24 謀略(1924)
大正十三年の正月、つまり1924年1月の日本は祝賀ムードに包まれていた。皇太子にして摂政宮でもある裕仁親王が、今月二十六日に妃を迎えるからだ。
ちなみに御成婚の日取りは本来の歴史と同じで、当初は昨年十一月の予定だったが関東大震災で先送りされていた。
俺……中浦秀人が二十一世紀にいたころ読んだ本にも、延期の経緯は記されていた。大震災の惨状を皇太子殿下は嘆かれ、結婚延期を決断なさったと。
俺達の事前対策で被害は大きく減じたものの、五千人近くが亡くなり十万に届こうとする住居が失われた。これで震災直後に結婚したら、殿下の評判は地に落ちるだろう。つまり似た流れになるのは必然、そして国を挙げての祝い事だから自然と日程も限られ、同じ日が選ばれても驚くには当たらない。
とはいえ今の俺は、慶事で沸く東京を楽しむどころではなかった。昨年十二月二十七日に起きた虎ノ門での暗殺未遂事件から一週間、ずっと外出を禁じられていたのだ。
「今年こそ大正時代の正月を満喫できると思ったのですが……」
ぼやく俺に視線が集中する。
まずテーブルを挟んで正面に腰掛けた当家の主、閑院宮載仁親王。そして隣に座った俺の婚約者、智子さん。最後に親王の斜め後ろに立つセバスチャンこと瀬場須知雄。親王の書斎に集った者のうち、俺以外の全てが顔を動かしたのだ。
「最初は引っ越されたばかり、次の大正十一年はワシントン会議でした。そして前回は大震災まで一年を切り、多忙を極めておりましたね」
生じた空白を埋めようとしたらしく、セバスチャンは俺が閑院宮邸に移ってからの正月を並べた。
案内してくれと頼んだら、最初の年もセバスチャンが付き合ってくれただろう。しかし当時の俺からすると気心の知れない相手、向こうも脱走されたらと厳重に監視するはずだ。
次は洋行中だから物理的に不可能、そして最後は大震災の年を迎えて様々な意味で余裕がなかった。そこで今年は一山越えたから皆でどこかにと、俺は早くから練っていた。
そして俺が楽しみにしていたのは三人とも承知で、落胆の大きさも察してくれたわけだ。
「初詣には三社参り……明治神宮に神田明神、最後はどこにしようかと仰っていましたね」
智子さんの声も沈んでいる。
明治神宮の鎮座祭は1920年11月、俺がタイムスリップして現れた年だ。したがって既に何度もお参りしているが、初詣に出かけたことはなかった。
神田明神は赤坂の閑院宮邸からだと宮城を挟んだ向こう、そのため行く機会が少なかった。しかし神田なら下町風情を満喫できると俺は期待していたし、智子さんも俺の話に目を輝かせていたほどである。
それと最後だが近場で日枝神社、あるいは載仁親王が元帥陸軍大将だから靖国神社に行くべきかと悩んでいた。智子さんが一緒だから相応のところにすべきだし、かといって目立つのも避けたかったのだ。
「ええ。そして松の内が終わったら熱海に出かけ、エドワード殿下を誘って箱根へと……」
三が日の後は遠方に、と考えていた。
熱海には先日訪れたが、俺は大正時代の箱根に行ったことがない。一応は東宮職の末席だから御成婚の前は忙しいが、それでも一泊や二泊は出来るはずだった。
「十二日には駅伝もありますのに、本当に残念です」
智子さんが触れたように、このころの箱根駅伝は一月第二週あたりだ。
箱根駅伝は1920年から始まったが第一回は二月開催、第二回から第三十回までは三が日の後だった。そして今年は遅く、十二日が往路で十三日が復路である。
「ええ。駅伝見物の合間にアントワープ大会の話でもと思っていたのですが……」
俺は箱根で金栗四三に会いたかった。
金栗さんは日本マラソン界の偉人で、この時点でもオリンピックに二度出場している。しかも1920年の第七回アントワープ大会では出場48人完走35人のうち16位、もちろん日本人ではトップという好記録を打ち立てたほどだ。
そこで俺は、金栗さんからサッカーのオリンピック参加に役立つ知識を得られるかもと考えた。
まだ日本サッカーはオリンピックに未参加でワールドカップも始まっておらず、国際大会は極東選手権しか経験していない。本来の歴史だと1936年のベルリン大会が初参加だが、俺は今年のパリ大会に前倒しすべく動いていた。
