01 タイムスリップ(2017→1920)
昭和の日、つまり5月も近いというのに少し涼しい昼下がり。でも今の俺はスーツで急ぎ足だから、ちょうど良いくらいだ。
もっとも、ここ横浜国際総合競技場のサブグラウンドでは、少し目立つ。
試合が1部リーグで平日夜のメインスタンドなら、少し気取ったサラリーマンも多少はいるだろう。だけど場所に加えて祝日の昼、しかも観戦するのは女子の2部だ。そのため会社帰りってことはないし、観客自体が少ないからな。
しかも俺の服には、もう一つ目を惹く理由があった。
「秀人~。スリーピースなんて、お前だけだぞ?」
「中浦さん、なんでサッカー観戦にスーツなんですか?」
競技場に着くなりサークル仲間が俺を冷やかす。
俺……中浦秀人が着ているのは、英国紳士風のスリーピース・スーツだ。昔風に言うなら『三つ揃え』ってヤツだよ。
確かに休みの日に大学生が着るもんじゃないよな。ヒデさんの裾出しインナーにダメージ系のジーンズとジャケットの方がTPOを弁えていると俺も思う。
「土曜の午前中は英国史ゼミを取っていてですね……そこの教授が変わり者で、男はスーツ着用なんです。なんでも英国史は英国紳士にしか理解できないって……授業も出来るだけ英語を使うんですよ」
名物教授なんだけど、ヒデさんやマーちゃんは別の大学だから説明が必要だ。
俺が入っているのはインカレサークル、つまり他の大学の学生もいる。それにサークル仲間と言ってもヒデさんは年上だしマーちゃんは知り合ったばかりで女の子だから、俺は少しだけ丁寧にゼミの様子を語っていった。
ここ横浜は、昔からイギリスと縁が深い。そして俺は横浜育ちだから、そういった歴史も学校で学んだし随所で触れてきた。そのため俺は自然とイギリスに興味を持ち、大学の授業でも近代英国の歴史や文化を多く選択した。
そしてイギリスといえばサッカーの本場で、実は日本のサッカーの歴史にも大きく関わっている。なんと大日本蹴球協会、後の日本サッカー協会の創設は、イギリスの駐日外交官ウィリアム・ヘーグさんの尽力があってのことなんだ。
一方で俺は小さなころからサッカーに興味を持ちプレイしたし、大きくなってからは地元のサッカークラブを男女どちらも応援するほどハマった。そのため自分が好きなスポーツの原点がイギリスから来た人達によると理解し、余計に感謝したわけだ。
もちろん俺のサッカー史まで語りはしない。俺が話したのは、あくまで教授が英国紳士マニアということと、横浜育ちの俺がイギリスに親しみを持っていたからゼミに入ったことだけだ。
「まずは形からっていうのは分からないでもないが、強制は迷惑だな。それに祝日まで授業するのも」
「でも似合っていますよ、中浦さん背が高いから!」
「ゼミ自体は凄く面白いですよ。……マーちゃん、高いって言うけど175センチだよ? もう少し身長が欲しかったな……」
俺は嫌そうな顔をするヒデさんに教授の弁護をし、マーちゃんには背が欲しいと嘆いてみせる。
昔は180センチくらいあればサッカー選手として有利だろうと思ったが、今は趣味だから何センチでも構わない。それに大学受験以降は勉強にシフトしたし、こうやって好きなときに応援する程度だ。
競技場が家から歩いていける場所にあるから頻繁に通っているが、それも半分はサークルで交流するためだ。スポーツ観戦とコネクション作りを兼ねてって感じだよ。
気が向けばフットサルくらいはするけど、プロを目指すなんて子供のころの夢だけ。それがプレイヤーとしての俺だった。
◆ ◆ ◆ ◆
そんな緩い雑談混じりの観戦も終わり、俺達はサブグラウンドを後にした。そして横浜国際総合競技場を目にしながら歩いたからだろう、俺達の話は自然と来年のワールドカップとなる。
「予選通過は出来るだろうけど、そこからがな……」
