90・次
『ロイは処分しました。よろしかったですね』
通信機から聞こえるのは、ケネスの声だ。淡々と事実を報告してくるが、少し震えているのがわかる。
赤い端末を手にとって口元に近づけ、
「ああ、構わん」
と一言、回線を切る。
リーは内心、やはりなと思っていた。あの様子だ、ロイは噛みついたに違いない。必要以上のことを口走ったか、逆撫でしたのか。
一人残った地下室、暗闇に照らし出された水槽に浮かぶ少女をじっと見つめる。椅子に深々と腰掛け、組んだ足を放り出して目を細めた。端末をポケットにしまうと、開いた右手で髪をかき上げる。長い黒髪を梳いて、毛先に目をやった。
この身体が無くなればもう後がないと思えば、恐怖も覚える。それは嘘ではない。マザーとの同化が済み、Eが再起動したところで、自分という存在がなくなってしまえば、研究の全てが無駄になってしまう。だが……最早、後戻りできないところまで来ていた。今更のように、全てを悔やんでもどうにもならない、それは理解しているのだ。
ロイの忠告にも一理あるのだ。“排除すべき”“甘い”、そこまで断定的に発言するには、それなりに覚悟が要ったはずだ。当然の報いがその先にあることも知っていただろう。しかし、遅すぎたのだ。全てが。
リーはゆっくりと重い腰を上げた。
薄暗い実験室で光に包まれた水槽へ、一歩一歩近付いていく。
TYPE-Cの新しい身体には馴染んだが、今の身体は軋みが激しい。少しずつ劣化しているのがはっきりわかる。老化ではない、劣化。音を立てて崩れていくような感覚がある。秘書のローザにも言われていたことだ、“度重なる複製でTYPE-Cの耐久度は急速に低下している”と。
――『そんなことはないと断言出来ないのが残念でならないのですが、恐らくは一年と待たないうちに、身体は急速に老いていくのではないかと』
ローザの声がティン・リーの頭の中に響いた。
今後どうしようなど、当然、考えているわけがない。安全だと確信しきっていた冷凍施設を失ったこと、Dタイプの研究が頓挫したこと、Eの研究目的を大幅に変更したこと、全てが予定外だ。
いっそ、予定外ならば――。
リーはそっと、冷たい水槽に両手を当てた。未だ感覚として伝わってくる温度を噛みしめる。死んだように半目を開けたままのEの顔を覗き込むようにして、額を寄せた。
「やはり、君の父親が来るまで待つしか無いのか」
誰にも聞かれないように、リーはそっと、呟いた。
*
通信を切り、パタンと端末を二つにたたんで、ぎゅっと握り返す。ケネスは複雑な思いでじっと手のひらを見つめていた。
「で、閣下は何と」
後ろでローザの声。
「構わないと言っている。所詮、私たちは駒に過ぎない。必要無ければ消される、それだけのことだとわかってはいるんだがな」
カーキ色の上着の内ポケットに端末をしまい、ケネスは執務室の長いソファにでんと腰を下ろした。色の薄くなった金髪頭をかきむしり、煮え切らないような表情で唸る。
ここ数日、リーが地下に籠もるようになっていることを、彼は懸念していた。リーにどんな心境の変化があったのか、どれだけ追い詰められているのか、計り知ることは出来ない。
ウォーレス・スウィフトとエドモンド・ケインが島にある地下冷凍施設に向かってから先、予想外の出来事が続いている。Eを手に入れることが出来た、それまでは順調に見えたのだが。まさか、TYPE-Cのストックを全て失ってしまう事態に陥るとは、流石のリーも思っていなかったはずだ。
問題は、今後、どうしていくかということ。恐らくはそれについて様々な考えを巡らしているものと思われるが、直接彼の口から説明などあるはずもなく、無意味に時が過ぎていくだけになっている。
その点に関しては、ローザも気がかりでいるらしく、NCCへ候補となりそうな実験体があるかどうか問い合わせしているのを耳にした。有機体にこだわり続ける必要が無いのだとしたら、それもありかもしれない、ボディの交換が容易なアンドロイドへデータを移行することも考えねばならないだろうと、彼女も言っていた。
ただ、あくまでもそれは周囲がそう思っているというだけのこと。
政府総統であるティン・リーという男の意志ではない。
