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31 上海(1924)

 俺、中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は上海租界への上陸を目前にしていた。

 日本を離れて三日目の朝早く、俺達が乗る鹿島丸(かしままる)は予定通り揚子江……長江の河口に入った。しかし停泊場は黄浦江(こうほこう)、長江を五十キロメートルほども遡ったところにある支流だから船は更に進んでいく。

 支流といっても黄浦江は別格で、揚子江と合流する付近だと川幅六百メートルを超えるし全長百キロほどもある。それに対し日本の河川……たとえば利根川は幅最大九百メートルほどで全長三百二十キロ少々だ。

 つまり黄浦江は日本なら問題なく大河と呼べるし、一万トン少々の鹿島丸でも余裕で租界の至近に迫れる。しかし大型船が多数接岸すると身動き出来ないから、俺達を含め上陸する者は途中でランチに乗り換える。


「乗り換えとは面倒ですね」


「これでも近いらしいぞ」


「奥様、旦那様の仰る通りでございますよ」


 ぼやく中年女性に、夫らしき年長の男性が応じつつ歩いていく。二人の後ろには従者風の男がいるから、名士が妻と物見遊山といった辺りだろう。


 余談だが男二人の言葉は正しい。

 船主の日本郵船は他社だと黄浦江に入れないとアピールしているし、実際に本流たる揚子江に停泊する船も目にした。どちらにしろ租界まではランチだが、小船だと川でも揺れるし手漕ぎだと尚更だから短い間が望ましい。

 それらを知るからだろうが、『この船にして良かった』という声が随所で上がっている。


「お天気ですし、ランチも気持ち良いですね! あっ、あれがガーデンブリッジでしょうか!?」


「そのようです。しばらく晴天らしいですし、パブリック・ガーデンやジェスフィールドパークに行くのも良さそうです。それから公司のデパートを覗いたり欧米人の出した店やホテルを回ったり……楽しみですね」


 租界を目指す小船の上で、智子(ともこ)さんと俺は声を弾ませ笑みを交わす。

 まだ二月上旬だが今日は快晴、それに上海の緯度は九州南端と同じくらいで暖かい。しかも日本を出て最初の寄港地、『東洋のパリ』と名高い大都市だ。

 これで浮かれぬ者は相当な朴念仁に違いない。現にセバスチャンこと隠密の瀬場せば須知雄(すちお)ですら、心なしだが顔を綻ばせている。

 とはいえ彼が上機嫌らしいのは、別の楽しみを期待してだろう。それは『魔都』上海でのスパイ合戦だ。


「エリス殿、本当に我々と同行なさるのですか? 上陸中は私達の指示通りに動いてもらいますし、ドイツ人は貴女だけ……気詰まりでしょうに?」


「一人でいても面白くありませんから。それに()()()()()()()()()でしょう?」


 意味深なセバスチャンの問いかけに、ドイツ外交官の娘エリス・ワイゲルトが同様の含みを持たせた言葉で応じる。

 見張っていれば余計な勘繰りをしなくて済み、そちらも『安心』できるはず。そのように彼女は匂わせたのだ。

 ちなみに同行はエリスから言い出したことだ。色々制限される代わりに俺達を探れるし、共に動けば心理的な距離を縮められる……こう踏んだのだろう。

 そんなわけでセバスチャンにとってランチは呉越同舟、少し前からエリスと前哨戦らしき会話を繰り広げていた。


 もっとも二人は例外的存在で、上陸者の大半は俺や智子さんのように名所や名物を話題にしている。

 既に日本にはヨーロッパ観光ガイドブックがあり、上海を始めとする経路上の都市も載っていた。それも比較的安価で、たとえば海外旅行案内社の『欧州旅行案内』は一円四十銭でシベリア鉄道と欧州航路の双方を紹介している。

 一円四十銭は平成時代だと千五百円から二千円程度だろう。これで途中の各地や欧州での観光名所、鉄道網や必要時間まで載せているから非常に使える。

 もちろん他の出版社も同様のガイドブックを出している。欧米旅行案内社など海外旅行案内社と同じく社名で専門と示す版元もあるし、それらは官報にまで広告を出すほど力を入れている。

