30 ドイツ国情(1924)
俺、中浦秀人はダンスの相手に感嘆の視線を向ける。
ドイツ外交官の娘エリス・ワイゲルトは、舞姫の名に相応しい踊り手だった。差し出す手、刻むステップ、そして何より見つめる瞳……まだ二十代半ばらしいのに円熟の名人もかくやという表現力だ。
どう魅せたら相手の心に響くか、彼女は知りつくしているのだろう。スパイと疑っている俺ですら、思わず引き込まれてしまう。
「素晴らしいですね。どなたから学んだのでしょう?」
これではマズいと、俺は踊りつつ言葉を投げかけた。しかし飲まれ気味なのか、なんとも不用意な問いになってしまう。
エリスの容姿はマタ・ハリの若いときに酷似しており、実の親子と言われても信じてしまうほどだ。そこで俺は二人の関係を知る糸口になればと問うたが、警戒を招くだけの悪手だったと早くも後悔していた。
「亡くなった父が付けてくれた教師ですわ。『外交官の娘だから踊る機会も多いだろう』と……それに母の血かもしれませんね」
予想外というべきか、エリスは曖昧にだが答えてくれた。もちろん真実を口にしているとは限らないが、俺は耳を澄ませる。
「まだ私が赤子のころ、両親は別れたそうです。だから詳しく聞けずじまい……ただ父は『あれに似たなら上達するだろう』と言いました」
「それは……」
寂しげなエリスの声音と面。俺は思わず同情を覚えたが、その一方で素直に受け取って良いのかとも感じる。
エリスはホールに入るなり、真っ直ぐ俺へと寄ってきた。欧州航路の客船だから西洋人は大勢いるのに、わざわざ日本人の俺を誘ったのだ。
それに一等客のみが使えるダンスホールに現れたのも、少しばかり不自然だ。
一等はマルセイユまでの旅費だけで千円にもなるが、これは平成時代の百数十万円に相当する。いくら外交官の娘とはいえ、今の困窮したドイツが経費として認めるだろうか。
ドイツは先の大戦で負けて多額の賠償金を課せられ、更に支払いが滞ったからとフランスとベルギーがルール地方を占領した。これらにより経済は混乱し空前のインフレが発生、一時期は失業率が三割近くまで上昇した。
昨年十一月のレンテンマルク発行……デノミネーションで事態は改善しつつあるが、まだまだ予断を許さない。この状況では、仮に外交官当人であっても倹約を求められるのではないか。
やはり何か裏があっての接近だ。俺は感情に流されないよう、心の中で自分自身に言い聞かせる。
「……お父上は、いつ日本に?」
とりあえず俺は矛先を変えることにした。
ドイツ外交官のワイゲルト氏がいたのは事実だと思う。調べたら簡単に分かるような嘘を吐いてもデメリットしか無いからだ。
本当の親子なら一緒に来日したか追ったはず、父娘を装った場合でも同様だ。つまり彼について問えば、ある程度はエリスについても把握できるだろう。
それにワイゲルト氏は関東大震災で没したという。被害を抑えるべく奔走した俺としては、どのような状況だったか知りたくもあった。
「昨年の初めです。それまではフランスでしたわ。父は昔も……」
エリスによると、ワイゲルト氏はフランス駐在が長かったそうだ。
ただしドイツは第一次世界大戦でフランスと断交し、開戦の1914年に大使を引き上げている。これは在日ドイツ大使館も同じだが、再び大使を交換したのは1920年からだ。
エリスも戦争中は父と共に自国に戻り、その後フランスでの二年弱を経て日本に来たという。
「なるほど、道理でフランス語がお上手なのですね」
俺達は主にフランス語で話していた。
俺が一番得意なのは英語、次が同盟を結んでから学び直したフランス語、残念ながらドイツ語は語彙が少ない。一方エリスはドイツ語とフランス語、日本語も来日以来で多少は覚えたが英語は苦手だという。
そこで俺達の会話は大半がフランス語、一部を日本語で補う形になった。
「ありがとうございます。……父はパリが好きなのです。母とグラン・パレに行ったりアレクサンドル三世橋からセーヌ川を眺めたりしたと、幼い私に話してくれましたわ」
「ロマンチックですね。パリ万博にも一緒に行かれたのでしょうか?」
