円
路地を過ぎると突然住宅街が終わり、植えたばかりの稲が広がる田んぼの風景の先に林が見える。
香織は時々振り返りながら尋ねる。
「まだ、真っ直ぐでいいの?」
目的地は、すぐ目の前に迫っていた。
「もう少し、真っ直ぐだよ」
この農道を南に行けば十五分位で自宅に着くけど、普段はこんな道路は通らないし、今の目的地は目の前に鬱蒼としげる林だった。
林は手入れがされていない様子で、下草が伸び放題で篠竹も繁殖していて中に分け入る隙間もない。
恐らく犬やネコでも断念しそうな勢いで、まるで壁のようだった。
「ここだよ」
「え? どこ?」
「この林の中なんだ。どこか入れる所があるはずなんだけど……」
正面からは見渡しても林には隙間すら無かった。
「どうして、この林の中なの?」
「父さんが、母さん死んでから日に日に元気が無くなっていくんだけどさ、原因はこの中にあると思うんだ」
左手奥を見ると林が尽きる場所には古く大きな四脚門が立っている。
木に隠れて見えはしないけど奥には多分立派な屋敷でも建っているのだろう。まさかそこから入る訳にもいかないしな。
「なぜ、そう思うの?」
俺は香織にかいつまんで話をした。
始まりは、死んだ母さんが元気な頃からの話だ。
いつもこの季節になると母さんの機嫌がすこぶる悪かった。小学生の頃はわからなかったが、中学になり知恵もついてくると観察していればわかるようになった。
父さんは度々夜中に家を抜け出してどこかに行っていたのだ。そしてコッソリ家に戻ってきた父さんからはいつもいい香りがしていた。
母さんは気づかぬふりをして、そしてそのストレスを俺と猫のチャコに向けた。
ヒステリックに物を投げて髪をふり乱し当り散らすさまは、狂気にしか見えなかった。普段は優しく溺愛といっていいほどの愛情を俺にもチャコにも見せるのに、毎年この季節だけは違った。
母さんが死んでからも父さんは家を抜け出していた。
今年は特に、暖かくなるにつれて父さんの奇行は増えていった。夕べも抜け出したので俺は台所の洗い物の手を止めて父さんの後をつけたんだ。そして、この林の所で見失った。
香織は少しの沈黙の後、自転車を路肩に止めた。
「わかったわ、ついてきて」
そして訳が解らずポカンとしている俺に言った。
「その前に、名前を教えてくれないかな」
「俺は、佐久間 友利って書いて、ゆうとって読むんだ」
「誰が名前を付けたの?」
変なことを聞くなと思いながら「父さんだよ」と答えた。
その瞬間、香織はニンマリと笑ったんだ。美しい横顔にその笑顔はあまりにも不釣合いで、真っ直ぐに宙を見据えた瞳は何かを確信しているようにも見えた。
私は深井香織よと投げ捨てるように言った後、
俺の腕をつかみグイグイ引っ張って林の右横面側の畔を歩いていく。
何の木だろうか太い二本の木に挟まれた一メートル位の巾の地面だけ横穴と間違うくらいに下草が踏み固められられていて穴が開いている、中腰になれば入れそうだ。
その下草のトンネルに入ろうとした時だった、奥から濃いユリの香りが漂い鼻をついた。
下草のトンネルを這いながら進んだが、予想外にいきなり終わって目の前が急に開けた。
「…………す、凄い…………」
そこは一面にユリの花が咲き乱れていた。何百本あるんだろうか、いや何千本か、白だけではなく色とりどりの円錐形が頭を垂れていた。
校庭くらいの広さの場所に、隙間なく咲く様子は圧巻だ。周囲の林は円形に縁どられた緑のカモフラージュだった。
よく見るとユリの円の中央がポッカリ開いている。そして中央から少しずれた所に、緑の葉を付けたさほど大きくない木が一本生えていた。
香織は、コッチよと
円の中心に向かって歩き出した。
「ユリに触らないように、気を付けて、後で厄介だから……」
香織は振り向きながら言った。
それでも、俺は動けないでいた。それは目の前の光景に驚いたからだけではなく、甘く濃厚でむせ返る香りに呼吸が出来なかったからだ。
浅く呼吸をしても、強烈な香りは肺が嗅ぎ続ける事を拒否して激しく咳き込んだ。
それに気づいた香織はポケットからハンカチを取り出し俺の目の前に差し出した。
「鼻にあてて、少しはマシだから。ユリは花の中でも香りが一番強烈だわ、私も最初は大変だったの、今は慣れたけど、長時間は無理ね」
そう言いながら手をつないできた。
「でもね、風がある日は平気なのよ。木と草で高い塀に囲まれてるような庭だけど、少しは空気が抜けるんでしょうね。今日は風が無いからキツイわね」
香織が言っている言葉も行動も理解できないまま、手を引かれて中央に着いた。
円の中心には、丸い小さな池があった。