出る以上、なるべく上を目指したい。サッカーの技術や戦術は俺が教えるにしても、大正時代のヨーロッパでの過ごし方や体調管理など金栗さんの助言に期待するところは大きかった。
これを智子さんも知っているから、気遣ってくれたわけだ。
「命には代えられぬだろう? 『新・虎ノ門事件』は調べ始めたばかり、誰が関与したかすら確定していないのだ」
載仁親王の声や表情には理解の色が滲むものの、優先すべきは安全という点は譲らない。それだけ暗殺未遂事件の余波は大きかったのだ。
本来の虎ノ門事件は共産主義者が皇太子殿下を狙った大逆事件だが、新たな歴史では同日に俺を襲撃対象とした暗殺未遂事件が起きた。そこで俺達は内々だと後者を『新・虎ノ門事件』と呼ぶことにしている。
この新・虎ノ門事件は陸軍将校が政府関係者、それも末席とはいえ東宮職を狙った事件だから世間の耳目も集まった。今は落ち着いたが、昨年中は連日複数の新聞で紙面を賑わせたくらいである。
俺が後押しした野間清治氏による『好談新聞』も、『陛下をお守りすべき大日本帝国陸軍が驚天動地の暴挙に』と大見出しで扱っていた。そのため軍の暴走を憂慮する風潮が広がり、俺達の望んだ結果に向かいつつある。
やはり街の人達も『もし軍人が自分達に銃口を向けるようになったら』と案じたのだ。
これまで軍は日清日露に世界大戦と外で活躍し、様々な利益を日本に齎した。そして民間でも軍需や植民地から大きな利益を得て、軍に好感を抱く者は多かった。
しかし今回は国内、それも宮城至近でのテロ事件だ。本来の歴史で後に起きた五・一五事件や二・二六事件のように死者は出なかったが、もしエスカレートしたらと街では囁かれたという。
◆ ◆ ◆ ◆
一週間で明らかになった範囲でも、新・虎ノ門事件の内情は相当に深刻だった。
実行犯である陸軍の尉官級は捕縛済み、しかもセバスチャン達は当日中に素性を自白させた。これは俺にも翌朝には伝わったくらいで、同日の各紙にも掲載される。
そのため多くの耳目が集まったが、そこからは容易に公表できぬ事柄ばかりだった。やはり首謀者には二葉会の面々……つまり佐官達がいたのだ。
「板垣征四郎中佐の関与は間違いありません。彼は河本大作中佐をアメリカに飛ばした件に猛反発しており動機も充分、それに実行犯達との度重なる接触も判明しています。間もなく実行犯からの自供も得るでしょう」
淡々と言葉を紡ぐセバスチャンには、独特の凄みがあった。
智子さんの顔から僅かに血の気が失せるが、気丈にも動揺を押し隠した。おそらく彼女は、秘書役として場に残ろうと己を律したに違いない。
このころになると、かなりのところまで智子さんも同席するようになっていた。
未来知識を明かせる人は少ないし、それだけ智子さんが成長したと載仁親王やセバスチャンも認めたのだ。そのため彼女は学業と秘書の二役で忙しい日々を送っており、俺としては体調を崩さないか心配ではある。
智子さんは女子学習院高等科に昨春進級したばかり、つまり卒業は来年三月なのだ。
「すると板垣は正犯、河本は無関係か?」
「処分できるよう、配下が供述させます」
親王の問いに、セバスチャンは冷徹な言葉で応じる。彼は最低でも河本中佐に長期の懲役、あわよくば死罪をと主張しているのだ。
1928年の張作霖爆殺事件など、河本中佐には危険なところがある。
新たな歴史だと張は戦死したが、別の犠牲者を作り出して戦に誘導するのでは。それが日本のためになるならともかく不利に導くなら抹殺も辞さずと、セバスチャンは言い切った。
一方で板垣中佐が直接指示したのは確からしい。
本来の歴史でも、板垣征四郎は1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件など強硬な手段を容認した。それに1932年の満州国独立を含め、謀略を選ぶことも多い。
そのため俺も疑いはしなかったし、彼のような軍人が多いのも事実だ。
「頼むぞ。しかし、どうしてこうも暴挙に出る者が多いのか……。元の歴史だと原敬に安田善次郎、未遂だが殿下まで……秀人が教えてくれなかったら、いくつ暗殺事件が起きたことか」
「しかも今回は禁裏を守る軍人まで……」
溜め息混じりの親王に、智子さんも嘆かわしさを顕わに頷く。