「世界の壁は厚いですね……歴史の長さも違いますし。そういえば、第一回っていつなんでしょう? 男子の前大会は二十回目ですけど、戦争で中断したときもありましたよね?」
「1930年だよ。それとマーちゃんの言うように第二次世界大戦で二回飛ばされた」
俺はサッカー史の一端を披露する。第一回は昭和五年、そこから4年ごとに昭和九年、十三年までは開かれた。でも、その後は1950年のブラジル大会、つまり昭和二十五年だ。
「そのころ日本サッカー協会はあったんですか?」
「名前は違うけど1921年に協会が設立された。ここ横浜にも縁のあるウィリアム・ヘーグさん、当時の英国横浜副領事や、彼と同じイギリス人が尽力して日本にサッカーを広めたんだ」
意外にもマーちゃんが興味を示したので、俺は少し細かく当時の状況を説明する。
ヘーグさんは1913年から通訳研修生として来日し、その後は正式に外交官として日本で働いた。そして一方で彼は、日本人にサッカーを教えたんだ。
ただし、これはヘーグさん個人としてではなく、英国大使館チームまで結成するという公務に近いものだった。当時は日英同盟を結んでいたから、文化交流で結束を強くする意味もあったんだ。
そして1918年には英国大使館杯争奪リーグまで行われ、そこには東京高等師範学校など錚々たる学校やそのOBによるチームなどが加わった。ちなみに当時の東京高師の校長は、あの嘉納治五郎というから、それだけでも凄さが伝わってくる。
更に1919年、大正八年当時でいうところのグレートブリテン及びアイルランド連合王国……ただし面倒だからイギリスと呼ばせてもらうけど……からFA杯が寄贈された。
「フットボール・アソシエーションって、あのイングランドのサッカー協会ですよね!? 最古だからって国名はつけないっていう!」
「そうだよ。ちなみにそのとき寄贈されたFA杯を争って戦うのが、今でいう天皇杯だ」
驚くマーちゃんに俺は頷いてみせた。
そもそも大日本蹴球協会は、このFA杯が契機で誕生した。まだ全国を統括するサッカー協会がなかったから、寄贈されたFA杯を日本体育協会の会長を務める嘉納治五郎が一時的に預かった。
しかし嘉納治五郎は同時に急いで蹴球協会を作れと日本側の関係者に発破をかけた。それもあって二年後の1921年に大日本蹴球協会が誕生するが、そこまでにはヘーグさんも多大なる協力をしたという。
「その功績を讃えて日本サッカー殿堂に掲額されたんだよな?」
「ええ、2008年です」
ヒデさんが言うように、ヘーグさんは殿堂入りしている。
ヘーグさんは、とある事情で日本に骨を埋めることになった、ある意味非常に特別な人だった。もっとも殿堂入りは、純粋に外交官としてのスポーツ親善活動からだと思う。実際ヘーグさんは母国イギリスでも日英親善への功績を高く評価されているから。
「秀人、方向が違うんじゃなかったか?」
「あっ、そうですね! それじゃ、俺はここで!」
皆は市営地下鉄の新横浜駅を使うけど、俺は徒歩で家に帰るし逆方向だ。そこで俺はヒデさん達に挨拶し、一人だけ小机駅方面へと向かった。
しばらく俺は歩いたが、ふと何かが聞こえたような気がして足を留めた。しかし周囲に人はいないし、車が迫っているわけでもない。そのため俺は、再び歩き出そうとする。
しかし次の瞬間、俺は今まで経験したことのない異様な感覚に襲われ、意識を手放してしまった。
◆ ◆ ◆ ◆
気が付くと、俺は一面に広がる田んぼの畦道に立っていた。今までと違って周囲は緑ばかりで、その向こうに低い木造の建物が見える……そして手前側、俺の間近にあるのは線路だった。
言い方は悪いが、もの凄い田舎のような単線だ。しかも少し左には駅らしき建物があるが、平屋で木造の壁に低い傾斜の三角屋根ときた。まるで昔の映画の中に出てくるような、と表現しても良いくらい時代がかっている。
おまけに線路には架線がない。もしかすると、あそこを走るのは電車以外なのか?
