26 御成婚(1924)
当たり前だが、大正時代の放送技術やサービスは未発達だ。
史上初の商業ラジオ局、アメリカのKADAは1920年開局。和暦に直すと大正九年からである。
テレビは1924年現在だと研究中。イギリスでBBCが試験放送に成功したのは1929年、つまり昭和四年で大正時代は終わっている。
それに本来、現時点の日本はラジオの定期放送を始めていない。俺……中浦秀人が二十一世紀で学んだ通りなら、大正十三年の皇太子殿下御成婚式典の中継は大阪朝日新聞による実験放送だ。
新たな歴史だと日本のラジオ放送は二年少々早まり、大正十二年新春から開始された。したがって御成婚中継も社団法人東京放送局による定期放送の中、後のNHK東京第1となった。
ちなみに現在、民間放送局は存在しない。俺は民放の早期導入に賛成だが、その一方で関東大震災での誤報道を減らしたいから先送りにしたんだ。
とはいえ元のように第二次世界大戦が終わるまで公営放送のみでも困るから、俺は情報公開や共有こそが軍部暴走への特効薬と各方面に力説した。そのため様々な制約はあるが門戸開放へと進み、来年ごろには民放が誕生するはずだ。
しかし今の東京にラジオは一局のみ、他は新聞などに頼るしかない。
既に好事家による私設無線局も存在し、これらは規制を潜り抜けて好き勝手に発信している。だが二十一世紀のYouTuberやTwittererのようなもので、これらは取材力に限界があるし電波の出力が弱く届く範囲も狭い。
それに東京放送局の中継も宮城の奥まで伝えないから、一般人どころか相当な有力者でも御婚儀の様子をリアルタイムに知るなど不可能だ。もちろん俺も同じ、そもそも東宮職として働いておりラジオに耳を傾ける暇すらなかった。
したがって俺が宮中での詳細を知ったのは翌朝、新聞や閑院宮載仁親王などの話を通してだ。
「皇太子殿下は凛々しく、良子女王……いや、妃殿下は清楚で美しく。お二人の姿を目にしたとき、これぞ次代を率いる方々と感じ入ったものだ」
載仁親王は宮中三殿での様子を語り始めた。
親王の書斎に招かれたのは、いつもの三人だ。俺と婚約者の智子さんは向かいのソファー、そして隠密のセバスチャンこと瀬場須知雄は脇に佇んで耳を傾ける。
宮中三殿とは賢所、皇霊殿、神殿の三つである。広義だと神嘉殿、綾綺殿、神楽舎、奏楽舎などを含むが重要なのは先に挙げた三つだ。
賢所は天照大御神の神魂として八咫鏡を祀り、宮中三殿の代名詞として用いられるほど。そして皇霊殿は歴代の天皇や皇族の魂、神殿は天神地祇を祀る。
他は祭祀のために設けられた建物だから、そもそもの性格が異なる。神嘉殿は新嘗祭など、綾綺殿は鎮魂祭や祭祀する皇族の着替え、神楽舎と奏楽舎は名前通りに奉納する歌舞のための場所である。
「束帯黄丹袍の皇太子殿下、五衣唐衣裳の妃殿下。どちらも我が国の伝統を踏まえ、若さと気品も満ち溢れ……。明るく豊かな時代の到来を予感させる、ご立派な姿だった」
親王が触れた衣装だが、簡単に表現するなら雛祭りのお内裏様とお雛様だ。
皇太子殿下が赤みがかった黄色の袍に黒い冠、手には板状の笏だ。妃殿下は髪を大垂髪にして十二単に平額と呼ばれる金の冠を着け、檜扇を持つ。
「なんて素晴らしい……」
智子さんは頬を薄く染め、夢見るような笑みを浮かべる。
良子女王は智子さんと同じで女子学習院に通ったが、三歳も上だから机を並べることはない。それに女王は1918年に皇太子殿下の妃に内定すると、退学して自邸に用意された学問所に移る。
たぶん智子さんにとっては、憧れの先輩といった感じなのだろう。彼女は大いに共感しているようで、瞳も煌めきを増していた。
「見せたかったが、我ら皇族でも一部しか参列できぬ場だからな……」
親王の言葉は事実で、宮中三殿の幄舎に招かれたのは限られた者達のみだ。
何しろ宮家も原則は当主と妃のみ、そこからも大勲位東郷平八郎から始まり東京市長まで。政府に加えて東京府および市の要職と華族を集めたわけで、主と夫人だけでも千人少々になった。
