25 準備(1924)
俺、中浦秀人は東宮職の末席に名を連ねている。正確には宮内省東宮内舎人、つまり皇太子付きの職員だ。
ただし俺は非常勤扱いの下っ端、特別勤務として補充された一人でしかない。
何しろ全員が職員録に記載されるから、下手な位置に捻じ込んだら目立ってしまう。
侍従長から侍従までは殆どが華族、正規の内舎人も七位くらいの位階持ちがいる。正七位は慣例だと警視や大尉の初叙位階とされており、公職に初めて就く二十代前半の若者が並ぶのは不自然極まりないのだ。
そもそも東宮職は体裁を整えるために用意した仮の姿だから、この方が都合よい。回ってくる仕事は新人向けの雑用で、比較的自由が利くし。
今日も大量納品される小物の進捗確認、といっても皇太子殿下の御成婚関連だから軽くは扱えないが。
「……漆も綺麗ですし、問題ないようですね。それに銀細工の方も見事な出来です」
六角形の黒い小箱と、銀色の卵みたいな形の小さな入れ物。それらを俺は卓上に戻す。
この二つは菓子入れ、いわゆるボンボニエールだ。宮中行事の出席者に下賜する品の容器だが、それ自体が記念品であり普通は精巧な細工が施される。
六角形の漆器は御成婚の晩餐会用、純銀の卵形は同じく披露宴用。どちらも直径が五センチほどで高さが三センチから四センチ、日本でのボンボニエールとしては一般的なサイズである。
中に入れるのは金平糖などの小さな菓子、しかも大量に配るから手のひらに収まる小箱で良いのだ。
ちなみにボンボニエールはフランス語で、イタリアだとボンボニエーラという。ただし向こうだと一般向け、小箱とも限らない。
これを日本に紹介したのは明治時代に洋行した人々だ。俺が居候中の閑院宮家の当主、載仁親王も一役買ったらしい。
「ありがとうございます!」
向かい側の中年男性、貴金属店の重役は畏まった様子で頭を下げた。
式典にもよるが、多いときは何百何千というボンボニエールが必要だ。そのため複数の業者に分担させ、出来が悪いと次回の発注先から外されることもある。
それを彼も熟知しているから、緊張気味の表情で待っていたんだ。
「納期まで四ヶ月以上ありますが、次代の陛下の慶事ですから遅れぬように。それと品質には、くれぐれも留意してください」
わざわざ念を押すのは理由がある。
元々御成婚は昨年中の予定で、披露宴なども直後に行われるはずだった。しかし関東大震災で延期されて御婚儀は今月下旬、1924年1月26日になる。
しかも晩餐会や披露宴は更に先、五月末から六月頭にかけてだ。
これは大震災が諸々の準備にも障ったからだ。
このボンボニエールにしても元々昨秋に納品される予定だったが、震災で製作が遅れたり作成済みの品が壊れたりした。こうして担当者を呼んだのも、震災後に作った分の品質が落ちていないか確かめるためだ。
もっとも製作が順調でも、披露宴などは先延ばししただろう。瓦礫やバラックが目立つのに大宴会というのも体裁が悪いから。
御成婚の直後にも舞踏会などが開かれるが、民間主催で皇室は直接関与していない。
「もちろんですとも!」
「お願いします。……そうだ、秋には別のものを頼むと思います」
意気込みを示す男に、俺は少し先だがと前置きして別件を伝えていく。それは今年の五月から七月にかけてのパリオリンピックについてだ。
ボンボニエールを下賜するのは結婚式などに限ったことではないし、デザインも様々だ。
たとえば二年前のエドワード王太子来日歓迎晩餐会は印籠型、英国側にも楽しんでいただこうと趣向を凝らした品だ。これを含め、外国要人が珍しい品として後々まで大切にした例は多い。
皇室や宮家の男子誕生なら武家風の兜や具足、女子なら扇など。でんでん太鼓を模した品もあるし入学や卒業なら文具型もある。
皇太子殿下が欧州歴訪から戻られたときは地球儀に鳩という具合に、イベントそのものを表すデザインも多かった。それにプロペラ型という変わり種も存在する。
もちろんプロペラ型の下賜対象は飛行機乗りだ。少し先だが山階宮武彦王が設立した御国航空練習所の修了生や、欧州飛行を成し遂げたパイロットなどである。
したがって皇室が帰国した選手団を呼び、オリンピックを表す品を授けても不思議ではない。
「メダル型……上の紋は五輪や鳩、各競技の絵も良いですね。いつも通り意匠は東京美術学校の先生にお願いしますが、難しくしないつもりです」
