を手にするなんてしなかったからね!」

 「口では何とでも言えるんじゃないの。」

 「嘘と思うならそう思ってりゃいいじゃない。ただね、これだけは断言できる。一ヶ月前まで私は処女だった。好きな人としかセックスしたくなかったから、ここに来るまで私はずっと守ってきた。和泉とは違う。これだけは言える。」

 「それじゃ、この間までの大学生は何なのさ。『カレシ』だってクルミはずっと言ってたじゃないの。」

 「間借りなりにも私はあの人を恋人だって認識していた。だから、別れたって堂々と言える。あなたは司クンのお兄さんにそんなこと言える?」

 向かい合って座っている和泉とクルミとの間で、司は何も言えずにいる。仲のいい友達とクルミから聞いていたが、今の二人はお世辞にもそうは言えない。

 和泉にしてみても最近のクルミの変わりようには戸惑いを覚えずにはいられないことだった。年上の男に貢がせているという点では和泉とクルミは同じラインに立っていた。それがセックスまで進んだものであっても、デートまでで留めたものであっても。それなのに司と知り合ってからというものだんだんと和泉達の輪から離れていった。

 始まりの動機はどうあれ、今のクルミは真剣に司の彼女になっている。

 「渡辺さん、もうやめてくれませんか。服部さんは口喧嘩をしに来たわけじゃないんですから。」

 「……ごめん。つい、ムキになって……」

 「服部さんも、少しは兄さんのことを考えてやってください。兄さんは本当に服部さんのことが好きだったんですから。」

 額に入った写真の中の竹内が自分のほうを見ている気がした。永遠に細やかな微笑みを見せ続ける彼の視線の先には、弟ではなく和泉がいるのだろうか。

 「キミは私とお兄さんのことを知ってるんだよね。」

 「はい。」

 「私にそんなこと考えられる余裕なんてあるわけないでしょ。」

 「どうしてですか。」

 「あの人は私を買ったのよ。高い買い物なだけでそこには愛なんてない。乾ききった肉体関係があるだけ。抱かれているときだって何も考えていなかった私に、今更考えるなんてできるわけないじゃない。」

 和泉は写真から目を逸らした。司が写真と向かいになるように和泉を座らせたのは意識してのことなのだろうか。竹内を見ないですむように和泉は視線を意識して虚ろにさせ、あるときはクルミに、またあるときは司に目を向けていた。

 「兄さんって人は、今まで何一つしてこなかったんです。偏差値が少し高かったってだけで、小学校のときから無条件に塾に通わさせられて、父さんに決められたいい中学に行かされて、いい高校に入ってもそこは予備校みたいなもので……。大学に入ってすぐに父さんと姉さんが亡くなって、遊びもしないで研究室とアルバイトのくり返し。母さんは僕を生んですぐに亡くなりましたから、ここ数年間、ずっと僕は兄さんに頼りきっていたんです。」

 「みたいね……。そのことはあの人も言ってた。『僕には両親がいません』って。」

 「一流企業に入って、気がついたら恋もしないで命が終わりにきていたんです……。兄さんの一生って、何なんですか?」

 「私に聞かれたって困るよ。」

 「今まで一度も自分のことを考えてくれる女性がいなかったんですよ。大学のために何もかもを使って、学生になったら生活のために全てを使って、ふと自分の命に気付いてみたら何もない人生だったって結論が出たんでしょうね。最後の最後でやっと自分のことを考えてくれる女性に出会ったんです。」

 「それが私?」

 「援助交際だって、セックスの最中は恋人同士でしょう。間にあるのが、お金だって、本当の愛だって、それは恋人なんです。」

 「それはないわ。私はあの人と契約していただけなんだから。一度だって恋人だなんて思ったことはない。」

 「兄さんは自分のことを考えてくれる女性がほしかったんですよ。焦ってたんでしょうし、恋愛なんてしたことない兄さんのことです。服部さん、兄さんは女性に声を掛けるなんてできる人に見えますか?」

 「そんなことをしない人なら、最初っから私と援助交際なんてしないよ。」

 「違います。女性とどうすればつき合えるか何て全然わからないから、お金に頼ったんです。口説くのは誰もができるわけじゃないですけど、ある程度のお金があればそれを見せることは誰だってできるんです。そりゃウチは金持ちじゃないですけど、兄さんにはお金が入りましたから兄さんにだってできたんです。何もできなかった代わりにお金で恋人を作って、自分のことを考えてくれる女性を見つけようとしたんです。最後には挫折しましたけどね。」

 「私が挫折だって?」

 「今まで一度でもいいから、兄さんのことを考えてくれたことがありますか? 一度もないじゃないですか。ですけど、とりあえずは女性の側にいられるってだけで、兄さんは服部さんと会い続けていたんです。いつかは心を開いてくれると信じてね。それなのに最後の最後まで、いや、未だに服部さんは兄さんのことを考えてないじゃないですか。少しは考えてくれていると信じていたのに……」