 そのためか上海のみならず周辺を話題にする人も多い。


「蘇州や杭州、南京にも行こうと思っています。二週間もあれば、ゆっくり回れるでしょう」


「それは豪勢ですな」


「本当に。私も寒山寺に行きますが、たった一泊の強行軍ですよ」


 すぐ側では自慢そうに語る男を、知人らしき数名が囲んでいる。

 上海には足掛け三日停泊するから汽車を使って近隣に繰り出せるし、寒山寺のある蘇州なら片道二時間ほどだ。そのため日本郵船が出している『渡欧案内』という冊子でも、比較的手軽な観光地として寒山拾得で有名な名刹を挙げている。

 しかし杭州は汽車で片道四時間半、南京なら約七時間にもなる。つまり一泊程度だと往復が大半で、先を急ぐ者には少々厳しい。

 ただし気ままな物見遊山なら別だ。日本郵船だと欧州航路の船が二週間に一便あるから、世界一周観光などであれば最初の男のように長逗留を選ぶ者もいる。


 俺達は足を伸ばす余裕がないし、危険回避の観点からも上海のみにした。英米仏の外交官や夫人達と一緒に行動するという条件で、セバスチャンが租界や近辺の視察を許可してくれたんだ。

 その同行者たる外交官達は既に視察モードで、両岸の情景や迫りつつある租界の観察に余念がない。


「河口からここまで、だいぶ西洋風の建物が増えましたね!」


「ええ……確かに……」


 足早に舳先近くまで寄ったのはアメリカ外交官のキリヤソフ氏、これにヘーグさんが少々遅れて続く。

 前者は長身かつ締まったスポーツマン体型だが、後者は最近太ったから追うのが厳しいらしく息が切れている。本来ヘーグさんは少し肉付きが良い程度だったが、急な渡欧準備が響いてストレス太りしたのだ。

 もっとも彼はキリヤソフ氏と同じ三十代、更に後ろを歩むフランス外交官のデジャルダン氏に比べたら二十近くも若い。それにサッカーに親しみ培った体力があるから、程なく呼吸を落ち着かせる。


「租界も更に立派になりました。工部局の統治範囲も随分と広がって……ほら、南岸にも旗が揚がっていますよ」


「本当です! 『Omnia juncta in uno』……我々の絆の証ですね!」


 ヘーグさんが上海共同租界工部局の旗を指し示すと、キリヤソフ氏は若さの残る顔を綻ばせた。

 一行で上海の移り変わりに最も詳しいのはヘーグさんだ。彼は日本駐在になって長いし、イギリスに戻るときは欧州航路を使うことが多いからだ。

 それに対しキリヤソフ氏は、本国との行き来が太平洋航路だから上海に寄港しない。彼が最後に来たのは五年以上も前、妻子を連れての観光だという。


 ちなみに本来だと上海租界は黄浦江の北岸のみだったが、今はヘーグさんが触れたように対岸や下流にも共同租界工部局の管理下と示す旗がある。

 旗は白地に二本の対角線があり交点に円の紋章……つまり『×』の字状に赤い太線が横切った中央に徽章の本体が置かれたものだ。この本体の中に関係国の旗が散りばめられ、円周近くに『工部局』の文字とキリヤソフ氏が呟いたラテン語の一節『全てが一つに』が記されている。

 ただし各国旗に中華民国を示すものは存在しない。租界は列強が支配する場で、『全て』は彼らのみを指しているからだ。


「ワシントン会議の成果ですな」


「以前はどんな風だったのでしょう?」


 デジャルダン氏が駐横浜領事になったのは1921年、ヘーグさんやキリヤソフ氏の日本駐在より随分と遅い。そのため彼や夫人は英米外交官夫婦の評が聞きたいらしく、そちらに顔を向けている。


「数年前まで、西洋建築は租界や近くだけでした。それでもアジアでは有数の都市でしたが、海の近くまで建ち並んだ今とは比較になりません」


 ヘーグ夫人が語るように、現在は揚子江の河口近くまで洋風の建物が並んでいる。

 本来の歴史より租界が拡張されたのと同様に、その周囲にも欧米人の使う土地が増えた。これも俺達の歴史改変で列強の影響力が増した結果だ。


 俺はワシントン会議に向けた事前調整で、このままだと中国が世界有数の大国になると伝えた。これを重く見た欧米諸国は先々の強敵から力を削ぐと決め、民族自立を理由に中華民国を分割した。