まだオリンピックへの参加は非常に小規模で、俺の知る通りなら役員が十名弱に選手が二十人ほどだったはずだ。
これが歴史改変でサッカー選手団が加わり、他も幾らか増えて総勢六十名を超える。しかし百名以下なら費用を捻出できるし、帰国は九月頭だから簡単なデザインにすれば納期も大丈夫だろう。
「なるほど! 学生や若い先生に仰々しい品は似合わないでしょうし……」
男は勢い込んで頷く。
ボンボニエールには汎用向けというか、大抵の式典に使える作り置きもあった。しかし特注品だと儲けも大きいし、自社の技術をアピールできるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
載仁親王の宣言通り、三が日後の俺は多くの時間を宮城で過ごしていた。しかし幾らかは脅しだったらしく、赤坂離宮に行ったり閑院宮邸に戻ったりもする。
もっとも今日は宮城に詰め切り、先ほど貴金属店の重役と会ったのも城内にある宮内省庁舎の一室だ。
御婚儀の場は宮城の賢所、事前の確認や調整には近い方が都合よい。それに、ここなら襲撃される危険も少ないから安心だ。
息抜きしづらいのは大きなデメリットだが、幸い今日は昼過ぎに来客があった。
「蹴球の球にするかと思ったよ」
来客は山階宮殿下、つまり『空の宮様』として知られる若き男性皇族だ。
話題はオリンピック選手団が帰国したときのボンボニエールに関して。武彦王も俺のサッカー好きをご存知だし、サッカー選手団の活躍に期待なさっているのだ。
本来の歴史だと日本サッカーがオリンピックにデビューするのは1936年のベルリン大会だが、俺が来てからの諸々で大きく変わった。
既に極東大会で優勝しているし、イギリスのエドワード王子が日本を長期滞在先に定めてからはサッカーに興味を示す者も増えた。英国王子がサッカー大会や関連行事に顔を出すから、武彦王も含め若い皇族が接待混じりで訪れるようになったのだ。
「蹴球団だけを優遇できませんから」
特別扱いはマズい。せいぜい蓋に描く絵をサッカーボールにするくらいだろうと俺は返す。
「好成績なら良いと思うがね。秩父宮殿下も、そう仰っていたよ」
武彦王は、秩父宮殿下こと皇太子殿下の弟君雍仁親王の名を挙げる。
元から秩父宮殿下は『スポーツの宮様』として親しまれ、今回のパリ大会でも団旗を下賜なさるくらいだ。そして最近はサッカーに興じることも多く、『蹴球の宮様』という愛称も加わった。
秩父宮殿下は来年からオックスフォード大学に留学するが、そのときは本場のサッカーを学びたいと仰った。こうなると先々殿下の名を冠するのも、サッカー場になるかもしれない。
遥か後のU-18サッカーリーグに高円宮杯が贈られるように、この時代の学生サッカー大会に秩父宮杯というのもありそうだ。
「頑張ります。マラソンの金栗四三氏にも助言いただきましたし、準備は万端です」
今月の上旬、俺は金栗さんに会った。彼は箱根駅伝の直前で多忙だったが、載仁親王が呼んでくださったのだ。
無理を押して招いただけあり、とても有意義な話を聞けた。
大正時代の日本人選手は洋食だと本来の力を出せないようで、金栗さんは和食を手配すべきと力説した。これは選手団を率いる岸清一さんにも伝えたそうで、今回はパリ在留邦人の協力で日本食が用意される。
それに渡航自体も最初は大変で、1912年のストックホルム大会は費用が自己負担だった。募金により資金を工面したがシベリア鉄道で向かうという強行軍、時差や白夜に悩まされたそうだ。
次は第一次大戦後の1920年アントワープ大会。このときはアメリカ周りで渡航したが、ニューヨークとロンドンで在留邦人に援助を求めたという。
「今回は国費補助に加えて皇室や宮家から多くの御支援をいただきましたし、各財閥や企業の協賛金もあります。お陰で船上でもトレーニングできますが、他と別行動なのは少し悩ましいですね」
俺は唯一懸念している点を挙げた。
今年のオリンピックは五月上旬から七月下旬だが、開会式は七月五日だ。そしてサッカー以外で日本が参加する競技は開会式以降だから、四月二十六日に出発して六月上旬のパリ到着を予定している。
しかしサッカーの試合は五月下旬から六月上旬、そのため別の船で先行する。
