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09 教授②(回想2017)&華府会議前哨戦(1921)

「二十一世紀の我々と違い、大正時代の人々は長生きできなかった。なぜだか知っているかね?」


「抗生物質が無いからです」


 こちらを向いた教授に、俺……中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は短く答えた。

 これは俺がタイムスリップする前、まだ平成時代の横浜で暮らし大学に通っていたときのことだ。場所は大学の講義室、周囲には俺と同じスーツ姿の男女が沢山いる。


 教授は変わり者で、受講者にスーツ着用を義務付けている。

 『英国史は英国紳士にしか理解できない』って口癖のように、教授自身も三つ揃えだ。男子学生は同様の姿で、女子学生もパンツスーツなんだよ。

 女子は就職活動にも使えそうなデザインだから良いけど、男子のスリーピースはリクルートスーツにならないだろう。そのため泣く泣く受講を諦めた友人もいるほどだ。

 教授の講義は面白いしテレビで英国関連のコメントをすることもあり、就職活動のネタとして選択しようかって学生もいる。このスーツ着用は、興味半分のヤツらを追い払うためでもあるらしい。


「よろしい。だが、せっかくだから続けてもらおうか」


「ペニシリンの発見は1928年、しかし大正は1926年12月25日までです。つまり大正時代に抗生物質はありません。そのため外科手術自体は成功しても、術後の感染で命を落とす確率が今よりも遥かに高かったといいます。

日本に抗生物質が普及したのはペニシリンを含め第二次世界大戦後です。更に1950年にストレプトマイシン……結核などの感染病に効く抗生物質が安価に入手できるようになり……」


 教授は椅子に腰を下ろし、じっくり聞く体勢になった。そこで俺は、第二次世界大戦前や直後の医療事情について少々細かく触れていく。


 ペニシリンの発見から実用化まで、十年ほど必要だった。そして日中戦争は1937年からで、実用化されたころ日本は孤立しており欧米の最新医療技術にも(うと)くなる。

 日本では第二次世界大戦末期に陸軍軍医学校で研究し、終戦前年に僅かだが生産に成功した。しかし大量生産は終戦翌年の1946年からだ。

 そしてストレプトマイシンが日本で本格的に普及したのは1950年だが、これは価格が十分の一まで下がったのが大きかった。前年は一本1万円だったのが、なんと千円まで下がったのだ。

 このころ米10キロが千円弱で米価換算なら当時の1万円は今の4万円に相当するが、ストレプトマイシンの投与は週に二三回だという。つまり二十一世紀の感覚なら薬だけで月40万円という高額医療で、しかも保険適用対象になったのは1951年だ。


「このころ日本の平均寿命は劇的に改善されました。男女共に五十歳以上となったのは1947年、そして1950年代前半には六十歳を超えています」


 あくまで平均だから、今と比べて遥かに高い乳幼児の死亡率も影響しているだろう。そう言い添えてから俺は口を(つぐ)む。


「及第点としよう。……中浦君が語ったように、戦前の人は若くして命を落とした。もちろん戦争の影響もあっただろうが、より身近な恐怖は病没だった。

今から比べたら未熟だが、大正当時の医療にも胃や腸の切除術は存在した。しかし術後の感染が怖くて早期の手術なんてとんでもない……どうしようもなくなってから一か八かの賭けとして手術に頼ったそうだ。仮に私なら……」


 更に俺が続けると、教授は珍しく感傷的な口調で応じた。

 教授は去年の夏に大腸ポリープを切除した。幸い良性で更に非常に早期、内視鏡手術だから入院も一週間未満だったとか。

 そのため俺達も後で知ったくらいだが、これが戦前ならどうだっただろう。仮に進行が早い悪性腫瘍なら、教授は六十歳を迎えられないかもしれない。


「入院中に聞いたが、内視鏡の始まり……軟性胃鏡の誕生は1932年だそうだ。それまでも硬性胃鏡というのがあったが、文字通り硬い棒だから、最初はサーカスの団員が試したとか」


「それって剣を呑む芸みたいなものでしょうか?」


 教授の言葉に、女子学生が目を丸くした。

 実際その通りだったようで、十九世紀後半に誕生したものは後の胃カメラと全く異なるものらしい。そのため軟性胃鏡の登場まで、切らずに胃を覗くなど不可能だったという。

 つまり大正時代なら相当進行しないと気付けないし、手術も開腹のみである。ちなみに内視鏡手術が始まったのは、1980年代も半ばを過ぎてからだ。


「俺、平成生まれで良かった……」


「本当ね……」


 初耳の者も多いらしく、あちこちで(ささや)き声が生じる。俺は教授の研究室で聞いたが、そこまで入り浸っているのは少ないからな。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 1920年代でも大腸を切除してストーマ……つまり人工肛門を形成する例はあったが、抗生物質がない時代だから手術は大きな賭けで施術例も少なかった。

