17 平和記念東京博覧会 後編(1922)
平和記念東京博覧会の第一会場は上野の山、第二会場は不忍池と周辺だ。
第一会場は表玄関と呼ぶべき場所だ。テーマごとの特設館が並び、この時点……大正十一年の最新技術や日本の伝統文化を紹介している。
演芸館の出し物には天勝の奇術もあるし、万国街のような売店や見世物を集めた場所もある。しかし演芸館の他の演目は帝劇や歌舞伎など、万国街も各国のダンスや産物の紹介といった啓蒙的なものが多かった。
それに対して第二会場は様々だ。
不忍池は後と同じで、大まかには南北に長い長方形だ。この周囲を北海道館や各植民地の特設館、外国の館、工業系の館、更に食事の場や土産物の売店などが取り巻いているのだ。
しかも池の中には水上飛行機を模した遊覧船が巡っており、遊園地めいた雰囲気もある。
今俺達がいるのは南側の売店街だ。
後と違って弁天島に掛かる橋は東西に一本ずつで、島と橋で池を南北に二分している。
この橋の東端、時計なら三時の方向から時計回りに東京府の即売店、更に各府県の即売店と並んでいる。これを俺達は西側から、つまり反時計回りに府県の店から覗いていた。
「この棒を食べるのかい?」
イギリス王太子エドワードが手にしたのは焼津の名産品、焼津節だ。彼は端を握ったまま、逆の拳を打ち付けたり指で弾いたり硬さを確かめていた。
更に王太子は二本を手にすると、互いに打ちつけ始める。
乱暴な言葉遣いはコックニー訛り、ロンドン下町出身を装ってだ。それに服も安い背広、髪も黒く染めて付け髭までしている。
そのため直売所の店員達も、日本に疎い外国人労働者と信じているようだ。彼らは奇行を続ける王太子を、微笑みと共に見守っている。
「削って調味料にするのですよ」
「鰹節というもので、今まで召し上がった和食にも使われていたはずです」
俺、中浦秀人と婚約者の智子さんは、王太子に鰹節の使い方を説明していく。
「これをね……」
「こちらに削ったものがありますよ」
しげしげと鰹節を見つめるマウントバッテン卿に、セバスチャンこと隠密の瀬場須知雄が削り節を入れた小皿を差し出した。
こうやって俺達五人は全国各地の名産品を眺め、手に取り、試食していった。もちろん冷やかすだけではなく、気に入ったものは買っていく。
王太子は菓子などが中心だ。お忍びの埋め合わせを家臣達にと考えたのか、何箱も買ってはマウントバッテン卿に渡していった。
その一方で櫛や簪など、王太子は女性受けしやすい小物も多く選んでいた。このあたりは女性遍歴で名を馳せた人物らしいと、俺は智子さんと顔を見合わせたものだ。
俺は智子さんと一緒に工芸品を見ていった。
まずは逗留中の閑院宮家の女性達、つまり智子さんの母や姉妹への土産だ。俺達は女性向けの品を見つけると、端から手に取って確かめていく。
しかし土産物は早々に買い終える。俺は智子さんの見立てに任せ、彼女も買い忘れたら困ると思ったのか手早く選んだからだ。
そんなわけで今、俺は智子さんに贈る品を選んでいる。
「この漆塗り櫛は綺麗ですよ。それに絵柄も素敵です」
「まあ……本当に」
俺が手に取ったのは朱に塗られた櫛、上が半円形の女性向けの品だ。細かな漆絵は薄いピンク色と白の牡丹を写実寄りの筆致で見事に現している。
20円と少々高いが、婚約者への贈り物だから良いだろう。
物価換算だと二十一世紀の2万数千円だが、このころの大卒初任給は40円程度だから更に高価かもしれない。もっとも謎の予言者としての働きで俺は毎月かなりの俸給を得ているから、このくらいなら大丈夫だ。
智子さんも気に入ったようだし、俺は揉み手をして待つ店員に向き直り会計を済ます。
「智子さん、どうぞ」
「ありがとうございます」
「ヒュ~! 実に初々しい! 初めてのデートって雰囲気が最高だよ!」
俺が櫛を入れた箱を智子さんに渡すと、エドワード王太子が盛大に冷やかす。
一方の俺達だが、真っ赤な顔で口を噤むのみである。相手は弁舌に長けた王太子、どう言い訳しても逃れるのは無理だからだ。
「デイヴ……」
「ディッキー、これくらい良いだろ?」
マウントバッテン卿は制止しかけたらしいが、軽く受け流される。彼は六つ下で相手は王子、留め切れぬのが常なのだ。
