05 防災(1920)
1920年9月1日、正午前。俺、中浦秀人は横浜小学校にいた。
横浜小学校は、俺が生まれた平成の世だと市立港中学校に相当する場所だ。つまり横浜スタジアムがある横浜公園の東南で区画だと三つ先、横浜市中区山下町の南端近くである。
ただし横浜市の区制施行は1927年の昭和二年だから、大正時代の今は横浜市山下町だ。
1920年でも横浜公園は存在するし、日本大通を含む道や区画も二十一世紀とほぼ同じだ。しかし、この時点だと関内と内陸側の仕切りは首都高や根岸線ではなく、大岡川支流扱いの掘割だった。
そのため横浜公園の南側の情景は、後の世と大きく異なる。関内は元々外国人居留地だから隔てる掘も幅広く50メートルはあるし、通りも半分近い幅の立派なものだ。もちろん関内駅や石川駅、首都高の入り口や高架などは存在しないから、小学校の前は視界が大きく開けている。
電車はあるが横浜電気鉄道の路面電車、後の横浜市電の本牧線だ。これは横浜公園の南側から東に走っていて、公園の東南角の交差点近くに花園橋駅、横浜小学校の前に吉浜橋駅がある。もちろん、これらの駅の名は掘割に架かっていた橋の名前から付けたものだ。
しばらく俺は通りの向こうに見える風景を自身が生まれた時代と比べ、郷愁に浸った。しかし帰れぬ場所を思い続けても仕方がない。
そこで俺は目の前の校庭、正しくはそこを埋める子供達に意識を戻す。
「実に整然としていますね。日本の教育……そして子供達は素晴らしいです」
感嘆も顕わに声を漏らしたのは、英国横浜領事館の副領事ウィリアム・ヘーグさんだ。彼も子供達を見つめていた。
「ええ……」
俺は頬を緩めながら応じた。お世辞も混じっているだろうが、それでも自国の子供を褒められるのは嬉しかったのだ。
木造建築の校舎の前には、大勢の小学生が整列している。この当時の学制だと尋常小学校は一年生から六年生までだから、基本的には平成時代と同じ年齢だ。
明治時代の終わりには義務教育も浸透し、ほぼ100%の子供が尋常小学校に通っている。そして明治三十三年に進級や卒業時の試験が廃止されたから、留年もなく六年間で卒業する。ただし大正の初めごろで二割、このころでも一割が退学したそうだ。そのため高学年は幾らか人数が少ない気がする。
ちなみに退学理由の四分の三は就労のためだという。しかも無事に卒業しても中等教育に進む者は15%少々、つまり六人のうち五人は小学校を卒業したら働く。平成時代では考えられない早期就労だ。
それらを知ったからだろう随分と大人びた印象を受けるが、子供達にも年齢相応の好奇心はあるようだ。
「あの人、誰だろう?」
「日本人だけど……」
比較的近くにいる子のやり取りが耳に入る。
どうもヘーグさんより俺が気になるらしい。英国領事館からの来賓に日本人が混じっているから、逆に目立つのだろう。
興味深げに俺を見つめる子供達は、着物姿だ。今日は始業式だからか、みんな袴を着けている。暑い時期だから着物は薄い単衣で、袴も飾り気のないシンプルなものだ。
男の子は頭に学生帽、その下は丸刈りか五分刈りらしい。女の子は、おかっぱだったり後ろで纏めて垂らしたり結い上げたりと色々だ。
洋装率が上がるのは少々後だ。三年後の関東大震災が教訓となり、身体の動作を妨げる和服から洋装にとなっていく。
だから現時点、大正九年だと大人でも和装が多く、ましてや子供に洋服を着せるのは少数派らしい。横浜小学校は裕福な商人や外交官の子弟が通う名門校で『横浜の学習院』と呼ばれているそうだが、それでも洋風の制服を作らず運動のときも和服に袴である。
教員はというと殆どの男性が洋服で、基本的には後の時代のスーツと変わらない。立ち襟で蝶ネクタイとか少々派手な感じの人もいるが、このころの流行で気取っているわけではない。ちなみに多くは髭を生やしているから、かなり厳しい感じを受ける。
それに対し女性教員は着物姿ばかりだ。日本髪に羽織袴という正装らしい姿である。
そんな風に俺が観察していると、先生の中でも年上の男性が子供達の前に進み出た。ここ横浜小学校の校長先生だ。