 和泉は司が自分の感情を出したのを初めて見た。司だけじゃない。竹内兄弟が和泉の前で自分の感情を出したというのはこれが初めてではないだろうか。

 「考えたくないからよ! お金がなかったらあんなのただのレイプじゃない! 抱かれたんじゃない! 犯されたんだ……」

 「それがどうした!」

 「あんたね……」

 「同意でしょ! 服部さんは、兄さんから見返りだって貰ってたんでしょ!」

 「そんなんでカタがつけれるほど、男と女の関係ってのはうまくはいかないんだよ。」

 司は下を向いて、和泉の目を見ないで口を動かしている。せめて一言だけでもいいから兄のことを考えてると言ってほしかった。それなのに、和泉の口から出たのは兄を犯罪者扱いする言葉。自分一人が正しくて、責任の全てを亡き兄に押しつけようとする和泉が許せなかった。

 「和泉、ちょっと……」

 クルミが沈黙を破って口を開いた。

 「何よ?」

 「あなた、何を考えてるの? 司クンがどういう気持ちであなたに来てほしいと思ってたかを思い出しなさいよ。」

 「それぐらいわかってるよ。でもね、思い出を覆すなんてできるわけないんだ。あの写真の人は悪夢でしかないんだ……、私にとっては……」

 司は和泉に謝ってくれと言っているだけであって、何も和泉を辱めているわけでない。が、今の和泉にはそんなふうに感じ取れるだけの余裕はない。竹内に犯されたと感じ、目の前にいる少年をその加害者の弟としか見れなくなってしまった和泉には、司の言葉の一つ一つが心の奥底に付き刺さってしまい、どうあっても謝るなどできるはずもない。

 「もう二度と、ここに来ることないと思うから。」

 「帰るの?」

 「そうよ。悪い?」

 「逃げるのね。」

 「ええ、そうよ! ここから逃げて何が悪いっての! あなた達はいつまでもそうやって私に怒ってればいいじゃない!」

 ジュースに一度も口をつけることなく、和泉は靴を履いて玄関から出て行った。

 走って……

 逃げて……

 振り向かないで……

 「ハァ…、ハァ…。……。馬鹿みたい。クルミと一緒にアパートに行く理由なんてなかったのに……」

 東横線を降りて家に帰るまで一度として止まることのなかった和泉の足が玄関で止まると同時に、アパートを出てから浮かびもしなかった涙が浮かび上がってきた。

 自分が竹内に抱かれたことの悔しさを思い出して。


 「何よ。今日も私を拉致しようっての?」

 「同じ学校なんだから、同じ電車に乗ってたっておかしくないでしょ。」

 「言っておくけど、私は絶対に行かないからね。」

 「もういいよ、そんなの。どうやら司クンも気を落ち着かせたみたいだし、あなたのこと諦めたみたいだし。」

 「当然。」

 混雑を極めるこの路線でも珍しく座れたのは、単に遅刻をしたから。それも一時間どころではすまないレベルの。

 クルミはその間ずっとホームで和泉を待ち続けていた。昨夜やっと、心から司と結ばれたことの喜びも手伝って。

 「諦めたのは和泉に謝ってもらうことじゃないよ。」

 「じゃぁ何よ。」

 「司クンは和泉のほうが好きだったんだよね。好きという言葉が相応しいかどうかわからないけど、和泉、亡くなったお姉さんに似ているんだって。お兄さんが亡くなったとき、迷わずに和泉に頼ろうとしたのも和泉への憧れがあったからじゃないの。」

 「へぇ。」

 「ずいぶんとそっけない返事ね。」

 「あの子が私をどう思おうともう関係ないこと。知ったことじゃない。」

 「司クンにとってお姉さんは母親みたいな人なんだ。だってそうでしょう。母親は司クンを生んですぐ亡くなって、母親の代わりにお姉さんがいたんだから。」

 「聞こえはいいけど、そんなの要するにマザコンでしょ。」

 「母親を見たことない彼に言わせれば、マザコンになれるだけでも贅沢な話だよ。」

 「……」

 母を見たことがなく、父と姉を失い、ここに来て最後の肉親を失った司に言わせれば、和泉の悩みなどまだまだ甘い。

 「どう、このまま渋谷に行かない?」降りる駅が近づいたときになってクルミがこう切り出した。

 「何で?」

 「今日は学校に行く気分じゃないから。」

 「そんなこと言って渋谷で彼氏と待ち合わせでもしようってんじゃないの?」

 「司クンは学校だよ。今日から期末試験なんだって。一応司クンは進学校の生徒だし、私たちみたいにダラダラした高校生活送ってるわけじゃないんだから。」

 「行こうか……」

 降りるべき駅を通りすぎ、クルミに誘われ、和泉達の本拠地とも言うべき渋谷に降り立った。学校をサボって何度も渋谷に足を運んでいたが、クルミと二人だけでここに来るのは今年になってから初めてではなかろうか。

 「う〜ん。やっぱりこの街が一番あってるんだな。」

 「本当。」

 「でも、最近全然降りなかったから、久しぶりって感じのほうが強いな。」

 「どうして来なくなったんだっけ……」

 「もっと遊びたくなったからよ。遊ぶにはお金がいるけど、お金がなくなったから。それに、私は彼氏ができたし和泉は援助交際を始めた。みんないろいろとお金を稼いだりしてるから、一緒に遊ぶにも人数が揃わなくなったし。」

