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23 虎ノ門事件(1923)

 十月末の西園寺(さいおんじ)公望(きんもち)公爵との会談以降、皇室典範の改正はトントン拍子に進んでいった。枢密院も満場一致で譲位の条項追加に賛成し、十一月中に新たな典範が発表される。

 俺、中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は今更ながらだが感嘆を禁じえなかった。これを狙って頼みに行き、そして願った通りの結果が出たにも関わらずだ。

 やはり元老の影響力は絶大。本人は静岡の坐漁荘(ざぎょそう)から一歩も動かず、周囲を従わせてしまったと。


 これで譲位への流れは整ったし周囲も意識するが、すぐに即位というわけにもいかない。

 俺としては年が明けて早々……1924年の元旦にでもと思うし、宮内省には早くから話を通してある。しかし表向きは十一月に譲位条項を追加したばかり、二ヶ月足らずで即位というのは慌ただしいし一月には皇太子殿下の御成婚もある。

 そこで即位は大正十三年十月一日、関東大地震から一年一ヶ月の日が選ばれた。この日は大安吉日、それに大震災から一年の九月は慰霊祭などが多いから避けたのだ。

 おそらく多くの人々は、一周忌まで喪に服すべきと思ったのだろう。それだけ大震災は大きな傷を残した……しかし救えた命があるのも事実だ。


「お待たせしました」


「いや、ちょうど整備が終わったところだ。それに君は妻子を救ってくれた大恩人、仮に遅れても喜んで待ち続けるよ」


 恐縮しつつ声をかけた俺に、背を向けていた青年が振り返る。

 スラリとした体に相応しい、爽やかな笑顔。彼こそは『空の宮様』として知られる皇族、山階宮(やましなのみや)武彦(たけひこ)王である。


 武彦王は明治三十一年……1898年生まれの二十五歳だが、既に山階宮家の当主になっている。1908年、彼が僅か十歳のときに父の菊麿(きくまろ)王が死去したからだ。

 当主になったとはいえ十歳だから武彦王は勉学を続け、更に当時の男性皇族の常として軍に入る。彼は二十歳のときに海軍兵学校を四十六期生として卒業すると、海軍少尉候補生となったのだ。

 そして翌年少尉になると、俺がタイムスリップして現れた1920年……大正九年十二月には横須賀の海軍航空隊に配属されて飛行技術を学ぶ。

 このころは皇族にニックネームをつけるのが流行っており、『童謡の宮様』などという一風変わった愛称も生まれたくらいだ。したがって早くに父を亡くして当主となり、更に最先端の航空術を修めた青年皇族が『空の宮様』と親しまれたのは当然だろう。


 しかし本来の歴史だと、武彦王は悲劇に見舞われる。彼は関東大震災で結婚から僅か一年の妻、佐紀子(さきこ)女王を失う……しかも女王のお腹にいた我が子と共に。

 この二重の悲しみは武彦王の心に大きな傷を残し、以後は入退院を繰り返す。しばらく彼は軍に籍を置いていたが実態は別邸や本邸の離れで静養、震災から九年後には予備役に編入される。

