94・大きな歯車
闇に沈む地下実験室の中、ティン・リーは円柱型の水槽に寄り添うようにして二人の前に立ち塞がった。
ガタガタと音を立てる奥歯、震えの止まらない右腕を左手でガッチリと押さえ、銃口をリーに向けたままのディックだが、このままの状況では発砲は出来そうにない。少しでも手元が狂えば、大事な娘まで傷つけてしまうからだ。
卑怯だぞ、そんな単純な言葉さえ、ジュンヤの口からは出てこなかった。最早全ての言葉という言葉を失ってしまったかのように、彼は顔を青くしてただ呆然とその場に立ち尽くすだけだ。
水槽の中にいたのは、紛れもない、エスターだった。
だが、とても普段の彼女からは想像できぬほど、死んだような表情をしている。魂の抜け殻とも言うべきか。繋がれたコードに引っ張られるようにしてただ浮いている、項垂れた頭、生気なく半開きになったままの目。液体の中で揺らめく金髪は、コードと絡んで悲鳴を上げていた。捕らえられているという言葉から、勝手に手足をロープか何かで縛られているか、それとも鎖に繋がれてしまっているか、そんな姿を想像していたジュンヤにとって、水槽に浮かんだ彼女の姿はとても受け容れ難いものだった。
「懐かしいだろう、D-13。ほんの七年前まで、お前が自分の娘にしていたことを思い出しているのではないか。いや、それとも、自分があの中に浮かんでいたことを思い出しているのか」
「相変わらず、卑劣な男だな、ティン・リー。もう、同化の準備は出来ているんだろう。なぜ、俺を待つ必要がある」
一歩後ろで二人の様子を覗うジュンヤには、ディックの表情は見えない。だが、心なしか、ディックの声は震えているように思えた。
「言ったはずだ、“目の前で、娘が変わり果てる様子を見て欲しい”と。私の“新しい器”として生まれながら、私を裏切り、私の計画を全て無駄にしたお前を、簡単に許せるとでも思っているのか。絶望を越える絶望を味わってもらわなくては、私の気は済まない」
リーは愛おしいとばかりに、水槽の中のエスターを撫でる仕草をしてみせる。彼女は反応しない、ずっと、項垂れたまま。
所詮道具に過ぎないのだろう、彼にとって彼女はあくまでも“実験体E”なのだ。とってつけたように大事に扱っているように見せたところで、腹の底でどう考えているかなど、言われなくてもわかっていた。我慢ならない。ディックもジュンヤも、ギリリと歯を鳴らして、リーをギッと睨み付けた。
「お前はそうやって、俺をいつまでも縛り付ける。――その意味は何だ。そろそろ、教えてくれてもいい頃だろう、リー。永遠の命を持って生き続けようとする意味は。エスターをマザーと同化させ、“神”とやらを造り上げようとする、その意味は」
荒く肩で息をしながら、ディックは訊こう訊こうと蓄えてきた疑問をリーにぶつける。
彼はなかなか答えようとしない。しばらくじっと冷たい目をしてディックを見つめ、また薄ら笑いを浮かべている。
「何がおかしい」
「ああ、おかしいとも。たかが“器”だと思っていたお前が、あの男のせいで意志を持ち、抗う力を携えて現れたのだからな。……そうだ、全てが狂ったのは、キョウイチロウ・ウメモトが“コード廃止論”を唱え始めたあの時から。私は私自身の存在を維持するため、何度となく身体を乗り換え続けていた。全ての人間を支配することで、私は謀反するものを全て葬り続けてきたはずだった。キョウイチロウを追放したあと、その意志を継いだラムザ・エマードに研究を妨害されたのも、予想外の出来事だった。大切な“器”の完成品を隠されたことで、私は正気を失った。血眼になってお前を探した日々。忘れもしない――お前を見つけるために、非政府医師団などに潜り込んだこともあった。私を敵とは知らず、人を探しているという言葉に親身に耳を傾けていたシロウ・ウメモトの愚かしい顔も、懐かしい思い出だ。全ては仕組まれていたというのに、くだらぬ友情やら愛情やらに現を抜かす人間という存在そのものが、そうしたくだらないものに感化されていったお前という存在が、私はおかしくてたまらないのだよ」
