Odo(匂い)
エミリアの部屋に降り注ぐ陽光。時刻は間もなく十時。
書き上げた家計簿を、棚に戻したエミリアの姿はその陽光すら陰ってしまうほど、暗い影が差す。
「エミリアメイド長、居るかい?」
扉を叩いた主の声に、エミリアの胸は高鳴った。
それと同時に、こんな顔をしている自分を見せていいものかと、決めかねる。いっそ、居留守にしてしまおうかと思ったエミリアだったのだが、なぜか返事をしてしまう。
「開いております、旦那様」
ギィと軋んだ音を立てて扉が開く。
「気分はどうだい?朝方、調子の悪そうな顔をしていたから、心配でね。リンベルに聞いたら、少し休んでいると言っていたし」
「申し訳ありません、旦那様。リンベル執事長に少々甘えてしまって。ですが、問題ありませんよ」
少し視線をはずして話す。
やはり、エドガーを確りと見据えて話すことは今のエミリアにとってはとても難しいようだ。
「いいや、顔色が悪い。熱はないのかい?」
「えっ、ちょっと・・・だ、旦那様」
エドガーは額の髪をかきあげると、エミリアの額につけた。息がかかる。
突然の出来事で困惑するエミリアの顔は、赤色の絵の具を塗りたくったかのような色をしていた。
「旦那・・・様、お顔が・・・」
どうにか絞り出した声は、震えている。
「あっ・・・あぁ、すまない。気安く触れてしまった。気を悪くしたかな」
「いっ、いえ!お気になさらず」
両手で、真っ赤に染まった顔を必死に隠す。
「すまない。昔、父にやってもらった記憶があるんだが、女性と男性とではどうも違うな」
エミリアは、指の隙間からエドガーを見た。
そこには、照れてほんのり赤い顔をしながら後頭部を掻いているエドガーの姿があった。
そんなエドガーの姿に、ますます顔が熱くなるエミリア。
「最近、根を詰めすぎてるせいかな」
「いえ、私はメイドの長なので当たり前です」
相変わらず、直視は出来ていないが、どうにか平静を保とうとするエミリア。だが、声にその説得力はなく、少し掠れている。
「それがいけなかったのかもしれない。君は、責任感が強いあまり自身を蔑ろにしてしまう癖がある」
「旦那様は人をよく見ていらっしゃる。そんな貴方様にお仕えできるだけで私は幸せです」
不格好な作り笑い。
本当は、今すぐにでも抱き付いて愛を囁いてしまいたいほどなのに。
そんな想いに嘘をついていた。
「メイド長、午後の職務は代わりのメイド達にやってもらうことにしよう。皆、快く引き受けてくれるだろうし」
エドガーがそう提案すると、エミリアは不安になった。
体調を崩した役立たずは大人しくしていろと言われているかのように思え、顔がこわばる。
ただの、被害妄想なのだが。
「その代わりと言ってはなんだが、君にしか出来ない仕事を頼みたい・・・いいかな?」
「えぇ、構いませんが・・・一体なにを?」
「それは、ランチの後の楽しみにしておいてくれ」
清々しい笑みを浮かべたエドガーだったが、不安から解き放たれたエミリアにその顔を気にする余裕は無かった。
不安を払拭したのと引き換えに、先程のエドガーの顔を思い出してしまうエミリア。再び真っ赤に染まる顔。
エドガーの、艶やかに垂れる漆黒の髪。
宝石のように輝く瞳。
至近距離で感じた、息づかい。
そして。
(まだ、エドガーの匂い・・・残ってる。)
ホワイトブリムについた微かなエドガーの匂いに、恍惚の表情をうかべている。
エミリアは、そのブリムを胸元に抱いて、余韻に浸っていた。
その束の間の余韻は、エミリアをより苦しめた。
もっと触れていてほしい。
そんな、独占という欲が渦巻き、体ごと呑み込まれてしまう快楽。
本来は、仕えることに喜びを感じていたエミリアだったが、今はそれ以上を望んでいる。
(でも私は、この想いに蓋をする)
苦渋の表情を浮かべたエミリア。
しかし仮に、この想いを打ち明けても、邪魔をする者は誰も居なかったのだ。
エドガーの妻マリアはもう、死んでいるのだから。