 このころ軍を離れる皇族は非常に稀で、大事件というべき異常事態だ。もっとも病が進んだ武彦王は既に休職し、本邸の離れ屋敷に篭もっていたそうだから無理もあるまい。


 ただし新たな歴史の武彦王は、明朗快活な青年のままだ。

 大震災での悲劇を知っていた俺は早くから武彦王にも伝え、佐紀子女王は今も無事である。お腹の子も順調、来年早々には御出産されるだろう。

 そのため俺は人気の皇族から大恩人などと称され、別格の厚遇を受けることになったわけだ。


「さあ乗ってくれ! 準備万端、それにコイツの調子も上々だ!」


 武彦王は朗らかな笑顔で後ろを指し示す。そこには彼が整備していた自家用飛行機がある。

 ここは立川陸軍飛行場に設けられた山階宮家の格納庫。といっても山階宮家で飛行機を操縦できるのは武彦王のみだから、彼だけのために作られた場だ。

 今の武彦王は海軍中尉だが、皇族だけあって陸軍飛行場に私用の格納庫を確保できたのだ。


 立川陸軍飛行場は中央本線立川駅の北西、二十一世紀だと陸自の立川飛行場に相当する。

 俺が知る東京都立川市は都心に向かう人々のベッドタウン、しかし大正十二年十二月の東京府北多摩郡立川町は畑が目立つ長閑(のどか)な場所である。何しろ今月初めに町になったばかり、それまでは立川村だったくらいだ。

 もっとも()()()()()()に陸軍飛行場が完成し、更に関連の軍施設や航空会社などが集まって空の町として栄えていく。


「ここも君の後押しで完成が早まった……。それに海軍も尼港(にこう)事件以来、航空隊に力を入れている……喜ばしい限りだよ」


 複葉機に乗り込む間も、武彦王は上機嫌なまま語り続ける。

 1920年の尼港事件で、俺は飛行機による偵察を進言した。これが功を奏して最悪の事態を回避できたから、陸海軍の双方で航空戦力の充実に力を注ぐ。

 元々立川に陸軍飛行場をという話はあったが、一年前倒しで完成したのは確かに尼港事件の余波だろう。


「それに私も新しい愛機を得られた……これも感謝しなければ」


「モ式六型……向こう風に呼ぶならモーリス・ファルマンでしたね」


 武彦王が感謝せねばと口にしたのは、俺達が乗り込もうとしている飛行機が陸軍の放出品だからだ。

 このモ式六型はフランス製が元で、設計者の頭文字からMF.11と呼ばれる機体を国産化した飛行機だ。同じくMF.11からのモ式四型や五型、更に前のMF.7を国産化したモ式三年型などを合わせると陸軍だけで二百五十機以上も製造したという。

 海軍でもMF.7がイ号甲型水上機、MF.11がロ号乙型水上偵察機として用いられ、武彦王からすると乗りなれた機体でもある。そのため彼は放出品を確保し、自家用飛行機としたわけだ。


 このころ航空技術の向上は日進月歩で、最新鋭機でも下手をすると数年で第一線を退くことになる。一例を挙げると1913年に入手したMF.7は、翌年の青島(チンタオ)攻略戦ですらドイツ機との性能差が激しく空戦にすらならなかったという。

 そこで陸海軍の双方とも新たな機種を手に入れ、更に国産機とした後はエンジンも大出力なものに替えていった。といっても、まだ八十馬力や百馬力といった程度だから自動車と大差ない。

 そのため俺達が乗り込むモ式六型も、羽は布製で構造材は木製という軽さを重視した機体だ。流石に操縦席やエンジンのある本体は金属を張っているが、どこかライトフライヤー号のようでもある。

 もっともライトフライヤー号の初飛行は1903年だから、類似があるのは自然なことだ。MF.7には似た形状の先尾翼があったくらいだし、MF.11を含めプロペラが主翼の後ろにあるのも強い影響を感じさせる。

 ちなみに青島攻略戦に使われたMF.7には爆弾を搭載したそうだが、胴体の骨組みにロープで固定して発射の際はナイフで切り落としたという。まさに黎明期、試行錯誤の時代なのだ。


 とはいえ今の最新鋭はプロペラが機首先端にある複葉機だ。たとえば今年初飛行の一三式艦上攻撃機……映画『風立ちぬ』にも登場した機体は四百五十馬力もあるし最高速度もモ式六型の倍近い時速二百キロメートルほどだ。

 そのため本来の歴史でも軍からの放出は度重なり、多くが輸送機や新聞社の取材機などとして活用された。そして新たな歴史では航空戦力の充実が加速したから、武彦王は製造から僅か数年のモ式六型を入手できたわけだ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 武彦(たけひこ)王の操縦でモ式六型は軽やかに空へと舞い上がる。何度か乗せてもらっているが、俺は息を呑んで空と大地を見つめるのみだ。