もちろん大半は後列に並ぶだけで、婚儀の様子など見えはしない。ただし載仁親王は秩父宮雍仁親王の次に挙げられるくらいで最前列だ。
「神盃を受ける様も堂々たるもの。摂政宮としての責務が殿下を鍛えたのだろうな……それに欧州歴訪や震災を乗り切った経験も」
親王は目を細め、トレードマークの立派な八の字髭を捻った。
皇太子殿下御成婚……つまり裕仁親王と妃になる良子女王の婚儀は、厳密に表現するなら賢所で行われる儀式が該当する。
それは内陣での御告文奏上だ。
しかし御告文は神に捧げる言葉、賢所に入れるのは祭祀を司る者のみ。参列者は後で順に賢所の前に進み、外から拝礼するだけである。
そのため載仁親王が口にしたのは外陣での儀式についてだった。
掌典職の一人が素焼きの神盃を献じ、掌典長が注いだ神酒を皇太子殿下が干す。続いて良子女王が同じように神酒を受け、婚儀が成立する。
この後お二人は皇霊殿と神殿にも参進および拝礼し、宮中三殿を後にする。綾綺殿で皇太子殿下は陸軍軍服、妃殿下はローブ・デコルテに着替えて宮中に移ったのだ。
そして西一ノ間で総理大臣を始めとする要人の拝謁を受け、慶賀を記念しての助成や上野公園などの下賜を発表する。ちなみに宮城に入ったのが朝の九時半、これらを終えて赤坂に向かったのは午後二時半を回っていた。
「ウェディングドレスもお綺麗でしたよ」
俺は東宮内舎人といっても末席だから宮中三殿に侍るはずもない。しかし東宮御所となった赤坂離宮では同僚と共に拝謁し、純白のドレス姿を目にしている。
なお日本で結婚式に西洋風のドレスを着たのは明治六年から、つまり1873年と意外に早い。もっとも数は少なく、最初の例も外国人との結婚だったらしい。
ただし大正時代も後半になると、富裕層を中心に洋風の装いも増えていく。今回のように結婚式自体は和装でも、披露宴は洋装という例もあるようだ。
「中浦様、お嬢様に相応しい衣装を用意できるよう精進なさってください」
「そうだな。古式ゆかしい姿も見たいし、ドレス姿も見てみたいぞ」
セバスチャンの軽口に、載仁親王も上機嫌に応じる。
俺は思わず智子さんへと顔を向ける。すると彼女は真っ赤に顔を染めて恥じらいつつも、瞳をキラキラと輝かせていた。
「分かりました。パリで最先端の流行を学んできます」
フランス、それもパリといえば芸術やファッションの中心地である。せっかくだからドレスの品定めをしてくると、俺は返した。
俺と智子さん、そしてセバスチャンは来月早々には出国し、少なくとも五ヶ月近くをヨーロッパで過ごす。その間にはブティックくらい覗けるだろうし、いっそのこと向こうで作らせても良い。
結婚は来年の四月以降、智子さんが高等科を卒業してからだ。しかし相応の式にするなら、そろそろ準備を始めるべきかもしれない。
「秀人様……」
「智子さんはドレス姿も綺麗ですからね。今日の舞踏会も楽しみです」
瞳を潤ませた智子さんに、俺は今夜の予定と絡ませつつ応じる。
親王を除く三人は、帝国ホテルで開催される仮装舞踏会に出席する。もちろん皇太子殿下御成婚奉祝を謳ったイベントだが、各国の外交官も出るから情報収集しようと考えたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ラジオにはリアルタイムという利点があるものの、音声のみだから細かく描写できない。それに『五衣唐衣裳の御姿も清楚で美しく』などと言われても、見たことのない者が思い浮かべるのは難しいだろう。
かといって『お雛様のような着物が』というのも公営放送としては微妙だし、崩しすぎると不敬とされかねない。結局のところ『市民が歓呼する中を十二単もお美しい女王が』といった無難な内容になるわけだ。
加えて日本語には同音異義語が多いから、音声だけだと配慮が必要だ。たとえば『神嘉殿』だが、初めて聞いた者は『新華殿』とでも思うのではないだろうか。
しかし新聞なら振り仮名を付ければ問題ないし、写真や図面を添えるなどして分かりやすくもしている。