随分と上等そうな三つ揃えに糊の効いていそうな白いシャツ、そして蝶ネクタイに立派な髭、細い縁の丸メガネに七三分けで、更に姿勢が良くてピシッとしている。それに細身の細面だから、校長というより教頭っぽい感じだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……皆さん、静かに。避難完了まで四分、まずは上々と言うべきでしょう」
厳しそうというか細かそうな外見に反し、校長先生の語りかけは穏やかだった。避難訓練が良い結果で終わったから、機嫌が良いのかもしれない。
そう、今日は避難訓練をした。それも横浜小学校だけではなく、東京市と横浜市の複数の学校で実施している。
これが関東大震災への最初の一手だ。今年1920年から9月1日を防災の日と定め、来年以降も避難訓練を実施するのだ。
「ニコラエフスクの予言が効きましたね。あやうく救出が間に合ったという美談で非難を回避、それにシベリア撤兵の不満も北サハリン獲得で最小限に治まったようですし……」
ヘーグさんは随分と声を抑えていた。どうやら訓話する校長先生に遠慮したらしい。
尼港事件の終結から三ヶ月少々、既にシベリア撤兵は終わっていた。本来の歴史だと二年後の1922年6月下旬に撤兵が決まり同年10月末に完了したはずだから、大幅な前倒しだ。
そして交換条件として日本は北サハリンを得て、ロシア共和国との国境は大陸とサハリン島……日本で言うところの樺太島の間となった。そのため政府や軍も一応の面目を保ったわけだ。
「はい。随分とやりやすくなりました」
俺も静かに応じる。
尼港事件は本来より少ない被害で済み、北サハリンという成果も得た。樺太島は北海道本島とほぼ同等の面積、北サハリンだけでも九州の一割り増しという広大な土地で莫大な石油資源もある。
1880年に後のオハ油田となる露頭の油田が発見され、1919年には日露合同の試掘も行われていた。極寒の地だから開発は簡単ではないが、先々を考えると自国に有望な埋蔵地を持つのは大きな意味を持つ。
後にサハリン1やサハリン2と呼ばれる鉱区は、合計すると30億バレルを大きく超える埋蔵量を誇っている。そして採掘技術が未発達な大正時代末期ですら年間10万トン、つまり1万4千バレルほどの石油を得たという。
ちなみに大正末期の日本の石油消費量は年間80万トンから90万トンほど、昭和15年だと民間が100万トンで軍用が250万トンだったという。
それに対し二十一世紀のサハリン2は日量5万トンを超える原油を産出し、年間なら2000万トン近い。もちろん大正末期から昭和初期の採掘能力は大きく劣るが、そこは技術向上を促せば良いことだ。資源があれば技術次第だが、逆は不可能だから。
これらの情報提供に加え、俺は幾つかの出来事を予告した。それらは近々のもので実際に当たったから、政府や軍も大震災対策に力を入れてくれたわけだ。
「例のものですが、日本は随分と多いのですね」
「小さいのは数え切れないほどですし、大きいのも百年や二百年に一度はあります」
当然だが、一般には関東大震災の発生を伏せたままだ。そこでヘーグさんも俺も地震という言葉は使わなかった。
もっとも避難訓練が地震を念頭に置いているのは誰の目にも明らかだし、先生や子供達も知っている。
元々日本は地震が多いし、関東地方でも周期的な大地震があると感覚的には分かっていたらしい。
1703年の元禄関東地震や1855年の安政江戸地震など、関東地方南部には周期的に大地震が訪れている。それに明治に入っても1894年の明治東京地震を始め、マグニチュード7以上と思われる大きな地震が何回かあった。
しかも地震学者の今村明恒博士が1905年に東京で半世紀以内に大地震があると予告し、合わせて震災対策についての記事を発表している。
そんなわけで近いうちの大地震発生も、全くの絵空事とは思われなかったようだ。
仮に地震が発生したとき避難済みなら、人的被害は大きく減ずるはずだ。
今回は対象となった学校での試験的な実施だが、来年からは全ての学校と公的施設へと広げる。そして大震災の1923年までに、民間を含む全ての人が参加する大イベントに持っていく。
もちろん来年以降の訓練も発生時間と合わせ、午前中から始めて正午前には避難場所に集合させる。そして大震災が起きる1923年9月1日には火の使用も禁じ、大きな津波が来る地域は事前に内陸へと避難させるつもりだ。