 「クルミの隣りにいた大学生を見てから焦りだしたんだよ。」

 「ここでナンパされただけなんだけどね。ほら、半年前ぐらいにちょうどこのあたりで声を掛けられて……」

 男っ気のなかったこの集団を結びつけていた『彼氏のいない』という枠が崩れてバラバラになり始めた。誰もがクルミを羨ましがってそれぞれに恋人を求めるようになったけど、それが本当に彼氏を求める動きと、クルミの本心のように貢がせるだけとに分かれて、その際たるものが和泉の売春だった。

 「世間じゃ私たちどう見られてるんだろうね。オバサン世代じゃ『ナウなヤング』だとか未だに思われてたりして。」

 「とんでもない犯罪者かもよ。売春してるのと、詐欺同然で金を奪い取ってたのとのコンビじゃ。」

 「でもドラッグはやってない。」

 和泉は意識して司のことを話題から外そうとしていたし、それはクルミも同じだった。司を間に交わすと和泉とクルミとの間に計り知れない溝が生まれる。それをしないようにわざわざクルミは和泉を渋谷に誘った。

 「マックにでも行こうか?」

 「そうだね……」

 適当に渋谷の街で時間をつぶしているうち時間は正午になっていた。昼ごはんの場所というよりも座って話のできる場所ということで和泉達は何度もここに行っていて、今日もその延長のようなものだった。

 「あんぐ……」

 「大口開けてみっともない。」

 「和泉だって人のこと言えないでしょう。口のまわり。ケチャップ……」

 「そんなこ……」

 ポテトを口に運ぼうとつまんだ瞬間、和泉に耐えきれぬほどの吐き気が出てきた。口に手を当ててトイレに走って行き、流しの前で戻し始めた。

 「和泉、だいじょうぶ……」

 「う、うん……」

 「あのね、そんなふうに口に手を当てながら言われたって、だいじょうぶには見えないんだけど。」

 「ごめん、すぐよくなると思うから……」

 「そう?」

 和泉はこのときまさかと思った。

 ここ二ヶ月間……、ない……

 二週間遅れるだけでも可能性があるのに、和泉は五週間も遅れている。

 薄々気付いてはいたが、来るべきときがきてしまったのか……

 「ごめん、やっぱ帰るわ。」

 「そうだね。寝ていたほうがいい。どうせ二・三日で治るでしょ。」

 「うん……」

 本当にそうならばいいが、可能性の通りならば寝ていて治るものではない。それより、一刻も早く産婦人科に行って事実を確かめなければならない。

 父親になる可能性があるのは自分を犯した人だけ。その子どもが自分の中で生まれようとしている。憎んでいる人の子どもであると同時に自分の子どもが。

 「嘘だよね、絶対嘘だよね……」

 産婦人科医でもない限り、和泉の身体の中で生まれつつある事実を確認することなどできない。

 「和泉、どうしたの? 顔色が悪いよ。」

 「いや、いや……」

 「和泉、和泉!」

 「触らないで!」

 電車の中で自分のことを心配してくれているクルミの手を遮ったとき、二度目の吐き気が生まれた。何とか駅に降りて、駅のトイレの洗面台に手をついて、吐き気と戦っている。


 RRRR…

 「はい、竹内です。」

 その日の夜、司とクルミの二人だけの空間を乱すかのように、和泉からの電話が架かってきた。

 『クルミ、いますか?』

 「渡辺さん、電話です。」

 「誰から?」

 「たぶん、服部さん。」

 和泉からの突然の電話も、昼間のことがあるから『もう治ったから』と言ってくるものだとしか思っていなかった。

 その思いをはるかに覆す言葉が和泉から聞かされ、クルミはしばらくの間戸惑っているしかできなかった。

 家の中でミーコに見守られながら和泉はクルミに電話をしているが、自分の部屋しか明かりが灯っていない。帰ってきても家族が帰らず、和泉一人で悩み抜かねばならなかった末のクルミへの電話。

 「私、どうすれば……」

 『どうすればって……』

 「こんなの、誰に相談していいのかわからなくて……。お父さんもお母さんも帰ってこないし……」

 『とにかく、病院に行かないとしょうがないでしょ。』

 「それはわかってるけど……」

 『どっちにしても、とにかく事実がわからないとどうにもならないじゃない。』

 「おねがい、助けて……」

 『とにかく、いますぐそっちに行くから。いい、待ってな。』

 静かに受話器を置くと、和泉はうつ伏せにベッドに横になった。

 この日ほど寂しさを感じた日はない。クルミが来たところでどうにもならないことぐらいわかっているのに、クルミの来るのをずっと待ち続けている。

 もし、ここで家族が帰ってきたらどうなるか。その行動は人のことを言えるものではないが、それでも家族として和泉を心配してくれるだろう。

 だが、もうそんな考えなど不必要な代物になった。父からは「残業」母からは「友達と飲みに」と連絡が入ってきたから。ラブホテルとホストクラブで、今日も浮気。

 「親に頼れないとは、ウチもいいかげん情けない家族よね……」

 ピンポーン

 チャイムが鳴り、和泉がドアを開けると玄関にはクルミと一緒に司も立っていた。

 今の和泉には司がいようといなかろうと関係のないこと。むしろ、一人でも多くの人が自分のことを心配して自分のところに来てくれるのは嬉しいこと。

 「明日、私も病院に一緒に行くから。」

 「うん……」

 「でも、そこから後は和泉だけが決めることになるね……。私にも、司クンにも、決められることじゃない。残酷だけど、産むか産まないかを決められるのは和泉だけ……。そりゃぁ、司クンの気持ちもわからないではないけど……」

