08 出港(1921)
大正十年、つまり1921年の10月15日。俺、中浦秀人は横浜港からアメリカへと旅立った。翌11月12日から開催されるワシントン会議に出席するためだ。
もちろん俺一人ではなく、海軍大臣の加藤友三郎を始めとする総勢百四十名を超える全権団も一緒だ。
同乗した関係者や報道陣を含めると二百人以上の大所帯である。
船は日本郵船の鹿島丸、1万トンを超える大型貨客船で旅客定数は二百五十名弱だ。ちなみに少し後の1930年に就航した氷川丸、1961年に横浜市の山下公園前に博物館船として係留される有名な船は約1万1千トンと少々大きくて旅客定数は三百三十名を超える。
総トン数が一割程度しか違わないのに氷川丸の旅客定数が三割以上も多いのは、どうも三等客室を増やした結果らしい。俺は横浜市に住んでいたから何度も見学したが、二段ベッド四個の狭苦しい八人部屋が印象に残っている。
1914年にパナマ運河が開通したから航路は東行き、しかし多少は縮まっても片道だけで二十日近い。
八人部屋で三週間近くも暮らすのは耐え難いが、幸い俺とセバスチャンこと瀬場須知雄には一等客室が割り当てられた。二人部屋だが最上層のAデッキ、それに同じ一等客室でも広い部屋だという。
相部屋もセバスチャンが護衛を兼ねているからで、いわば従者付きである。そのため文句を言うつもりなど毛頭ない。
セバスチャンも従者らしくと思ったのか、雑用でもなんでも気軽に命じてくれという。ただし下手なことをすれば翌日の稽古で厳しく扱かれるだろうから、俺は首を横に振るのみだ。
今もセバスチャンは従者よろしく俺の脇に立っている。隠密らしく役に徹するのは、彼の趣味でありポリシーらしい。
「……中浦様、昼食の時間です。海軍大臣や公爵閣下より先に向かうべきかと」
「ありがとう。……船の電源も問題ないみたいだ。ちゃんとスマホを充電できたよ」
声をかけたセバスチャンに俺は応じつつ、スマホから充電用のケーブルを抜く。
俺のスマホはタイムスリップの少し前に買い換えたもので、こちらに来てから一年半近く経ったがバッテリーもヘタっていない。とはいえ数年で使えなくなるだろうから、俺は手を打っていた。
それが俺達の足元にある、厚めのアタッシェケースほどの箱である。実は今回、こちらの技術者に作ってもらった大正版携帯ACアダプタを使ったのだ。
東日本の電力網は大正時代も電圧100Vで周波数50Hzだから、俺が持っていたスマホのACアダプタは普通に使用できた。
しかしACアダプタの故障や紛失の可能性を考えると、現物があるうちに予備を作るべきだろう。そう思った俺は、東京に移ってから新たなACアダプタ作成に取り組んだ。
まずセバスチャンが連れてきた技術者にスマホのバッテリーやACアダプタを見せ、アプリの取扱説明書に記されていた規格を伝えて同じ仕様で作ってくれと依頼した。いつまでバッテリーが使えるか分からないから、大きさはともかく予備が必要だと考えたわけだ。
幸いにも渡米前に携帯可能なACアダプタが完成した。
スマホのACアダプタと同様に、外国の使用を考慮して入力電圧は100Vから240Vまで、周波数も50Hzと60Hzの二種類に対応している。それに場所によっては安定した電圧や周波数と限らないから確認できるメーターを付け、出力も電圧と電流を示せるようにした。
そのためカバン並みの大きさになったが、俺達の優位性を保証するスマホを守るためには仕方ない。
「これで一安心ですね」
セバスチャンは大正版携帯ACアダプタとケーブルを片付けつつ微笑んだ。
ここを使うのは俺とセバスチャンだけだが、客室清掃員でも来るかもしれない。そのため彼は備え付けの大型金庫の中に双方を仕舞いこむ。
一等客室でも特別室に近いだけあり、ベッドは上物で間に置かれた小テーブルや椅子も高級家具と呼ぶべき品である。流石に特別室と違って風呂はないが、洗面やシャワー室も付属している。
これらの設備はともかく、コンセントがあり金庫が備わっているのは嬉しかった。スマホは常に携帯するにしても、他の細々した品はなるべく秘匿したかったのだ。
