13 交流(1922)
ワシントン会議を無事に終え、東京に戻って一ヶ月少々の1922年4月15日。俺、中浦秀人は相撲観戦をしていた。
場所は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町、公爵の徳川家達の屋敷。満開の桜も見事な庭の一角である。
この徳川宗家の屋敷は後の渋谷区千駄ヶ谷一丁目の大半を占め、JR千駄ヶ谷駅の南側を東西が東京体育館から国立能楽堂までという広大さで、俗に十万坪と謳われている。しかも南の三丁目に当たる場所にも飛び地があり、流石は元将軍家と恐れ入るばかりだ。
もちろん館も純和風から洋風まで様々、部屋など数え切れぬほどである。
もっとも最初は大変で、あの有名な天璋院篤姫が晩年を過ごしたころは平屋の屋敷のみだったそうだ。彼女が亡くなった明治十六年ごろまでは徳川宗家も肩身が狭く、仮に金銭的な余裕があっても館の新築など論外だったのだろう。
そのように不自由な中で天璋院が力を注いだのは次代の宗家育成、つまり家達の養育だった。彼女は家達が十歳になる前から共に暮らし、最新の教育を受けさせた。成人前の家達が足掛け六年もの海外留学をしたのも、彼女の尽力があればこそだという。
それらを家達本人から洋行中に聞いており、俺は篤姫ゆかりの地をゆっくり見て回りたかった。しかし、この日の俺は見学どころではなく、とある貴人の接待で手一杯だった。
「コテナゲ……どんな意味があるのかな?」
「小手とは肘から手首までの間、『ナゲ』は投げるという意味です。この二つを合わせて、肘などの関節を極めての投げ技だと示しております」
隣の男性の問いに、俺は可能な限り丁寧な英語で応じた。
何しろ相手はプリンス・オブ・ウェールズ、エドワード王太子である。そう、俺は訪日した王太子の相手をしているのだ。
王太子の東京滞在中、俺は時々こうやって側に侍ることになっていた。今は土俵脇の観戦席で、エドワード王太子を挟んで徳川公爵と三人で並んでいる。
エドワード王太子は三日前の4月12日から来日した。これは昨年の皇太子裕仁親王イギリス訪問の返礼で、滞在予定は5月9日までの一ヶ月近くだ。
この当時は欧州からだと片道一ヶ月半ほども必要で、大抵は長逗留だし一国や一箇所のみという例は少ない。実際エドワード王太子も日本に来る途中でインドなどにも寄ったし、来月からは京都や奈良など関西から鹿児島へと巡っていく。
もちろん各地では趣向を凝らした歓待の連続、この相撲もその一つだ。
王太子の御前で競うのは東京大相撲協会の力士達、それも横綱達も含めて十数人もいる。
しかも徳川公爵は、両国国技館から四本柱や土俵屋形まで運ばせた。このころの国技館は土俵の四隅に柱を立てて屋根を乗せるが、それを公爵は王太子を招くからと運ばせて全く同じ土俵を築いたのだ。
徳川公爵家の名をかけての大イベントだから、当然ながら観戦客は他にもいるし付き人達も多い。もちろん英国外交官のウィリアム・ヘーグさんやセバスチャンこと隠密の瀬場須知雄もいる。
しかし後ろで控えるのみの二人と違い、俺は王太子の隣に招かれた。これは王太子が強い関心を抱いたからだ。
ヘーグさんや駐日英国大使のエリオットさんは謎の予言者が俺だと知っているし、極秘情報として本国にも報告している。そうなれば次期国王たる人物の耳に入らない方が不自然だろう。
「ほう……『バリツ』の他にも色々あるのだね」
エドワード王太子が挙げたのは、シャーロック・ホームズの『空き家の冒険』に出てくる架空の武術だ。
これは武術を聞き間違えた、日本武術を学んだイギリス人がロンドンで教えた『bartitsu』が元だなど、様々な説があり判然としない。もっとも現在アーサー・コナン・ドイルは存命だから、王太子が問えば真実を教えてくれるかもしれないが。
◆ ◆ ◆ ◆
それはともかく、やはりエドワード王太子は相当なスポーツ好きらしい。今回の訪問でも皇太子殿下とゴルフをするし、他にもテニスをしたり陸上競技を観戦したりと盛り沢山だ。
このとき王太子は27歳、身長170センチと俺よりも背は低いが締まった体格で、少々顔が良すぎることを別にしたら軍服姿にも違和感はない。実際このころの王族の常として、彼は少年時代から軍人としての教育を受けている。
あまり優秀ではなかったという話もあるが、第一次世界大戦では最前線に出たいと直訴した上に空軍で飛行機も飛ばしたくらいだ。そのため決して見かけだけではなく、軍人達の間でも評判は良かったらしい。