 二十一世紀でも飛行機に乗ったことはあるが、小さなガラス窓から覗くだけの旅客機とは全く感覚が違う。肩から上は外に出ており風は飛行帽や飛行服に直接当たるし、しかも顔は航空眼鏡を着けただけだ。

 ちなみにマスク状の鼻当てで顔の残りも隠せるが、離陸時は風を感じたいから着けていない。このモ式六型は百馬力の高出力型だが最高速度でも時速百十キロメートル、高速道路を走るバイクと大差ないと思えば我慢できる範囲である。


「さて、市内に向かおうか」


「はい、お願いします」


 武彦王の操縦で機体は東へと向かっていく。俺は応じつつも、右手の格納庫側へと顔を向けた。

 格納庫の前ではセバスチャンこと瀬場(せば)須知雄(すちお)が手を振っている。それに彼の配下の隠密達も一緒だ。

 このモ式六型は二人乗りだから、セバスチャン達は地上に残るしかない。


 旅客機は既に誕生しており、1919年に初飛行したファルマンF.60ゴリアトは十数名の客を運べる。これは元々爆撃機として開発されたが、第一次世界大戦が終わったから旅客機に転用されたのだ。

 もっとも爆撃機としても使われており、フランス空軍どころか大日本帝国陸軍も1921年に先代のF.50と合わせて輸入した。そしてF.50が丁式一型爆撃機、F.60が丁式二型爆撃機と命名される。

 なお丁式二型爆撃機は立川陸軍飛行場にも配備され、俺も見せてもらったことがある。まだ複葉だが双発でキャビンは窓ガラスも入った密閉式、これなら旅客用となるのも当然と思ったものだ。


「君は震災後の空は初めてだったね?」


「はい、殿下以外に乗せてくれる方などおりませんから」


 武彦王の問いに、俺は少しばかり声を大きくしつつ応じる。

 吹きつけるのは十二月の風、しかも空に上がったから冷たさが増した。そこで俺は先ほど革製の鼻当てを着けたのだ。

 ちなみに武彦王は装着済みである。一時間以上も冬空を巡るのに剥き出しでは耐え切れないと、彼は離陸前に顔を覆っていた。


「飛行機は危険だからね。謎の予言者を乗せるなど、普通は尻込みするか」


「そのようで……。もっとも私は新たな歴史がどうなるか知りませんが」


 どうも武彦王は笑ったらしい。そのため俺も冗談めいた言葉を返す。

 既に歴史は大きく変わっているが、まだ俺が知る未来知識に価値を認める人は多い。そのため周囲は俺を危険から遠ざけようとする。

 そして大正時代の飛行機は安全と言いかねるし、実際に旅客は飛行船が主流だ。まだ民間飛行機は輸送が中心、よほどの急ぎでなければ敬遠する命懸けの乗り物である。

 しかし宮様が操縦するのに危険だからと留めるのは失礼極まりない。そのため俺が武彦王の飛行機に乗るのは許されたわけだ。


「皆が案ずるのも無理はない。歴史は変わりつつあるが、それでも大きな流れは同じ……そのくらいは誰もが理解している。しかも大震災や皇室典範改正以降、更に多くが知ることになった」


「ええ。お陰で飛行場でも以前より注目されたような……」


 武彦王の指摘通り、俺も表舞台に出ることが増えてきた。そのため顔を知られたのか、今日は妙に視線を感じた。

 もちろん相手は士官のみ、おそらくは何かの式典で覚えられただけだろう。つまり予言者としてではなく、ここのところ皇族に接近している妙なヤツといった程度だとは思う。


「ふむ……気をつけた方が良いのは確かだ。最近、一部の士官を海外に送ったのは君だろう?」


「それは……どこからお聞きになったのでしょう?」


 思い当たることがあるだけに、俺は無意識に身を硬くしていた。

 俺は閑院宮(かんいんのみや)載仁(ことひと)親王や加藤(かとう)友三郎(ともざぶろう)海軍大将、それに田中(たなか)義一(ぎいち)陸軍大臣を通じて幾つかの配置転換をさせた。将来クーデターや大事件を引き起こす者達を現場から引き離し、先鋭化を防ぐためだ。