彼が何のために完全なる肉体や永遠の命の選択をしたのか、その真の理由など、誰も知らないのだ。
そもそも、この世界が出来上がった理由も、核戦争があったという過去も、本当のことなのかどうなのか、確かめようがない。時間は不可逆なもの、過去の産物の真偽を見極める意外に、過去の正当性を立証する手立てはない。
全てが嘘かも知れない、そんなことはわかっている。
だが、だからといってそれが直ちに政府やティン・リーという男の存在を否定する理由にならないのもまた、事実だ。
足元に転がるロイの死体に目をやった。ローザの指示で飛んできた二人の警備員が驚いた様子で担架に死体を乗せ、そっと身体に白い布をかけている。まだ垂れ落ちる鮮血が痛々しい。今殺されたのが何者かわかっていたとしても、彼らに発言権など無い。殺されるということは即ち、謀反を働いたということだと、理解しているのだ。床に広がる血痕を掃除ロボが化学洗剤で丁寧に除去し、そのまま警備員らと共に階下へ消える。まるで何事もなかったかのように静けさを取り戻した執務室では、ローザが相変わらずに事務机に向かって仕事をこなしていた。
人が死のうが、自分の主が窮地に追い込まれようが、彼女は平静だ。リーと運命を共にすると覚悟を決めている、いつだかそう話していたのを聞いた。だからといって、これだけ冷静にいられるのは気味が悪いものだ。
「……エマード博士が突入してくるのは目に見えてる。わかっていて閣下は同化を見合わせているんだろうか」
沈黙に耐えきれず、ケネスは呟いた。
「そういうことでは無いと思うけど、D-13の身体に未練があるのはよく知ってるわ」
声の調子を変えずに、ローザは答えた。作業をやめることなく、言葉を続ける。
「閣下は私に、“私が、私たる所以は何か”とお尋ねになった。恐らくは、今の身体が消失した場合のデータの移行先を考えてのこと。私は、例え閣下がD-13に――エマード博士の中に入り込んでしまう結果となったとしても、お慕い続けると。もちろん、生理的に許せるはずなど無いのだけれど。新しい身体を作り上げるまでの間、あの男になってしまうことも、選択肢の中に入れておく必要はあるということよ」
恐ろしいことを平然と言う。
女というのは怖い生き物だと、ケネスは身を震わせた。
ソファの背もたれから垣間見える彼女の凛とした横顔には、ある意味尊敬の念を抱かねばなるまい。いくら忠誠を誓ったとしても、そこまで断言できるかどうか、自分には自信がないと思ってしまったのだから。
「とは言っても、私はD-13を次の身体に充てるのには反対だわ。何としても、それだけは阻止しなければと思っている。いっそのこと、無機体でも構わない。あのひげ面が閣下になってしまうなど、耐えられるわけがないじゃない。今、各所に連絡を取って、耐久性に優れたアンドロイドを準備するよう指示を出したわ。――いざというとき、閣下の意識データを移すのは私。いくら閣下がD-13を選んだとしても、阻止する隙はあるはずよ」
「……女には敵わないな、全く」
「何か言って?」
「いや。賢明な判断だと」
ローザに背を向けたままでケネスは言った。目を合わせた途端に、自分がロイと同じになるのではないかと、一瞬恐怖を覚えたのだ。
「まずはバックアップを作成しないと……。以前のデータは今の身体に戻る直前のものだから……あまりに古いわね。最近、色々ありすぎたのだから、こまめにデータをとっておくべきだったわ。閣下は了承してくださるかしら。声、聞いたのでしょう。どんな様子だった、ケネス」
「どんな様子も何も」
一言、“構わん”だけで、何をどうしろというのか。
「お前の話ならば、聞き入れてくださるのでは。私ではダメだ、とだけ」
「そう、わかったわ」
本当に淡々と、凹凸なく喋る女だ。
ケネスの言葉に安心したように、ローザはすっくと立ち上がり、執務室後方の監視室へ足を向けた。地下実験室にいる総統を呼び寄せるのだろう。バックアップデータをとり、今後の動きについて進言を、そんなところか。
「問題は、エマード博士を誰が制止するかだ。そこがすっぽり抜けている。俺がどうにかするしか、なさそうだな」
ぐしゃぐしゃっと、また髪をかきむしって、ケネスは重々しく長いため息をついた。