 第一次世界大戦で多くの負債を抱えた英仏は、少しでも多くの富を植民地から得て返済に当てたい。アメリカもアジアの大陸権益に食い込む余地が生まれ、更に日本がサハリンや満州での米国資本優遇を約束したから考えを変えた。

 これらの思惑が働いた結果、会議は各国が足並みを揃えて中華民国を非難する場になったのだ。


 そして会議終了後の列強は自立を建前に各地で独立運動を後押しし、中華民国に残された土地でも権益を強化していく。ここ上海は後者で、共同租界とフランス租界は双方とも元の何倍にもなり、周囲も列強の軍が占領地を広げている。

 つまり東アジアの大陸部では、民族解放という名の新たな植民地支配が進んでいた。俺達が……いや、()()作り出した流れのままに。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 ワシントン会議終了は1922年2月6日、これは元の歴史でも改変後の歴史でも同じだ。そして俺達の上海寄港は1924年2月8日、会議終了から二年と二日が過ぎたわけだ。


 この僅か二年ほどで、中華民国の地図は大きく書き換えられた。

 二十一世紀の行政区画で表すなら、こうなる。まず河北、山東、山西、河南、陝西、甘粛、江蘇、湖北の八省、次に四川省の大半。そして北京、天津、上海、重慶……つまり直轄市の全て。これが1924年時点で中華民国とされる領域だ。

 ちなみに後の中華人民共和国の国土面積と比べたら23%ほどだが、第二次世界大戦後の日本の六倍近いし世界でも十五位以内に入るから決して狭くはない。


 他は独立して新国家となったり隣国の一部となったり、それぞれの道を歩んでいる。

 北東部の大半は満州国となり、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を受け入れた。これを後押しするのは日本とアメリカだ。それとワシントン会議の結果、日本は遼東半島を得ている。

 満州国の西、つまり新たな中華民国の北はモンゴル国に編入された。元の歴史で内蒙古と呼ばれる一帯は、モンゴル国の南部となったのだ。

 モンゴル国の西や西南はウイグル国だ。ウイグル国は後の新疆ウイグル自治区に加えて青海省の北半分を国土としており、新たな中華民国の約九割に匹敵する面積を誇っている。

 ウイグル国の南がチベット国、前者と同様に内陸部に広大な土地を得た。後のチベット自治区と四川省のカンゼ・チベット族自治州、それに青海省の南半分……新中華民国の八割に迫る広さだ。

 雲南と広西はフランスが後押しする小国家、同じく広東と湖南はイギリスを後ろ盾にした国々となった。これらの地に住む民族の主権を尊重して独立を認めた、というのが建前だ。

 安徽、福建、浙江、江西の四つはアメリカが牛耳った。ワシントン会議のホスト……つまり各国を呼びつける実力を背景に、彼らは大きな成果を得たのだ。


 労せず力を増したのはソビエト連邦……会議当時のロシアも同じで、モンゴル国とウイグル国の共産化を着々と進めている。

 同様にイギリスはチベット国を勢力圏としたが、宗教の違いやインドとの対立もあるから利益は少ないかもしれない。フランスも雲南と広西を傘下に加えたのは良いが、すぐ南の自領インドシナで独立の気運が増したという。

 このように列強の権益強化は、大よそ現時点の国力に応じた結果になっていた。したがって日本が遼東半島を領土として満州に権益を持つ現状は、大筋において妥当なところだろう。

 それに俺は日本の突出を避けたかったから、今の勢力バランスが望ましいと考えていた。


「とはいえ実際に目にするとな……」


「今更ですよ」


 ぼやき混じりの俺の呟きに、セバスチャンが耳ざとく応じた。

 今は上海寄港から三日目の朝、俺達は新公園……俺が生まれ育った未来だと魯迅(ろじん)公園と呼ばれる場所を散策している。三年前の極東選手権競技大会で()()()()()()()()()()()()()()()()()()()場所だから、一度は見ておきたかったんだ。


 あの大会はワシントン会議の前、しかも閑院宮(かんいんのみや)邸に移って半年も経っていない時期だ。そのため俺に現地観戦する余裕は無く、邸内の離れで吉報を待つのみだった。