 たとえば五年後……1928年の(ちょう)作霖(さくりん)爆殺事件だ。

 新たな歴史だと日米が後押しする満州国が誕生し、張は戦死した。しかし爆殺事件の首謀者である河本(こうもと)大作(だいさく)は生きている。

 河本は参謀本部支那班長を務めていたが上との意見相違で外され、今年の八月から小倉連隊付中佐になるはずだった。そこで俺はアメリカへの長期派遣を提案した。

 もし河本中佐が満州に渡ったら同じような陰謀を企むかもと、遥か遠方に行ってもらった。新たな歴史では満州国が誕生したが、彼や同調者が日本単独の支配を唱えて動くのではと俺は憂えたのだ。


 これは決して杞憂ではない。

 張作霖爆殺事件は傀儡政権樹立を目指す関東軍の陰謀に留まらず、当時の総理大臣である田中義一の失脚を狙ったものでもあるからだ。田中義一は長州閥、そして河本中佐は反長州閥という構図である。

 そもそもは1921年のバーデン=バーデンの密約から始まる。永田(ながた)鉄山(てつざん)小畑(おばた)敏四郎としろう岡村(おかむら)寧次(やすじ)が陸軍改革断行を誓ったとされる出来事だ。

 三人は国家総動員体制、長州閥打倒、満蒙の早期掌握などを望み、それらを推進する旗頭として真崎(まさき)甚三郎(じんざぶろう)らの擁立を企んだという。更に一日遅れで東條(とうじょう)英機(ひでき)、二年後の今年に河本中佐や板垣(いたがき)征四郎(せいしろう)が加わる。

 これが後に『二葉会(ふたばかい)』と称した集団で、同じような少壮幕僚による木曜会が合流して一夕会(いっせきかい)となる。そして一夕会の面々は高度国防国家の建設を唱え、同時に満州事変へと動かしていく。

 つまり後の大戦への暗躍は、大正時代の半ばから始まっていたわけだ。


 しかも真崎は二・二六事件の裏にもいたという。

 真崎が陸軍士官学校の幹部や校長だったときの教え子が事件の首謀者なのは事実だから、彼も長期の欧米視察に送り出した。それに後の首謀者達も、卒業したら散り散りにするつもりだ。

 五・一五事件も含めスマホのオフライン辞書に関係者が載っているから、俺は先んじて手を打つことにしたのだ。


「別に誰からも聞いていないが、中華民国専門だった河本中佐がアメリカに行くなんて誰でも不思議に思うだろう? 他にも今まで縁のない場所に飛ばされた者が多いとくればね。いずれも戻ったら昇進させると餌をぶらさげたようだが……」


 軍隊は狭い組織、それに栄達を夢見る者は多いからと武彦王は続ける。

 実力次第で手っ取り早く出世できる場所として軍を選んだ者は多い。元の歴史だと加藤友三郎が首相になったとき、海軍兵学校では彼に続けと大いに沸いたという。

 ちなみに海軍兵学校卒の首相は既に山本(やまもと)権兵衛(ごんのひょうえ)という例があるが、彼は薩摩出身だから別格とされたようだ。もしかすると、これも薩長閥に対する嫉妬の表れかもしれないが。