原首相を殺害したのは国有鉄道の駅員だから公務員に準じるが、単なる労働者だ。それに安田善次郎は右翼、皇太子暗殺未遂事件は共産主義者、こちらも国との関係はない。
しかし今回は軍人、それに近衛師団の士官も情報をリークしていた。これでは安心できないと、親王や智子さんが思うのも無理からぬことだ。
「そもそも薩長閥自体がテロやクーデターで成り上がったとも言えますからね。もちろん彼らは官軍となって錦の御旗を得ていますが……」
俺は暗殺者やクーデターに出る軍人達を『遅れてきた若者』だと捉えていた。
幕末から明治にかけ、下級武士や農民から栄達した者は多い。たとえば元老だが公家出身は西園寺公望公爵のみ、他は小者と呼ばれる身から立身出世を遂げて爵位を得た。
下も同様で、この世代には大乱で実力を示し地位を得た者が幾らでもいる。
しかし明治も半ばを過ぎると国内は治まり、活躍の場を外に求めるしかなくなる。そこで武人としての活躍を望む者は戦場を作り出そうと暗躍するし、体制を覆そうとする輩は暗殺に頼る。
ただし海外も含め、このような時代なのだ。第一次世界大戦の契機となったサラエボ事件も暗殺、そして戦争や内戦で権力の座を掴んだ者など山ほどいる。
そのため『自分達も』と夢見る若者は、体制寄りなら軍に入るし反体制なら革命家を志すのではないか。
「話を戻しますが、私達と彼らは互いの主張を通そうと戦った……それだけです。だから彼らを恨む気はありませんよ……そもそも、こちらが意図的に隙を作って誘い込んだのですし」
敢えて俺は笑顔を作り、声にも明るさを滲ませた。
今でも暗殺は嫌いだが、大切な者を守るためなら最終手段として選ぶしかないときもある。それに今回のように、こちらも謀略を仕掛けてはいるのだ。
勝者として生き残ったら一生背負い続け、敗者として散るときは従容と受け入れる。清濁併せ呑むようでなくては新たな歴史を作れないと、今までの体験から学び取った。
それに繰り返すが、暗殺は最後の手段だ。卑劣な手段で作り上げた平和など、同じように暴虐で覆されるだけだから。
俺は大正時代に来てからの四年弱で、そう考えるようになっていた。
「見事なお覚悟です」
「うむ、まことに頼もしい成長ぶりだ。……ところで、それだけの不動心を得たなら外出くらい控えてもらえぬか?」
セバスチャンは短く褒めたのみだが、親王は外出禁止へと繋げてきた。
どうやら智子さんが親王に何か言ったらしい。彼女の呼吸が僅かに揺れたのを、新陰流の修行で磨いた感覚が掴み取る。
おそらく智子さんは、俺の望みを叶えてくれとでも親王に願ったのだろう。
「私も賛成です。中浦様は総伝に進みましたが、銃弾を弾くのは無理でしょう。相手と呼吸が合えば躱せますが、それも見える位置で更に一人の場合です」
セバスチャンの評は事実である。新陰流の修行も進み、俺は奥伝から総伝へと上がったのだ。
これはセバスチャンが隠密でも飛びぬけた剣才を持ち、その彼が文字通り地獄の特訓を課したからだ。何しろ真顔で『予定通りに上達しなければ死んでもらう』と言われたことすらある。
しかし必死で耐えた甲斐あって、智子さんの高等科卒業までに皆伝できそうだ。
こちらに越した直後、セバスチャンは俺を新陰流免許皆伝の腕にすると言い出した。それも智子さんとの結婚までにである。
幸いにも守れそうだが、一つ間違えば剣など握れぬ体になったはずだ。今となっては良い思い出になりつつあるが、慣れるまでは夢にも鬼の形相のセバスチャンが現れたものだ。
「ああ。矢の切り落としは習得したし、銃も空砲で躱せるか試した。でも、実包ではやりたくないな……」
俺は修行の一幕を思い浮かべる。
矢尻は外して分厚い胴を着けてとはいえ、こういう修行を日常的にさせるのだ。俺の腕が短期間で上がったのは、上達か死か、というセバスチャンの教育方針故だろう。
それでも銃に関しては、引き金を引くのに合わせてである。つまり死角から撃たれたら無理、闇夜や騒音の中でもお手上げだ。
そして新・虎ノ門事件のように、命を狙う者が真正面から来るとは思えない。
「分かりました……」
ここに移った直後の俺は外出どころではなかったし、その前の英国横浜領事館も限られた機会のみ。今までも我慢できたことなのだ。
それを不満として滲ませてしまったのは、俺が智子さんを始めとする人々に心を許したからだろう。要するに、一種の甘えである。