俺はスマホを極力見せないようにしており、セバスチャンが呼び寄せた者達に示したのもACアダプタとケーブルにバッテリーだけだ。
ただし技術者や研究者は、それでも狂喜した。彼らは小さく薄いバッテリーや細かな端子を見ただけで途轍もない技術だと悟り、それらを作れるようになった将来を夢想したのだ。
「規格の合う大型電池も作ってもらったし、最低限のことは出来るな」
「会議前の交渉でも、切り札として使いますからね。今のバッテリーが使える間だけというのが、惜しいところです」
俺の軽口に、セバスチャンは冗談半分といった調子で応じた。もっとも表情からすると彼は本気で残念がっているらしい。
尼港事件のとき、俺は中華民国の公使に超能力者モドキの占い師として振る舞った。懐に入れたスマホで公使の声を録音し、それを再生したのだ。
そこまでトリッキーな使い方をしなくても、潜入先で録音するなど忍者のセバスチャンなら使いたい機能が幾らでもあるだろう。
しかし大正時代の電池では、服の中に隠すには不向きな大きさだ。この時代の乾電池は取っ手で下げるほどだったり、ジュースの缶ほどの大きさだったりするからだ。
それはともかく、俺はバッテリーの劣化を防ごうと過度の使用を避けていた。壊れる前に保存しておきたい情報も沢山あるが、長時間使うときは作ってもらった専用電池をスマホに装着している。
もっとも紙を持ち歩くのも機密保持の観点からは問題が多いから、書き溜めたものは居候中の閑院宮邸の離れの金庫に仕舞っている。これは専用に用意してもらった特別製で、解錠できるのは俺だけだ。
「……片付けは終わりました。行きましょう」
「ああ。会議までは一ヶ月近くあるけど、事前の工作や交渉もあるからね」
俺達は笑みを交わしつつ扉へと向かう。
加藤海軍大臣を始め、主要な者とは何度も話し合っている。しかしワシントン会議は誇張ではなく日本の将来を左右する重大な転換点だ。
それに船旅は長い。航海を楽しんだり暇つぶしに興じたりするのは、一通り確認し終えてからでも充分だろう。
◆ ◆ ◆ ◆
ワシントン会議に対し、日本は総力を結集して取り組んだ。これは全権団を率いる者達からも、容易に理解できる。
首席全権は海軍大臣の加藤友三郎。日清戦争では砲術長、日露戦争では東郷司令長官と共に戦艦三笠に乗り込み参謀長を務めた、生粋の海軍軍人である。
もっとも彼は理性的な穏健派で、後に総理大臣を務めたように政治感覚にも優れている。会議の主要な議題が海軍軍縮ということもあるが、決して軍人がしゃしゃり出たわけではない。
なお、軍人の政治関与に眉を顰める者は少ない。何しろ陸軍大臣と海軍大臣は軍人から選ばれる時代で、加藤友三郎も現役の海軍大将なのだ。
残る二人の全権委員の片方は、貴族院議長にして公爵の徳川家達である。彼は一言で表現すると貴族代表だが、単なるお飾りではない。
家達は若いころイギリスに留学し、キングス・イングリッシュを身に付けていた。つまり欧米式の上流階級の流儀を充分に心得ているのだ。
留学期間が足掛け六年と長期に渡っただけあり、家達はイギリスに詳しいし今も交流を続けている。来年4月に予定されている英国王太子エドワードの訪日では、俺の知っている歴史通りなら自宅に招いて相撲を見物させるほどである。
貴族外交の切り札と言うべき家達は、会議に出席する欧州諸国とのコネクションを用いて根回しや情報収集をする。参加国には二十一世紀でも王制のイギリスやオランダにベルギー、この当時は王制だったイタリアがあるから公爵直々の出馬には大きな意味がある。
三人目の幣原喜重郎は鹿島丸に乗船していない。彼は駐米大使だから首都ワシントンで待っているのだ。
駐米大使をするくらいだから、幣原は米国の考えや国力を誰よりも理解している。彼は後に外務大臣も務め、更に第二次世界大戦が終わった直後に短期間だが総理大臣すら務めた。
既に七十歳を超えている幣原が首相になった背景には、次の総理大臣となる吉田茂の後押しや昭和天皇直々の説得があったからという。しかし俺はアメリカ側の意向も大いにあったと思っている。