ちなみにセバスチャンは澄まし顔のまま両手に荷物を下げているが、笑いを堪えているのは間違いない。その証拠に武術や忍術で鍛えた彼の肩は、ほんの僅かだが揺れていた。
◆ ◆ ◆ ◆
府県のエリアから東京府の即売店へ。そして東に第一会場と繋ぐ平和橋、西に弁天島が見えてくる。
これで一通り見て回ったが、王太子には心残りがあるかもしれない。そこで希望をと訊ねた俺に、彼は意外なことを言い出した。
「せめてディッキー殿だけでも……」
「それじゃ真実を話してくれないだろ?」
俺と王太子は二人だけで弁天島へと渡っていた。しかも智子さんやセバスチャン、それにディッキーことマウントバッテン卿を橋の向こうに残してだ。
「これで私達だけ。……さあ、私の未来を教えてくれ」
密かに護衛している隠密達も、王太子は遠ざけた。
島の東西には橋があるし、今も多くの人が渡っている。しかし王太子は、俺以外の関係者が島に渡ったら日英関係に仇なすと脅したのだ。
俺達がいるのは弁天堂の裏手で、周囲は木々も多い。隠密達には読唇術を使える者もいるが、島の外からでは無理だろう。
「未来……」
確かに俺は大きな秘密を皆に隠したままにしている。
エドワード王太子は王位に就くが一年足らずで捨て、愛する女性ウォリス・シンプソンと結婚するため国を離れる。そして彼はアドルフ・ヒトラーと親しく交流し、多くの情報をドイツに流した。
一説によれば、退位後のエドワードはドイツの力を借りての復位を望んだという。
イングランド国教会は離婚歴のあるウォリスとの結婚を認めないが、教会すら変えて彼女を妃に据える。その代わりにイギリスを親ドイツ政権にするという密約を結んだらしい。
しかし大正時代にタイムスリップした俺に確かめる術はない。そもそも彼が王となるのは1936年、ウォリスと親密になった時点ですら1931年だ。それに今の彼は、ヒトラーの名を知らない可能性すらある。
念のため、俺はセバスチャンにヒトラーの情報を集めさせている。
本来の歴史通り、ヒトラーは1921年に国家社会主義ドイツ労働者党……NSDAPの第一議長に就任した。ただしドイツ労働者党は着実に支持基盤を広げているが、まだ地方の一政党でしかない。
しかも俺が知っている歴史だと、来年ヒトラーはミュンヘン一揆を起こすが失敗して一年以上も収監される。本格的な党勢拡大は出所後、まだ彼は幾つかある過激派の一つを牛耳っているだけなのだ。
「既に私が習った歴史とは大きな乖離が生じている……残念ですが、大して役に立ちませんよ」
「本当にそうかな? 元の歴史でどういう人生を歩んだか、これだけでも充分に役立つだろう。それに使えない知識なら教えてくれても良いはずだ」
言い逃れようとする俺を、エドワード王太子は冷静な口調で封じていく。そして本気だと示すためか、彼は付け髭を外して面の全てを顕わにした。
髪の色と同様に肌も濃くしたから、本来の容貌とは多少違った印象を受ける。しかし多少の違いで王太子の威厳は隠せず、俺は思わず反論すら忘れて見つめてしまった。
「やはり私の未来には明かせない何かがあるのだな? 取り返しのつかぬ失態を犯すか、それとも……」
静かなエドワード王太子の言葉。そして押し黙ったときの表情。それらが今まで気付かなかったことを俺に教えてくれた。
鋭い眼光には、必死な色が滲んでいる。意思の強さ故と感じた凛々しい顔は、内心の揺れを隠している。
どうやら王太子は、己の未来に恐怖しているらしい。国を率いる責任を果たせず、皆の期待に背くのではないかという恐れだ。
王太子には弟アルバート、後のジョージ六世がいる。しかしアルバート王子には吃音症があり演説が苦手で、国王には不向きと思われていた。
それもあってエドワード王太子への期待は高まり、ますます彼は逃げられなくなったのだろう。しかし彼が本当に望んでいたのは、愛する人と暮らしたいという普遍的な幸せだったのだ。
「殿下……」
声をかけようとした俺だが不穏な気配を感じ取り、反射的に顔を向ける。するとそこには険しい表情をした男の姿があった。
向かって左から近寄る和装の男は右手を懐に入れたまま、更に足音を殺していた。しかし今は駆け足へと転じ、胸元に入れていた手も抜き放って凶器を顕わにしている。
そう、男は懐に短刀を忍ばせていたのだ。