 二十一世紀の日本でもストーマは慣れが必要で面倒だというが、それ以前に術後に生き残れるかが問題なのだ。


「そのようなわけでワシントン会議の首席全権加藤(かとう)友三郎(ともざぶろう)に残された時間は少なかった。

もし(はら)(たかし)が暗殺されなかったら、加藤は海軍大臣のまま世を去っただろう。しかし実際には11月4日に原首相が没し、加藤は僅か一年二ヶ月の首相生活を大腸ガンで終えて後を追う」


 教授は原敬や加藤友三郎を高く評価しているから、苦々しげな顔となっていた。

 双方とも対英米協調主義を掲げ、軍縮を推進した。そのため俺を含め、英国に親しみを感じ文民統制を当然とする者にとっては好ましい存在だ。


「しかもワシントン会議の最中、全権委員で駐米大使でもある幣原(しではら)喜重郎(きじゅうろう)まで体調を崩す。彼は腎臓結石のため、開催から僅か五日後の11月17日から翌年1月15日まで欠席した……海軍軍縮条約や九カ国条約の調印が2月6日だから、三分の二以上を休んだことになるね。

このように不運続きの日本に比べ、開催国のアメリカは順風満帆だった。自身の首都に各国を呼びつけるのだから最初から優位、事前の秘密交渉もそうだが……君達も幾つかの逸話を知っているだろう?」


「日本の暗号はアメリカに解読されていました。確か昭和に入って明らかになったとか……」


 教授が話を振ると、男子学生の一人が答えた。

 俺も知っているが昭和六年……1931年には大々的に新聞に掲載され、会議当時の駐米大使だった幣原は矢面に立たされた。昭和六年の彼は外務大臣だから、野党からすれば良い攻撃材料に違いない。


 ワシントン会議において、アメリカは日本の暗号電文のみを解読したという。このことからも彼らが日本の力を削ぐために動いたと理解できるし、自国開催という地の利を存分に活かした様子も窺える。

 昭和六年に露見したとき新聞は猛烈に政府を非難し、大阪毎日新聞などは『当時の日本の間抜けさ加減は言語道断というべきである』とまで書いた。外務当局は『招聘国として、むしろアメリカの国辱である』と返したが、当時も言い訳がましく聞こえたようで最後に付記されていただけだ。


 しかも外務省や軍部は反省しなかったのか、第二次世界大戦でも暗号解読を許し続けた。アメリカ人で日本語を使える者は希少だからと楽観視していたそうだが、既に先例があるから冗談としても出来が悪い。

 外務省の機械式暗号機は海軍から技術供与されていたが、運用自体がマズかったらしい。なんとわざわざ新旧双方の暗号を使い、同じ内容を電文として送ったそうだ。

 つまり相手国にヒントを与えたわけで、理解しかねること(はなは)だしい。


「有名な逸話だね。大正末から暗号生成と解読は劇的な進歩をし、昭和に入ると戦局すら左右した。

……たとえばドイツ軍は1925年に有名な暗号機エニグマを正式採用するが、連合国側は第二次世界大戦中に解読に成功した。ところが連合国は終戦まで解読成功を秘匿し、ドイツ軍は最後まで使い続ける。日本もそうだが、ドイツの敗北も暗号解読が大きく関与したわけだ。

解読したのはイギリスの数学者アラン・チューリング、暗号解読者でもあり、後にコンピュータ科学者にもなる人物だ。人工知能か判別する試験『チューリング・テスト』を提唱して『人工知能の父』とも呼ばれている……つまり機械式暗号の歴史はコンピュータ開発の前史だね」


 教授は日進月歩の技術革新に日本が追随できなかったと思っているようだ。もちろん先進的な人もいただろうが、少なくとも権力を握る半数以上は極めつけの石頭としているらしい。


 ともかく今のコンピュータ技術と同様に、当時の暗号技術も凄まじい速度で進化した。

 エニグマの解読を例にすると、最初は人海戦術で解読していたが1940年にはチューリング達が開発した暗号解読器『Bombe』の導入で状況が一変する。この『Bombe』は電気機械式で現代のコンピュータと異なるが、電子式計算機の誕生に大きく寄与したのは確かだ。