「……まさかな」
タイムスリップでもしたのか? それとも小さいころの記憶が元になった夢だろうか。
しばらくの間、俺は周囲を見回したり宙や地面を探ったり自分の頬をつねったりした。しかし夢ではないようで、元の景色に戻りはしない。
このまま立ち尽くしても仕方がない。そう思った俺は乾いた笑いを浮かべながら駅らしきもの……おそらくは横浜線の小机駅に向かって歩き始める。
近くの生まれだから判るが、あそこは小机駅があるはずの位置……それに線路も同じように走っているらしい。ただし横浜線なら、戦前には電化していたはずだけど。
しかし、ここが元と同じ場所なのは間違いないようだ。建物が無くなり田んぼになって視界が開けたお陰で、地形から容易に推測できた。
俺は後ろ……西側を振り返る。たぶん、あれは小机城址市民の森だ。木々で覆われた小高い丘の形には見覚えがある。北側のだいぶ先には土手があるが、その向こうは鶴見川だろう。
確か小学校や中学校あたりで見た昔の写真も似たような風景だった。そのため俺は、ここが遥か昔の同じ場所だと思ったわけだ。
しかし俺は平成生まれで、直接見た歴史的なものといえば関内などに残っている建造物くらいだ。それなのに写真で見ただけの場所を、これほど明瞭に想像できるだろうか。
第一、いくら夢で再現されたとしても、この草の匂いはリアルすぎるだろう。そこまでハッキリした夢なんて見たことはない。
歩く間に、俺は自分の格好や持ち物を確かめてみる。服は変えようがないとしても、怪しげなものがあればカバンに入れた方が良いと思ったからだ。
幸か不幸か俺が持っているのは革製のカバンだけだった。後は左右の内ポケットに入れた財布とスマホだが、これはカバンに仕舞いなおす。仮に戦前なら、どちらも人に見せるわけにはいかないから。
「電源も切っておくか。長持ちさせなきゃ……」
ACアダプタはあるけど、いつ充電できるか判らない。そもそも電化がどこまで進んでいることやら……おっと、腕時計も外しておくか。仮に大正時代くらいなら国産の腕時計もあったはずだけど。
「時計を売れば当面生活できるかな……」
すぐに戻れるという甘い考えを、俺は捨てていた。そうホイホイとタイムスリップや別世界への移動ができるなら、世界中の人が消えたり現れたりするだろう。それなら理屈は分からなくても、実際の現象として広まるはずだ。
ならば周知の事実とならない以上、戻る機会があるとしても天文学的に低い確率に違いない。
大した距離じゃないから、いくらもしないうちに俺は駅らしき建物に到着する。
正面には『駅机小』と書かれた看板が掛かっていた。いや、昔だから右から読んで『小机駅』だよな。やはり戦前、つまり昭和二十年より前なのだろうか?
覗いてみると、学生服と学帽に似たものを身に着けた若い男がいた。おそらく駅員さんだろうな。
「すみません」
この駅員さんらしき人、俺より10センチ以上は背が低いな。随分と小柄だが、もし昭和の初めなら平均的な身長かもしれない。そんなことを考えつつ、俺は話しかける。
とりあえず、今がいつなのか知りたい。
既に夢という可能性は捨てていた。来る途中で雑草をむしったり土を手に取ったりしてみたが、現実としか思えなかったからだ。
元の時代か世界か分からないが、現実なら戻る手段を見つけなくては。その第一歩は場所と時代を特定することだと、俺は考えたんだ。
「どうなされました? 何かお困りでしょうか?」
お客さんがいないせいか、小柄な男性は改札を兼ねた部屋から出てくると、やけに丁寧な口調で応対してくれる。
……英国紳士風のスリーピースなんて着ているから、名家の坊ちゃんとでも思われたのかな。戦前なら華族がいるから、充分にありえるだろう。
「ここは横浜市だろうか?」
ならば穏便に話ができるうちに、と俺は何気ない様子で語りかける。
いきなり年月日を聞くと怪しまれるだろう。それに対し場所であれば、道に迷ったとか誰かに連れてきてもらって良く知らないとか言い訳のしようがあると思ったんだ。
「いいえ、城郷村でございます。横浜市は南ですが、この小机駅からの鉄道院横浜線で繋がっております」
城郷村とは……確か俺の記憶が正しければ、城郷村の誕生は明治二十二年で横浜市に編入されたのが昭和二年だ。すると明治や大正の可能性が高いのか……。
いや、他にも手掛かりがある。『鉄道院横浜線』とされたのは大正六年、つまり1917年だ。だったら、そこから1927年までってことか。
「鉄道院横浜線か……何年前からなのかな?」
俺は独り言を装って呟く。
どうも、この駅員さんは俺を華族だと思っているようだ。それなら多少しつこく質問しても答えてはくれるだろう。
逆に子供でも知っていること、『今日は何日か』などと訊くのはマズイ。不審に思われて『お屋敷にお送りしましょう』などと言われたら詰んでしまう。