仮に俺がGHQの高官なら、英語に堪能でアメリカへの理解が深い者を推すだろう。ちなみにGHQの設置は1945年10月2日、幣原内閣誕生は一週間後の10月9日である。
加藤海軍大臣も来年の1922年6月から翌年8月に没するまで総理大臣を務めた。それに家達も徳川家でなければ首相になったかもと言われたそうだ。
つまり後の首相や同格の者達が全権団を率いたわけだ。もちろん部下も錚々たる面々、それに外部からも大きな支援があった。
支援の代表格は『日本資本主義の父』とも呼ばれた渋沢栄一だ。
渋沢は俺達より二日早く、四回目の米国視察へと旅立った。そして俺が知る歴史通りなら会議の数日前にワシントン市に入り、翌年一月上旬まではアメリカにいたはずだ。
当然ながら商用を兼ねてだが、彼はワシントンに着く早々全権団を訪ねた。そして加藤海軍大臣を始め全権を務める三人に多くの進言をし、同時にアメリカ大統領ウォレン・ハーディングや国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズとも会談した。
要するに渋沢は日本の財界を代表し、商業的な共存共栄が可能であると示したのだ。
まさに官民挙げて総動員、元の歴史通りでも考えられる限り最善の布陣だ。しかし人々の心や時代の流れを、この時点から変えるのは難しかっただろう。
未来人の俺は今後の歴史や当時は知りえぬ背景を武器に介入したが、一年半の時間や転換点となる幾つかの出来事がなかったらどうなったことか。それに今でも完全に軌道修正できたわけではない。
もっとも本来の歴史より随分と楽になったのは事実で、昼食の場に集まった者の顔も明るかった。現在のところアメリカやイギリスとの仲は、かなり良好なのだ。
俺達はアメリカにはサハリンや南満州鉄道関連の共同開発を持ちかけ、ハーディングには将来の病に備えるよう示唆した。そしてイギリスには更に踏み込んでアイルランド関連の騒動を回避できるよう、数多くの助言をした。そのため軍縮や中華民国の件さえ合意できれば、軍事的衝突の回避も夢ではない。
Aデッキ前部のホールは一等船客専用、しかも今は会食する僅かな者のみの貸し切りだ。常以上に寛いだ雰囲気は、その影響も大きいだろう。
「それでは好天の出港に乾杯。そして私達の幸運にも」
加藤海軍大臣は、老いた細面に柔和な笑みを浮かべつつグラスを掲げた。昼食だから入っているのは単なる水だが、せっかくだから良い船旅をと縁起を担いだのだろう。
「乾杯!」
「楽しい航海にも!」
「我ら大英帝国と皆さん大日本帝国の絆にも!」
俺と徳川公爵、そして英国外交官のウィリアム・ヘーグさんが加藤海軍大臣に和す。
本来の歴史だとヘーグさんは英国横浜副領事だが、俺とのパイプ役として大使付きの補佐官となった。そしてワシントン会議でも日英の友好を演出するため、彼は全権団を補佐する一人として加わった。
もちろんヘーグさんは全権団内部の会議や密談に出席せず、あくまで助言者として意見を述べるのみだ。しかしイギリス側の本音に近い言葉を参考に出来るだけでも、極めて大きなメリットがある。
◆ ◆ ◆ ◆
昼食だから食事の量は多くない。そのため食べるよりも会話で口を動かす方が多いくらいだ。
そして後者に時間を割く代表格は、首席全権の加藤海軍大臣その人であった。
「楽しい航海を、と言われますと?」
相手が公爵だから、加藤海軍大臣は二歳年下の相手にも敬語を用いていた。それにホスト役として話題を振るにも、まずは最も身分の高い人からと気を使ったらしい。
加藤海軍大臣はワシントン会議で『アドミラル・ステイツマン』……つまり一流の政治感覚を持つ提督と称されることになる。やはりアメリカ人も、彼を広い視野と優れた対人能力の持ち主と感じたようだ。
だが加藤海軍大臣は、既に健康を害していた。彼はアメリカで『世界を明るく照らす偉大なロウソク』と称えられたが、これは軍縮に積極的に賛同したことに加えて彼が非常な痩身だったからだ。
歴史通りなら、加藤海軍大臣は二年後に大腸ガンで命を落とす。俺は何度目かに会ったとき、二人きりになったタイミングでそれとなく病のことに触れたが、彼は既に死期を悟っていた。