この避難や被害軽減計画の策定は、今村博士にも加わっていただいた。今は博士が所属する東京帝国大学の地震学講座を中心に、政府や軍も交えたプロジェクトとして動いている。
幸いと言って良いのか、平成の世とは違って国が号令すればかなり無茶なことでも実現できる。
尼港の一件で軍は随分と期待しているらしく、積極的に協力してくれる。国民統制を強める一環だと思っていそうだが、大災害を乗り切るには多少のことは目を瞑るしかないだろう。
「10万人に、三年分の国家予算ですか……」
イギリスでは地震が少ないからだろう、最初ヘーグさん達は信じられなかったらしい。向こうでは震度3、マグニチュードで4程度でも大騒ぎになるそうだから無理もない。
日本人なら大抵の人が知っていると思うが、マグニチュードが2増えるとエネルギーは千倍だ。したがってマグニチュード4からすると、およそ8の関東大地震は百万倍だから想像できないのも当然だろう。
「前倒しで投資する方がマシですからね……」
俺は更に声を落として応じる。
つい先日、政府は欧米に負けない首都を造ると発表した。これは第一次世界大戦後の不況対策だが、実は震災対策としての都市再設計を含むものだ。
もちろん本当の理由を明らかにしたら大混乱になるから、これは極秘中の極秘である。
「……それに後々まで響きますし」
俺は遥か未来で学んだ知識を思い浮かべる。
何しろ死者と行方不明を合わせたら10万人以上だ。これだけの命を助けたいのは当然として、巨大な社会的損失も回避したい。
関東大震災の損害は、当時の日銀の推計だと45億円を超えていたそうだ。このころの国家予算が15億円でGNPが150億円だから、二十一世紀の日本なら二百兆円以上にもなる被害である。
当然ながら影響は大きく、震災恐慌と呼ばれる混乱に加え、このとき生じた大量の不良債権が昭和二年の昭和金融恐慌の原因の一つにもなった。もし被害が大きく減ずれば、後の日本は大きく変わったに違いない。
もちろん人的被害を防いでも、建物や設備を守れはしない。しかし関東大震災の死者の八割以上は火災によるもので、住宅の被害も火災が半数を超えていた。ここ関内も大火で失われた建物が多く、この横浜小学校も全焼する運命だ。
火災の原因は昼食時の煮炊きの火が多かったというから、避難で炊事を禁ずるだけでも随分と減るだろう。空き巣をどうするかなど問題はあるが、それは三年の間に考えれば良いことだ。
古くなった建物は前倒しで建て替える。明治期に大量に出現した擬洋風建築や和洋折衷建築も同様だ。
これらは後世とは違い、構造体そのものがレンガ積みで耐震性が極めて低かった。元々の欧米では地震が少ないし小規模だから問題なかったが、ここ日本には合っていない。
それに対し鉄筋コンクリート製は、倒壊を免れたものが多かったようだ。そのため関東大震災後の建築物は急速に鉄筋コンクリートへと移行し、レンガは外壁を飾るタイルとなっていく。
一般の住宅でも昔からの屋根瓦を土で固定する方式、土葺きは被害が激しかった。屋根に載せた土の重量に耐え切れなかったからだ。
それに対して現在でも広く使われている瓦の爪や釘で固定する方式、引掛け桟瓦葺きは軽量で耐震性が高かった。そのため関東大震災以降、こちらへの移行が加速したらしい。
倒壊による火災も多かったというから、避難とは別に建築への対策は必須だろう。それに区画整理や街路の拡張も出来るところは手を打つべきだ。
もちろん大量の資金が必要だが、そのまま震災を迎えたら更に多くを投入することになる。それなら景気対策と合わせて前倒しをしようという考えだ。
このころ第一次世界大戦による好景気が終了し、戦後恐慌に入っていた。これには元々の歴史でも救済策は講じられていたから、それを手厚くしたことになる。
◆ ◆ ◆ ◆
そうこうしているうちに校長先生の訓話は終わる。そして俺とヘーグさんは校長室に招かれた。
この後、俺達は小学生とサッカーで交流するのだが、それまで少々時間がある。そこでしばらくの間、校長先生と歓談することになったのだ。
「見事な避難訓練でしたね。先生方の指導の賜物でしょう」
「ありがとうございます。ですが元々優秀なのですよ。本校には大商店や外交官の子も多く、教育熱心な家庭ばかりですから」
ヘーグさんの賞賛に、校長先生は謙遜めいた返答をした。
