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18 理化学研究所(1923)

 年が変わって大正十二年新春、つまり1923年1月。俺、中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は自動車を走らせていた。

 運転するのは国産の『三菱A型』、居候中の閑院宮(かんいんのみや)家で購入したが殆ど俺専用と化した車だ。


 本来だと三菱A型は1921年に生産終了し、自動車事業も解散した。しかし俺は国産自動車の成長を願い、将来は儲かるからと事業継続を勧めた。

 もちろん無責任に続けさせたのではない。三菱には計画中の一大事業を紹介したし、閑院宮家も後押しすべく一台購入してくれた。

 そんな経緯もあって俺は三菱A型を愛用しているし、閑院宮家も俺の使用を最優先としてくれた。


 ちなみに俺の戸籍は政府が用意してくれたし、運転免許も取得したから捕まる心配はない。一般向けの運転免許制度は1919年からで、俺は全ての自動車を運転可能な甲種を持っているんだ。

 東京に来てから銃器の訓練などと共に兵営地で運転の練習もしたし、二十一世紀でも自動車免許を持っていたから実技面に不安はなく大正時代でも一発で試験をクリアしている。


「やはり風が冷たいですね。私が運転した方が良かったのでは?」


 セバスチャンこと隠密の瀬場(せば)須知雄(すちお)は、助手席から俺へと顔を向ける。三菱A型は正面にこそ窓ガラスを入れているが、前席の左右に風を(さえぎ)る物はないのだ。

 ちなみに前席と後席の間には窓ガラスがあるし、左右や後ろもガラス入りだ。たぶん使用人が運転して、持ち主は後席に乗る想定なのだろう。

 つまりセバスチャンは、後ろに乗った方がと言ったわけだ。


「厚着しているから大丈夫さ」


 俺は前方を見つめつつ微笑んだ。

 セバスチャンもそうだが、スーツの上から軍用の防寒具を着込んでいる。それに飛行帽やゴーグルも着けているから、車外からだと軍人のように見えるかもしれない。


「それに速度も大したことないし、駒込までは8キロ程度だろ?」


 俺からすると、東京市の自動車は常に低速運転をしているようなものだ。

 このころの乗用車は、最高で時速70キロメートルも出れば充分に優秀といえる。もちろん一部の高級車は更に上回るし最高速挑戦用の車だと時速200キロという記録もあるが、それは例外的な存在だ。

 ちなみに三菱A型の重量は約1300キログラムだが、出力が35馬力しかない。二十一世紀の軽自動車と比較すると、重さが倍なのに出力が七割という貧弱さだ。

 もっとも今は自動信号機もなければ高速道路も存在しない。無人の荒野を突っ走るならともかく、東京市なら三菱A型で充分である。


 それに二十一世紀と違って荷車や馬車も多い。ここ外堀通りは大きく拡張されて片側三車線となり軽車両は端を通るように分けているが、交差点だと寄ってくるから気が抜けなかった。

 大震災に備えて道路を拡張したし通りに名を付けるなど自動車時代に備えたが、いきなり人力車や馬車が消えるはずもない。それに路面電車も通るから、今も平成時代の半分程度か未満の速度に抑えている。


「確かに理研まで、三十分もせずに着くでしょうね。それくらいなら中浦様の気晴らしを優先しますか」


 セバスチャンの声は明らかな笑いを含んでいた。どうやら俺の好きにさせた方が良いと思ったらしい。


 理研こと理化学研究所は、二十一世紀の東京都文京区本駒込二丁目にあった。大正時代の呼び方だと、東京府東京市本郷区駒込曙町に三分の二ほど、残りが隣の小石川区である。

 もっとも町名より六義園(りくぎえん)の南隣という方が分かりやすいだろう。駒込駅の南、江戸時代は柳沢家の下屋敷だった有名な庭園だ。

 ただし大正時代から昭和初期にかけての六義園は三菱財閥の岩崎家の邸宅だから、一般公開していない。俺もタイムスリップ後は、閑院宮家の当主である載仁(ことひと)親王のお供で覗いただけだ。