 全ての肉親を失った司にとって、本当に妊娠していたら和泉の身体の中で育ちつつある命が最後に残してくれた親類ということになる。

 家族が帰ってこないことを知ったクルミは、一晩中和泉の側にいることにした。

 「司クンはどうする?」

 「できれば、僕も泊めてくれませんか。」

 「……」そう言った司を、和泉は白い目で見ている。

 「いや、別に、下心とかじゃなくって、僕だって心配なんですよ。甥か、姪か、何でもないことなのか。服部さんの中には僕に最後に残された肉親がいるわけですから……」

 「そうだね。ソファでよかったら泊まってもいいわよ。」

 和泉の家から明かりが消えて、朝を待つための時間を過ごす。

 眠ろうとしても眠れなかった。和泉も、和泉の側でじっと見守っていたクルミも、階下のソファで直接和泉を見ているわけではない司でさえも、どんなに眠ろうと目を閉じても眠れなかった。


 「服部さん。」

 「はい……」

 診断の結果を伝える運命の瞬間は和泉一人でいる。クルミも、司も、病院の建物から出た別の場所にいる。あらぬ噂が立ちかねないことと、かえって誰かが側にいると辛いということがあるから。

 産婦人科の病院の向かいにある喫茶店の窓際の席で、クルミは司とコーヒーを飲みながら和泉の出てくるのを待っていた。

 「渡辺さん。」司は真剣な眼差しでクルミを見つめている。

 「なに?」

 「もし、そうだという結果が出たら、僕と別れてください。」

 「……、」

 「……」

 「ちょ、ちょっと待ってよ。いきなり何を言い出すかと思ったら。」

 「服部さんの産んだ子どもの親になります。学校も退学して、育てていきます……」

 「冗談じゃないわ! 私はどうなるの。」

 「渡辺さんのことが好きです。だけど、親のいない苦しみを僕はいやというほど知っているんです。服部さんのお腹の中の子に、苦しみを味わわせたくないんです。」

 「そんなの司のエゴよ。産むかどうかを決めるのは和泉。司クンじゃない。」

 「そうですけど……」

 「司クンが和泉のこと好きだったのもわかるけど、そういうことはもう少し落ち着いてから話さないと、後になって後悔することになるんだから……」

 司の一言はクルミに強いショックを与えた。自分のものと信じて疑わず、同居して、身体まで渡して、心の底から愛しあっていると自信を持って言えたのに、それが和泉のお腹の中の子に奪われてしまうのではないかという疑いの気持ちが芽生え、やるせないヤキモチとなって完成した。

 「渡辺さんのことが好きですし、渡辺さんのことを恋人だと思っています。でも、僕は渡辺さんのおもちゃじゃありません。自分のことは……、自分で決めます……」

 司とクルミとの間に溝が生まれつつあった。羽ばたきたい司と、一人占めしたいクルミと。


 喫茶店で自分の事が話されている間、本人の気持ちは結論の末の二つの選択肢のうちの一つに決まりかけていた。

 「本当にそれでいいのね……」

 「……、はい……」

 「あなたにして見ればほんのちょっと子宮の中にショックを与えるってだけだけど、新しい命はもうそれで死ぬのよ。」

 「私の子どもです。でも、大嫌いな人の子どもでもあるんです。憎いんです。このまま産んだら、私、子どもを可愛がるなんてできなくなる……、だったら、いっそのこと生まれる前に私が殺してしまったほうがまだ気が楽じゃないですか……」

 検査結果は、和泉の身体の中に新しい命があると出た。そして、和泉はその子を産む気になどなれなかった。

 「しばらくでも間に合う段階だから、せめてもう少し経ってからもう一度来なさい。来週に予約を入れておくから。」

 せめてもの救いは医師が女性だったこと。男だったらどうなっていただろうか……

 竹内に対する憎しみと恐怖が次第に男性不信へと変わっている。医師である以前に男性であるということが耐え切れぬ羞恥心を生み出していたであろう。

 受診料を払って静かに病院から出てきた和泉は喫茶店のガラス越しに座っている二人に目を向けた。手を振る気にも、ガラスを叩く気にもなれない。

 クルミも和泉の表情を見れば結果がどうだったのかぐらいわかる。『どうだった?』など言えるはずもない。一言も言わずに喫茶店を出て、一言も言わずに和泉をタクシーに乗せ和泉の家に向かう。

 喫茶店での払いを済ませて家に帰るまでの間、クルミと司との間が妙にギクシャクしていることに気付く余裕も和泉にはなかった。

 「すいません、この角でいったん停めてください。」後部座席に座っていた和泉が言った。タクシーは司のアパートの近くで停まっている。

 「どうしたんですか? 僕の部屋に何か用でも?」

 「司クンはここで待ってて。」

 「服部さん、どうしてですか?」

 「疑いが掛かるでしょ。キミは何の責任もないんだから。」

 司にして見れば和泉のこの口調は意外なものであり当然のものでもあった。確かに和泉を妊娠させたのは司ではない。

 今ここで司が家の中に入って事情を説明したとすれば、自動的に司が和泉の男ということになる。和泉が今までずっと竹内の弟ということで見てきた司を、責任とは関係のない司に見たのはそこにある。