しかし王太子が危険な場所に行くなど周囲が許すはずもなく、実際には慰問で各地を巡る程度だった。そのため余計に好奇心が募るのか、先ほどから質問が続く。
「はい。パンチやキックが中心の唐手もありますが、ホームズの技は『モリアーティ教授を投げ飛ばした』とあるように柔術が元だと思います。そして柔術と相撲には、一本背負いや内掛けのように共通する技が多数あります」
次の一番まで多少時間があるから、俺は簡単にだが相撲の技を紹介していく。
観戦席には東京大相撲協会の年寄もいるが、生憎と英語が出来なかった。そこでセバスチャンから各種日本武術を学んだ俺が、説明役を兼ねることになったわけだ。
相撲自体は見た限りだと二十一世紀と同じで、横綱が土俵入りの際に着けた化粧まわしや綱もテレビや両国国技館で見た通りだ。そのため説明自体に面倒はないし、細かいことも専門家の年寄がいるから問題ない。
ちなみに両国国技館だが、この当時は1909年竣工の初代で本所回向院の境内にあった。二代目は両国駅の北だが、ほぼ駅を挟んで反対の場所である。
このころは洋風建築が持て囃されたから、初代も大きく影響を受けている。大まかに表現するなら、ほぼ正円に近い本体の周囲に多くの細い塔が付き、屋根が薄い碗を伏せたような独特の建物だ。江戸時代に同じ土地にあった仮設の相撲小屋も円形だったから、それを模したのだろう。
いずれにしても正方形から四隅を少し切り落としたような二代目とは随分と異なるし、中も『大鉄傘』と呼ばれた天井の鉄骨トラスや円状に配された升席が目立つから似ていない。
収容人数は二代目にも勝る一万三千人。堂々たるアリーナとして誕生した初代だが、度重なる災難に見舞われている。
1917年に火災に見舞われ三年弱をかけて再建し、本来の歴史では来年1923年の関東大震災で再び焼失する。更に第二次世界大戦中は軍に接収されて風船爆弾の工場となり、東京大空襲で三度目の焼失、戦後は進駐軍が娯楽施設とした。
過去の火災はともかく、今後の災害は避けたいものだ。震災を乗り越えて昭和を迎え、その後もワシントン会議で結んだ四国同盟を活かして繁栄を維持する。そして何十年も相撲の殿堂として栄えた後に、二代目へと引き継ぎたい。
「ひが~しぃ~、おお~にぃ~しきぃ~。にぃ~しぃ~、とち~ぎぃ~や~ま~」
結びの一番は、横綱同士の対戦だった。といっても見上げるような巨漢ではなく、大錦が身長175センチで俺と同じ、栃木山は172センチだという。
体重は大錦が140キロほど、栃木山は100キロ少々だそうだ。2010年代の大相撲だと大錦でも幕内の平均体重を20キロは下回り、栃木山は一人いるかいないかの軽量力士だろう。
力士達の中には180センチを超える者もいるが、平均身長は両横綱くらいだという。まだ男性の平均身長が160センチほどだから、この二人でも頭半分以上は高いのだ。
「ヨコヅナ……チャンピオン達だけあって随分と鍛えているようだね」
「ご明察、恐れ入ります。……大錦は幼いころから運動万能、陸軍幼年学校を目指したそうですが体重超過で諦めたとか。栃木山は小さいころから山から岩を運ぶ仕事をしていたそうです。きっと双方とも、幼少から励んだ賜物でしょう」
王太子の呟きに応じると、どういうわけだか彼は俺をまじまじと見つめる。まだ仕切りに入ったばかりとはいえ、今までなら力士達から目を離さなかったはずだ。
エドワード王太子は笑うと朗らかで親しみやすい印象だが、こうなると王族らしい気品が強まり大袈裟に言えば別人のようだ。
しかも濃いブロンドは陽光を受けて王冠のように煌めき、青く綺麗な瞳は射抜くような光を宿している。
「……そうか、もっと色々教えてくれ」
「お言葉、光栄です。……そろそろ取組が始まります。
大錦の得意は左四つ、重さを活かした吊りや寄りが見事です。対する栃木山は軽量ですが、鋭い出足で補った押し相撲は天下一品です。同部屋なので本場所では対戦しませんが、軽い栃木山の方が技量は上だそうで……稀なる名勝負になるのは必定かと」
しばしの後、エドワード王太子は先を促す。そこで俺は疑問を一旦置き、解説を続けていった。
これらの知識だが実は付け焼き刃で、セバスチャンや年寄から大急ぎで教えてもらったものだ。