 しかし理研には何度も行っているから慣れた道、ならばドライブを楽しませるべきとセバスチャンは判断したのだろう。


「そうだ、ラジオを聴かせてくれないか?」


「はい」


 俺が声を掛けると、セバスチャンはグローブボックスを開けてラジオのスイッチを入れる。左右に窓ガラスがないから、ラジオのパネルは助手席手前の小物入れの奥にしたんだ。


 ラジオ放送は、この一月から始まった。元の歴史だと定期放送は1925年3月からだが、震災対策として二年二ヶ月の前倒しをした。

 そこで俺は車にもラジオを取り付けた。ラジオ本体は前席と後席の間、もちろんアンテナもあり上に伸ばしている。

 もっとも俺だけじゃなく、多くが同様の改装をしている。ラジオを聴くのは最新の流行で上流階級にも広まっているとアピールすれば、聴取者も増えると期待してのことだ。


『……今日はコロッケの作り方です。『コロッケの唄』のように毎日だと飽きますが、安価ですし具材次第で色々楽しめます』


 ラジオから流れてきたのは、料理講座だった。

 ちなみに『コロッケの唄』とは1917年発表の益田太郎冠者が作詞した方で、第二次世界大戦後の同名の歌とは詩も曲も異なる。それに前者はコミックソング、後者は演歌風の歌謡曲だ。

 ただし歌詞の一部は共通しているから、二代目はリメイクでもあるのだろう。


「料理番組か……」


「株式情報より良いのでは?」


 ぼやいた俺だが、セバスチャンの言葉を聞いて思い直した。確かに銘柄と株価を延々聞かされるより、料理の方が楽しめる。


 株式情報をセバスチャンが挙げたのは、平日だと日中の大半は株や相場関連だからである。大まかに言えば平日の昼は株式情報と他が交互に放送される形で、娯楽番組の多くは休日に集中しているのだ。

 このころラジオの受信機を持っているのは富裕層か商売で利用する人だから、平日に実用的な番組が集まるのも当然だ。ただし朝は天気予報、料理番組や家庭講座を挟んで昼には演奏にニュース、婦人講座もある。それに夕方以降には子供番組や英語講座、音楽や講談なども盛り込まれた。

 なお現時点では東京、大阪、名古屋に一局ずつだから、好みでなければスイッチを切るしかない。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 理化学研究所は二十一世紀まで続いており、平成時代の日本で知らない人は稀だろう。

 創設は1917年、その四年前からアドレナリン結晶化などを成し遂げた高峰(たかみね)譲吉(じょうきち)を中心とした学者が国立科学研究所の必要性を訴え、渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)を始めとする財界人も後押しした。

 そして渋沢翁が設立者総代となり、皇室と政府からの補助金や民間の寄付を基にして財団法人理化学研究所が誕生する。

 ちなみに俺がタイムスリップして現れたのは1920年だから、これらは本来の歴史と同じだ。


 俺が理研に関与し始めたのは1921年の初め、閑院宮邸に移ってからだ。それまでは横浜の英国領事館に身を寄せていたこともあり若干の助言を政府関係者にした程度だが、東京に移った後は頻繁に足を運んだ。

 関東大震災対策と、二十数年後の原爆への対応。この二つを成し遂げるには、理研の力が必要だと思ったからだ。

 理研には土星型原子モデルを提唱した長岡(ながおか)半太郎(はんたろう)がいる。それに元の歴史より早く、寺田(てらだ)寅彦(とらひこ)にも正式に所属してもらった。

 また海外留学中だが、後にサイクロトロンを作る仁科(にしな)芳雄よしおも在籍している。このように現時点でも日本の原子物理学の最先端というべき場所なのだ。

 ちなみに後に加わる朝永(ともなが)振一郎(しんいちろう)湯川(ゆかわ)秀樹(ひでき)だが、1923年時点では十代後半の若者でしかない。もっとも先々理研に来るのは間違いなく、二人が京都府立京都一中にいるのはセバスチャン達が確かめている。