 このように第二次世界大戦のころは、手間が掛かるから解読不可能という認識は完全に時代遅れだ。しかし当時の日本の上層部は、これを少しでも認識していたのだろうか。

 そんなことを俺が思っているうちに、教授は大正時代へと話を戻していく。


「暗号だけじゃない……会議そのものがアメリカの思うままだった。

議長でアメリカ国務長官のチャールズ・エヴァンズ・ヒューズは、冒頭から挨拶を省略して軍縮会議の(かなめ)たる軍艦の隻数およびトン数制限に触れた。俗にいう『ヒューズの爆弾発言』だが、軍事関連は先に秘密交渉するという当時の国際慣例を破っている……破れるほどパワーバランスが崩れた証左だね。

……しかも11月16日の第1回太平洋および極東問題総委員会で、ヒューズは日本との事前の密約『太平洋や極東問題は一般事項のみ審議する』を反故にし、中国問題に踏み込んだ。彼は()肇基(ちょうき)中華民国全権に独立尊重の代わりに門戸開放を呑むという提案をさせ、それを切り口に太平洋極東問題にもっていった。

中華民国のロビー活動を非難する者も多いが、アメリカが望む通商拡大に迎合した……ギブアンドテイクの成立が重要だ。そんなわけで徹頭徹尾アメリカの思惑通り、哀れ日本は被告席に立つのみさ」


 ワシントン会議は勝てる勝負ではなかった。そして加藤海軍大臣達は知りつつも、国力の差と状況の悪さから決裂を避けた。そのように教授は結ぶ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 確かに教授の言う通りなのだろう……本来の歴史では。

 しかし俺達は一年半の時を費やし、歴史の改変に挑んだ。もっとも多くは普通に関係改善に勤しんだだけで、特別なことはしていないが。

 二十世紀中盤以降の勝者となるアメリカを懐柔し、同じ君主制のイギリスと緊密さを保つ。更に敗者達と距離を置き、近隣に巨大勢力が生まれないように仕向ける。将来有望な技術に早くから手を付け、道筋に乗ったものは支援して加速させる。

 二十一世紀に生きる者なら、誰でも思いつくことだ。


 それらは今、結実しつつある。俺達が華府(かふ)……首都ワシントンに着いた翌日の11月3日、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングは日本の全権委員達を早速ホワイトハウスに招いたのだ。

 ハーディングは飛び切りの大歓迎を示し、最初は到着の夜にでもと無線を打ってきた。とはいえ幣原(しではら)駐米大使との打ち合わせも必要だから、加藤海軍大臣は長旅で疲労が激しく翌日を望むと美辞麗句に包んで返信させたほどだ。

 もっともアメリカ側も返答内容を予想しつつ、敢えて最上級の関心を表したのではないか。俺は上機嫌な大統領の顔から、そう感じていた。


 今の俺達はホワイトハウス中央のレジデンスにいる。白い外壁で直方体の三階建て、左右対称で中央の南ポーチが半円形に膨らみ円柱が立ち並ぶ、多くの者が脳裏に描けるだろう建物の二階だ。

 レジデンスは一旦焼失し、1817年に再建された。そして幾度かの内部改修と第二次世界大戦後のトルーマンによる大改修を経たが、二十一世紀まで殆ど同じ姿を保ち続ける。

 ただしトルーマンは、通称「トルーマン・バルコニー」と呼ばれる場所を二階に設けた。当初あの半円形の南ポーチに一階と二階を仕切るものはなく、吹き抜けだったんだ。

 そのため大統領が俺達を案内してくれたとき、あの有名なバルコニーから庭を眺めはしなかった。


「それではカトウ殿、トクガワ公爵、シデハラ殿、我らの輝かしい未来を語ろうではないか!」


 ハーディングの声はサロンの中に力強く響いた。

 おそらくハーディングは、これで強いアメリカを実現できると歓喜しているのだろう。そして大国アメリカを完成させる自分の名が、歴史に燦然と輝くことにも。

 普段のハーディングは強い意志で顔を引き締め、時として険しく感じるほどらしい。実際に後の世に残されている写真は、秀でた額に鋭い目、鷲鼻に固く結ばれた口が特徴的な強面(こわもて)とも言える容貌である。

 もちろん大統領らしく力強い印象を(いだ)かせるためで、四六時中しかめ面をしていないはずだ。とはいえ、こうも相好を崩している理由は、就任初年度に大きな外交成果が上がりそうな予感からだろう。