 「渡辺さん。よろしくお願いします。」タクシーを下りた司は車中を覗いている。

 「女のことは女に任せなさい。」

 「でも、任せたところで、堕ろすのはクルミじゃなくて医者だから……」

 「堕ろす……」

 「決めたの?」

 「うん……」

 「そう……」

 司には聞きたくのない言葉だった。

 家族に対する欲望を満たそうと、司は和泉のお腹の中の子に期待を掛けた。かつて憧れを抱いた人。今の司はクルミの恋人をしているけど、和泉への思いをどんなに諦めても無意識の中では和泉への憧れが消えてはいない。

 この機会は和泉への想いと家族への思いを満たす絶好の機会。だが、司は計算をし忘れていた。自分が同棲している相手が自分に抱いている想いは本物だということを。

 「一人になっちゃったんだ……。でも、そんなのやだよ……」それでも司は最後の家族が消える運命だということをあっさりと受け入れるなどできなかった。


 家に帰ると父と母と一緒に、見たこともない女性用の白い靴が置かれていた。タクシーが玄関の前に泊まり、クルミに担ぎ込まれるようにして家の中に運ばれ、両親の前を通りすぎて和泉は自分の部屋へ行ったというのに、両親は和泉に目を向けはしなかった。

 朝まで司の寝ていたソファには、和泉の父の愛人が、生まれて間もない女の子を抱いて座っていたのだから。

 「な、何なのよ……、ウチの家族って何なのよ!」

 階段を上る途中で和泉はクルミの手を振り切り、応接間に入っていった。

 「お、お父さんも、何考えてるのよ!」

 「こら、和泉! 大人の話に口を挟むんじゃない!」

 和泉が応接室に入ってきたのを見て父は一括した。関係ないと言いたげに和泉をここから追い出そうとするが、和泉は逆に応接室の真ん中に入ってくる。

 「お父さんもお母さんもそんなんだから、娘がどんなことしてんのか無関心なんじゃないか! 私知ってるんだ! その人はお父さんの二人目の愛人だし、お母さんだって外に男がいるじゃないか! ウチの家って何なのよ……」

 応接室のテーブルの上には離婚届が置かれている。印を押して役所に持って行けば、和泉の両親は"両"親ではなくなる。

 自分が愛人なんてものをやっていたのは親に対する反発もあったのではないだろうか。両親が好き勝手やっている代わりに、子ども達を振り返らなくなっていた。満たされぬ親の愛情を金で満たそうとして、竹内に身体を委ねた。

 「そんなことばっかりやってっから……、娘に……、気付かないんだ……。少しは私のこと心配してくれたっていいじゃない。そんなんだから、娘に気付かないんじゃないか。私、今日病院に行ってたんだよ……」

 「風邪でもひいたのか?」

 「妊娠したんだ! お腹にいるんだって、もうすぐ三ヶ月だって。でも、相談しようとしてもいなかったじゃないか! せめて帰ってきてよ。今日だって友達に一緒に行ってもらったんだから。」

 「で?」

 父から帰ってきたのはあまりにも意外で簡単な一言。心配だなんて期待もしなかったけど、せめて一言でも怒ってほしかった。それなのに、父は目の前の離婚のほうが重要で和泉の妊娠など気にも止めはしなかった。

 母はどうかと思い母のほうに目を向けてみたが、彼女も娘に目を向けはせずに目の前にある離婚届に目を向けている。

 多少とは言え、声を書けた分だけ父のほうがまだマシな対応だった。合格にははるかに及ばないが。

 「どうなってるのよ……」

 全ての気力が失せて、和泉は力なく階段を上っていった。

 切り出したタイミングが悪かったことも確かにある。それに、タチの悪い冗談だと捉えもされただろう。だが、それを差し引いても今の和泉の両親の対応は納得ができない。

 両親が、正確には母が対応を示したのは、母が離婚届に印を押してからしばらくしてのこと。階段を上がって、部屋の中に入ってきた母の手には父が渡したばかりの慰謝料の一部がある。