「蹴球団は三月早々に発つそうだね。向こうで練習試合を組んだと聞いたが……」
「はい、駐日大使のクローデル氏にお願いしました」
武彦王の指摘は事実で、俺は幾つかの練習試合を組んだ。
相手はパリの学生や社会人チーム、向こうの環境に慣れるのが目的である。オリンピックの前に怪我でもしたら大変だし、こちらの内情を伏せておきたいから強豪は避けた。
それとパリの日本大使館にも頼み、他と同様に在留邦人の協力も得られるようにした。だから向こうでの生活と調整は何とかなるだろう。
「フランスと同盟を結んだのが、こんなところで活きるとは……。例のビルマの留学生も同行してくれるそうだが、これも君の未来知識かな?」
「フランスは予想外の幸運ですが、チョウ・ディンさんのことは知っていました」
前半は買いかぶりだが、後半は俺が二十一世紀にいたころ学んだことだ。
ビルマの留学生チョウ・ディン、あるいはチョー・ディンとして記録される人物。彼も日本サッカー殿堂に掲額されている。
◆ ◆ ◆ ◆
チョウ・ディンは1900年にビルマ……二十一世紀ではミャンマーと呼ばれる地で生まれた。そして彼は幼いころからサッカーに親しみつつ育つ。
当時のビルマはイギリスの統治下で、早くからサッカーが伝わっていたんだ。
しかもチョウ・ディンが所属するチームは、英国チームに勝っている。
それは第一次世界大戦中、従軍先の中東で行われた英領ビルマ対イギリス戦。相手はイングランド主体のチームだろうが、詳細は不明だ。
どんな状況であっても、植民地のチームに破れるなど悪夢に違いない。しかも第一次世界大戦は1914年から1918年、最終盤だとしてもチョウ・ディンは十八歳の若者だ。
どうもこれは、戦術の妙らしい。後にチョウ・ディンは日本にスコットランド式のショートパスサッカーを伝えるが、イングランドはロングボール戦法でスコットランド式を苦手にしていたのだ。
ともかくチョウ・ディンは東京高等工業学校に留学すると、学業の片手間にサッカーを教えるようになる。そして1922年、彼は早稲田大学を訪れたときにサッカーの練習風景を目にした。
これは早稲田高等学院のチームで、後にベルリンオリンピックで日本代表監督となる鈴木重義と彼の弟がいた。そして二人に対し、チョウ・ディンは『君達のサッカーは未熟だから指導しても良い』という意味のことを言ったそうだ。
幸いにして早高チームは怒ることなく、チョウ・ディンの指導を受けることにした。これが大成功を収め、早高は翌年から始まった全国高等学校ア式蹴球大会の第一回と第二回を連覇する。
その結果チョウ・ディンは多くの学校を指導するほどになり、その中には竹腰重丸などベルリンオリンピックのときの選手もいた。
つまりチョウ・ディンとは『ベルリンの奇跡』の陰の立役者である。
チョウ・ディンが日本留学を始めたのは1920年ごろ、俺がタイムスリップして大正時代に現れた年だ。そこで俺は早くから彼を探し、1921年に東京高等工業学校のグラウンドで巡り会う。
「モン・チョウ・ディン。君が知るサッカーは未熟だ……指導しても良いが?」
ほぼ同じ歳で初対面の成人男性に、敢えて俺は『チョウ・ディン君』と声をかけた。ビルマ語の『Maung』は若い男に対する接頭辞なのだ。
ちなみに年長や若くても格上の男だと『U』で、モンやウを付けたものを彼の名としている文書もある。
「いきなり何を……」
チョウ・ディンは目を白黒させた。そして直後、憤慨したらしく鋭い顔で俺を睨む。
高圧的な登場は、もちろん意図があってのことだ。
俺は既に日本サッカーへの介入を始め、かなりの成果が出てきた。何しろ翌1922年4月に行われたア式蹴球全国優勝競技会では、出場選手が遥か後の高度な技を披露するようになる。
この時点では教えている最中だが、シザーズにエラシコ、ぎこちないがマルセイユ・ルーレットまで。
こうなるとチョウ・ディンが早高チームをどう感じるか分からない。そこで俺は、こちらから働きかけようと思ったのだ。
「君は未熟だが、私が教えたら良い指導者になれると言っているのだよ」
俺が執拗に挑発を続けるのは、二つの理由からだ。
まず一つ目は、チョウ・ディンが教えるはずだったエッセンスを今の日本人に伝えたいから。俺は二十一世紀のサッカーを知っているが、それが全てと思うほど楽天的ではない。