元の時代に戻れない以上は新たな生活に馴染むしかないし、喜ぶべきことでもあるが。
◆ ◆ ◆ ◆
「あんまりです! まるで蟄居のような……しかも終わりも見えませんし、酷すぎます!」
智子さんの叫びが書斎に響き渡る。
俺が納得してしまったから代わりにと思ったのか、それとも納得するしかない状況に憤慨したのか。確かに危険がある限り外出禁止としたら一生この屋敷から出られないから、智子さんの指摘通りではあるのだが。
「ならば智子、お前が秀人の無聊を慰めたらどうだ?」
「それは名案ですね。剣術の修行ばかりでは頭がおかしくなるでしょうし、飴と鞭の双方を与えるべきです」
載仁親王が含み笑いをしつつ応じると、セバスチャンが澄まし顔で乗っかる。
この十字砲火には智子さんも白旗を揚げるしかない。どうやら結婚を意識したようで、彼女は真っ赤な顔で押し黙ると俯いてしまう。
「殿下、からかいすぎると後が怖いですよ。……それにセバスチャン、今の俺は剣術修行を楽しんでいるよ。皆伝をもらえても一生続けるつもりだ」
見かねた俺は婚約者を援護すべく割って入る。そもそも俺の外出禁止からの流れだから、このまま座視するわけにもいかない。
「済まん。……秀人、しばらく欧州に行ってはどうだ? 新・虎ノ門事件の裁判が終わるまで、あるいは大勢が決まるまででも良い。それにパリのオリンピックで蹴球団の応援をしたいと言っていただろう?」
「主犯を押さえたら向こうも手を控えるかもしれません。反逆罪で死刑になると伝われば、少しは躊躇うでしょう」
親王とセバスチャンは表情を改め、声も真面目なものに変えていた。どうやら二人は、最初から欧州行きを提案するつもりだったらしい。
俺と同様に察したらしく、智子さんも顔を上げて二人へと視線を向ける。
「それは……」
「向こうでも襲撃の危険はあるが、東洋人は少ないから日本より警護しやすいだろう」
「欧米人を雇うかもしれませんが、正直なところ難しいかと。金を貰えば誰でも殺すほど割り切った人間は少ないですし、大金を積んでも前金だけ受け取って逃げるかもしれません」
考え込む俺に、二人は畳み掛けるように洋行を勧める。
帝国軍人の過激派が俺を狙うなら、国内や朝鮮半島に満州など日本人か似た容姿の者が多いところを選ぶだろう。これらなら群衆に紛れるのも容易だからだ。
しかし欧米で日本人は目立つ。
ならば向こうで自然な容貌の暗殺者を、というのも現実的ではない。俺が知っている例だと、帝国軍人による謀略やクーデターは大半が軍人自身か関係者によるものだからだ。
雇った者から露見すると思えば、安易に声をかけるわけにもいくまい。セバスチャンが触れたように金だけ騙し取られる恐れもあるし、警察などのスパイかもしれないからだ。
一方俺達は、フランスが四国同盟の一員だから滞在中は官憲に話を通せる。これはイギリスに足を伸ばしても同じで、同盟国の官僚として相応の待遇を受けられるだろう。
何しろ今の俺は名目上だが東宮職、つまり次期君主の側仕えである。良識のある国なら、外交問題に発展しないよう丁重な扱いをするに違いない。
「良いのですか?」
「無論だとも。次は統帥権問題の解消、つまり憲法改正だが即位後までは動きようがない。どんなに早くとも、十月までは水面下で改正案を練るのみだ」
「それに先日からのドイツ情勢の齟齬も気になりますので」
親王の言葉は予想済みだったが、セバスチャンの指摘には意表を突かれた。
ドイツの歴史は、俺が知るものと僅かにずれてきたらしい。特にアドルフ・ヒトラーに関する現政府側の動きに差異があるのだ。
ヒトラーは昨年十一月に起こしたミュンヘン一揆の失敗で捕縛され、現在は収監中だ。そして俺が知る歴史の通りなら今年四月に禁固五年の判決が出てランツベルク要塞刑務所に収容、ただし十二月には早くも釈放される。
これはヒトラーの人気が高く、しかも彼がドイツ人的な精神の持ち主として賞賛すらされたからだ。それも起訴状や判決文で称えられるほどに。
このときヒトラーをオーストリア国籍者として国外追放できたが、そんなことをすれば更なる暴動が起きただろう。何しろ留置場に女性支持者達が連日押し寄せたというカリスマである。
「現政府や法曹界に厳しい判決をという声がある……そうだったな?」