 「さっきの話本当なの。」

 「そう……、今朝病院に行って来たんだから。もうすぐ三ヶ月だって。」

 「今すぐ堕ろしてきなさい。これだけあれば足りるから。」

 「私が言いたいのはそう言うことじゃないんだ! 少しは心配してよ! 金だけ出して『堕ろしてきなさい』だけだなんてひどすぎるよ。私を何だと思ってるの!」

 「心配してるに決まってるでしょ。」

 「それじゃせめて相談の一つでも乗ってくれればいいじゃないの。昨日だってどこの男にところ行ってたのさ。」

 「どうして知ってるのよ!」

 「何言ってんのよ! お父さんの愛人のことだって知ってたくせに。それだって自分の愛人隠そうとして黙ってただけでしょ!」

 このまま何かをしていても永遠に沈黙が続くだけ。もう、服部家は壊れてしまった。六畳のこの洋間だけが服部家の中で和泉が安心していられる場所になってしまった。

 「いいから堕ろしなさい。お金は私が出すから。」

 「堕ろすわよ。でもね、それはお母さんの指図じゃない。私の意志。」

 母はベッドの上に札束の入った封筒を放り出して廊下へと出ていった。夫に次いで娘も自分から離れて行くのかという悲しさがあったが、その原因を自分に求めはしなかった。

 「クルミ、悪いけど、しばらくあなたの家に泊めて。」

 「無理。私も家出同然の身。司クンのところに転がり込んでる私にそんなのできるわけないでしょ。」

 「そうだった。じゃぁ、星川のところにでも泊めてもらうわ。」

 「間違っても司クンのところには来ないでね。司クン、すごく心配してるから。」

 クルミは司が自分と分かれて和泉の子の父親になる決意だというのを最後まで一言も言わなかった。いくら親友でも、司だけは他人に譲るわけにはいかないし、やっていることだけを見れば自分で本当に司の子を作りかねないのだから。

 クルミはそれを望んでいるフシもある。始めは確かに愛ゆえのセックスだったが、今のクルミが司の前で裸になるのは、それを既成事実にしてしまって、司を永遠に自分の側に置いておこうという意図が前面に出ている。


 「服部さん、ちょっと来てくれませんか。ほんの少しでいいんです。」

 入院の日、制服を着た司が病院へ向かう途中の和泉を呼び止めた。同居を始めてから学校以外の全ての時間をクルミに監視されているようなものの司には、こうして和泉と二人きり出会うという機会がなかなか得られない。

 「あなた、学校は?」

 「試験休みですから。あ、このことは渡辺さんには内緒ですよ。今日も学校だって言って部屋を出てきたんですから。」

 「それで、何の用?」

 「一時間でいいですから、僕とデートしてください。」

 「デートぉ?」

 「はい。」

 「クルミはどうするのよ。」

 「デートなんですから、渡辺さんのことは言わないでください。」

 司は和泉の手を引いて、病院の向かいの喫茶店に向かった。この間座った場所とは全く違う奥の入り組んだ席に場所を置き、同じ注文をして向かい合って座っている。

 「一度、こうして服部さんと話がしたかったんです。二人きりで。」

 「そりゃ、クルミがいたら言いづらいこともあるでしょうからね。」

 「それもありますけど、最近の渡辺さんおかしいんです。ずっと何かに追われているみたいで脅えたり、僕が浮気しているんじゃないかって真夜中までずっと問いつめたり、何だかアパートに帰るのも怖くなって……」

 和泉も薄々は感づいていた。アパートに足を運んでも、クルミはずっと司に寄り添って自分を牽制していた。司が逃げてしまうのではないかという脅迫感がクルミから漂っていて、和泉を部屋から追い出そうと無言の圧力を加えているようだった。

 「変わったのは、服部さんが妊娠してからです。もちろん、それが直接の理由じゃないですけど。」

 「何かあったの?」

 「率直に言います。今からでも入院を止めてくれませんか。」

 「は?」

 「服部さんのお腹の中にいる子を、ください。僕には家族がいません。だから、一人でもいいから僕と血のつながった人がほしいんです。兄さんと二人きりになってからずっとそれを考え続けてきましたから。」

 「でも、親戚とかいるんじゃないの? オジサンとかオバサンとか、おじいちゃんとかおばあちゃんとか。」

 「ウチは両親が駆け落ちしてできた家族でしたからね。お年玉とかも近所の人はくれても、親戚にもらった覚えはありません。」

 「駆け落ちか。あのアパートに?」

 「あそこは兄が大学に通うので借りたものです。それまでは父さんと姉さんと三人で田舎に住んでました。」

 「そうなんだ。」

 司は延々と自分のことを話し続けた。同じことは何度かクルミに話したが、どうしても一つだけ言えないことがあった。今のクルミに話したらどうなるかを予想すれば、悪い結果しか導き出せないことだから。

 「キミ、さっきお父さんとお姉さんとが亡くなったって言ったけど、それってやっぱり病気か何かで?」

 「服部さんは何度も犯されたって言いましたけど、それでも他人ならまだどうにかなりますよ。」

 「?」

 「姉さんは、ずっと父さんに犯されてきていたんです。」

 「!」

 「それがレイプだって理解したのは中学生になってからですよ。姉さんの部屋で父さんが寝るときがあったんです。そして、そのときは決まって姉さんは泣いていました。だんだんと姉さんの泣く回数が増えて、六年生の夏休みに、その関係は無理やり終わりました。姉さんの手に包丁があって、父さんが姉さんのベッドで血まみれになって倒れていたんです。二人とも裸でした。」

 司の口から語られる言葉に和泉は驚きを隠せずにいた。口にしようとしても簡単にできるようなことでもないのに、司は淡々と語っている。

 「警察を呼んでいる隙に姉さんの手にしていた包丁は自分の胸元に刺さっていました。それで、兄さんのところに僕は逃げてきたんです。田舎ってのは、少しでも問題が起こると家族にまで白い目が向けられるんですよ。逃げて、横浜に出て、都会に住んでやっと人の目を気にしないで生活できる安心を手にできたんです。」

 「司クンに言わせれば、私なんかまだまだ軽いものだと言うわけ?」和泉はこう言いながらも、写真で眺めた白黒写真での司の姉の顔が思い浮かび、彼女を被害者として心の中で哀れんでいた。