工業系の学生だけあって、チョウ・ディンの指導は理論的かつ科学的だった。キックの指導に三角法を用いたり、力学的に解説したりだ。
それにインステップやインサイドにアウトサイドなど、蹴り方自体も図や写真を用いて教えた。彼は早高の指導を開始したころ『How to Play Association Football』という本を記し、長くバイブルとされたほどである。
二つ目は、このままチョウ・ディンが帰国すると戦争や革命に巻き込まれるらしいからだ。日本サッカー殿堂の掲額では帰国後の消息を不明としているし、どうも第二次世界大戦後の軍事クーデターで姿を消したようだ。
そこで俺は、彼が日本サッカーに関わるうちに将来に関して助言しようと思ったのだ。
「私の教えを受けたら、君は幸せになれると思うがね」
「そこまで言うなら競おうじゃないか!」
再三の愚弄に堪忍袋の緒が切れたようで、チョウ・ディンは勝負を受けると言い放った。そして彼は理論と実技の二つで戦おうと続ける。
「……これを私はプレッシングサッカーと名付けた。守備を領域ごとに分ける手法、ゾーン・ディフェンスと組み合わせると良い」
「なんて斬新な……」
俺がプレスやゾーンの仕方を地面に描いて示すと、チョウ・ディンは絶句する。
驚くのは無理もない。いつ誕生したか諸説あるが、どんなに早くても半世紀は先とされる概念だから。
カテナチオなどの俺からすると古い概念ですら、まだ生まれてすらいない。
ポゼッションフットボール、ティキ・タカ、各種のフォーメーション。もっとも今は三人制オフサイドの時代だから多少はアレンジしたし、それぞれの名称も英語に統一したが。
「次は実技だ。……まずは鋏! これが護謨戻し……最後は東京大回転!」
ボールを跨ぐようなシザーズ、一瞬アウトサイドに弾くが直後にインサイドに戻すエラシコ、大きくターンするマルセイユ・ルーレット。俺はフェイント技を続けていく。
これらは東京高等師範学校の教師の発案とし、名前も日本風に変えた。一部には教え始めたがチョウ・ディンは知らなかったらしく、彼は目を丸くしている。
東京に移ってからの俺は新陰流を習っており、タイムスリップ以前より動きも良くなっている。そのため優れた選手でもあるチョウ・ディンの目も、どうにか誤魔化せたようだ。
「どうだ、私とサッカーを極めたくなっただろう? 君なら理論的かつ芸術的な選手……そして指導者になれると思うがね」
ドリブルを終えた俺は、真顔を作りつつ勧誘の言葉を紡ぐ。
少し離れた場所では、セバスチャンこと隠密の瀬場須知雄が無表情のまま立っている。しかし彼は笑いを堪えているらしく、僅かに肩が揺れていた。
もっともセバスチャンがいるのはチョウ・ディンの後ろ側だから、気付かれはしなかったようだ。
「参りました……ぜひ教えてください」
チョウ・ディンは衝撃も顕わな顔で膝を突いた。
一方の俺は無言で大きく頷き返す。下手に言葉を発すると、厳粛な表情を保てないと思ったからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「チョウ・ディンさんの指導は確かですし、私が伝えた理論も上手く今の時代に合わせてくれました。彼がいれば渡航中のトレーニングは問題ありません……ですから私は二月頭に旅立ちます」
俺は暗殺などを避けるため、一足早くパリに行くことになった。選手と一緒に渡航できないのは残念だが、先乗りを活かして環境を整えるつもりだ。
「その件だ。下旬になると御成婚で忙しいし、佐紀子の出産は月末あたりらしい。だから君と会う機会を逃すまいと思ってね」
武彦王は表情を改め、声にも力強さが増す。
やはり単に雑談しに来たわけじゃないようだ。もっとも内容を含め予想済みだから、そのまま俺は耳を傾ける。
「せっかく欧州に行くのだから、向こうの飛行機を良く見てきてくれ。フランスならブレゲー19、昨年配備されたルバッスールPL.2も気になる。単座パラソル翼のドボアチンやウィボーも確かめてほしいし、陸軍が採用したニューポールも良かったから後継がどうなるか知りたい。それに……」
流石は『空の宮様』だと感心しつつ、俺は拝聴する。もちろん聞き流すわけにはいかないから、メモを取りながら。