横浜小学校の前身である壮行学舎などは関内の有力者達が創立し、今でも貿易関連や銀行家などの子弟が多いそうだ。それに近くには県庁や税関などの役所や公的機関が集中しているから、官吏の子も珍しくないらしい。
「ですが春からはバタバタしました。恐慌で倒れた銀行や商店も多かったので……。しかし政府の景気対策で混乱も収まりましたし、退学者も予想より少なくなりそうです」
小学校の校長先生らしからぬ発言だが、これは俺が政府関係者と名乗ったからだろう。しかし卒業までに一割は退学するからだろうが、サラッと口にするのは時代の差を感じる。
それはともかく第一次世界大戦……といっても、この時点では第二次があるとは知らないから単に世界大戦や欧州大戦などと呼ばれているが、その影響は横浜にも当然あった。
たとえば横浜では名の通った生糸商社、『茂木財閥』や『茂木王国』と呼ばれた茂木合名だ。
この年の5月、大戦不況で茂木合名は倒産し、第七十四銀行など関連する企業も連鎖的に潰れた。大戦景気では紡績や製糸などの輸出が主力だったし、それらへの投機も多かった。そのため生糸商社からすれば直撃であり回避は難しかったのだろう。
銀行も全国で取り付け騒ぎが発生し、170行近くにも及んだという。ただし、この時点で銀行は2000行を超えていたし、極めて小資本のものが多数を占める。
実は明治初期から昭和二十年までに4600行もの銀行が潰れている。つまり財閥系や関連する銀行を除くと、昭和の後半や平成のような堅実な存在とは言い難かった。
「英米が国債を引き受けてくれましたから。それに樺太島でも石油の合同採掘をしますし、東京や横浜は建設景気ですよ」
これらは不況心理を払拭するため大々的に発表しているから、俺も遠慮せずに応じる。
政府は北サハリンを含む樺太島の開発推進を発表し、油田開発をするため英米の外資も招いた。これと東京近辺の再開発を不況対策の柱としたのだ。
お陰で国債を発行しまくることになったが、旨味があるからイギリスやアメリカが相当な量を引き受けてくれた。
それに現時点では伏せているが、満州の鉄道や鉱山開発にも英米の資本が加わる。
日露戦争で得た南満州の権益の一つである鉄道だが、桂・ハリマン協定でアメリカと共同経営となる可能性があった。しかし小村寿太郎が反対したため破棄され、それがアメリカの対日感情悪化に繋がったという。
一応は1917年の石井・ランシング協定で痛み分けとなったが、日本は満州を囲い込みつつ中華民国の中枢に手を伸ばそうとし、アメリカは対抗馬を後押しして妨げようとする。そしてイギリスもアメリカ寄りになり、日本は孤立していく。
フィリピンを植民地としたアメリカが、日本の対中政策に口出しするのは理不尽ではある。とはいえ国と国の関係など、そもそもが理不尽なものだ。
ただしアメリカは必ずしも領土を望んでいたわけではない。彼らは平成の世と同じで、自国の利益を追求しているだけだ。要は『アメリカ・ファースト』である。
そこで大陸の利権を門戸開放し、北サハリンの開発にも加わってもらう。日本と付き合った方が得すると思わせたら良いだけだから、妥協点は幾らでもある。
幸いというべきか、次のアメリカ大統領は経済優先で有名なウォレン・ハーディングだ。したがって経済での譲歩というか協調を示せば、当面は孤立を回避できる。
大統領選挙は約二ヶ月後の11月2日と間近に迫っており、6月の共和党全国大会でハーディングは大統領候補に選ばれている。そこで俺は早くハーディングに接触するよう政府に進言した。
ちなみに民主党だが、現大統領ウッドロウ・ウィルソンは病の影響で職を全うできないし、今回候補となったジェイムズ・コックスもウィルソンの不人気を引き継いだ。ウィルソンは病に倒れる前、国際連盟を立ち上げるべく精力的に動いたが、アメリカ人は自国の利益を優先して加盟しなかったくらいだから人気が急落していたのだ。
二ヶ月先にはハーディングがコックスに倍近い大差で勝利する。したがって早くからハーディングを支援して印象付けるべきだろう。
そこで現職のウィルソンではなく、ハーディングに北サハリン開発の件を持ちかけた。
ハーディングは自身を支えた仲間達を厚遇し、多くの便宜を図った人物だ。そうであれば、ビジネスライクに共存共栄を持ち掛けるべきだろう。