 更に前年の1920年4月にタイムスリップで現れてから働きかけた結果がどう出るか。期待に胸を高鳴らせつつ過ごしたのを、俺は今でも鮮明に覚えている。

 当時の日本はラジオ放送開始以前、そもそも現在でもスポーツの国際中継など始まっていない。あのとき本来より遥かに早い大成果を伝えてくれたのは、翌日セバスチャンが持ってきた新聞だった。

 ただし紙面での扱いは小さいし写真も存在せず、結果や僅かな談話を載せたのみだ。まだ写真電送は原理的な成功のみで実用に至らず、代わりに飛行機や伝書鳩を用いていたから仕方ないが。


 このような経緯もあって待ち焦がれた新公園訪問だが、ここ二日の視察で俺の考えは少しばかり変わっていた。それは予想以上に進んだ列強の上海支配……裏返すと中国人排斥を目にしたからだ。


「ここも()()()()()方々は入れないのですね……」


 智子(ともこ)さんの顔や声も曇っていた。

 寄港した日、俺や智子さんは街巡りを楽しんだ。まるでロンドンのように石造りの建物が並び、尖塔が天に向かって(そび)える共同租界を浮き浮きと経巡った。

 しかし公園どころか租界からも中国人が追い出された現状を目にし、俺達は冷静さを取り戻す。


 本来の歴史でも、上海の中国人は様々に制限されていた。

 智子さんが口にした公園への立ち入り制限は事実で、パブリック・ガーデンには1890年から『The Gardens are reserved for the Foreign Community』……つまり『この公園は外国人専用』という注意書きがあった。これは後にブルース・リーの映画で『犬と中国人は立ち入るべからず』と少々誇張された表現で取り上げられたから、知っている人も多いだろう。

 しかし新たな歴史では更に制限が厳しくなり、租界や周辺に中国人の住居は僅かしか残っていない。先ほど智子さんが『住んでいた』と過去形で語ったのは、そのためである。


 中華民国の分割と同時進行で、上海租界の列強権益も大幅に強化された。

 租界にいた中国人達は治安維持を理由に追い出され、現在は観光客向けに残された店の従業員や人力車の車夫程度しか中に入れない。ここを含む周辺も同じで、大半は中華民国籍の者が住めぬ場所となった。

 アヘン窟などに代表される上海の暗部は、黒社会……中国マフィアが支配する場で魔都と呼ばれる所以(ゆえん)でもあった。これらの闇を払っただけと租界の支配者たる工部局は言うが、彼らの住み良い場所を造るために貧しい人や旧来の侠客(きょうかく)を追い出したのも事実ではある。

 そのため表立ってはともかく、少し耳を澄ませると『討厭(タオイェン)西方(シーファン)』……西洋人への怨嗟(えんさ)が聞こえてくる。


「ええ……こんなに綺麗で気持ちの良い場所ですが」


 俺からすれば四季がある上海は生来の感覚に馴染むし、それでいて気温が高いから今時分だと東京よりも過ごしやすい。

 特に滞在中は三月を思わせる暖かさで、紅白の梅が競うように咲いて目を楽しませてくれた。それに西洋庭園も色取り取りの水仙やクロッカスなどで綺麗な模様を描き、東洋の伝統とは別の手法で春の訪れを表している。

 東洋の自然を愛する心が育んだ池泉山水式と、西洋の合理主義が生んだ平面幾何学式の庭園設計。この二つが融合した新公園は、東西の美の競演とすら思える。

 しかし内実を思うと、どこか寒々しく感じてしまう風景でもあった。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 1921年の第五回極東大会に、日本は百名以上の大選手団を送り込んだ。これは元々の歴史でも同じである。

 ピッチに立ったメンバーには日本サッカー殿堂掲額者だと野津(のづ)(ゆずる)、当時は東京帝国大学の学生で後の日本サッカー発展やFIFA加盟にも尽力した偉人がいる。ただし東大からは彼だけで、他は東京高師や東京蹴球団の選手で占められていた。

 しかも(もり)悌次郎(ていじろう)後藤(ごとう)基胤(もとたね)のように東京高師と東京蹴球団の双方に所属した選手が多く、実際には一つのチームが主体だったと理解できる。


 これは両団体が牛耳った結果……ではなくサッカーがチーム競技でコンビネーションが重要だからだ。

 大正時代の交通機関は貧弱で関東以外の選手を東京に呼んで試すのは難しいし、情報伝達手段も限られており候補を見つけるだけでも一苦労だ。そのためチームとして機能するほど鍛えるには、勉学や仕事から切り離して長期拘束するしかない。