 ちなみに俺が長々とハーデングの様子を窺っていられるのは、随員の一人として控えているからだ。

 今の俺はセバスチャンこと瀬場(せば)須知雄(すちお)と共に、加藤海軍大臣達の少し後ろに立っている。俺達は海軍士官に化け、潜り込んだのだ。

 化けたといっても俺は軍服を着けたのみだが、セバスチャンは隠密らしく変装までしていた。それも容貌のみではなく、服の下に肉襦袢を着けて体型も変えている。


「ええ、両国の繁栄を願って。……そして昨日大統領が五十六歳を迎えたことを祝して」


「おお、これは嬉しい!」


 加藤海軍大臣の返礼に、ますますハーディングは相好を崩した。

 もちろん公爵徳川(とくがわ)家達(いえさと)や幣原駐米大使も和しているから更に空気は和んだ。この二人は細身の加藤海軍大臣と違って福々しい……有り体に言えば太り気味だから、アメリカ側の側近すら笑みを浮かべていた。


 ただ一人だけ緊張を顕わにしているのは、隣の国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズだ。

 元々法律家ということもあり謹厳実直そうな人物で、大統領より三つ年長の五十九歳だが立派な髭のお陰で年齢より遥かに強壮な印象を受ける。

 実際ヒューズは単なる法学の徒ではなく、前大統領ウッドロウ・ウィルソンと選挙で競ったくらいである。当時は最高裁判事だったが共和党候補として大統領選に出馬したのだ。

 このときハーディングも共和党候補に名乗りを挙げたが、三回の投票は一票かゼロという惨敗ぶりである。それに対しヒューズは一回目が二百五十以上、二回目が三百二十以上、そして三回目は九百五十票と圧勝だった。

 結果的にヒューズはウィルソンに敗れたが僅差で、今回の共和党政権では国務長官に就任した。それに『ヒューズの爆弾発言』のように奇策で先手を取るくらいだから、法に縛られた堅物ではあり得ない。


「それでは私が……。御存知かもしれませんが、私が今回の議長に立候補する予定です。これはイギリス代表のバルフォア殿も承知していますが、例の比率……どう配分するかも含めて合意済みです。やはり時代の流れ、民族の独立尊重が肝要ですから……貴国にも快く合意していただけると思いますが」


 しかし今、日本全権の三人に語り始めたヒューズは、どこから攻めて良いか迷っているようですらあった。彼は明らかに歯切れ悪い口調で、加藤海軍大臣達の様子を窺いつつ話を進めていく。

 これはアメリカ側が日本の暗号を解読できていないからだ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 本来の歴史と違い、日本は今年の早くから新たな暗号『八一式』を採用した。俺も考案に関わった方式をベースに、陸軍、海軍、外務省と組織ごとに別の暗号を採用している。

 詳しい説明は省くが機械式暗号の一種で、要は時代を十年ほど先取りしたものだ。それと新旧の暗号で同一内容を電文するなど、将来を含めての愚行を摘むべく徹底的な意識改善を敢行した。

 合わせて暗号の使用も極力抑えた。どうでも良いことまで暗号文を使うと、他国の情報部にサンプルを与えてしまうからだ。


 その結果、今のところ『八一式』の解読に成功した国は存在しないようだ。眼前のヒューズの様子からすると、少なくともアメリカは未解読だと思われる。

 元の歴史ならヒューズは日本が許容する軍縮内容まで把握していた。例の対英米比6割までなら呑むだろうというものだ。そのため彼は強気に動けたが、今は違う。

 相手のカードが丸見えどころか暗中模索、しかも()()()()()()()()()()()()()


「……いかがでしょう?」


 どうもヒューズは話しているうちに自信を取り戻したようで、声に張りが出ている。相手に呑まれたままではと自分に言い聞かせたのか、最初のように言いよどみはしない。


「ふむ……大筋は問題ありません。開催まで一週間以上ありますし、叩き台としては充分かと。ただ唯一の懸念は……」


「何か?」


 加藤海軍大臣が一息入れると、間を置かずにヒューズは先を促す。

 このあたり、伊達に何年も合衆国最高裁判所判事を務めていないと言うべきか。下手に時間を与えたら相手を利するだけと考えたのだろう。


「会議で爆弾発言など飛び出さねば……と思いましてな。国際慣習を破るような……ああ、法曹界におられたヒューズ殿は信頼しておりますよ」


「そ、それは……もちろん法や準ずる慣習は尊重しますとも」


 冗談めかした加藤海軍大臣の言葉に、ヒューズは笑いで応じようとしたらしい。しかし痛いところを突かれたからだろう、声はアメリカの外交を握る男と思えないほど揺れていた。