病のことは周囲も察していたようで、首相就任のときも命を縮めると危惧する者が多かったそうだ。ましてや本人が気付かぬはずもない。
これが最後の大仕事と、加藤海軍大臣は思い定めているようだ。静謐にすら思える表情からは、生死を超えた強さが感じられる。
実際、原敬首相が暗殺されなかったら、加藤友三郎という人物は海軍軍人のまま生涯を終えただろう。原首相は国内は自分に任せろと全幅の信頼を置いて会議に送り出し、彼も敬服する首相ならばと後顧の憂いなく旅立ったほど強い絆だ。
しかし本来の歴史では、原首相は会議を目前にした11月4日に凶刃に倒れた。それをワシントン市で知った加藤海軍大臣は落胆のあまり塞ぎこんでしまい、失意のあまりか随員に首相の思い出を語ったという。
「デッキゴルフでも楽しもうかと。ヘーグ殿や中浦殿も付き合ってくれるでしょうからね」
対照的に陽気な徳川公爵は、食事も正反対というべき健啖家であった。まだ昼というのに、彼は厚いステーキを所望したくらいである。
ふくよかな容姿もあって、俺は加藤海軍大臣と徳川公爵を良いコンビかもしれないと感じていた。
ただし公爵の言動は、敢えての振る舞いのようでもある。
望外の未来知識を得たし、おそらくは原首相の暗殺も回避できるだろう。だが絶対に会議を乗り切れる保証はないのだ。
病を押して難事に挑む海軍大臣を、公爵は少しでも癒そうとしているのでは。この旅が良い思い出になるように、そして日本の明るい将来を予感しつつ永遠への旅立ちを迎えられるように。どこか道化に徹したような公爵の姿は、未来を知るだけに温かく映った。
ちなみに俺が公爵の気遣いと思う根拠は、多少だがある。公爵は大日本蹴球協会の名誉会長だから東京に移る前から面識はあるし、会った回数も加藤海軍大臣より遥かに多いのだ。
「喜んで参加しますよ。フットボールほどではありませんが、ゴルフにも自信がありまして。……とはいえデッキゴルフは久しぶりですが」
熟練の外交官に相応しい闊達な声で、ヘーグさんは快諾した。
実際、この時代の名士であればゴルフは必須科目である。来年訪日する英国王太子エドワードも、駒沢東京ゴルフ倶楽部で後の昭和天皇とプレーしたそうだ。
俺も英国横浜領事館にいたときにヘーグさん達と楽しんだし、東京に移ってからも接待含みのプレーを幾度か経験している。流石にデッキゴルフの経験はないが、この際やってみるのも面白い。
「往復で四十日近くありますから、デッキゴルフの名人になるのも良さそうですね。……それに良い土産話になりそうです」
単なる遊びだから真面目に取り組む必要もないが、俺も話の流れに乗ってみる。
ちなみにデッキゴルフとはいうものの、実態はアイスホッケーやカーリングなどに似ている。コースがありOBなどのルールもゴルフのようだが、チームプレーで平たい円盤を所定の円に入れるし相手の円盤にぶつけて邪魔しても良いのだ。
俺は暇つぶしにサッカーボールを持ってきたが、海に落とさないように遠慮しつつ蹴るしかないと思っていた。
だから別の遊びは大歓迎、ヘーグさんとセバスチャンを合わせた三人で球蹴りをするより幅広く交流できる。それに俺の婚約者、閑院宮邸で待つ智子さんも変わった遊びの話を喜んでくれると思う。
我ながら単純な気もするが、俺は智子さんを好ましく感じるようになっていた。相手が六つ下の十五歳ということもあり、妹のようで可愛いという域を出ていないのも確かだが。
事実上の政略結婚……まだ婚約だが、将来は決まったようなものだろう。しかし形式だけを整える事態は避けられそうだ。
智子さんも相手を知ろうと毎日のように離れに訪れるし、今日も横浜港まで見送りに来てくれた。そして港で彼女は閑院宮家の使用人達と共に手を振り、船上の俺が投げた紙テープを握って頬を上気させていた。
あのときの輝くような表情は、今も確かに目に焼きついている。
「おや? 中浦殿は、もう日本が恋しくなりましたかな?」
「ご承知の通り、彼には可愛らしいフィアンセ……それもプリンセスというべき御方がいますからね」