 しかし学生は学業が本筋、東京蹴球団なども社会人クラブだからサッカーは趣味だ。職業化は日本サッカーリーグの事実上プロと呼べる時期を含めても1960年代終わりごろから、つまり大正時代にサッカーのみで生活できる者は存在しない。

 そのためシステムとして動かすには同一チーム所属や近場で試合を繰り返した面々で構成するのが当然、選ばれたのも実は『全関東蹴球団』……極東大会を目標に近隣から集めた者達だった。


 この全関東蹴球団は前年から合宿したり、ビルマ留学生チョウ・ディン氏の指導を受けたりもした。そのため国内予選を余裕で勝ち上がり極東大会に挑むが、上海では二試合で1ゴールのみという惨敗に終わる。

 しかし俺は後の歴史を知っているから、1923年の第六回大会でゴールする青山師範の清水(しみず)隆三(りゅうぞう)や同じく第六回のレギュラーで野津氏の広島中時代の後輩でもある深山(ふかやま)静夫(しずお)などを捻じ込み、日本サッカー初の国際大会優勝をもぎ取った。


「歴史は塗り替えられた……その証がここにもある。しかし……」


「どうなさいました? 『英外交官の協力もあり日本蹴球団の成長は目覚ましく、前回マニラ大会に出場しなかったにも関わらず第三回東京大会での大敗を覆してフィリピンを破り、その勢いのまま中華民国にも快勝した』……我が大日本帝国の、そして中浦(なかうら)様の成果を余すところなく記していますが?」


 俺がグラウンドの脇に立つ記念碑に目を向けると、セバスチャンが碑文の一部を読み上げた。

 まだ新しい石碑には、日本が第五回極東選手権競技大会でサッカーの部を制したと大書されている。これはサッカー普及に尽力したヘーグさんや駐日イギリス大使のエリオットさんの働きかけで建ったものだ。


 第一次世界大戦が始まったのを契機に、日本は共同租界への影響力を強めた。

 元々工部局はイギリス人中心で、参事会も他はアメリカとドイツに一議席ずつが通例だった。しかしイギリスは敵国となったドイツを排除して代わりに同盟国の日本を迎えた……彼らの要請に応じ対独包囲網に加わった謝礼として。

 しかも本来ならワシントン会議で日英同盟が破棄されて縁遠くなるが、新たな歴史では更に米仏を加えた四国同盟に進化した。そのため工部局も記念碑建立を後押ししたようだが、文面を読む限りだと日英友好を(うた)いたかっただけらしくもある。

 もちろん俺はヘーグさんやエリオットさんに文句を言うつもりはないし、日本が欧米に認められるには協調や融和を喧伝すべきとモニュメント設置にも賛成した。しかし現在の上海を見てしまうと、これも中華民国に対する戦勝記念碑に思えてくるのだ。


 そもそも本来なら今後の上海……いや、東アジアの大陸部で響くのは日本を恨む声だ。しかし大陸権益を列強で分け合うようにしたから、矛先も東洋(トンヤン)ではなく西方(シーファン)……つまり日本から欧米に向いた。

 そのため俺は上海の現状に少なからぬ責任を感じたし、智子さんも同じ気持ちのようだ。流石にセバスチャンは割り切っているらしいが……。


「そうだな……少し感傷的になったようだ」


 内心の思いは置いておき、俺は失言を誤魔化そうと作り笑いを浮かべる。

 現在ヘーグさんは少し離れた場で工部局の知人と語らっているし、他の外交官や夫人達もそちらに行った。そのため彼らの耳に入る恐れはないが、浮かぬ表情をすれば怪訝に思われるだろうからだ。

 しかし俺の言葉を聞き取った異国人は、たった一人だが存在した。それは敗戦国の娘、エリス・ワイゲルトだ。


「勝者が新たな歴史を綴り、時には敗者の存在自体を抹殺する……これが世の掟ですわ。工部局の印から()()()()()()()()()()()()()()()()ように」


「エリスさん……」


 暗に示された事柄を察したようで、智子さんは何事かを言いかけた。しかし勝者が敗者に送る言葉などないと思ったのか、彼女はそのまま押し黙る。


 (わし)の紋章はプロイセン王国の印、これは初期の工部局が徽章に記した十二の国旗に含まれている。しかし第一次世界大戦で敵となったから削られ、それから該当箇所は空白となる。

