79・限界を超えろ
ディックの表情を横目で見ながら、アンリは目の前に提示されたリスト、宙に浮いた文字列をそっと指で撫ぜた。数十人分のリストの中にある“DNA分析室”の文字に触れると、なんとも人の良さそうな二人の男女の顔が映し出される。丸眼鏡の三十代の男と、同じ世代の黒髪の女。
「ダニー・レイブンとレナ・ニコラか。なるほど……“コード廃止論”だなんて、いかにもエマード博士、あなたと関連性のありそうな」
フルフェイスヘルメットの下で、アンリはにやつく。何か楽しそうにコクコクとうなずき、トリストの骨組みに寄りかかるディックの方に顔を向けた。
「関連あるも何も、コード廃止論のキョウイチロウ・ウメモトは、俺の養父ラムザ・エマードの恩師だ。詳しくは知らんが、彼は相当なカタブツで、学会に提出した反政府的な論文を取り下げようとはしなかったらしい。結果、総統の怒りを買い、流刑されたんだと。ラムザもその意思を継いだのか、Projectの全責任を負う立場にありながら、自分の信念を絶対に曲げなかった。コードの有無が、果たして人間か否の境界線になるのかどうか。結局、結論の出ないまま、ウメモト博士同様、流刑されることになった。二人とも、生きているのか死んでしまったのか、マザーにすらわからないらしい。だのに今になって絡んでくるとは。……面白い」
「へぇ。運命のいたずらってヤツ? で、博士はその辺り全部把握してたわけ?」
「何がだ」
軽快なアンリの声に、ディックは嫌悪感を感じて眉をしかめた。
しまったと、アンリは肩をすくませて、ぶるぶると首を横に振る。言い方が悪かったと形式的に謝った上で再度、
「つまり、自分の育ての親が、アナーキストの頭の父親を支持してたことを知っていて、ESに逃げ込んだかどうかだよ。いつか訊こう訊こうと思ってたんだ。追われる身になったからって、いくらなんでも反政府組織に逃げ込むなんて不自然すぎるだろ。散在する反政府組織の中で、ESを選んだ本当の理由は?」
覆い被さる様な格好でトリストの外からアンリを見ていたディックは、彼の言葉に少し驚いたのか、僅かに目を見開いた。それからトリストの骨組みにかけていた腕をだらんと下げると、よっこらせと似合わぬ声を出して、中に腰かけたアンリと同じ目の高さまでかがんだ。
「“ウメモト”の名前に聞き覚えがなかったと言ったら、間違いなく嘘になる。俺は確かにその名を知っていた。まさかその場に、俺が過去に殺した研究員の娘がいるとは知らなかったが、ESの代表がウメモト博士の息子だということ、ラムザがウメモト博士絡みと思われる何らかの密約を守るために俺を逃がしたことは知っていた。だがそれだけ、それだけだ」
ふぅんと、小刻みにうなずくアンリには、一体何が見えているのか。意味ありげに口角を上げ、鼻歌を始める。
いけすかない、しかし、自分とどこか似たところのあるアンリを、ディックは突き放そうとは思わなかった。
「それより、リストに上がった研究員たちは、人間的に大丈夫なんだろうな」
「エマード博士の口からそんな言葉が出るとは予想外だったな。心配ないよ。最近の彼らの動きを見てるんだけど、かなり期待してい。……やっぱり、娘に関係してくるとなると勝手が違うんだ」
「黙れ」
「怖いねぇ」
また口が滑った。アンリはヘルメットの下でディックに見えないようにペロンと舌を出す。が、言われたディックはさほど気にしない様子で、じっと何かを考えながらトリストの電気系統を見つめているのだった。
振り返ってみれば、アンリは直接、彼の娘に会ったことがない。寡黙で冷徹なこの男を熱くさせる原因であろう、彼の死んだ妻がどんな女性だったのかも、マザー内部のデータベースで垣間見たくらいだ。
まるで故意に削り取られたかの様な、不自然に空いた彼女のデータがひどく印象的で、以来、事実上の夫であるディック・エマードとその周辺を探るようになったのだ。
自分とは全く関係ない一人の男に惹かれたきっかけは、そんな些細なことだったはずだのに、気が付けば危険も省みずに協力している。いつもなら下らないと一蹴してしまうはずが、アンリ自身、見えない糸に引っ張られるように事件に深入りしているではないか。
心地いい。薬に浸ったような、マザーにアクセスするような、不思議な感覚。それがきっとこの男の隠れた魅力であって、周囲が無意識的に力を貸してしまう要因なのだ。……恐らく本人には自覚などないのだろうが。
「とりあえず、ビルの見取り図を先に寄越せ。一旦仮眠を取ってからフレディの位置を確認する。――地下実験室に動きはないな」
話題が戻った。
アンリの口から思わず、ふうっとため息が出る。
「ないない。エスターはしばらく安静にしてるって」
「マザーがそう言ったのか」
「ああ」
念を押し、横目で睨み付けて確認するディックの迫力に圧倒され、アンリはびくっと身体を揺らした。いい加減、現実と仮想の合間にいるのも限界になってきている分、反応が大袈裟になってしまう。
一方、ほぼ不眠不休で動き回っていたディックの体力もそろそろ限界だった。誰にもそう見えないだけで、今すぐ倒れてしまえそうなほどに。充血した目、疲労ですっかり硬くなった表情筋、ボサボサの頭に油ぎった皮膚。身体のあちこちが悲鳴を上げていても、今は休めない今は休めないと繰り返し脳ミソに叩き込んだ。
マザーへのアクセス、事態収拾の画策、フレディの改造、これを一日でこなした。彼に残された時間は少ない。リーがエスターの身体にマザーの意識データをダウンロードするまで恐らくあと数日、何としてもそれだけは阻止しなくてはならない。
EUドームとネオ・ニューヨークシティ、時差を考えれば、既に向こうでは夜が明けて日常活動が始まった頃だ。休んでいる暇などない。ほんの僅かな休息すら惜しいほどに、事態は逼迫していた。
「俺が戻るまで、協力者候補へのアプローチを頼む。マザー経由でも何でもいい」
「わかってるよ」
親指を立てて了解の意思を伝えると、ディックは満足気に頬を緩めて立ち上がった。
*
アンリの案内で、ディックは監視ドームの医務室へと赴く。常駐の看護師らは、疲弊しきったディックを見るなり顔を青くした。
とてもまともな人間には見えない――鬼のような形相に、溢れんばかりの気迫、圧倒され、息を飲んで立ち尽くした。
「ベッドを貸してくれ」
そう告げると、彼はスイッチが切れたように倒れ込んだ 。
小一時間眠りこけているうちに、ディックの耳に様々な声が聞こえてきた。
何者だと揶揄する声、爆破事件についてのあらぬ噂、今世界中で何が起こっているのか、何が起きようとしているのか。
真実を知る者があまりに少なすぎる。憶測ばかりが一人歩きするのは、決していいことではない。
だが、すべてをさらけ出せるほど単純な問題でもない。
奇異の目で見られるのは慣れている。慣れているはずだのに、心がもやもやするのはなぜなのか。
身体を横にしていても、ディックの頭は一向に休もうとはしなかった。