エリスが挙げた二つは1900年のパリ万博に合わせて建設された。そのため彼女の両親は万博会場でデートしたのではと、俺は想像する。
「いえ、そのころは母と出会っていなかったはずです」
エリスの言葉は、少しばかり予想外だった。
パリ万博は十一月半ばまでだ。つまりエリスが生まれたのは翌年以降、今は1924年の二月だから二十三歳未満ということになる。
艶やかな容姿から二十代半ばと想像したが、不用意に口にしなくて良かった。俺は密かに胸を撫で下ろす。
それはともかく、パリ好きなドイツ人とは珍しい。このころのドイツとフランスは幾度も戦った宿敵同士だからである。
十九世紀以降だと1803年から1815年のナポレオン戦争、1870年から翌年にかけての普仏戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦だ。
特に最後の大戦では双方とも目を覆わんばかりの犠牲者が出た。どちらも総人口の4%前後を失ったが、これは第二次世界大戦における日本国民の戦没率に匹敵する。
「そうですか……」
「父は偏見の少ない人でした。パリ生活のお陰で、サッカーも好きでしたのよ?」
俺が言葉を途切れさせると、エリスは亡き父ワイゲルト氏の逸話を更に明かしていく。
イギリスやフランスに比べ、ドイツのサッカー普及は少々遅かった。ドイツはイギリスとも不仲で、保守派はサッカー好きを『イギリス病』と揶揄したからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
少し大袈裟かもしれないが、フランスとの戦いがドイツを誕生させたと言っても良いだろう。特にナポレオン戦争と普仏戦争だ。
結果的にだが、ナポレオンの大陸封鎖は各地の産業成長を促した。そして育った産業を各国は保護関税で守り、ドイツは関税同盟で纏まり始める。
普仏戦争は対峙した双方の政治体制を変えた。戦争前のドイツは北ドイツ連邦などだったが終わったときには帝政ドイツ……いわゆるドイツ帝国として結束し、フランスはナポレオン三世が捕虜になって第二帝政が終わり第三共和政が誕生した。
イギリスとの対立も、これらと関係している。
大陸封鎖が各国の産業を伸ばしたのは、英国製品の流入を防いだから。そのため封鎖解除後はイギリスとの競争が鍵となる。
このような状況下、ドイツ帝国は普仏戦争の大勝利で自信を深め、統一で向上した国力でイギリスを追いかける。これが三国協商と三国同盟の対立を生み出し、第一次世界大戦に繋がるのだ。
三国協商は十九世紀末から二十世紀初めに存在した英仏露の協調、一方ドイツはオーストリア=ハンガリーやイタリアと同盟を結んで対抗した。そしてイタリアが脱落しドイツ・オーストリア対三国協商となり、大戦の基本構図が完成する。
つまりドイツ帝国は成立や歴史自体が対イギリスの側面を持つし、第一次世界大戦で負けて法外な賠償金をふっかけられたから好感を抱けるはずもない。
このイギリスとの対立が鮮明化する中、ドイツにサッカーを広めようとした人物がいた。それは後に『ドイツサッカーの父』と呼ばれるコンラート・コッホだ。
コッホ氏は教師で、1874年ごろから自身の生徒達にサッカーを教えた。しかし彼は反ドイツ的社会主義者とされ、父兄や名士から激しく攻撃される。
それでもコッホ氏は熱心な指導を続け、子供達も次第にサッカーを楽しむようになった。そして最後は大人達も彼を認め、イギリス発のスポーツを受け入れる。
この逸話は2011年にドイツで『コッホ先生と僕らの革命』として映画化され、日本でも翌年公開されている。もちろん映画だから脚色はあるが、実際もドイツでのサッカー普及は多大な困難を伴った。
「お父上がサッカー好きとは、意外でした」
俺はコッホ氏の映画を観ており、十九世紀末から1920年代にかけてのドイツサッカー事情も多少は理解している。
ドイツのFIFA加入は誕生の翌年、1905年と早い。しかし国内での冷遇は二十世紀に入ってからも続いたし、国際試合の相手も偏っていた。