両手を広げ、大げさに話す仕草は、島で見たそれと同じだった。リーの言動は、ディックとジュンヤの血圧を急激に上昇させた。
「“くだらぬ友情や愛情”だって……? お前には、誰かを愛する気持ちってもんがないのかよ」
苦し紛れのジュンヤの言葉に、リーはまた鼻を鳴らす。
「“愛”という幻惑に囚われ、こんな危険な場所に飛び込んでくるとは、本当に愚かしいな、ジュンヤ。君がキョウイチロウやシロウの血を引いてるってのは、ある程度納得できる。あの二人も相当変わっていたからな。“誰かのために”“未来のために”そんな戯言は聞き飽きた。運命に逆らうことも出来ぬ癖に、何を語ろうというのか。世界は、私の思うままだ。例え予想外の出来事があろうとも、大きな歯車は確実に回り続け、私の望む結末に導いてくれる。……気付かないか、エマード、いや、D-13。遠回りにはなったが、お前はやはり、私に操られ続けているのだ」
「……何が言いたい」
「自分の力で手に入れたと思ったものが、自分の意志で選んだと思っていたことが、全て仕組まれていたとしたら」
「わからないな。単刀直入には言えないのか」
「“エレノア・オーリン”は、刺客だ。君と愛し合い、君の子どもを身ごもり、産ませるためだけに私が送り込んだ。彼女との愛を育んだつもりだろうが、そんなものは最初から存在しない。計算どおり遺伝的に引き合ったに過ぎないのだ。彼女が最終的にお前に対しどんな感情を抱いていたのか、今となってはわかりようもない。だが、君は私の意図するまま彼女のことを愛し、彼女と寝た。全ては“実験体E”の作成のため。“結果として今がある”んじゃない、“最初から結末は用意されていた”というわけだ」
エレノアの話が出た途端、ディックの様子が変わった。
エネルギー銃を腰のホルダーに戻し、より破壊力の大きい愛用のデザートイーグルに持ち替えて、構え直していた。
筋肉が怒りで震え、全身から覇気が滲み出る。本気で撃ち殺す気だ。後方でその様子を見ていたジュンヤは焦った。今こんな状況で暴走されたら、ディックを止められるのか。もし銃弾を放ってしまったとして、狙いがズレた場合、彼女を助け出せるのか。
ジュンヤは息を飲んだ。
――と、突然、何者かに両腕を掴まれる。
「な、何だ、放せ!」
黒い鎧のような防具に身を包んだ大男が一人、ジュンヤを背中から締め上げていた。フルフェイスのヘルメットで、それが人間なのかロボットなのかどうかも判別できない。凄まじい力だ。
ディックはジュンヤに構わず、まだリーに銃口を向けたままだ。振り向きもしない。助けるつもりは毛頭ないと、そういうことなのか。
ジュンヤは羽交い締めにされ、そのまま実験室の入り口まで引き戻された。
「すまないね、ジュンヤ。君は少々邪魔な存在なんだ。離れたところでゆっくり見学していたまえ」
言葉遣いは丁寧だが、棘がある。これからショー……つまり、マザーとの同化が始まるというのか。
リーは不敵に笑い、ディックを挑発するようにして水槽の前でまた大きく手を広げた。シルエットが逆光で浮かび上がり、彼の表情を隠していく。