宮中三殿の建物も線画で配置を示し、皇太子殿下と妃殿下の正装を奉祝記念写真として載せ、車に乗り込む姿や移動の列も大判の写真で紹介する。他にも一日の様子を時刻付きで事細かに並べたり、関係者や学友の談話、お二人のエピソードを紹介したり、各紙は様々に手を尽くして御成婚の様子を伝えていた。
それに一月に入ってからの新聞は御成婚の話題が大きな割合を占め、この数日は奉祝記念版とでも呼ぶべき構成で他の記事など殆ど見当たらない。
取材競争なのかネタ不足なのか、少々変わった記事も散見されるくらいだ。
「ふむ……『動物園にもおめでた。獅子とカンガルー、安々とお産』か。生まれたのは少し前だが、下賜された上野動物園だからな」
「こちらは皇太子殿下が撮影なさった写真ですね。名古屋城に奈良の大仏……こちらは那須塩原の御用邸ですか?」
載仁親王が示した場所の隣に、俺は目を向ける。
紙面には記憶にある天守閣や大仏、そして広大な庭を撮った写真が載っていた。そして三つの脇には東宮殿下自らの撮影との見出しがある。
すぐ近くでは『お相撲は鉄砲が得意』などと活動的な面も強調しているあたり、少々宣伝色が強い気もする。乗馬にゴルフやテニス、自動車などと列挙しているのだ。
もっとも下手なことを書けば発禁だろうし、大正という時代背景を考えたら意外なまでの大らかさだ。
新聞社の写真班によるコラムには、大演習のときにレンズを向けたら『秩父宮さん、秩父宮さん、新聞の写真だよ』と弟君に呼びかけ、兄弟揃っての笑顔をいただいたとある。大正七年に沼津で採集した猩猩海老のエピソードもあるし、次期天皇の威厳よりも慶事に相応しく親しみやすさを優先したのだろう。
御成婚自体の記事は幾重にも修飾を重ねた文章で、二十一世紀で育った俺からすると少々引いてしまうほどだ。しかし良子女王が兄妹で別れの曲を合奏したなど共感を誘う記事が幾つもあり、これらに微笑ましさにも似た感情を抱く。
「妃殿下はピアノ、上の兄宮様はチェロ、次の兄宮様はバイオリン……曲は妹君と義叔母君の合作ですのね」
「ええ、きっと妃殿下もお喜びになったことでしょう」
瞳を潤ませる智子さんに、俺は隣から記事を覗き込みつつ頷き返す。
上の兄宮とは久邇宮朝融王、続いて挙がったのは次兄の邦久王だ。なお後者は本来の歴史だと、久邇侯爵と呼ぶべき人物である。
後の男性皇族の少なさを知る俺は、皇室典範改正の際に臣籍降下にも手を加えた。成年直後でなくても良いし、一旦臣下となっても跡継ぎがいない場合は復帰できるようにしたのだ。
もちろん条件を付けて宮家が増えすぎないようにしたし、復帰の際は皇族に相応しいか審査もする。しかしイギリス王室のように公爵家として一定数を確保しないと、百年もしたら後継者選びに難渋するだろう。
「天気も上々、まことに素晴らしい一日だった。両陛下に御来臨いただけなかったのは残念だが……」
親王が触れたように今回も大正天皇は東京を離れて静養中、貞明皇后も一緒である。
今は一月下旬、寒い時期だから沼津滞在も仕方ない。しかし関東大震災の際は日光で療養、やはり激動の時代を乗り切るには次代に託すべきだろう。
既に譲位に向けて舵を切ったが、俺は改めて以前からの思いを強くする。
「沼津への荷には記録映画も積みました。きっと両殿下と共にお楽しみいただけるかと」
セバスチャンは主を慰めようと思ったらしい。彼は珍しく笑みを顕わにし、声も柔らかさを増している。
今朝沼津へと出立した両殿下は、宮内省撮影の映像を携えた。
宮城に入るまで、あるいは戻るときの歓呼に包まれた沿道。両殿下が賢所に参進する様子に、東宮御所となった赤坂離宮での儀式や祝賀。他にも様々な光景を内匠寮の技師達が撮影したのだ。
ちなみに各新聞社も同じような記録映像を撮っている。宮内省ほど細かではないが、御成婚の様子を収めたフィルムは既に飛行機で各地に送られているはずだ。
このころは記録映画を各地で上映しており、後のテレビに相当する役を担っていた。そして大正時代も報道の加熱が激しく、各社は即日現像および公開をと競う。内容も関東大震災を含む災害報道もあれば芸能関連やゴシップネタもある充実ぶりだ。
