43・一筋の光
残酷なほどの静けさが、辺りを包んでいた。EUドームの制御室、機械音だけが重なり合い、その毒々しいまでの静寂をより一層不快なものにしていく。
ハロルドは気まずそうに、目の前の男の震える拳を見ていた。無造作に脱ぎ捨てられた、すすだらけの白衣がテーブルを占拠しているが、その場にいる誰もそれを責めることが出来ない。
管理モニターの警報ランプが目障りなくらい激しく点滅し続け、血飛沫のかかった白衣と彼の着衣を赤く照らす。男の額に刻まれたシワが脂汗で浮き上がり、ぎらぎらと血の気を帯びた目玉がヒビの入った眼鏡の奥で光っている。
一声掛けようものならきっと即座に殴りかかられると思ってしまうほどの気迫だった。ディック・エマードはその日の自分の行動を悔いているのだ。わかりきっているだけにこの場の空気の掴み方が難しい。
この数時間のうちに起きた全てが、回避できたかもしれない可能性を秘めていた。もしあの時と、誰もが思わざるを得ない状況。
エスターがさらわれた。
ディックのいない間にジュンヤが連れ去ったのだ。
全てを見通さなければならない状況なのに結局何もできなかった自分に、ハロルドは腹が立った。ディックは行き場のない怒りに、感情のコントロールを失いかけている。必死に彼をなだめ、やっと落ち着いてきたところ。しかし、これ以上の言葉や仕草はきっと彼を追い詰める。だからただ、何かのきっかけで事態が好転しないかと待ち続けてしまう。
ハロルド自身、誘拐の現場に到着したのは全てが終わったあとだった。
ディックとともにドームへ向かい、食料庫へと荷物を搬送する手続きをした彼は、その後爆破攻撃の報告を受け、緊急避難出来るようにと飛空艇の出発準備のため操縦室へと向かっていた。
操縦士に事の次第を伝え、船内アナウンスを指示、整備士のロックとバースに船内のチェックを頼んだ。ところが、食堂からバースが知らせてきたのはジュンヤの異変。慌てて駆けつけたが、ジュンヤとエスターの姿は既になく、メイシィは泣き崩れていた。あたり一面、刃物で傷つけられたテーブルや椅子が散らばり、まるで元の姿がわからないまでに荒らされていたのだ。
それでも、傷を受けたのはロック一人でしかもかすり傷、命に別状はないという。それは不幸中の幸いなのだとハロルドは思っているが、他のメンバーがどう思っているのか想像に難くない。
ハロルド、アンリ、キースの三人の男が、壁にもたれかかったり立ち尽くしたりしながら、ディックがいるテーブルの周りでこの無意味に静かな時間が過ぎるのを待っていた。狭い制御室の中、誰かが静寂を破るのをただただ待つこと数十分、
「彼らの目的がなんなのかはっきりしないと、これ以上僕らは協力できませんよ」
キースが口火を切った。
ディックは震わせていた拳をぎゅっと握り締め、伏していたテーブルからガバッと顔を上げた。鋭い眼差しが浴びせられると、一瞬キースはどきりとしてもたれていた壁にぴたりと両肩を付けたが、姿勢を正すと改めて、
「あなたを尊敬しているのは嘘じゃない。だけどこれ以上犠牲が増えるのは困ります。今だって二十人以上が医者の世話になってる。NCCでの噂や政府での活躍は知ってますけど、どうも今のあなたはその頃とは違うらしい。一体何があって、どうしてこんなことになっているのか。本当はあなた自身が一番ご存知なんじゃないですか」
辛辣な質問。ハロルドは焦り、二人の間に割って入った。
「ま、待て。君の言いたいことはもっともだが、彼には彼なりの事情ってもんがある。それは、俺だって詳しい事情を教えてもらえるならそうして欲しいが、これは個人の問題であるところが大きくて」
「あなたには訊いてません」
顔をしかめて、キースはハロルドに強く返した。
「ESの人たちだって、このドームにやってきたのは、食料を搬入するためだけだったと思ってるらしいじゃないですか。アンリとの間でどんな話があったのかは知りません。隠れてコソコソと取引しなければならないような人間がES全体を引っ張って、それで我々ドームの住人にまで被害が及ぶんじゃ、話にならないと言ってるんですよ。──反論があるならば、幾らでもどうぞ。言っておきますが、今日だけでどれだけの損害を被ったか。工業・農業生産を支えるEUドームの爆破は、地球全体の死活問題なんですよ」
早口でまくし立てるキースは、先ほどまでとは人が違ってしまったかのよう。大人しくエマードについていけばきっと大丈夫だと、どこかで過信してしまった自分への慙愧の念がにじみ出ている。
「それは、ディックだって申し訳ないって思ってるからこうして」
と、またもハロルド。
「あなたには訊いてない。エマード氏の口から、真実を聞きたいんです」
二人のやり取りを聞いているのかいないのか、ディックはまた、無言でうつむき始めた。何かを言おうとして時折口がもごもごと動くが、そのまま唾とともに飲み込んでしまっている。額の近くで組んだ両手のひらがじっとりと濡れ、ぬめぬめとするのを嫌うように、しきりに指先を動かした。言葉の代わりにぎりぎりと奥歯を鳴らし、目を閉じる。
「ハルに『エマード博士に是非会いたい』と言ったのは僕だし、会って『取引したい』といったのも僕だ。責任は僕にある」
それまで静かに二人の問答を見守っていたアンリが、監視モニターの前からテーブルへと歩み寄り、腕組みをしながらゆっくりと話し始めた。
「肝心なことを話す前に事件が起きてしまった。僕のミスだ。博士ばかりに責任を押し付けてはいけない。キース、君の言い分は尤もだが、そういうわけだ。これ以上は何も言うな」
アンリはそう言って、血気づくキースをなだめる。銀色に逆立った髪をゆっくりとかきあげ、アンリは四角い眼鏡の奥でなにやら思案した。身を包む黒い服が音もなく前進し、空気が一瞬にして冷え切った。
場の流れが少し変わったのを感じたのか、ディックもゆっくりと頭を上げ、乱れた前髪の隙からじろりとアンリを垣間見た。
「勿体ぶってないで、すぐに見せればよかったんだけどね。ディック・エマードという科学者が一体どんな人間なのか興味があって、──好奇心に負けてしまった。しかも政府の攻撃で、見せたいファイルにアクセスするのに時間が掛かりそうなんだ。明日の朝までにはシステムを修復して、お見せできるようにしておくよ。今日はこれぐらいでやめよう。起きてしまったことにくよくよしたって仕方ないじゃないか。博士、あなたの苦しみが明日には少し、解放されるかもしれないよ。そのくらい大切なファイルを、僕は見つけたんだよ」