接待役に関してはワシントン会議から戻って幾らもしないうちに打診があり、四月の頭には居候中の閑院宮邸に力士達を招いて取組を見せてもらうなどした。そのため初見ではないが、内心では少々怪しく感じてもいる。
きっとセバスチャンは笑い出したいのを堪えているだろう。彼は後ろだから見えないが、俺は強い確信を抱いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
翌日の朝、閑院宮邸の離れ。俺は自身が住み暮らす西洋風の建物で、いつもの如く婚約者の智子さんと共に食事をしていた。
ただし二人きりではない。例によってセバスチャンを始めとする宮家の使用人達が控えており、食事と会話を楽しんでいるに過ぎない。
「……予想通り、栃木山が押し出して勝ちました。まさに重ねた鍛錬の勝利ですね。王太子殿下も大いに喜ばれ、じかに賞賛の言葉を授けたほどです」
もちろん話題はエドワード王太子との相撲観戦だ。この日は日曜日ということもあり、俺は細々したことまで触れていく。
「まあ……それは栃木山も喜んだでしょう。秀人様が通訳なさったのでしょうか?」
一方の智子さんだが強い興味を感じたらしく、瞳を輝かせる。父君が軍人ということもあり、智子さんを含む家族は両国国技館で何度も観戦したそうだ。
相撲は維新後、西洋化に反するとして批判の対象となった。しかし明治天皇の庇護により国技としての地位を確立したから、宮家にも好角家は多いようだ。
「ええ。ですが殿下は少し日本語も学ばれたようです。栃木山に『アッパレ。ミゴトデアッタ』と声をかけましたよ」
残りは俺が通訳したのだが、これは少々驚いた。
とはいえ二十一世紀に残るエドワード王太子の記録からすると、さもありなん、とも思う。今回の訪日だけでも人力車の車夫に扮したり鎧兜を着けてパレードしたり、かなり好奇心旺盛で気さくな人柄だったと窺える逸話が多数残っているからだ。
そもそも、あの『王冠を賭けた恋』で有名な人物である。
エドワード王太子は長く独身を保ち、華麗な恋愛遍歴を重ねた。しかし彼は三十代も半ばを過ぎてから、妻としたい女性に巡り合う。
相手はアメリカ人のウォリス・シンプソン、三十代半ばで夫までいた。それでも王太子は離婚させ、自身の妻に迎えようとする。
これに猛反発したのがイングランド国教会だ。彼らは離婚を禁じているから再婚を認めるわけがないし、父のジョージ五世も含め王室も反対する。
その結果、1936年に王位を継いでエドワード八世となったときも独身で、即位式でもウォリスは単なる立会人としての列席だ。そして不本意な状態が続いたのが堪えたのか、彼は一年もしないうちに弟に王位を譲って国を去る。
このようにエドワード王太子は破天荒な人物だが、一方で庶民と積極的に交流して労働者階級の救済にも力を注いだから人気は非常に高い。しかも日本のみならず多くの国を巡り、英連邦の最高の大使と称されてもいる。
ウォリスとの愛に生きると、全てを投げ打つまでは。
もっとも、これらは今後の出来事だから語れない。そこで俺は余計なことに触れる前に、話題を変えることにした。
「ワンピース、とてもお似合いですよ。この前のチェックの柄の服もお似合いでしたが、こちらも少女らしくて素敵です」
「まあ……ありがとうございます」
俺の言葉に智子さんは薄く頬を染めた。今着ているピンクのワンピースのように。
智子さんが着ているのは、俺がワシントン市で買ってきた服だ。
この季節に相応しい桜色の地で、胸にはワンポイントのリボン。襟がセーラー服のように肩まで広がっているから、女学生らしい感じだ。
腰にはベルトを模した別布、裾にはポケットも付いている。どうも流行らしく、買ってきた服の中には似たデザインのものが他にもある。
そう、俺は十何着もの服を智子さんに贈っていた。宮家の人の分も合わせると二十何着か買ったはずだ。
何しろ片道二十日、比較的近い西海岸でも半月ほどだ。そう簡単に行ける場所ではないから、殆どの人は大量に土産物を買って帰る。
家族や親戚、世話になった人々。服は合わなかったら困るから、事前に好みや寸法を聞いていくという念の入れようである。
俺が土産を渡す相手は智子さん達だけだが、中には故郷の有力者や恩師を始め数十人分という者もいた。幸いというべきか滞在期間は三ヶ月もあるから、俺達は合間を縫ってデパートに通ったものだ。
「三越なども色々取り揃えていますが、やはり本場には敵わないようです。秀人様に頂いたお洋服、どの品も今まで見たことがありませんもの」