大阪など東京から遠くても飛行機を使えば翌日には公開できるし、映像だからラジオや新聞とは臨場感が桁違いだ。そのため映画館ではフィクションのみならず、このようなニュース映像を求める人も多い。
「奉祝飛行の各機、皇礼砲のため品川湾に集った二十余隻の艦、紅白の旗を掲げた近衛騎兵達……どれも見事であった。色が付いていないのは残念だがな」
「私のスマホに慣れてしまったようですね」
親王が無念そうな原因の何割かは、俺が持ってきた未来技術のせいだ。ちなみにスマホは今も使えるが、まさか大勢の前で出すわけにもいくまい。
「そのようだ。しかし秀人の示した技術を再現できれば、民も大いに喜ぶだろう」
「はい。東京以外の方々は、あの晴れ渡った空の色を思い浮かべるしかないのですから……。それに細かさも大違いです」
親王に賛成したのは智子さんだ。
いろは四十八と銘打った編隊の飛行、これは前日の新聞でも詳しく紹介されるほどで多くが楽しみにしていた。何しろニューポールの甲式三型に四型、サルムソンの乙式一型、ファルマンの丁式にスパッドのス式など様々な飛行機による一大イベントである。
しかし智子さんの指摘通りモノクロだと青空を表現できないし、飛行機を見分けるのも困難だろう。
「やはり今のところ、直接見るのが一番ですね」
セバスチャンと同じことを誰もが考えたらしく、市内は早朝から大賑わいだった。
誇張だと思うが一部の新聞は五十万人以上もの人出としているし、実際に電車やバスは満員で身動きも取れなかったという。もちろん奉祝だからと集められた人もいるはずだが、多くは記念行事を楽しみお祭り気分を満喫したようだ。
「そう思うぞ。たとえば今夜の舞踏会とかな」
「あれは若者向けの集まりですよ。それに殿下が出席したら、翌日の新聞記事になるでしょう」
親王は期待の色を滲ませるが、俺はキッパリと断る。
上流階級や富裕層が集まる場とはいえ、親王は格が違いすぎる。『閑院宮様、フランス仕込みのダンスを披露なさる』くらいで済めば大助かり、御乱行とされる可能性すらある。
ちなみに仮装舞踏会とされているが仮面などは着けないし、もし顔を隠しても体格や声でバレてしまうだろう。
「御心配無用です。こんなこともあろうかと、密かに記録映像を撮らせるよう手配しております」
「おお、それは嬉しい!」
セバスチャンの一言に、親王は相好を崩して歓声を響かせる。
これは大変だと、俺は智子さんと顔を見合わせる。とはいえ既に充分に練習を重ねているから、親王を失望させずに済むだろう。
俺はワシントン会議出席以前からダンスの練習を始めたし、智子さんも付き合ってくれた。つまり二人とも三年近い経験があるのだ。
「セバスチャン、スマホを預けるから隠し撮りしてくれないか?」
「分かりました。将来に向けた資料にしましょう」
俺の提案に、セバスチャンは流れるような礼で応じる。
ちなみにスマホの映像や音だが、撮影機や録音機での保存を始めている。そのため解像度はともかく、こういうことが出来るという記録は残せた。
「将来か……。この次はカラーテレビだろうなあ」
本来の歴史だと次の皇太子御成婚は白黒テレビ、日本のカラー放送開始は翌1960年だ。しかしラジオ放送が前倒しされたように、カラー化も早まるだろうと俺は結ぶ。
「そうなのですか……」
「出来ることなら、そこまで生きてみたいが」
もうすぐ十八歳の智子さんはともかく、現時点で六十前の親王には厳しいかもしれない。しかし長寿なら可能な範囲だし、これからの生活次第でもある。
「そのときが平和であってほしいですね。願わくば次の大戦を回避し、無理でも最小限の被害で乗り越えたい……」
目の前の新聞には過剰に感じるほどの皇室賛美もあったが、一方で素朴で微笑ましい描写も数多かった。まだ軍国主義一辺倒を防げるはず、そのためにもパリで世界との繋がりを深めるのだ。
俺の決意表明に、智子さん達は熱の篭もった様子で賛同してくれた。
お読みいただき、ありがとうございます。