FIFAの記録によると1930年ごろまでドイツの国際試合は周辺国が殆どを占める。そしてスコットランドとの初試合が1929年でイングランドが翌年、フランスは更に翌年だ。
それまでドイツの試合相手は、オーストリア、ハンガリー、スイス、オランダ、ベルギー、北欧諸国などだった。
現在ドイツは莫大な賠償金で経済が冷え込んいるし、英仏はオリンピックからドイツを追い出したほどだからサッカーでも温かく迎えるはずがない。このような状況だから、ドイツの保守派からするとサッカーは敵性競技のようなものだろう。
「パリではサッカーが流行っていますから。なんでも全国で二千を超えるクラブがあるとか」
エリスが触れたのはアマチュアクラブだ。俺が知っている歴史だとリーグ・アンの設立は1932年、つまり八年も先である。
「きっと来年には三千五百くらいになるでしょう」
俺の示した数字には根拠がある。
二十一世紀で見た統計情報だと来年の1925年に三千六百近く、1950年には九千近いクラブがフランスにあった。競技人口だと前者が十万、後者が四十五万に届こうという数字だ。
ちなみに日本の競技人口が四十五万を超えたのは1984年、これだけ差があったから強く記憶していたのだ。
「来年のフランスまで予想済みとは……。噂通り、頭脳明晰ですのね」
エリスは今も魅惑的な笑みを浮かべているが、声は僅かだが鋭くなる。言葉の上では予測としたが、未来知識によるものと察したようだ。
「パリ駐在の日本人から聞きましてね。……曲も終わりましたし、戻りましょうか」
再び失言をしないうちにと、俺はダンスを切り上げることにした。
サッカーが話題だと、ついつい余計なことまで話してしまう。あるいは踊りで注意力散漫になったのか。
それに智子さんを待たせたままだ。彼女は俺の婚約者、放置して他の女性と踊り続けるなど失礼に過ぎる。
別に俺が無理して探らなくても良いのだ。こちらには諜報の専門家、セバスチャンこと隠密の瀬場須知雄がいるのだから。
「そうですわね。あまり引き止めると彼女が怒るでしょうから」
意味深な言葉と共に、エリスは嫣然と微笑んだ。
智子さんはセバスチャン達と一緒に、こちらを見つめている。それを承知しての発言、しかも彼女は寄っていく間、俺と腕を組んだ。
「分かっているなら手加減していただけませんか?」
俺は小声で囁き返し、周囲の目を惹かない程度に足を速めた。智子さんの表情は明らかに硬いし、セバスチャンも不穏な空気を漂わせていたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
俺は早々にダンスホールから引き上げ、智子さんに謝った。疚しいことはないが誤解は早く解くべきだし、四十数日もの船旅が気まずくなっても困るからだ。
幸い素直に伝えたら二人は機嫌を直してくれた。そこで俺は無線電信で東京に連絡してくれと、セバスチャンに頼む。
エリスやワイゲルト氏について、向こうにいる隠密達に調べてもらうためだ。
初日は名古屋と大阪に寄港するが、どちらも短時間で発つから電話は難しい。しかし神戸では二泊するし門司でも一泊するから、やりとりする時間も充分にある。
ちなみに1924年時点では、国外との電話は不可能だ。このころだと無線機器による交信を無線電話と呼ぶこともあるが、これは傍受の危険があるから多用は避けるべきだ。
有線電話も交換手を通してだが、無線と違って関与可能な者が大幅に限定される。それに交換手は日本人だけだから多少は安心できるだろう。
それはともかく、隠密達は充分な成果を挙げてくれた。
まず出航から二日目、停泊中の神戸でワイゲルト氏の実在と死去が確認できた。そして五日目の門司では、氏の死亡状況やエリスに関する情報が届く。
「外交官ハインツ・ワイゲルトは昨年九月一日の大地震で死去……このように処理されていました」
セバスチャンは電話室から戻ってくるなり、報告を始める。
ここは門司に近い温泉街、その中でも老舗と呼ばれる宿だ。明日は日本を離れるし帰国は半年以上も先、そこで俺達は和風旅館で温泉を楽しむことにした。