「ええ……」


 実はセバスチャンや彼が率いる隠密達からも、不穏な気配があるという声は上がっていた。そのため俺は武彦王の言葉を重く受け止める。


「ともかく今は空からの視察だ! 君が守った帝都をしっかり見てくれよ!」


「はい!」


 気分を変えようと思ったらしく、武彦王は一転して陽気な調子で叫ぶ。俺も案ずるのは後だと彼に続き、地上へと目を向けた。


 まだ崩れた建物が残っているが、一時の惨状は失せていた。多くの場所で再建が進行中、空まで槌音が届くような活気がある。

 この復興しつつある街に再び悲しみを招いてはならない。それも出世欲や派閥争いなどで。

 なんとしても生き延びねばと、俺は誓いを新たにした。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 このころ俺は宮内省の職員……しかも東宮(とうぐう)職の末席に名を連ねていた。宮城(きゅうじょう)に出入りすることも増えたから、名目だけでも整えようとなったわけだ。

 載仁(ことひと)親王のお供や使者などと称するのも、あまりに重なると不審に思われる。しかし譲位の次は憲法改正、統帥権干犯問題の元を解消するための改革があるから出向く回数は増す一方だ。

 そのため宮城(きゅうじょう)を守る近衛師団も隊長くらいは顔を覚えてしまった。


「お帰りですか?」


 二重橋を渡るときに俺達が乗る三菱A型が停車すると、士官が声をかけてくる。毎日のように通っているから、向こうも俺達を見知ったのだろう。


「ええ、()()()()貴族院に寄ってから帰ります」


 答えたのは助手席に座るセバスチャンだ。しかし俺は、ほんの僅かだが違和感を(いだ)く。士官は顔を覚えた一人だが、どうも声が曇っているような気がしたのだ。


「ついに来たかもしれません」


 セバスチャンは車が出ると同時に低い声で呟く。そして彼は外から見えない角度で無線機を操作し、何事かを指示し始める。


「やはり……。しかし大正十二年の十二月二十七日とはな……」


 俺は奇妙な符合に驚きを感じていた。

 本来の歴史だと今日は虎ノ門事件、つまり皇太子殿下暗殺未遂事件があった。この日、皇太子殿下は第四十八通常議会の開院式に向かう途中で共産主義者の難波(なんば)大助(だいすけ)に狙撃されたのだ。

 そこでセバスチャンの部下が難波を見張っているが、そちらに動きはない。元の歴史と違って関東大震災の被害が少ないし、騒ぎに乗じての弾圧も禁じたからだろう。


 しかし急進派の若手将校が締め付けに(いきどお)って動き出すとは、歴史の収斂(しゅうれん)なのか単なる偶然として片付けるべきか。

 このころの国会議事堂は麹町区内幸町二丁目、後の千代田区霞が関一丁目にある。そのため貴族院に寄ってから閑院宮(かんいんのみや)邸に戻ると、虎ノ門を通ることになるのだ。


「日付はともかく、場所は必然かもしれませんね。あそこは官庁街を抜けて家具商などがある……つまり民間人に扮して待ち構えるには最適です」


「確かにな。赤坂方面から貴族院に向かうか、逆なら間違いなく通るだろう」


 セバスチャンの指摘に俺は頷いた。

 ちなみに皇太子殿下は前者、そして俺達は後者である。もっとも議会の開院式は一日ずらしたから、今日の殿下はこのコースを通らない。


「ともかく手筈通りに……良いですね?」


「……分かった」


 言葉を交わしているうちに、貴族院の前まで着いてしまう。そのため念押しするセバスチャンに、俺は再び首肯で答えるしかない。


 そして俺達は用事を済ませ、貴族院を出て虎ノ門の交差点へと差し掛かる。

 このころの虎ノ門交差点は路面電車が東西と南北の双方に走っているが、今は合間らしく見かけない。そのため俺は巻き込まずに済むと思いつつ、()()()()()()()()()()()()()()()