 「服部さんは姉さんをかわいそうに思いますか?」

 「そりゃね……」

 「渡辺さんと同居するまで僕はセックスを忌み嫌っていました。セックスの欲望が僕の家族を破壊したんですから。」

 「お姉さんがそんなことになればそうなるに決まってるよ。」

 「だけど、姉さんが被害者でいられるのはそこまでです。確かに姉さんは父さんに犯されていました。ですけど、僕がどうやって生まれたかを知ってください。父と娘と言っても男と女です。結果が出るときは出ます。」

 テーブルの上のアイスコーヒーの氷が徐々に解けてきた。ガラスのカップの縁を彩るように水滴が付いているが、和泉の前に置かれたカップには一度も和泉の指紋が着くことはなかった。

 司の話を聞くのに精一杯で、コーヒーを口に運ぶこともできない。

 「だから、あなたのお姉さんは……」

 「……、その結果が僕なんですよ。」

 「え……、どう言うこと?」

 和泉はしばらく理解できなかった。幼い顔をして衝撃的なことをスラスラと話している司の、その言葉を到底理解できるはずない。

 「僕は父さんと姉さんとの間にできた子です。もちろん、そんなこと公にできるわけありませんから、生まれる直前まで姉さんは妊娠を隠しました。でも、生まれてしまったんです。」

 「……」和泉は何も言えなかった。理解はした、いや、無理やり理解させられた。しかし、司の真実は受け入れられるようなことではなかった。

 「僕が生まれたとき母さんは自殺したんです。仕方無く僕は母さんが生んだ子にして、戸籍では捨ててあった子どもを拾ったことにして、育てられたんです。僕は姉さんとは十五歳離れてます。亡くなったときは二十六。十一年間、姉さんは僕の姉を演じ続けてきたんです。父親と母親がセックスするのはおかしくないですけど、それが父と娘でもあるんです。ウチでまともだったのは兄さんだけですよ。僕は罪を持って生まれた子なんです。自分ではどうにもできませんけど。」

 「……」

 「それは、兄さんが死ぬ直前に僕に言ったことなんです。兄さんだけが僕を守ってくれましたけど、もうこれから先は自分一人で生きていかなければならないんです。」

 自分を犯した人も司にとって見れば自分を守ってくれたたった一人の人。真相を教えぬまま死を迎え、直前にそのことを口にしたとき、弟はどんな気持ちで聞かねばならなかっただろうか。和泉はその兄が愛した女性、兄に頼っていた司が和泉を頼ろうとしたのも自然の選択なのかもしれない。

 「どんな子どもだって生まれる資格はあるんです。と同時に、僕の生まれた真相を知ってからずっと、生まれてきたことを悔やみました。渡辺さんと一緒にいるとそのことを忘れられそうでしたけど、結局は忘れるなんてのはできないんです。それに、今の渡辺さんは……」

 このことを口にするのはどんなに辛かっただろうか。でも、母親への選択もできる和泉にならば言ってもいいかも知れないと司は考え、やっと口にできた。

 だが、聞かされたほうはたまったものではない。売春であっても相手が他人ならばここまで苦しむこともないし、生まれてきた子どもの苦労もこれとはまた別のものになる。

 「生むか生まないかは服部さんが決めることです。でも、親のエゴで決めちゃだめですよ。誰にだって幸せになる権利はあるんですから。」

 「この子にも……」

 和泉は自分のへその下にそっと右手を当てた。この中には命が一つある。

 「このことは渡辺さんに言わないでください。今の渡辺さんには……」

 これが、司が和泉に交わした最後の言葉になった。


 和泉は産婦人科の建物から出てきた。命が一つ消えて。

 「暑いや……、そうか。あさってから期末試験だもんね……。夏休みか……」

 自分のしたことから遠ざかりたくて、和泉はどうでもいい事に目を向けている。夏だから当たり前の暑い陽射しも、ジャマだとしか思えなかったポスターも、事実から逃げるためには役に立った。

 「人を一人、殺したんだ……、これでやっと、縁が切れた……。なのに、どうして涙が出るのよ……、司のヤツ……、あんなこと話しやがって……」

 その話をした相手の部屋の住人に電話をしようと携帯を取り出して電話をしたが、どんなに待っても向こうの受話器の取られる音がしなかった。

 タクシーで迎えに来るとクルミは言っていたし、電話で呼んでとも言っていた。それなのに電話をしても誰も出ない。

 「司が許さなかったんだろうな……、命、奪いとったんだから……」

 仕方無く、和泉はタクシーを拾って自宅へと向かっていった。家を出たっと言っても和泉の家であることには変わらないし、二階には和泉の部屋が残っている。身体を休めるのにもっとも相応しい場所であることには変わりはない。

 「二七八〇円です。」

 「はい。」

 壊れてしまった家庭でも家そのものは残っている。玄関を開けて両親の靴が残っていればまだ元に戻れるかもしれないという淡い期待も抱けるが、そこには何もなかった。ネコのミーコすら帰ってきた和泉を出迎えず、トイレをミーコが使った形跡もない。

 離婚が成立して、父が女と、母が男と一緒に家を出て行ってしまった。そのうちどちらかが新しい父親なり母親なりを連れてこの家に戻ってくるだろうが、それまでの間この一軒家は和泉だけの家になる。