今いる部屋は離れの座敷、智子さんも含めた三人で座卓を囲んでいる。既に一風呂浴び、夕食を味わっているところだ。
料理は関門海峡の荒波に揉まれた魚が中心だ。刺身に天ぷらなど様々に趣向を凝らしているが、やはり目玉は本場のふぐ料理である。
ふぐ刺し、てっちり、から揚げに寿司など。これらに舌鼓を打っていた俺達だが、今は箸を置いて密談に集中する。
「処理……つまりドイツの公館で亡くなったと?」
「はい。大使館の見張りに選ばれたそうです……表向きは」
俺の予想通りだと、セバスチャンは頷く。
大震災の被害を抑えるため事前の避難を徹底させたが、他国の外交官には強制できない。そのため彼らの一部は大使館や領事館に残り、僅かだが死傷者も出たという。
しかし外交使節の公館には不可侵権があるし、未曾有の大災害だから日本の外務省も書類をそのまま受け取っただけだ。つまり本当に死んだかどうか、日本側で確かめた者はいない。
「五十過ぎのワイゲルト氏が見張りね……やはりアインシュタイン博士を追ってきたのかな?」
「来日時期からすると、その可能性が高いでしょう」
神戸で受けた報告で、ワイゲルト氏の来日が昨年一月末だと分かっている。
一方アインシュタインが日本に亡命したのは一昨年の十一月だ。直後に出立すれば欧州航路でも間に合うし、シベリア鉄道を使えば年明けでも到着できる。
つまりワイゲルト氏の目的は、アインシュタイン亡命の背景を探るためではないか。
その場合、一つ分からないことがある。昨年までフランス駐在だったワイゲルト氏が調査担当に選ばれた理由だ。
ドイツ側が外務省に提出した経歴書は、エリスが語った内容と一致していたのだ。
「ドイツからするとフランスは最も警戒すべき相手……よほどの腕利きなのかな?」
「それほどの人物だとすれば、呆気ない死を迎えたのは意外ですね。大震災に乗じて姿を眩ませたのかもしれませんが……」
俺の問いかけに、セバスチャンは肩を竦めつつ応じた。
既に五ヶ月以上が過ぎており、死亡にしろ生存にしろ確認は難しい。セバスチャンは引き続いての調査を命じたというが、表情からすると望み薄なのだろう。
「エリスさんについては分かりましたか?」
同じ若い女性同士だからか、智子さんはエリスが気になるらしい。それとも調査担当はエリスで、ワイゲルト氏は隠れ蓑に過ぎないと思っているのだろうか。
実は俺も似たような意見だ。
エリスが俺に近づいたのは、アインシュタイン亡命に関係していると睨んだから。それに大震災を予言した人物だと疑っているのでは。そして俺達がパリに行くと知り、同じ船に乗り込んだ。
これなら唐突な登場も説明できるし、彼女の上司も一等客になってでも探れと命じるだろう。
「残念ながら、書類以上のことは分かっていません。父に関しては、パリ駐在経験者の証言がありますが」
どうもセバスチャンは不審に感じているらしく、僅かだが眉根を寄せた。
エリスほど印象的な容姿の娘がいたら、パーティーなどに連れていくだろう。もし同伴したら記憶に残るのは確実、しかし外務省にワイゲルト氏の娘を知る者はいなかった。
それにマタ・ハリに似た女性がパリにいたら大騒ぎになると思うが、フランス外交官のデジャルダン氏は聞いたことがないという。この船内でも既に噂になっているのに、不自然極まりないだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「案じても仕方ない! 今は宿自慢の料理を楽しもう!」
俺は気持ちを切り替えることにした。
エリスの目的が俺への接近なら、誘惑に負けなければ良いだけだ。それに当分は船上、フランスに着いても日本と違って和食には制限が多い。
先を論ずるより温泉宿を満喫し、英気を養って明日からの旅に備える。これが今すべきことだろう。
「そうですね! 明日から船の上ですし!」
智子さんは常になく声を弾ませる。
初の海外、それも行き先は花の都パリだ。ファッション、芸術、演劇、料理……いずれも世界の最先端、『十九世紀の首都』の異名に相応しい。
そのため智子さんは、出発が決まったときから色々見て回りたいと意気込んでいた。