智子さんは俺の土産をとても大切にしており、週に一つしか卸さないらしい。もちろん最初に試着したそうだが、確かめた後は大切に仕舞っているという。
まさに舶来品という扱いだが、簡単に手に入らないのは事実だ。
実際に使節団の皆は服以外にも電化製品などを買い漁ったし、俺も無線機など今後の技術発展に役立ちそうなものを仕入れてきた。まだ日本が遅れている分野は幾らでもあるし、洗濯機など日本製が存在しない家電も多いからだ。
ただし俺が買ってきた服は、あくまで普段着に過ぎない。上流階級向けだが、二十一世紀的に表現するなら良くてカジュアルドレスといった位置付けだろう。
「春に相応しい色です、どんどん着てください」
そこで俺は、もっと日常的に着てほしいと伝えた。数多く贈ったのも、気軽に使いまわせるようにと考えたからだ。
大震災への備えとして国も和服から洋服への転換を勧めているし、実際に街でも増えてきた。それに智子さんが通っている女子学習院も、来年度から洋式の制服に変えるか検討中だという。
それに早く他の服を着た姿も見たい。週に一つしか披露してくれないから、まだ半数にも満たないのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「はい、そうします。……今日の観桜会ですが、王太子殿下の側に侍られるのでしょうか?」
俺が桜色に触れたからだろう、智子さんは午後の予定へと話を転じた。
この日は十五時から新宿御苑で花見がある。これは皇室主催で、当然だがエドワード王太子を始めイギリスからの使節団も招かれている。
智子さんも招待されているが、当主の載仁親王のように皇太子殿下の側に並ぶことはない。したがって俺が王太子の供を務めるなら離れ離れとなってしまう。
「いえ、今度の日曜日のア式蹴球全国優勝競技会の準備が忙しいからと勘弁してもらいました。だから一緒に回れますよ」
アソシエーション・フットボールの全国競技会、つまり後のサッカー天皇杯に相当する大会も王太子歓迎の一環だ。そこで俺は、実行委員に近い立場で準備に時間を割いていた。
このア式蹴球全国優勝競技会の優勝カップはイギリスから寄贈されたFA杯で、これを王太子来日に合わせなくて何とする。そう俺は主張し、本来秋の大会を春に持ってきた。
昨年の極東選手権も五月末から六月頭にかけての開催だったから、国内大会を手前の四月にすれば選抜会にもなる。将来誕生するワールドカップも六月や七月だから、春大会にした方が長期的に良いと考えたのだ。
このころ多くの学校は四月始まりを採用しており、学生チームが不利という意見もあった。しかしイギリスがFA杯を贈った背景には、王太子訪日に華を添える意味もあったに違いない。
そこで同盟国の次期君主を呆れさせるのか、日本の外交力の低さを露呈して良いのか、と押し切ったわけだ。
「そうでしたの」
智子さんは笑みを増す。
観桜会は大勢の人が招かれているし、一緒に巡れるといっても二人きりには程遠いだろう。しかし、こうやって喜んでもらえたら俺としても非常に嬉しい。
「これが終われば暇になりますよ。そうしたら東京博覧会に行きましょう」
帰国直後に載仁親王から勧められた平和記念東京博覧会見物だが、先延ばしになっていた。エドワード王太子の件もあるが、まだ準備中の催し物も多いから様子見としたのだ。
ただし智子さんは相当に期待しているらしく、俺の言葉を聞いて更に顔を綻ばせる。
この四月、智子さんは女子学習院の本科後期の最終学年に進級した。彼女は数えで十七歳、満年齢で十六歳だが、女子学習院の本科は前期四年、中期四年、後期三年なのだ。
そのため四月から智子さんも忙しく、なかなか都合が合わなかった。本科の最上級生だし、高等科に進学することも決まっているから勉強も大変らしい。
しかし五月に入れば学校行事も一段落するそうだし、俺の方もエドワード王太子が東京を離れるから時間が空く。次の大事件は来年九月の関東大震災で、そこに注力する予定なのだ。
「なんでも染織館が見事だそうですよ」
「ありがとうございます。でも秀人様のご説明で電気工業館や航空館も巡ってみたいと思います」
俺がファッション関連のパビリオンを勧めると、智子さんは科学技術も嫌いではないと返した。
おそらく俺への配慮なのだろうが、どちらの好みも取り入れるのが良いだろう。そこで俺達は双方ともジックリ見ていこうと約束する。