「二年半でございます。大正六年十月一日からですので」
年数なら二年とも三年とも言える微妙な期間だからか、駅員さんは正確を期したようだ。しかし、おかげで今が大正九年四月だと判った。これは大きな収穫だ。
しかし1920年か……だったら打つ手があるかもしれない。
「ありがとう、それでは失礼するよ」
「お役に立てて光栄です」
俺が教授に習ったように英国紳士らしく歩むと、駅員さんは最敬礼をする。
これがヒデさんのように裾出しインナーにダメージジーンズ、同じくダメージ系のデニムジャケットじゃ不審者として警吏を呼ばれたかもしれない。俺は密かに英国紳士マニアの教授に感謝をした。
◆ ◆ ◆ ◆
俺は歩いて横浜市の中心部を目指すことにした。直線距離なら横浜駅まで5キロメートル程度、そして県庁でも8キロを切る。もちろん真っ直ぐ進めないだろうが、それでも無賃乗車にチャレンジするよりマシだ。
それに向こうに行けば、当てはある。横浜副領事を務めているはずのウィリアム・ヘーグさんだ。
実は、この後ヘーグさんには大きな災難が降りかかる。1923年の関東大震災で、彼は横浜領事館の倒壊により命を落とすんだ。
このことは横浜開港資料館、かつての横浜領事館で紹介されているし、そこにはヘーグさんや同じく命を落とした三人の名が記された銅板プレートも展示されている。
それにワールドカップがある年などは、ヘーグさん達に関する企画展も開かれる。だから横浜市民なら知っている人は多いんじゃないかな。
要するに、俺はヘーグさんを助ける代わりに後ろ盾になってもらおうと思ったんだ。いわゆる歴史改変なわけだが、理由は幾つかある。
最大の理由は、元の時代への帰還が極めて困難と思われるからだ。
俺は小机駅を去ってから自分が出現したらしき場所を再び調べた。しかし一時間ほど頑張っても何の異常も発見できないし、通り掛かる人達に不審そうな目で見られるだけだった。予想はしていたがタイムスリップは極めて稀な現象で、そう簡単に発生しないらしい。
そのため俺は当面こちらで暮らすしかないが、見たこともなく、戸籍もなく、金もないという男を匿ってくれる人がどれだけいるだろうか。何らかのメリットがなければ、普通は関わらないようにするだろう。
やはり藁にも縋りたいと思うだけの困難があるか、俺が明らかな対価を示せる相手を探すしかない。しかし、これは適切な相手をなかなか思いつかなかった。
まず俺の先祖だが、父方も母方も戦後になって関東に来た。そのため先祖を訪ねて、というのは無理だった。もっとも先祖だから助けてくれるとも限らないだろうけど。
そうなると近いうちに大きな災いがあり、それを俺が教えることが可能で、しかも現時点での居場所を知っている相手となる。それに助けたことを恩に着てくれると期待でき、俺が助けたいと思える相手だ。
そして俺が思いつく限り、ヘーグさんは最も条件を満たしていた。
地震が起きる日時は俺が何をしようが変わらないから絶対に当たるし、助けるのも屋外に避難させたら良いだけだ。場所は明白、そして近い。
後に顕彰されるくらいの人物で人柄も良いという逸話も残っている。最後は私的な感情だが、俺の好きなサッカーを日本で広めてくれた人だ。
もっともヘーグさんはイギリス人だから、早めに日本の知人を作るべきだろう。だが、その意味でも駐日外交官でスポーツ交流もしている顔が広い人物は望ましかった。
「上手くいけば、大震災の被害自体を減らせるかもな……ヘーグさんとの交渉次第だけど先々蹴球協会の重鎮となる人を紹介してもらい、そこから政府の伝手を……」
いつの間にか、俺は思いつきの一端を口に出していた。幸い周囲は人気のない畑道だから、盗み聞きされる心配はない。
こうして俺が歩いているだけで、バタフライ効果とやらで歴史が変わってしまうかもしれないんだ。それに、さっき駅員さんと話したことだって。
ならばヘーグさん以外も助けたい。一人を助けるか、十万人を助けるか……元の時代に戻れない可能性が高いなら、遠慮は無用だ。こうなったら関東大震災の死者十万人を、可能な限り減らしてやる。
それと戦争にも手を打とう。大正九年四月なら……俺は覚えている限りの歴史的事件を頭の中に並べていった。
歴史を変えて空前の悲劇を回避する……壮大な夢想による高揚は、遠い過去に流された俺の絶望を紛らわせてくれた。そして上向いた気持ちが良い方向に働いたのか、俺の頭の中には奇想天外というべき幾つかの計画が生まれていく。
そのためだろう、横浜領事館を目指す俺の足取りも自然と軽やかになっていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は2017年4月30日(日)12時の更新となります。