肉親
池のほとりの木の下に置いてある丸太を横にしただけのベンチに、二人で腰掛けると香織は消え入りそうな声で言った。
「ここは、私のお母さんの庭なの……そして、最後の場所でもあるの」
俺の思考は父さんの行動と香織のお母さんの死と、香織の間でグルグルと回る。
「あそこに、ほら少しだけ屋根がみえるでしょう?あれが私の家よ」
入ってきた場所とは反対方向の木々の隙間に、わずかに灰色の瓦屋根が見える。円形の緑の壁は反対側で一か所だけ視力検査のCのように途切れて見えるから、あそこが本来この庭への入口なんだろう。
林が途切れたところにあった古い門は香織の家だったのか。
「私は、お母さんが亡くなってすぐに養父母に預けられて、高校に入学と同時にお爺様に呼び戻されたの」
「お母さんは、なぜ亡くなったの?」
気分の悪さを抑えながら、やっとの思いで聞いた。
香織のお母さんには愛し合ている人がいたが、お爺様が旧家には不釣り合いの相手だという理由で猛反対をし結婚できなかったこと。そして、愛している人が他の女性と結婚してしまった事をきっかけに情緒不安定になり、この池のほとりで大量服薬して自殺してしまったことを告げた。
「お母さんは発見された時、池の真ん中に浮いていたそうよ……」
香織は産まれてすぐ養父母に預けられる予定だったが、お母さんが頑なに拒否したため亡くなった後預けられた。その後お爺様の会社が立ち行かなくなり、後始末の結果あの古い家とこの林に囲まれた庭しか財産が残らなかった事を付け加えた。
「お爺様はお母さんを、自分の意に沿う相手と結婚させたくて、邪魔な私を早く預けたかったんでしょうね。でもお母さんは拒否したから私はこの家には二歳までいたの」
急な情報の多さと、花の色の洪水と、むせ返る香りに眩暈を感じながらやっと思考が整理できたとき、胃が勝手にせりあがってその場で二三度吐いた。
香織は俺の背中をさすりながら謝った。
「ごめんね、ごめんね」
さする手のリズムに合わせるかのように、池の水面が揺らいだ。
「風が出てきたわね……これで少し楽になるわ」
風をきっかけに、香織は明るい声に戻した。
「お爺様ったらね、お母さんが好きだったのは白いユリなのに、私がここに来てから色々な種類のユリを買って毎年球根を植えるの、最初はこんなに沢山じゃなかったのよ。ユリによって開花時期が違うから長く楽しめていいんだけど、ちょっと多すぎよね」
俺が気分が悪くて喋れない間に、お爺様が少しボケてきたこと、心臓が悪く薬をいつもポケットに入れている事を話した。話を聞いているうちに少しずつ気分は楽になっていった。
「この庭も、夏を過ぎれば殺風景になるわ、あぁ、でもねこの柿の木の柿は凄く甘いのよ」
柿なんかどうでもいい、目の前に突然肉親が増えたのかもしれない現実を飲み込むので精一杯だ。
突然ゴーッっと池の上で風が渦巻いた。ユリがザワザワと騒ぎ始め空気が変わった。
「百合絵、百合絵」
真後ろで声がした。振り返ると白髪の老人が立っていた。
「お爺様……あ、すぐ戻ってご飯作りますね……」
老人は俺の方に向き直すと、食い入るように見つめた。
「君は……君は……」
ブルブル震え、怒りと悲しみの混じった表情に変わる。
香織は大丈夫よと老人の肩を優しく抱き、先に家に戻るように促すと素直に戻っていった。
俺と香織は元来た下草のトンネルから外に出た。すっかり日は傾いて薄暗くなっている。
「お爺様って、少しじゃなくてかなりボケてるじゃないか。百合絵って、君のお母さんだろ?そして俺を誰かと間違えた。そう……父さんとだ。
……そして君は……」
「そうね……」
最後まで聞かずに肯定した。
香織は自転車に足をかけ、ハイって俺に小瓶を渡した。マニキュアの除光液だった。
「ここと、ここと、ここね」
俺の制服をつつきながら言った。制服には薄暗くても鮮やかさがわかるほどの見覚えのある橙色をした粉が付いていた。父さんの服にも付いていたユリの花粉だった。
「これじゃなきゃ、落ちないのよ。友利くんのお父さんがここに来るのは私のお母さんの幽霊に会いに来るのね」
「…………え?」
「お爺様には見えるらしいわよ、ハハハ冗談よ……なんてったってボケてるんだからフフッ」
じゃあねと前を向くと香織は去っていった。
「なんだよ……姉さんなんじゃないか……」
わかっていた、わかっていたけど、父さんが愛しているのは母さんじゃなくって、百合絵さんだったんだ。
亡くなる前も、亡くなった今でも……
そして、香織に言い忘れたことがあった。
百合絵さんの幽霊は本当なんだよと。