「撃つなら撃つがいいさ、D-13。ずっと躊躇してるんだろう。私を撃てば水槽に当たる。そうすれば、彼女を救い出せるかも知れないが、同時に傷つける可能性だってあると。残念だが、この水槽は昔と違って防弾ガラスを使用している。君の自慢の銃でも傷一つ付けられやしない。行為そのものが無駄だということだ。――ローザ、聞こえているか」
『はい、閣下』
天井部のスピーカーから響いたのは艶めかしい女の声だ。
ジュンヤは思わず、声の方に顔を向けた。ディックはやはり、微動だにしない。
「そっちの被害状況は」
『敵は未だここまで到達していません』
「では同化を開始する。――あちらの方も頼む。いいね」
『仰せのままに』
簡単なやりとりだけで会話をやめ、リーはゆっくりと振り向いた。
手が出せない。
ディックはリーに、未だ幾つか訊きたいことがあった。高笑いして自分を蔑む男が憎くて仕方なくても、殺すのは未だ早いと引き金に指を充てるのをためらっていた。
せめて水槽を壊してエスターを助け出せればと頭の隅で思っていたが、それすら出来そうにない。
「ふ……ざけるな……、何が同化だ、何が“神”だ……。違う、実験体なんかじゃない。そいつは……例え仕組まれていたとしても、俺の、俺の一番大切な」
――無駄だとわかっていても、ディックは撃ちまくった。
地下実験室全体が地震のように揺れる中、防弾だといわれてるにもかかわらず、必死にガラスの水槽に衝撃を与え続けた。銃弾が弾け、地面にのめり込んだり計器の針を飛ばしたりするのも構わず、弾が切れるまで撃ち込む。マガジンを取り替え、また連射。リーの言うとおり、傷などつく気配すら無い。
七年前は、金属の棒で無理矢理水槽を破壊した。また同じ事が起きないようにと、リーがより頑丈な水槽を用意したのはわからないでもない。だが――諦めたら、終わりなのだ。
そうしている間に、水槽の液体は徐々に地中に吸い込まれていく。狭い円柱水槽の中にうずくまるようにして取り残されたエスターの身体は、空気に触れて少しずつ熱を奪われていた。見計らったように暖かい空気が上部から吹き付けられ、水滴が綺麗に蒸発して彼女の身体に熱が戻ると、今度は身体を無理矢理覚醒させようというのか、天井から伸びたコードを介して、電気が流し込まれる。彼女の身体がびくんびくんと大きく仰け反る度に、ディックはどうにも出来なくなった怒りで、水槽を何度も叩いた。小さな振動が内側に伝って、エスターの身体を僅かに揺らす。
感情を解き放ったように、ディックは泣き散らす。だが、叫び声も、泣き声も、不気味にうごめく機械音でかき消されていく。
ディックの悲痛な姿は、見るに堪えなかった。
エスターを救うだなんて元々出来っこなかったのかもしれないと、ジュンヤは思い始めていた。敵が悪すぎた。レナやダニーには“この世界を支配している男を敵に回してる”などと大見得を切っておいて、いざそのときになったら捕らえられて何も出来やしない。――非力すぎる。あのディックですら、どうにも出来ずに足掻いている。
だが、諦めたくはない、やっとここまで辿り着いたのだから。諦めたら、全てが終わってしまう。
ジュンヤは自分を羽交い締めにしている男の手を振りほどこうと、必死に身体を捻った。抜け出して、大声で笑うあの男に一撃喰らわせてやりたかった。
「無駄な抵抗だな、二人とも。実に愚かしいよ。絶対的な権力の前では、抵抗は無意味なのだ。ひれ伏し、崇めろ。お前たちのような愚かな人間共を導くにはやはり、具現化された“神”が必要なようだ。新たなる“神”の誕生を、心して見るがいい」
ティン・リーは薄ら笑い、右手を高く掲げてパチンと指を鳴らした。
薄暗い実験室の床に丸い光の輪が現れ、青白い光の柱がせせり立つ。足元から実体化していく人影は数体、そのなかにケネス・クレパスの姿があった。