 一方で理研は実学にも手を出していた。

 三代目所長の大河内(おおこうち)正敏(まさとし)が、成果の製品化による資金稼ぎを推進したのだ。研究資金が足りず事業化を迫られたというのが実態だが、物理学者にして子爵で事業家という大河内所長は研究者達を上手く動かした。

 このころオリザニンの鈴木(すずき)梅太郎(うめたろう)の研究室は、ビタミンAの分離と抽出に成功した。それを大河内所長は、理研の自主生産で『理研ヴィタミン』として売り出すのだ。

 この本来の流れに加え、俺は理研に頼んだことがある。それはモルタルなど耐火建材の改良や、国産消防車の開発支援だ。


「所長、久しぶりです」


「おお、昨年末以来でしたな。さあ、こちらにどうぞ」


 俺は所長室に通されるなり、大河内所長に挨拶する。

 セバスチャンを含め、平均すると週に一度は通っている。もちろんワシントン会議で国外にいた間は別だが、俺達は気軽に言葉を交わす仲なのだ。

 大河内所長は四十五歳、しかも子爵で貴族院議員。知恵伊豆と呼ばれた老中松平(まつだいら)信綱(のぶつな)の子孫で、学習院では大正天皇の学友、しかも東京帝国大学を主席で卒業。つまり由緒正しい生まれで地位も高く頭脳明晰な名士中の名士である。

 それにも関わらず下にも置かぬ歓迎を示すのは、俺が多くの仕事を理研に持ってきたからだ。


「消防車の件、大いに助かりましたよ。三菱もですが、我が研究所も大喜びです」


「いえ、三菱A型の生産継続を勧めたのは私ですから」


 満面の笑みを浮かべる大河内所長に、俺も同じくらい顔を綻ばせつつ応じる。

 この当時、既に消防車は存在したが外国製だった。大阪市が1911年にドイツから消防ポンプ車を輸入し、更に1914年に横浜市や名古屋市がイギリスから、1917年に東京市がアメリカから購入する。とはいえ台数は僅か、とても関東大震災の出火に対応できるとは思えない。


 そこで俺は消防車の追加と国産化を提案した。三菱A型をベースに、消防車を作るのだ。

 大火災に見舞われるはずの東京市と横浜市に、数百台の消防車を配置したい。ガスは()めるし工場などの操業も停止させるが、それでも火災は起きるだろうからだ。

 それだけの数を輸入するより、国産車で揃えるべき。費用圧縮、国内産業の育成、技術蓄積。そして研究開発委託で国立研究所に運営資金提供。一石何鳥にもなると、俺は考えた。

 三菱だけでは生産が間に合わないから、他の自動車メーカーにも声を掛けた。快進社、後の日産自動車やいすゞ自動車の前身などに、ライセンス生産という形で協力を願ったのだ。

 そのため関東大震災までに、最低限の数を確保できるだろう。しかも各社は前日の8月末日まで全力で操業すると意気軒昂、稼ぎ時というのもあるが出来る限りの人や機材を回してくれている。


 ちなみに大震災を乗り越えたら、消防車の大半を地方に売却するつもりだ。

 中古扱いで多少は割り引くが、未曾有の災害で活躍した実績があれば引く手あまただと睨んでいる。もっとも予想が外れたら、国の威光で売り捌くわけだが。


「モルタルは大して力になれませんでしたが、消火器の改良には貢献できたと自負しています」


「ええ。流石は本多(ほんだ)光太郎(こうたろう)先生です。軽くて強度が高い消火器に、消防署や軍も大変感謝しています」


 誇らしげな所長に、俺は大きく頷き返す。

 本多光太郎とは『鉄の神様』や『鉄鋼の父』と呼ばれた偉人、KS鋼や新KS鋼の発明者だ。この当時の彼は東北帝国大学の鉄鋼研究所や金属材料研究所の所長で、弟子達を含め様々に協力してくれた。