少々あざといが、これはワシントン会議での決裂を避けるためである。アメリカは来年のワシントン会議で日英同盟を解消させるが、それが後に日本を戦争へと進んだ大きな要因となったからだ。
もちろん俺は、そんなことを口にしない。しかし日本が米国企業を多数招いたのは、既に大きく報道されている。しかもそれらの企業を持つ富豪達は共和党の支持者だから、聡い者は政府の意図するところを察しているだろう。
「それは素晴らしいですね。ご存知だと思いますが、生糸の輸出先はアメリカが殆どですから」
「ええ。これから一層、貿易や交流が加速していくでしょう」
笑みを浮かべた校長先生に、俺は同じく笑顔で頷き返す。
大正時代を含む第二次世界大戦前の日本は、アメリカやイギリスに大きく依存していた。主要な輸出品目である生糸は90%以上、綿織糸は40%以上、魚介類など一部の食品も同じくらいを英米や彼らの植民地に輸出していた。そして石油や鉄鋼、機械は半数を彼らから輸入している。
これでアメリカやイギリスと断交するなど、正気の沙汰ではない。しかし俺が知っている歴史では、軍部の独断専行を許してしまう。
避けるには根本となる問題に手を付けるしかないが、ここで触れることではない。そのため俺は微笑みを保ちつつ会話を続けていった。
◆ ◆ ◆ ◆
校長室を出た俺達は、小学生達と共に横浜公園に移動していく。横浜小学校は敷地全体でもサッカーグラウンドと同程度の面積だから、公園の球技場を借りたのだ。
大正時代の横浜公園は二十一世紀と同じで、海に近い側が庭園で内陸側が球技場だ。とはいえ後のようなスタンドは存在せず敷地の端までグラウンドだから、通りからでも中が良く見える。
歩く俺達とは反対側、北の端が野球の内野で近い方が外野だ。横浜公園というか関内の街区は整然とした四角に区切られているが、東西南北には沿っておらず三十数度ほど東に傾いている。
そのためグラウンドの北の端とは四角の頂点の一つである。後の横浜スタジアムとは正反対の側にホームベースを置くわけだ。
「君達、蹴球の経験はあるかな?」
「あります!」
「僕は野球だけです……」
俺が問いかけると、男子小学生達が口々に答える。これからサッカーをするからだろう蹴球を挙げる子もいるが、全体としては野球の方が多い。
もっとも、これは無理からぬことである。次の昭和と同様に、大正時代も野球の方が人気なのだ。
ちょうど今年、1920年には初の職業野球チームである日本運動協会、翌1921年には天勝野球団が誕生した。もっとも一番人気は以前からの大学野球である。
ちなみにメジャー対日本野球は七年前に実施済みだ。『世界一周野球団』と称し、ニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスの二球団が日本を含む世界各国を回って試合したのだ。日本ではメジャー球団同士の対決の他に、メジャー連合と慶應義塾大学の試合が行われている。
そんなこともありサッカーは分が悪く、俺は普及に乗り出すことにしたわけだ。最近は月に数回、下は小学生から上は大学生まで様々な相手と交流している。
俺の趣味や気晴らしという意味が大きいが、ヘーグさんを始めとする英国横浜領事館も協力してくれている。それに本来の歴史より前倒しで結成された大日本蹴球協会も。
「そうか、経験者がいるなら大丈夫だね。……さあ着いた! 皆で楽しもう!」
俺は子供達に微笑みを向ける。
歴史は既に変わり始めている。北サハリンの獲得やシベリア撤兵、英米との関係改善だけではない。英米と距離を縮めたことで、ロシアや中華民国にも変化が生じた。幾つかの出来事が起きず、逆に俺の学んだ歴史とは違う事柄が生じたのだ。
今後は未来で学んだ知識をそのまま使えないだろう。歴史は過去があってのことで全てが急に覆りはしないが、注意が必要なのは間違いない。単なる歴史事実の利用ではなく、もっと本質的な流れを読み取らなくては道を誤り消えることになる。
しかし今は忘れよう。この子達とサッカーで交流し、異国の文化を伝える。そうやって互いを知るのが、平和への道だと思うから。
そして俺は輝く芝生が美しいグラウンドに、同じくらい眩しい笑顔の子供達と共に駆け込んでいった。
お読みいただき、ありがとうございます。