 「一人もいなくなった。お父さんも、お母さんもいなくなった。弟は相変わらず顔を見せていない。クルミや司のほうが、まだ私を心配してくれる。でも、そのクルミは……」

 部屋に入ってくると留守番電話のランプが点滅していた。用件が何件か入っているのだろうけど、今の和泉にはそれらを聞く気になどなれない。

 和泉はベッドに横になったまま身体を休めている。病院のベッドで、眠って、目覚めたときには全てが終わっていた。横になるのはその目覚めの時以来。

 考えることは一つしかないし、それを考えることからは逃げたがっている。和泉はテレビのスイッチを押し、興味なんて全くない高校野球に画面を合わせた。おもしろくもないワイドショーよりはまだマシだから。

 「同じ高校生なのに、どうしてこうも違うんだろ……。好きなだけ遊んでたけど、その見返りにしては大きすぎるじゃない……。」

 球児達と自分とでは、同じ高校生なのにあまりにも違いすぎていることに悔しささえ覚える。その日その日が楽しければそれでいいという生活をしていた和泉には、彼らの青春など到底理解しえるものではなかった。が、今の和泉には彼らの行動の全てが羨ましく感じるものになっている。

 『五回のウラを終わりまして、供に現在まで無得点。ここで五分間のニュースをお送りします……』

 テレビを点けていても野球に興味があるわけでもなく、ただ天井を見つめて声を聞いているだけでしかなかった。

 テレビから興味もないニュースの音声が流れてきて、和泉は条件反射のようにチャンネルを変えようとしリモコンに手を延ばすと、ふと、留守電のランプに目が行った。

 「クルミかな?」

 和泉はそのスイッチを押した。

 『ごめんね……』

 テープに一件だけ吹きこまれていたのはクルミの声。その声に一緒にいるはずの司の声はなく、クルミだけが延々と話し続ける。

 『どうしても、司クンを和泉に渡したくなかった……。だから、司クン、もうずっと私だけのもの……。誰にも渡さない……、司クンを見守れるのは私だけ……』

 その声は正常のクルミの声ではなかった。正常を失いながら、和泉に電話をしている。それもクルミの耳には和泉の声が聞こえているらしく、勝手に和泉と会話をしている。

 司を、刺し殺した。確かにクルミはそう言った。それが正しいことであるかのように冷静に言った。そして、これから自分も自殺すると宣言している。

 「ちょ、ちょっと待って……」そう言っても、留守電の向こうからは延々とクルミの声が聞こえてくるだけ。

 『司クン、どうしても会いたい人がいるんだって……。だから、これから私と会いに行くの。……。そんなこと言っても、もう、司クン行っちゃったからだめ……』

 これが今話している言葉なら今すぐクルミの元に行くこともできる。でも、これは録音。クルミの狂気を止めなければという思いもあるが、間に合うだろうかという思いもあった。 『そうだけど、でも、私はもう、いなくなるんだから……』最後にそう言うとクルミの声は途切れて、留守電の機械的な声が電話の架かってきた時間を伝えた。

 正常というのは正常と考えている人が多いから正常なのであって、正常でない人から見れば正常という人のほうが間違っていることになる。

 クルミは自分が正しいことをしているという信念を持っていた。これがリアルタイムの電話であっても、和泉が駆けつけたところでクルミの信念の変わることはなかっただろう。クルミにしてみれば和泉のほうが間違っているのだから。

 着替えて、自転車に乗って司のアパートに向かって、司の部屋のドアを叩いても中からは何の反応も返ってこなかった。

 「クルミ、クルミ!」

 叩いても反応はなく、鍵の掛かっていないドアを明けると、赤く染まった司の部屋と、倒れている司、そして包丁を手に司の側に正座をしているクルミの姿があった……

 急いで救急車を呼んだ和泉は司をどうにか助けようと二人の元に駆け寄った。

 「和泉……」

 クルミの微かな声が聞こえる。視線が定まらず、不気味な笑顔を漂わせているクルミの。

 「クルミ!」和泉はクルミの持っていた包丁を奪い取り、クルミの肩をゆすった。

 「司は、誰にも渡さないよ。もう、司も一人じゃない……、見て……、喜んでる……」

 司の元に寄ると、司は瞳を閉じ、息をしていなかった。確かに幸せそうな顔をしてはいるが、それはクルミと一緒にいることよりも、自分の持って生まれた罪から解放されることの喜びではないだろうか。

 「あなたいったい何をやってるのかわかってるの!」

 「司が言ったの……。『誰にも幸せになる資格がある』って……。だから、私は司と二人で……、ううん……、あなたの子どもと三人で……、幸せになるの……」

 「クルミ……」

 「私も、司も、幸せだから……。身体がこのまま死んでも……、心でずっと……結ばれ続けるの……。ハハハハ……」

 「……」

 クルミが微笑み続けている……


 あおひとくさ 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 衝撃のラストです。怖いというより悲しくなりました。
[一言] 妻の旧姓と同じ人物に戸惑いながらも楽しませていただきました。
[一言] わかりあえるはずも素晴らしい作品でしたが、こちらも読みごたえのある心に残る作品でした。 徳薙零己さんのブログも拝見し、他の作品も読ませていただきました。どれもこれもすばらしく、毎日夕方六時が…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