 消火器の容器に加え、消防車のポンプ開発、高強度で熱に強い鉄筋。俺の未来知識によるヒントもあり、本来の歴史よりも大いに進歩したようだ。


 化学泡消火器は大正中期からあったが、容器は黄銅製だった。そのため素材自体が重く、構造的にも工夫の余地があった。

 消防署は1919年の特設消防署規程で東京と大阪に加え、横浜、名古屋、京都、神戸にも公設のものが置かれた。しかし彼らだけで数が足りるとは思えず、震災では軍の出動も予定している。

 とはいえ人力だけでは限界がある。やはり科学の力を最大限に活用して備えるべきだろう。


 なおモルタルや石膏ボードの改良だが、短期間では難しかったらしい。

 理研は建築学まで対象としておらず、これらは日本建築学会にも協力を依頼した。このころ建築学会は建築工事標準仕様書を作成中で、その中にはモルタルなどを含む左官の基準も含めていたからだ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 大震災対策を話し終えると、大河内所長は一旦席を立つ。そして彼は隣室の秘書を呼び、とある人達を招くように伝えた。


「おお、ヘル・ナカウラ!」


「お会いしたかったですよ!」


 足早に歩み寄ってきたのは四十過ぎのドイツ人男性と、三十前のインド人男性だ。どちらも喜色満面のまま、俺に向かって歩いてくる。


「お元気そうですね。アインシュタイン博士、ボース先生」


 俺達は立ち上がり、二人の偉大な学者を出迎える。

 アルベルト・アインシュタインは説明不要だろう。相対性理論など数々の偉業を知らぬ人がいるとは思えない。

 サティエンドラ・ボースもアインシュタインと同じく名高い物理学者だ。もっとも現時点ではボース=アインシュタイン凝縮と呼ばれる理論を発表していないから、これから有名になるというべきか。


「ええ、日本は良いところです。講演の旅でも大歓迎してくれましたし、この研究施設にも満足していますよ。エドワード王子に感謝せねば」


「インド人の私としては少々思うところもありますが、アインシュタイン博士と働けると思えば……それに先々は故郷に成果を持ち帰れるでしょうし」


 握手を交わしつつ、アインシュタインとボースは現状に不足はないと答える。

 昨年10月、エドワード王子は日本逗留を開始した。病を名目に王太子を退(しりぞ)き、日本での療養生活に移ったのだ。

 ただし実際の王子は健康そのもの、病や療養は王位継承権放棄の口実にすぎない。今は派手な行動を控えているが、代わりに伊豆など温泉地を巡って気ままに過ごしている。

 このイギリス王子が数年単位の長期滞在をする事実は、日本の信用度向上に大きく寄与した。それに彼の協力で、このような素晴らしい研究者を客員教授として招くことが出来たのだ。


 アインシュタインは元々の歴史と同じく昨年11月に来日したが、そこからは違って日本を新たな研究の場に選んで留まった。

 留学中の仁科芳雄が事前に接触し、エドワード王子も日本に来る前に口添えした。それに加えアインシュタインは、タイムスリップした俺に多大な関心を示したのだ。

 欧州にいるセバスチャンの配下が、日本の予言者は未来から訪れたと暗に示した。するとアインシュタインは相対性理論の更に先に進めると期待し、日本の招聘(しょうへい)に応じてドイツを引き払った。

 もちろんドイツは怒った。しかし第一次世界大戦に負けて数年しか経っておらず、更に英米仏の援護もあったから黙るしかない。

 アインシュタインは日本に来る途中、1921年度のノーベル物理学賞を受賞している。それだけの大学者を四国同盟側、つまり日英米仏のいずれかに引き入れるべく同盟全体として勧誘したわけだ。