 ここまでは元々あったことだが、新たな歴史だと空白部分を日本の国旗が埋めている。つまりエリスが触れた後半部分は、歴史改変の成果なのだ。

 これらの変化を俺は智子さんに伝えていた。そのため彼女は応じづらくなったようで、表情も先ほどに増して暗い。


 どうも智子さんは、エリスと数日を共にして多少気を許したようだ。

 外交官夫人達と違って同年代で未婚、それにセバスチャン配下の()()()のような上下関係も存在しない。そのため智子さんからするとエリスは話しやすいらしく、友人めいた親しみが湧いたのだろう。

 エリスの言葉は心理的な接近を意識した、ある種の揺さぶりに違いない。そう思う俺にも重く響いたくらいだから、より純粋な智子さんが揺らぐのも無理はない。


「鷲も勝者だったときは狩りたい放題に狩ったはずです」


 俺は多少の皮肉を篭めつつ、エリスに反論する。

 実際プロイセンはフランスからアルザス=ロレーヌを奪い、多額の賠償金を勝ち取った。得た地は第一次世界大戦で失ったし賠償金も比較にならない高額を課せられたが、それまでは彼らが勝者として美酒を味わったのだ。


「だからこそ、皆が夢見ます。鷲が再び大空を飛び、日輪を超える高みに昇るときを。そして、いつの日か雄鶏や獅子を倒して糧にすると……」


 エリスの暗喩を、俺は理解した。

 日輪は当然ながら日本の象徴、そして雄鶏はフランスで獅子はイギリスだ。雄鶏は古来ガリア地方の象徴で、第三共和政となってからはフランスの公式シンボルといって良いほどの地位を得た。そして獅子はイングランドの象徴で、スコットランドを示すユニコーンと共にイギリス国章に描かれている。

 つまり今は敗戦国として屈したドイツが日本より上に位置し、更には英仏を倒して過日の栄光を取り戻す。こう信じて多くが励んでいると、エリスは語ったのだ。


「鷲が雄鶏や獅子と競う……。きっとそうなりますよ、このフィールドでね!」


 生きている限り、国が続く限り、逃れられぬ連鎖。それらを俺は無視し、敢えて明るい声を張り上げた。

 ただし嘘を()いたつもりはない。サッカーだとドイツ代表のシンボルは鷲、同じくフランス代表が雄鶏でイングランド代表が三頭の獅子だ。


秀人(しゅうと)様……」


「それでこそ」


 智子さんの顔に明るさが戻り、無表情だったセバスチャンも僅かだが頬を緩ませた。

 日本の八咫烏(やたがらす)と同様に、英仏独の代表エンブレムは俺の脳裏に焼き付いている。そのため冗談めかした言葉にも、真実の重みがあったのだろう。


「これが私の夢見る戦いですよ。時には夢想が過ぎて余計な口出しもしましたが、最善を思って動けぬより次善を目指すべき……そう考えましてね」


 サッカーに紛れさせつつ、俺は改めて決意を口にする。

 新たな歴史の流れには予想を超えた部分もあるが、改変できた以上は再修正も可能だろう。そう信じて更に望ましい未来を引き寄せるのみだ。

 それが首謀者たる俺の責任、命ある限り背負う務めなのだから。


「……流石ですわね」


 意外なことに、エリスの声も和らいでいた。

 何かを訴えかけるように、彼女は黒く大きな瞳で見つめ返す。やはり俺が未来知識を持つと確信しているのだろう。


「た、単なるサッカー馬鹿の戯れ言ですよ!」


 今更ながら俺は冗談と主張するが、エリスは信じなかったらしい。彼女の表情は柔らかいが、瞳に宿る光は真剣そのものだ。

 過大評価は警戒に繋がるから避けたいが、言い訳を重ねたら正体に迫る手がかりを与えてしまう。そのため俺は再びグラウンドに顔を向け、美しい芝をしばらく眺め続けることにした。


 お読みいただき、ありがとうございます。


 更新が遅れ、申し訳ありません。

 先月入院したこともあり、しばらくは月一回程度の更新を目標とします。次回は六月半ば、遅くとも六月末の公開を目指します。


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