「はい。英仏のいずれか……どうもフランスが焚きつけたようですが、まだ裏を取れていません」
俺が難しい顔をすると、セバスチャンも憂いを滲ませる。現段階で、俺達はドイツの大幅な変化を望んでいないからだ。
ヒトラーの失脚など大きく歴史が変わると、欧州情勢の予想が難しくなるというのが一つ。しかし最大の理由は、このままドイツに憎まれ役を演じてもらう必要があるというものだ。
そもそも俺達が英米と同盟を結ぼうとしたのは、第二次世界大戦で連合国側に入るのを意識してである。もちろん戦争が起きない方が良いが、『仮に勃発した場合は勝ち組に』と考えたわけだ。
フランスまで同盟に加わったのは予想外の幸運、これで連合国の一員となる可能性は大きく高まった。しかし同時に欧米国家が三つにアジア人国家は日本だけと不安要素も残った。
「ドイツが英仏に擦り寄った場合、四国同盟から日本が弾き出されるかもしれない。四国同盟の目的は東アジアでの権益維持、中華民国が動乱の要素となる限りは続くだろうが……」
「それも中華民国次第、あの国にも当分は孤立してもらいます。英米仏も利益を搾りきるまで反対しないでしょうし……」
親王とセバスチャンは、盗聴の恐れがない場所にも関わらず声を限界まで潜めていた。
ドイツとフランスの間には長い戦いの歴史がある。イギリスも向こうから王族を招いたという劣等感があり心からの友人として迎えはしないだろう。
それに俺が知る歴史と似た方向に進むなら、次の大戦で双方ともドイツにより大打撃を受ける。彼らにとってドイツとは、地政学的に仮想敵国として警戒せざるを得ない相手なのだ。
親王が口にした英米仏独の四国同盟は、この時点だと実現不可能というべきだろう。何しろ彼らは第一次世界大戦で戦った仲である。
しかし万一にでもドイツが加われば、同盟内で唯一の黄色人種である日本が孤立する可能性は高い。つまり新たな大戦に捧げられる生け贄は、我が国になりかねない。
「そんな……」
「智子さん、そういうものです。出る杭として目立つ存在でなければ、国内の不満を逸らす相手として不足です。そして自分達と違う存在であれば、安心して叩けます。……私が知る歴史だと彼らにとっての日本はファシズムと黄色人種の国……許しがたい上に文字通り異色の国となったように」
悲しげな声を上げた婚約者に、俺は厳然たる事実を伝えた……正確には伝えなおした。ここにいる三人には、既に明かしている事柄なのだ。
要するに俺は……俺達は自分の国を守るため、ドイツや中華民国に貧乏くじを引いてもらうわけだ。既に中華民国の歴史は大幅に変わっており、これ以上の不確定要素を増やしたくないという理由で。
「そういうわけで秀人、近日中に欧州行きの辞令が出る。期間は当面パリオリンピックが終わるまで、情勢次第では即位の儀の直前までかもしれないが」
表向きの理由は視察、裏は緊急避難。もちろんセバスチャンも随行させるし多くの隠密を送る。それに智子さんも婚約者として伴うようにと親王は続けていく。
「責任重大ですね。急いで準備しなければ」
パリオリンピックの開会は五月上旬、閉会は七月下旬だ。片道四十日少々だから会期全てを滞在するなら五ヶ月以上、サッカーのみに限っても三ヶ月を超える。
英米仏との会談を含めたら、更に長くなるかもしれない。今日からでも用意しないと、意義あるものにするのは難しい。
しかし意気込む俺に、親王は思わせぶりに笑いかける。
「何を言っておる。殿下の御成婚までは東宮職として宮城に泊まり込みだぞ。今年は様々な成果を積み上げ、先々の叙爵に繋げないとな」
最近の親王は、俺を華族にしたいらしい。
要するに『智子さんの嫁ぎ先に相応しい家格を』というわけだ。彼女は宮家の人として嫁入りしないが、せめて充分な身分をと願ったのだろう。
「分かりました。頑張ります」
智子さんのためと言われたら、こう応じるしかない。
どうやら新たな年も、休む暇など存在しないらしい。しかし将来を誓った相手に、心を交わした友、そして頼りになる後見人もいる。
そのため俺の心を占めるのは、年初に相応しい固い決意と溢れんばかりの希望だった。
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