 ボースに関しては面倒が少なかった。

 インドはイギリスの支配下にありエドワード王子が手を回しやすいし、現時点でのボースは無名に近い存在だから移籍も容易だった。しかも彼は偉大なるアインシュタインと研究できると知り、早々と日本行きを決意したという。


「長岡や寺田も喜んでおりますし、近々イギリスから更なる研究者も来ますぞ」


「ラザフォード博士の弟子、エドワード・アップルトンです。それにジョン・コッククロフトという優秀な学生もいます」


 大河内所長に続いての俺の言葉に、二人は表情を動かした。謎の予言者こと未来人の俺が保証するのだから、学生の方も含め並ではないと思ったのだろう。

 実際に元の歴史だと、アップルトンとコッククロフトは双方ともノーベル賞を得る。ただし二人とも第二次世界大戦後の受賞で、今は三十過ぎと二十代半ばの若手でしかない。


「これで原子の解明も進みますね。そして、いつかは大統一理論を……」


「昨日も時空の謎の手がかりがないかと、城郷村(しろさとむら)まで行ってきたのですよ」


 夢見るような表情となったアインシュタインに代わり、ボースが近況を語り始める。

 城郷村とは俺がタイムスリップして現れた場所だ。二十一世紀の横浜市港北区の南部、横浜国際総合競技場の近くである。二人は日本の研究者などと出向き、地磁気や放射線の測定をしてきたそうだ。

 正直なところ、それでタイムスリップの原因が掴めるとは思えない。あれから三年近く、城郷村や近辺で異常はないそうだ。俺も気にはしていたし、大河内所長など時空間の秘密を探ろうとした科学者はいたのだ。

 とはいえ不可能と断定できる根拠はないし、万が一ということもある。そこで俺は相槌を打ちつつボースの話を拝聴する。


「時空の歪みを検知する方法がないものか……」


「星のような大質量なら重力レンズ効果を観測できますが、地球上では難しいでしょうね」


 ボースの呟きに、俺は一般相対性理論の証明にも使われた概念で答える。

 アーサー・エディントンは日食を利用し、太陽の重力により光が曲がると確かめた。これは1919年で、既に重力レンズの概念はあるのだ。


「重力自体の異常は計測できますが、地下に高密度の岩盤がある場合が殆どでしょう。地質学やプレートテクトニクスの解明には役立つでしょうが、物質やエネルギー、それに空間の本質とは別のことかと」


 俺は更に言葉を続ける。

 プレートテクトニクス理論は1912年にアルフレート・ヴェーゲナーが発表している。ただし現時点ではマントル対流が原因と示されておらず、証明されるのも第二次世界大戦後だったはずだ。


「それを知りたい。全てを説明できる本当の理論を……。そのために相対性理論を導き出したのに……」


「ええ。時空間の本当の姿、そして質量とエネルギーは等価であること。それらは素晴らしい発見であり、決して最悪の暴虐のためではありません」


 悲しげなアインシュタインを励まそうと、俺は敢えて力強い声で応じた。

 アインシュタインが原爆を作ったのではない。彼はアメリカに移住した後、大統領フランクリン・ルーズベルト宛の原子力の軍事利用に関する手紙に署名しただけだ。

 その手紙はウランが重要なエネルギー源になること、極めて強力な爆弾に使えること、そしてウランの確保と研究開発を促進すべきと記していた。したがって原爆製造の後押しは事実だが、アインシュタイン自身はマンハッタン計画に関与していない。