「危ない!」
「なっ!?」
俺は無礼を承知で王太子を突き飛ばす。そして間を置かず凶漢に跳びかかり、左手甲で凶刃を持つ手を打った。
「くっ!」
短刀は男の手を離れて斜め上に舞い上がる。そちらは池の中で、再び彼が凶器を手にするのは難しい。
だが、その程度で安心しない。俺に武術を仕込んだのはセバスチャン、代々の隠密にして今も多くの配下を率いる忍者である。
俺は打った左手で凶漢の右腕を取ると、そのまま背負い投げの要領で投げ落とす。もちろん遠慮はせず、思い切り頭から叩き落としてだ。
しかも、まだ終わりではない。
「げえっ!」
「……意識を失ったか」
頭から落ちた後、男は仰向けに倒れた。その胸に俺は勢いよく足を落としたのだ。
正しくは踵で踏み抜いたというべきか。凶漢の肋骨が折れたらしく、鈍い響きが俺の足裏から伝わってくる。
「これも『バリツ』かね?」
「近いですが、忍者の技も混ざっています」
シャーロック・ホームズが使った架空の武術を持ち出す王太子に、俺は真実の一端を交えた。実際セバスチャンの苛烈な指導がなかったら、ここまで遠慮のない技を俺は使えなかっただろう。
「ニンジャか! セバスチャン君に教わったのかね!?」
「はい。ともかく今は警護を……ああ、来ましたね」
少年のように声を弾ませる王太子に、俺は笑顔で頷いた。しかしセバスチャン達の接近を知り、説明を後回しにする。
池に飛んでいった凶器で気付いたのか、それとも誰かが人を呼んだのか。隠密達だけではなく、野次馬らしき人々も寄ってくる。
「殿下、続きは後で……未来も」
「そうか……ありがとう」
囁きかけた俺に、エドワード王太子は笑みを深くしつつ小声を返す。
もはや密談をする状況ではない。俺は王太子と共に、マウントバッテン卿や智子さんのところに歩んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆
俺達はエドワード王太子が滞在している赤坂離宮の本館、つまり後の迎賓館へと戻った。そして俺は、奥の一室で王太子と向き合って座っている。
室内は二人きり、そこで俺は暈しつつも未来について明かしていった。
とはいえウォリスの名は告げず、会う時期も伝えなかった。
愛する女性と暮らすために王位を捨て、長く国に戻らず最期は異国で果てる。大まかに言えば、こんなところだ。
「王位より愛する人……私らしい選択だな」
王太子の驚きは少なかった。彼は自身が口にしたように、愛を選んだ未来を自然に感じたらしい。
変装は解いて元の濃い金髪と薄い色の肌、もちろん付け髭も外している。それに衣装も本来の華麗なものに戻した。
しかし柔らかな微笑みや穏やかな口調に、俺は今までとは違う姿を見たような気がしていた。
何の気負いもない表情。既に王家を捨てたように、肩の力が抜けている。どうやら王太子は、俺が思っていた以上に国王となる運命を嫌っていたらしい。
「だが、どうして教えてくれたのかね? 確かに我が国の混乱は日本にとって好ましくないだろう。それに出国した後、敵国に捕まるようなことも」
王太子には相手がドイツと教えず、どこかの国の虜囚になると匂わせた。もし彼が既にドイツに好感を抱いているなら、下手なことを言えば後押しになると思ったからだ。
そのためだろう、王太子は俺が急に心変わりした理由を量りかねたようだ。
「凶漢が襲ってきたとき、私は殿下と自身の身を守ることしか考えていませんでした。死ぬのは嫌ですし、殿下に死なれても困ります。……そのとき気付いたのですよ。守りたいものを守るために動くべきだと」
要するに俺は、自分の都合を優先させただけだ。
王位放棄は仕方がないとしても、ドイツに情報が渡るのだけは避けたい。もしヒトラーが俺のことを知れば、絶対に興味を示すからだ。
ヒトラーが神秘学に傾倒したのは有名な事実、その彼が予言者を無視するはずはない。それにタイムスリップだと知っても、未来知識を得ようとするだろう。
日英米仏の四国同盟が続いた場合、ドイツからすれば俺は敵の一人だ。つまりヒトラーが謎の予言者を拉致しようと考える可能性は高い。
まずは自己保身から、そして国益を考えても真実を隠し続けるべきだ。
「なるほど……守りたいものか。……ところで、あの暴漢だが?」