 おそらくヒューズは、日本に登場した謎の予言者を気にしているのだろう。

 昨年12月、中華民国で起きた海原(かいげん)地震を謎の予言者は見事に当てた。それに日本が不利になる事件を次々と回避しているらしい。

 もしや自分は目を付けられたか、と彼が思ったとしても仕方あるまい。


「流石です。ところでヒューズ殿……私は予言者殿に教わりまして、昨年から長命を招く食事を心掛けております」


「私もですよ。おかげで最近は健康そのものです」


 急に話題転換した幣原(しではら)駐米大使に、徳川公爵が相槌を打つ。

 駐米大使の言葉は事実で、俺は昨夏の時点で彼に腎臓結石の予防方法……欧米風の食事が良くないから肉や塩分に糖分などを控えめにすべき……というものを教えた。完全に防げなくとも、せめてワシントン会議の間は悪化しないでくれと願ったのだ。

 この食事法は徳川公爵も取り入れたが、確かに二人は少しだけ痩せたようだ。


「せっかくですから御紹介しましょう。彼が予言者ですよ」


 加藤海軍大臣が示したのはセバスチャンだ。

 念のためセバスチャンは俺の身代わりを務めた。といっても俺そのものに変装したら無意味だから、敢えて似ても似つかぬ容姿を選んでいる。太めに化けた彼は普段と違って大儀そうに体を動かし、深く会釈する。

 一方のヒューズだが、誇張ではなく蒼白な顔となっていた。おそらく彼は、今までの会話も録音されていたと思い至ったのだろう。

 密約など日常茶飯事だが、赤裸々に公開されるのは別だ。議長として自国有利に運ぶと得意げに誇る様子など、友好国だろうが憤激するに違いない。


「だ、大統領! どうして!?」


()()に輝かしい未来を授けてくれる大恩人だからさ」


 慌てふためくヒューズを尻目に、ハーディングは立ち上がった。そして彼は間のテーブルを周りこみ、日本側に寄っていく。


 俺達はハーディングが大統領になる前から接触し、選挙の際も様々に助力した。そしてサハリンや南満州鉄道関連では英米の資本……特にハーディングを支持する企業家を招いて共同開発を進めた。

 そのためハーディングは日本と共存可能という立場に移り、大資本家や富裕層も日本のアメリカ移民への批判を収めた。

 だから農村部は別として、ワシントン市を含む都市部だと日本人への風当たりは弱まっている。


「私が親日路線に迎合しないから……資本家達の突き上げですか?」


「失礼な、更なる発展を望む愛国心だよ」


 ヒューズは切り捨てられた理由を、実業家の思惑に乗らない自分への苛立ちと受け取ったらしい。しかしハーディングは勝者の余裕で三歳年上の国務長官に応じる。


 このとき大統領の脳裏をよぎったのは抑えてきた嫉妬、セバスチャンの配下が増幅した感情だろう。

 隠密達はハーディングの愛人、それも複数に接近してヒューズが大統領を馬鹿にしていると吹き込んだ。それを愛人達は寝物語に伝えたわけだ。

 ハーディングは随分と()()()に活動したようで、ホワイトハウス内で事に及んだという話すらある。もちろん警護担当達も承知しているが、彼らは全て大統領の子飼いだから秘匿した。

 それを知っている俺は、セバスチャンと会って間もないころに情報入手の経路として愛人達を挙げた。もっとも俺としては使えそうな幾つかの事柄と共に並べただけだが、セバスチャンは即刻配下を接触させて備えたという。


 そもそもハーディングからするとヒューズは頼りになるが煙たい存在だ。前回の大統領候補選出で圧倒的な差を付けられた屈辱に加え、大統領になっても年上の閣僚として意見するし周囲はヒューズを持てはやす。

 ハーディングは外交をヒューズに丸投げしたというが、これは手出し出来なかったというべきだろう。そして大統領になるほどリーダーシップに溢れた人物が、保護者つきのような状態を心から歓迎するだろうか?

 そこに俺達は離間の可能性を見出し、出立前に最後の一押しを実行したわけだ。


「ヒューズ。君に議長を務めてもらうか、考え直すことにした」


「くっ……」


 ハーディングの勝利宣言とヒューズが漏らした苦鳴を、俺は幾らかの感傷と大きな安堵を覚えながら聞いていた。

 謀略で陥れたのは主義に反するが、かといって殺すよりはマシだ。フランクリン・ルーズベルト暗殺の一件で、俺は妥協も必要だと学んでいた。

 それ(ゆえ)ヒューズの失脚を、俺は歓迎する。これでワシントン会議を望む方向に持っていける可能性が大きく跳ね上がり、日本が暴発する将来も遠ざかったからだ。

 これも先々の不幸を減らすため。俺は自身に言い聞かせつつ、失意も顕わに肩を落とすヒューズの姿を胸に刻んだ。


 お読みいただき、ありがとうございます。


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