 つまりアインシュタインは、火を初めて使った人類の祖先と同じようなものだ。

 火を調理などに使うか、火矢や火計のように戦いに用いるか、使う者次第。最初に利用した者が責任を負うべきことではない。


 宇宙誕生の秘密にも迫れる大発見も、愚か者が握れば何十万人を一瞬で殺した上に生き延びた人や子孫まで苦しめる悪魔の兵器になる。しかし原子物理学は多くの分野に必要で、もし無ければ文明の進歩は大きく遅れる。そのように俺は結ぶ。


「やはり放射線の悪影響を立証し、軍事利用を禁じるしかないのでしょうな。科学が進んだ国なら、いずれは作る……しかし残酷極まりない兵器と広まれば簡単には使えない。条約でも結べば尚更ですな」


 大河内所長は、言葉を選びつつといった調子で語っていく。

 敗戦国にならなければ、日本も原爆を持つだろう。英米仏も保有するだろうし、ドイツやソビエト連邦なども同様だ。

 もし物理学者を全て拘束しても、代わりの誰かが原爆を完成させる。原爆を作らせないなら全世界で原子物理学を禁じるしかない。

 もっとも、そのようなことは誰もしないだろうが。


「そのために遺伝子工学を進歩させるのです。先の長い話ですが……」


 原爆を封じるのは無理だ。ならば害を科学的に証明し、使う者を絶対に許さない体制を作るしかない。それに必要なのは遺伝子工学だと、俺は考えている。


 このころ既にアルファ粒子やベータ線は知られているし、X線は見世物に使われたくらい一般的だ。しかし放射線の害は大して知られておらず、1920年代に入っても靴屋が足にフィットするか確認するために、X線撮影で足の骨の写真を撮るくらいだ。

 ちなみにX線が遺伝子に悪影響を与えるという指摘は、1920年代も後半に入ってからだそうだ。そしてDNAの二重螺旋が解明されたのは第二次世界大戦後。あくまで個人的な意見だが、原子物理学に比べると遺伝子工学は四半世紀ほど遅れているように感じる。


「幸い理研には鈴木博士や池田博士を始め、有機化学の泰斗がいらっしゃいます。彼らに育ててもらえば、きっと遺伝子の研究も進むでしょう……私も入れ知恵しますし」


 オリザニンの鈴木博士、グルタミン酸ナトリウムの池田(いけだ)菊苗(きくなえ)博士。遺伝子ではないが、理研には生物から有用な物質を得る技に長けた研究者達がいる。

 このような先達に導いてもらえば、十年や二十年の後には遺伝子の秘密に近づけるだろう。そして原爆の強烈な放射線が遺伝子を破壊する可能性があると知らしめる。

 それらが抑止力になるよう、俺は願っていた。少なくとも、原爆を使ったら歴史に残る大罪人として永遠に語り伝えられるようにと。


「これらを進められるのは、戦争の終わった今しかありません。次の戦争が始まれば……そして原子の力を兵器に使える技術力があれば、誰かが実戦に使うでしょう。そのとき悪魔の兵器に襲われる可能性は、世界中の全ての国にあるのです」


 歴史が変わった以上、原爆が落ちるのが日本とは限らない。

 日本が連合国側に回れば残る枢軸国、つまりドイツやイタリアに落とされるかもしれない。逆にドイツやソビエト連邦が先に完成させ、アメリカや日本を標的にする可能性もある。

 そこまで俺は触れなかったが、皆は理解してくれたようだ。


「ですが、上手く使えば人類を新たな時代に(いざな)ってくれるのも事実です。だから、我々の手で良い方向に導こうではありませんか」


 一転して俺は破顔し、夢のような未来図を語り始める。

 放射線は医療にも使える。放射性元素の崩壊で年代測定をするなど、歴史や古生物学への応用も可能だ。そして遺伝子の解読には原子レベルの把握が必要だ。

 俺が語る原子物理学の光の側面に、研究者達は時を忘れたかのように聞き入っていた。そして俺は真理の探求者達に未来を示すべく、更なる希望の技を挙げていった。


 お読みいただき、ありがとうございます。


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