 しかし次の瞬間、俺の体は硬直する。二十を優に超える発砲音が響いたからだ。

 兵営地での射撃訓練で数え切れないほど耳にしている乾いた破裂音。しかし人が人を狙っていると思うからか、やけに大きく聞こえる。


「セバスチャン!」


「大丈夫です。そのままで」


 思わず叫んだ俺を、隣に座る隠密が静かに制した。

 実は貴族院で、俺は後続車に乗り換えた。そして変装術で姿を変えたセバスチャンが三菱A型の後部座席に収まり、俺の身代わりとなったのだ。


「ああ……本当だ」


 俺は浮かしかけた腰を座席に降ろす。

 銃声は既に絶えていた。まず車の中からセバスチャン達、更に路上から彼の部下達、合わせて十数人の応射で凶漢達は倒れ伏した。

 セバスチャン達は全員無事。しかも上手く手足を撃ちぬいたらしく、相手も息があるようだ。


中浦(なかうら)様、後は我々が始末します。早くお帰りください」


「ありがとう……」


 平然とした顔で寄ってきたセバスチャンに、俺は一言だけしか返せなかった。長居は無用とばかりに、俺が乗る車は走り出したのだ。


 翌朝、実行犯は陸軍の士官達だとセバスチャンが教えてくれた。しかし二葉会に名を連ねる佐官クラスではなく、尉官クラスだという。


「すぐに吐かせますよ。摂政宮殿下もお怒りですし、私も末端ごときでは満足できませんから」


 セバスチャンは楽しげに笑っていた。

 これはセバスチャンが立案した計略なのだ。そのため彼は殊更に俺達の行き先を漏らし、襲撃者達に隙を見せた。

 クーデターやテロは厳罰に処すと示し、後の暴走を抑制するために。


「何しろ陛下を守るべき軍人が次代の陛下を支える東宮職を襲った……これは大逆罪といっても差し支えないでしょう」


「差し支えあるよ……。でも、ここで釘を刺しておかないと更にエスカレートするから……」


 意地悪そうな笑みを増すセバスチャンに、ぼやき半分の言葉で俺は応じる。しかし後の急進派が勢力を増す前に手を打つ必要があるのは事実だ。

 張作霖爆殺事件で河本(こうもと)大作(だいさく)は軍法会議にかけられることもなく、翌年予備役に編入されたのみだった。しかも彼は後に南満州鉄道の理事など、満州関連の要職に就いていく。

 五・一五事件の首謀者達も比較的軽い罪で済み、それが二・二六事件の後押しをしたという。


 やはり厳正に処罰するしかないが、軍人は軍法会議にて裁かれるから往々にして軽く済まされてしまう。つまり統帥権を握る陛下や摂政宮を務める皇太子殿下が厳罰を望まない限り、首謀者まで追うなど不可能だ。

 しかし今回は先々どうなるか伝えているし、田中陸軍大臣も自身の失脚を狙う者達に同情はしないだろう。そのため俺は、かなりのところまで辿(たど)れると期待していた。


「叛乱罪を適用して死刑ですね。実行犯はもちろん、裏にいる者達も同じです。そのくらいしないと歯止めになりませんから」


 セバスチャンの予想に、俺は驚いた。俺は謀殺未遂罪で無期懲役まで、それも実行犯だけで他は軽いと思っていたからだ。

 軍人達が計画的に政府関係者を殺そうとしたのだから、確かに叛乱と呼べる。そして叛乱罪は『党を結び兵器を執り叛乱をなした者』を対象としており、罪の要件を構成してはいる。

 とはいえ俺達も罠にかけた側、つまり謀殺したと表現できる。まさに勝てば官軍、負ければ賊軍だ。


「そうか……ますます死ねなくなったな」


「ええ。彼らの命も背負って生きてください」


 覚悟を示した俺に、セバスチャンは厳粛な表情で頷き返す。勝った以上は前を向いて進んでいくしかないのだと。

 俺は窓の側に寄る。そして年の瀬も迫る寒空を見上げつつ、新たな歴史の虎ノ門事件を胸に刻み込んだ。


 お読みいただき、ありがとうございます。


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