どうやら王太子は納得してくれたらしい。彼は未来についての話を終わりにしてくれた。
「少々お待ちください」
あの凶漢は見た限りだと日本人だったが、どういう背景か俺も知りたいところだ。そこで俺は席を立ち、セバスチャンを呼びにいく。
あの男は隠密達が確保した。警察官に扮した……というより警察官として働いている隠密が身柄を受け取り、密かにセバスチャン達に引き渡したのだ。
せっかく継続した同盟に水を差すような事態は避けたいし、事件を公表したら英国王太子の微行も明かさなくてはならない。そのため日英の双方とも秘匿を望んでいた。
「失礼します。あの男は民族主義者でした……それもインドの独立を支援する一派で。ただ組織から脱落しかけの小者のようですが……」
セバスチャンは珍しく憂いを面に浮かべていた。もっとも半分以上は儀礼的な意味合いからだろうが。
このころ日本はアジア各国の革命家が多数潜伏しており、その中にはインドから来た者もいる。
インドからの亡命者で有名なのはラース・ビハーリー・ボース、カレーの中村屋との関係で知られる人物だろう。彼は日本からインドの独立を支援し続けるが、そのインドを植民地としているのがイギリスである。
つまりインドから亡命中の者や支援者がエドワード王太子を狙う理由は充分以上にあるのだ。
「インドか……。知っているだろうが私は日本に来る前インドに寄った……しかし酷いものだったよ。我らイギリスを憎む者で、どこも溢れかえっていた」
王太子の顔には苦渋が滲んでいた。
イギリス国王はインド皇帝の称号を併せ持つ。そこで王太子も次のインド皇帝として訪問したが、マハトマ・ガンディーが全インド一斉休業宣言を出すなど反発は大きかった。
それらの根底には1919年のアムリットサル事件……軍による非武装市民の大量虐殺などイギリス側の苛烈な仕打ちがあり、もはや関係修復不可能な段階にあった。これを王太子は現地で痛感したのだろう、インドに関連する者の仕業と聞いても激昂することはなかった。
「あの男は日本人のようだが? それとも?」
「日本人です……しかし今のところ組織的な行動を否定していまして。エドワード王太子らしき人物を偶然発見、これを手柄に組織での地位を上げようと独断で動いた……聞き取れたのは、ここまでです」
俺の問いに、セバスチャンは肩を竦める。その様子からすると、彼は衝動的な単独犯という供述を疑っているらしい。
ただ、お忍びで王太子が博覧会に行くと知っているのは極めて僅かだ。それも昨日のア式蹴球全国優勝競技会で唐突に決まったことで、暴漢が事前に情報を入手するのは不可能だろう。
ましてや俺達が弁天島に二人だけで寄るなど、誰が予想できようか。つまり偶然遭遇したと考える方が自然だろう。
とはいえ犯人の自供を鵜呑みにするようでは、取り調べ役など務まらないのも確かだ。
「配下に会場を周らせていますが、共犯らしき者はおりません。ですから自白させるべく……」
「手荒なことはしないでくれ。もちろん日本の司法に口を挟むつもりはないが、ごく普通の未遂犯と同様に扱ってもらえたら嬉しい」
セバスチャンが拷問を匂わせると、王太子は首を振る。そして彼は自身を狙った男に対し、穏当な扱いをと言い出した。
もちろんイギリス王太子といえども日本で起きた事件に介入できない。しかし彼は控えめだが、政治犯としての処罰を望まないとまで言い添えた。
お忍びを公表したくないのもあるだろう。
しかしインド独立と絡んでいそうと知ってから、王太子は追及の意思を完全に失くしたようだ。少なくとも、俺にはそう思えた。
「……秀人、ありがとう。君にはとても感謝している……この恩は必ず返すよ」
王太子はソファーから立ち上がり、俺に手を差し出す。
穏やかな表情とは裏腹に、瞳には強い意思を示す光が宿っている。そこに俺は、暴漢の件に関しては終わりという意思を読み取った。
「いえ、当然のことをしたまでです」
俺も同様に席を離れ、王太子の手を握り返した。すると彼は笑みを深くし、どこか楽しげにも感じる顔で俺を見つめ続けた。
◆ ◆ ◆ ◆
翌日エドワード王太子やマウントバッテン卿は東京を去った。