「まず上海まで三日、ここからマルセイユまで船中泊のみで済ませるつもりです。揺れないベッドで眠れるのは四十日近く先ですよ」
セバスチャンも察したようで、注意らしき言葉を紡ぎつつも表情は優しい。
上海の次は香港、その次はシンガポール。これらでは一泊以上停泊するから、多少は観光もするが夜は船に戻る。
今回の船はワシントン会議のときにも乗った鹿島丸、旗国主義により船内では日本の法が適用される。そのため船に泊まった方が安全だし、色々と融通も利くのだ。
「船中泊が続くのは残念だが、その分だけ観光を楽しもう。まずは共同租界とフランス租界の名所巡り、新公園は遠いから難しいかな」
俺は上海での予定を口にした。
共同租界は日英米などフランス以外の列強が権益を握る地だ。これにフランス租界を合わせて上海租界という。
新公園とは、後の魯迅公園である。ここは三年前に行われた第五回極東大会のサッカー会場だから、この目で見ておきたかった。
俺達の努力が実り、本来の歴史より九年も早く日本が初優勝した場所なのだから。
「フランス租界は『上海のパリ』とも呼ばれています。お嬢様、楽しみですね」
セバスチャンはフランス租界の別名に触れる。
俺達の租界観光の案内役は、一緒に旅する英米仏の外交官夫妻だ。フランスのデジャルダン夫妻は日本に赴任する際に寄ったそうだし、イギリスのヘーグ夫妻も本国との行き来で何度か訪れている。
それにアメリカのキリヤソフ夫妻も、日本駐在中に観光がてら行ったことがあるという。
外交官達と行動すれば面倒事も避けられるだろう。そのため智子さんの安全最優先のセバスチャンも、租界巡りに反対しなかった。
「素敵ですね……。でも極東大会が行われた場所も見に行きましょう。遥か先の大和撫子が活躍するかもしれない場所ですから」
智子さん達には、先々のサッカー史も簡単に伝えた。そのため彼女は未来の女子日本代表の愛称も含め、あらましを知っている。
そして魯迅公園の上海虹口足球場は2007年女子ワールドカップ会場の一つ、このとき本大会に出場した日本女子代表の試合もあった。もっとも歴史は変わったから、別の場所が会場に選ばれるかもしれないが。
「八十三年後ですか……もしかすると、お嬢様と中浦様の子孫が出場するかもしれませんよ」
「お前の子孫かも知れないぞ。隠密同士で結婚したら凄い選手が生まれるだろう」
からかい気味のセバスチャンに、俺も同じく冗談で応じた。
目立つ場所で競技するなど、隠密に許されるはずもない。顔や名前が売れたら困るだけ、秘伝の技を衆目に晒すなど論外、そのような反対が大多数を占めるに決まっている。
だからセバスチャンが断るのは承知の上、あくまでも話の種としただけだ。
「仕事が少なくなったら考えますが……。外に出す者も不足していますし、当分は無理でしょう」
「そういえば、前に外国の孤児を引き入れるとか言っていたな」
セバスチャンの言葉で、俺は知り合って半年ごろのことを思い出した。
開国以来、隠密達は外国人の孤児やハーフを配下に加えている。そのように彼は教えてくれたのだ。
とはいえ隠密には様々な資質が必要で、無闇に募集するわけにもいかない。修行で叩き込むにしても幼児期に始めないと無理だから、今も手が足りないままだという。
「それでしたら、ますます結婚すべきでは? 意中の相手はいないのですか?」
興味津々なようで、智子さんは瞳を輝かせつつ返答を待っている。
彼女の護衛のように、隠密には女性も大勢いる。そして後継者が必要なら結婚して子を得るべきというのも、もっともな指摘だ。
「お二人が結婚したら考えます。お嬢様の高等科卒業まで一年少々、そんなに先でもありませんし」
「エリス殿を妻に迎えたらどうだ? 彼女をドイツから引き抜くんだ」
「秀人様……」
旅先の開放感からか、俺達は冗談混じりの他愛ない話を続けていく。
しかし、こういうのも時には良いだろう。二人も同じことを考えたのか、食事を終えても席を立とうとしなかった。
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