フランス以外にも英米独伊と各国の飛行機が続々と挙がっていくし、殿下が知りたいポイントもあるから単に各機を見ましたでは済まない。それに専門用語も多いから、時々は質問もする。
このころの日本には様々な国の飛行機がやって来るし、軍を始め輸入もしている。そのため武彦王が目にしたり同乗させてもらったりした機体もあるが、やはり現地のようにはいかないし情報も遅れている。
それに飛行機のように動くものだと、写真やカタログを見ても分からないことが多い。しかしテレビすらない時代だから、現物か活動写真のような形で入ってくるのを待つことになる。
そこで洋行する人がいたら、ついでに調査や入手をと頼むのが普通だ。もちろん自分で確かめるのが一番だが、片道一ヶ月やそれ以上だから興味本位だけで出かけるわけにもいかない。
俺は航空機の普及を急ぐべく、尼港事件の後も機会があれば後押ししてきた。そのため武彦王は、俺に同志めいた感情を抱いているようだ。
「分かりました。フランスはクローデル大使に紹介状を書いていただけば問題ありませんし、向こうも売り込みたいようです。イギリスもエドワード殿下の伝手がありますし、私もドーバー海峡くらい渡ってみたいですから」
英仏は問題ないと俺は保証する。
四国同盟の残る一つ、アメリカも機会があれば何とかなるだろう。しかし大西洋を往復する時間はないから、これは保証しかねた。
今回の航路は西回り、インドを通ってスエズ運河を抜けるコースだ。そのためイタリアには寄るかもしれないが、こちらは知り合いがいないから難しい。
「ドイツは先の大戦で負けたから、前回と同様に今回も出場しません。せっかくですから足を伸ばしたいと思っていますが」
俺は念のために触れておく。もっとも武彦王は現役の海軍軍人だから、承知しているだろうが。
仮にドイツに行ったとしても、軍用機を見せてくれとは言えない。飛行場の側でウロウロしていたら捕まる可能性があるし、敗戦により職を失ったパイロットや技師に話を聞いた方が早いかもしれない。
実際にドイツから流れてきた技術者は、日本を含めた各国にいるのだ。
「そちらは無理なら良いよ。……ともかく、まずはブレゲーだな。せっかく手に入るのだから特性を充分に確かめてほしい。事前に聞いていれば、中島に組み立てを頼むとき改良できるから」
「殿下のものではありませんよ。あれは『好談新聞』の社機として野間社長が買ったのです」
子供のように顔を輝かせた武彦王に、俺は言わずもがなの言葉を口にしてしまった。
このころ飛行機の利用は日進月歩で進んでおり、御成婚の日や五月末から六月頭の祝い事でも奉祝の編隊が飛ぶことになっている。それも軍だけではなく新聞社などでも自社機を飛ばし、紙吹雪や宣伝のビラを撒くのだ。
こういう御時勢だから『好談新聞』も新鋭機の追加を決めた。そして俺は、後に名機と呼ばれるブレゲー19を勧めたのだ。
ブレゲー19は軍用のみならず、民間にも売っていた。それにライセンス製造もあり、日本では中島飛行機が権利を手にしている。
「私が名付け親になるから『初風』と『東風』は子も同然、つまり私の愛機でもあるのだよ」
冗談だろうが、武彦王は自分のものと明言した。しかも組み立てすら始まっていないのに、もう名前まで付けている。
俺は思わず笑みを浮かべてしまった。武彦王が口にした名前に聞き覚えがあったからだ。
初風に東風とは、本来なら朝日新聞社のブレゲー19に武彦王が与える名……三万七千以上もの公募の中から選んだ名前だ。元の歴史では選定者だから同じ名を思いついても不思議ではないが、どこか運命的なものを感じる。
「実は殿下……」
本来の初風と東風は、1925年夏から秋にかけて日本初の訪欧飛行を成し遂げた。ならば『好談新聞』の初風と東風に挑戦してもらうのも良いかもしれない。
そう思った俺は少し先の日本航空界について語っていく。
少々前倒しになったものも多いし、日本の航空機が欧州に向かうのも早まるだろう。
そしてブレゲー19は、長距離飛行の世界記録を幾つも更新する。だから殿下の名付けた飛行機や選んだパイロットが今年中に成し遂げる可能性もある。
そう話したら、武彦王は満面の笑みと共に頷き返してくれた。
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