王太子は箱根に向かい、同じく箱根宮ノ下の御用邸に赴いた皇太子殿下と交流しつつ数日を過ごした。そして王太子一行は京都や奈良、大阪と西日本を巡り、鹿児島を最後に日本を離れた。
俺は5月に入ってから、再び平和記念東京博覧会に出かけた。もちろん智子さんとの約束、二人での再訪を果たすためだ。
ただし来年の関東大震災への対策は忙しく、自由になる時間は少なかった。それに国際情勢からも目が離せない。
6月のアイルランド内戦は起きなかった。イギリスがアイルランド全体を自治領としたから、戦う理由など存在しないからだ。
マイケル・コリンズは暗殺されず、暫定政府の首相を務めている。穏健派の彼が長生きしてくれたら、イギリスとも良好な関係が続くだろう。
暗殺といえば原敬も息災で首相を続けている。ワシントン会議の成功もあり、彼の政権は当分磐石だろう。
それに陸軍大臣は尼港事件で釘を刺した田中義一、海軍大臣は共にワシントン会議を乗り切った加藤友三郎だ。大震災の前に内閣改造などする暇はないし、俺の秘密を知る人が増えすぎるのは望ましくないから個人的にも大歓迎である。
同盟の三国、英米仏の政治も安定している。
アメリカのハーディングは昨年大統領になったばかり、フランスのミルラン大統領も1924年の選挙まで務め上げるはずだ。残るイギリスは本来ならロイド・ジョージ内閣の末期で今年中に崩壊するが、ワシントン会議で東アジア権益を守り通したこともあって息を吹き返したようだ。
中華民国はモンゴルやチベットなどが国際連盟でも独立を承認され、大きく国土を減じている。日本とアメリカが支援する満州も清朝最後の皇帝溥儀を迎え、独立した。
南方でも英米仏が軍閥に少数民族を担がせ、各地を切り取っていた。そのため利権を得た各国は、程度の差はあるが全て好景気に転じている。
ただし良いことばかりでもない。
ロシアではスターリンの台頭が明確になった。しかも年末にはソビエト社会主義共和国連邦が誕生するはずで、俺達は注視しながら夏を過ごしていた。
イタリアはムッソリーニ、史上初のファシズム政権の誕生が近い。ヒトラーは本格的な台頭こそ先だが、元の歴史と同じ道を歩んでいる。そして国土を大きく削られた中華民国も屈辱に甘んじてはいないだろう。
やはり第二次世界大戦は避けられないのかもしれない。そんなことを思い始めた夏の朝、俺はセバスチャンから一通の手紙を受け取る。
「智子さん、またエドワード王子が来るようです。ただし今度は『ウィンザー公』としてですが」
「本当に弟君にお譲りになるのですね……」
俺はテーブルの反対側、智子さんの側に歩んでいく。そして彼女に手紙を渡すと、後ろから覗き込んだ。
エドワード王太子は近々病気のため王位継承権を放棄する……という名目で隠居生活に入る。彼は父王ジョージ五世の説得に成功したのだ。
ただし説得は、さほど面倒でもなかったらしい。
俺はエリオット駐日イギリス大使と彼の補佐官であるヘーグさんにも概要を明かし、王太子のサポートを頼んだ。そしてエリオットさんは、王太子が暴走しないようにヘーグさんを共に帰国させた。
一方ジョージ五世はヘーグさんからも話を聞き、自身の長男と腹を割って語り合った。元々彼は長男の華麗な女性遍歴や奔放な言動を問題視しており、せめて国や王家に傷が付かないうちにと継承権放棄を認めたという。
そしてジョージ五世はウィンザー公エドワードの静養先を日本に定めた。
これは本人の希望でもあるが、ドイツに行かせないためでもある。俺はヘーグさんを通し、ジョージ五世に警告したのだ。
要するに欧州追放だが、本人は全く気にしていないようだ。手紙にも『長い付き合いになるがよろしく頼む』などと流麗な筆致で記されている。
「次のお忍び、どちらでしょう?」
「さあ……西日本は巡ったし東北や北海道かもしれませんね。でも冬前だと……」
「伊豆あたりがよろしいのでは?」
期待を滲ませる智子さんに俺が冗談半分の言葉を返すと、セバスチャンも乗ってきた。
色々と面倒事が多かったが、楽しい時間だったのも事実だ。マウントバッテン卿もお目付け役として来るそうだし、またセバスチャンも含めた五人で出かけてみたい。
おそらく再来日は10月以降だ。俺達は暑い盛りにも関わらず、暖かな保養地を並べていった。
お読みいただき、ありがとうございます。