公爵とヘーグさんの言葉に、俺達の周囲に控えている従者達の表情が動いた。もちろん笑いを堪えきれぬ、といった方向にである。
背後のセバスチャンの顔が見えないのは、ある意味で幸運だろう。おそらくは澄まし顔、だが俺など近しい者には分かる冷やかしの表情に違いないからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……喜ばしいことですな。私のような老人が去っても、中浦殿を始めとする若者が日ノ本を支えてくれる……そう思うから働けるのですよ」
まだ加藤海軍大臣は六十歳だが、大正時代では確かに老境だ。
このころ平均寿命は四十五歳ほどだ。これでは還暦を盛大に祝うのも自然なこと、一定の年齢に達したら時折は死を見つめたに違いない。
「はい。日本男児の名を汚さぬよう、頑張ります」
淡々と紡がれた言葉を悲しく思いつつも、俺は笑顔で頷き返した。残り少ない命を世のために捧げる偉人に対し、自分が出来る唯一のことだと思ったのだ。
しかし俺も、随分と大正時代に馴染んだようだ。自然に『日本男児』と口に出せるなんて、タイムスリップ以前なら考えもしなかったが。
「実に嬉しい言葉……。私は下級藩士の子として生まれ、自然と軍人を目指した……そして海軍に入り、日清日露と国のために戦った。ただ元が武士の生まれだからか、抜かずの刀という言葉も胸のどこかにはある……。それが海軍軍人のくせに、建造中の艦を廃棄しても構わないと思う理由かもしれませんな」
軍艦乗りとしては船を捨てたくないだろう。乗艦なら友のように思うだろうし、まだ造船中なら海に出る前に葬り去るわけで、余計に心苦しいかもしれない。
だが加藤海軍大臣は、船や仲間達を振り捨てても国を守ろうとした。きっと武器を取っての戦いと同じくらい、辛い道なのだろう。
命のやり取りをしたことのない俺には、想像するしかない心境だが。
ただし大正時代では、こういった考えは異端に近い。あるいは表立って唱えるのは難しい。
なぜなら今は、国が傾くほどの資金を艦隊増強に注ぎ込んでいるからだ。そう、あの名高い八八艦隊計画である。
このころ日本の国家予算は年間15億円ほどだ。それに対し八八艦隊は主力の建造だけでも11億円、維持費に年間6億円必要だったとされている。
もちろん国の成長を見込んでだろうが、毎年歳出の四割を艦隊維持に持っていかれるなど正気の沙汰とは思えない。陸軍や航空隊を入れたら、軍事費だけで国の使える金を食い潰すだろう。
しかし軍のみならず民間でも、強力な軍で覇権を握るのが繁栄への道と主張する者が普通にいる。これまで日本が連戦連勝だったためか、あるいは既得権益を守るためか、はたまた軍事力で世界を席巻した欧米に並ぶ道など他にないと思っているのか。
あまりにも世界の情勢に疎い、あるいは列強の真の力を知らない。未来から来た俺からすれば、無謀としか思えぬ有様だ。
もっとも実際に世界と渡り合っている人達は、かなりのところまで察していた。俺の前にいる加藤海軍大臣や徳川公爵のように、あるいは彼らを送り出した原首相や支援する渋沢栄一のように、先見の明のある人々は深く憂えている。
そのため俺は、せめてもの言葉を贈ろうとする。
「私が思いを継ぎます……抜かずの平和こそ本当の戦いだと示します。そして加藤海軍大臣が、最も厳しい道に挑まれたと語り継ぎます」
大言壮語も甚だしいと思いはする。しかし、これからの人生で似合うように成長すれば良いだけだ。
俺の意気込みが伝わったのか、公爵やヘーグさんも含め口を開きはしない。
「でも今は食事、それから語り合いましょう。腹が減っては戦ができぬと言いますし」
「そうですな。仙人のように痩せた私ですが、霞を主食にしてはいませんよ」
俺と加藤海軍大臣が破顔したからだろう、他の皆も声を立てて笑い出す。先ほどとは違う、爽快そのものといった純粋な笑みで。
天気は晴朗にして波穏やか、船内は清明にして人和やか。明るい未来を感じさせる一時を、俺は心ゆくまで楽しんだ。
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