「博覧会、一日で周りきれるでしょうか?」
「時間が足りなかったら、また行きましょう」
気遣わしげな智子さんに、俺は大丈夫だと頷いてみせる。
博覧会の開催期間は百四十日少々で、その間に延べ一千万人が来場したという。つまり一日の平均入場者は七万人を越えているし、延べ人数からすると多くの人は何度も訪れたはずだ。
このころ日本の人口は五千五百万人ほどだが、交通機関が未発達な時代だから全国から押し寄せたとは思えない。それに東京府ですら四百万人に少し足りない程度、九十数年後の東京都の三割弱である。
来場人数だけなら、この当時の万博と比べても引けを取らない。
七年前のサンフランシスコ万国博覧会の来場者は一千九百万人弱だが、向こうは既に一億人を超えている。したがって人口差を加味したら、東京博覧会も同規模と称して良い。
それに1900年のパリ万博は別格で五千万人近かったが、その後はアメリカを除けば一千万人前後か下回る程度なのだ。
智子さんが一大イベントと関心を寄せるのも、極めて自然なことである。
「これはセバスチャンに取り寄せてもらった写真帖と地図です。ああ、大丈夫ですよ。建物の外観と見どころの解説を載せているだけですから」
立ち上がった俺は、ガイドブックとして入手した品々を手に取った。そして智子さんの側に回ってテーブルに地図を広げ、同じく置いた写真帖を順に捲る。
この平和記念東京博覧会写真帖は百ページを超える立派なもので、写真を眺めているだけでも面白い。
モノクロなのが残念だが、カラーフィルムのカメラが実用化されたのは1935年ごろである。カラー乾板は登場しているが、まだ気軽に扱えるような代物ではないのだ。
「これが染織館です……ご婦人の目を細くさせる反物が沢山あると書いてありますよ。それに別館もあって、こちらは洋服も多いようです」
「マネキンに着せて飾っているのですね……三越や高島屋も、それに白木屋も出しているのですか」
俺が示したページの説明書きを、智子さんは読んでいく。
開会前の発行だから写真は建物や外に置かれた彫像などで、文章から展示物を想像するしかない。だからこそ、こうやって事前に見せたわけでもあるが。
「……そうだ、せっかくの卸し立ての服だから、写真に収めておきましょう。庭の桜も綺麗ですし、あれを観桜会で出すわけにもいきませんから」
しばらく二人で写真帖や地図を眺めつつ語らったが、俺は他にもすべきことがあると気付いた。智子さんが着ているのは桜と同じ色の服だから、一緒に写したら更に映えると思ったのだ。
智子さんにはスマホを見せたし、写真に撮ったりもしている。印刷できないからスマホが壊れたら終わりだが、使えるうちに使っておくべきだと俺は割り切っていた。
「よろしいのですか?」
俺の誘いに、智子さんは恥じらいながらも強い興味を示す。もしかすると彼女も、せっかく新しい服を着たのだからと思っていたのだろうか。
「もちろんですよ。さあ、庭に行きましょう」
立ち上がった俺は、外に出ようと手を差し出す。すると智子さんは嬉しげな笑みを浮かべ、俺の手を握り返した。
この離れは完全な西洋館で、俺達は靴を履いている。スマホは胸ポケットに収めているから、準備は腕を組んで寄り添うのみだ。
大正時代の気温は二十一世紀より数℃も低いようで、桜の開花時期も一週間以上は遅い。したがって閑院宮邸の庭も見ごろで、しかも今日は晴天である。
そよぐ風も優しく、桜の下に入ったから日差しも和らいだ。俺は僅かに桜の色に変じた光の中、浮き立つような気持ちで智子さんへと顔を向けた。
智子さんも俺を見つめている。真っ直ぐに俺を見つめ微笑む彼女は、お付きのセバスチャン達がいなければ抱きしめたいくらいだ。
「セバスチャン……」
まずは一緒に撮ってもらおうか。
そう思った俺は、セバスチャンに頼もうとした。しかし振り向いた先には、誰もいなかった。
「気を利かせてくれたのかな……」
「まあ……」
俺の言葉に、智子さんは思わずといった様子で笑みを零す。
「智子さん」
「はい……」
せっかくの計らいなのだ、ありがたく受け取ろう。俺は湧き上がった感情のままに動く。
智子さんを抱き寄せると、彼女は潤んだ瞳で見つめ返す。とても近い、吐息すら届く距離で。
そして次の瞬間、僅かな空間も消え失せた。満開の桜の下で、俺達は将来を誓ったのだ。
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