或る男のはなし
後で改訂するかも
雨の中に、唄が響いている。私の前で歌っているその粗野な声を、よくよく聞いてみると、どうやら「雨に唄えば」らしい。
ここは、時計塔の中で、本来は誰もいないはずなのだが、いつの頃からか、社会からあぶれたホームレスが交わりを求めて集うようになっていた。そして、私もそのうちの1人、という訳だ。しかし、私はもとよりここにいる怠惰で、頭の悪い連中とは違う。私はかつて社会で信頼のおける立場、そう、警察官であり、妻子もあった。私は、街の治安を守るために尽力していたし、家族とも仲良く暮らしていた。しかしあるとき、憎むべきミノーグにはめられ、失脚してしまった。
そうして、そこからさらに悪いことは重なり、巡り巡って、この、ホームレスの住処に落ち着いたのだ。それが、一ヶ月前だ。
「まだ慣れねえのか、あんた」
私のとなりで一緒に壁に背をつけて座り込み、酒を飲んでいた男が尋ねてきた。男の名はウェーバーという。まだ唄は続いている。
「ああ、そりゃあね。君はどうだか知らないけど、私は残してきたものがたくさんある。未練なんて断ち切れないし、出来ればここから抜け出したいとねがっているよ」
「そうか・・・・・・」
それだけ言って、ウェーバーは黙った。私は、彼が寝たのかと思い、いつのまにか「聖者の行進」に変わっていた合唱を聞こえないようにするために耳を塞ぎ、目を瞑った。しかし、いつまでも合唱は聞こえてくるし、頭の中でも様々な記憶が現れては消え現れては消えを繰り返して眠れない。ついに眠りの世界への進入をあきらめた私が、目を開けると、目の前の直近にウェーバーの顔があった。驚いて、つい手で押してしまった。
「いたたた・・・ひでぇなあ」
私に押し飛ばされ、冷たい石の床に尻餅をついたウェーバーは、そういった。しかし、顔は、発言とは裏腹に、優しかった。
「すまない、つい」
私が手をさしのべると、ウェーバーはそれを掴み、立ち上がった。
「いや、驚かしたんなら、こっちも悪い。しかし、いや俺もびっくりしたぜ」
「ん、何故?」
「そりゃあ、あんたが話の途中に寝ちまってよ、それで起こそうとしても全然起きねえんだから。びっくりもするさ。」
「私が寝ていた?」
「そうだよ」
「どれくらい?」
「さあ、目の前に時計はあるが、生憎文字盤と針が見えねえからな。正確には分からんが、人形が動いて、第九も鳴ったから、一時間以上だな」
この時計塔では、時間ごとに決まった仕掛けが施してある。人形と第九もそのうちのひとつだ。人形は六時から始まり、それから一時間ごとに動く。そして第九とは、敬愛すべき我がルドヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の交響曲第九番のことで、これは毎日十八時に鳴る。私は、ベートーヴェンが大好きで、この時計塔に住み込んだのも、それが理由の一つだ。もうひとつ、朝の五時に鳥の鳴き声がするが、この頃はあまり鳴きがよろしくない。
「そうか・・・。それは迷惑をかけた」
私は髪をかき乱して、気を落ち着けた。
正直言うと、こういうことは初めてではない。またか、という感じだ。いつからこの出来損ないのナルコレプシーが起こるようになったか、正確には覚えていないが、ホームレスになって以来、頻度が増したのは事実だ。
「さあ、みんな、仕事に行くぞ」
ウェーバーは手を叩いて、歌を唄っているみんなを止めさせた。
仕事とは、工場の夜間勤務だ。工場長のスミス氏が、好意で雇ってくれているのだ。報酬はお金ではなく食料で、そのおかげで私たちホームレスが飢え死にせずにすんでいる。スミス氏は敬虔なクリスチャンで、慈悲の心を持って、私たちに接してくれている。
工場に着いた。
工場では、沢山の機械が動いていた。今は交代時間で、人はまばらなのだが、それでも全員を合わせると四~五十人にはなるだろう。
「皆さん、仕事の時間ですよ」
スミス氏が言った。工場に高くかけられている時計は、二十時を刻んでいた。私たちは、それぞれ持ち場についた。これから朝の五時まで、九時間働くことになる。
私は仕事の間中、楽しかった思い出を反芻することにつとめていた。そうしないと、精神の均衡を保てないような気がして、現実逃避を日課としていたのだ。
いつものように、家族の思い出に浸っていると、私の幼い娘、ミシェルが声をかけてきた。
「ねえパパ、こっちに来て一緒に遊ぼうよ」
そう聞こえた。いや、確かにそう言った。もしこれが現実でないとするなら、今私の目に見えている光景は何になる。
「あ、ああ。分かった、今すぐ行くよ」
私は、私とミシェルを遮っているもやを飛び越え、走り寄った。そして、抱き上げた。懐かしく、柔らかいあの匂いと感触が、私には感じられた。やはりこれは現実だ!
「あら、ミシェル、良かったねえ。パパと遊べて。パパは忙しいんだから、感謝しないと」
台所には、妻もいた。
「うん、ありがとう」
そう言って、ミシェルは私に抱きついてきた。私も、それに応えてミシェルを抱こうとしたとき、左手に鋭い痛みを感じた。見ると、ミシェルが私の人差し指と中指を強く噛んでいた。
「いたい!」
叫んで、離そうとしたが、離れない。
「どうしてこんなことを!」
叱ろうと、にらむと、先程までいたはずのミシェルがいない。辺りを見渡すと、右手の遠くの方に、妻が、ミシェルを抱きかかえて立っていた。表情は、よく見えない。
「あなたのせいじゃないの。あなたは悪くない」
妻の震えた声が聞こえた。そして、現実であるはずのその姿が、だんだんと消えていき、ミシェルの、「さよなら、ぱぱ」の声と共に、完全に消え去った。
直後に、大きな音がして、私の家が壊れていった。柱が折れ、食器は割れ、家具は砕け散り、屋根がおちてきた。
そして、私だけが残った。椅子に拘束されている。暫く闇を眺めていると、あの憎むべきミノーグが現れた。そして、私を責め立てる言葉を言い始めた。初めは聞き流していたが、最後には、恥も外聞もなく、泣き叫ぶしかなかった。
目を覚ますと、スミス氏が見えた。隣には、ウェーバーも見えるし、よく見ると、みんながいた。
「気が付きましたか」
スミス氏が、優しい声音で言った。私は、答えようとしたが、左手に痛みが走り、出来なかった。
「ああ、無理をしてはいけませんよ。指を機械に挟まれたんですから」
それを聞き、やはり先程の体験は幻覚だったのか、と嬉しさ半分、残念が半分の気持ちになった。しかし、今の私の姿を見て欲しい。看護を受け、ベッドに寝かされて、みんなから心配されている。それはそれで、とても幸せなのではないか。私は、今になってやっと、周りにいた仲間達の大切さというものに気が付いた。
「ああ、大丈夫。もう、大丈夫」
私はそう答え、微笑んだ。
がやがやとした工場に、鳥の鳴き声が響く。朝の五時だ。みんなが帰る支度を始めたので、私もそれに習うことにした。
帰り道、朝靄のかかった街を、私たちは集団で歩いた。「ワーテルローロード」を唄いながら。
私は満足だった。妻も娘ももはやいないが、それでも、仲間はいる。陽気で、やさしい仲間が。それだけで、じゅうぶんではないか。
だが、みつけてしまった。私は街をいそいそと歩くミノーグを見つけてしまったのだ。たちまちに、憤怒の炎が私の心を取り囲み、満足を焼き殺した。
いてもたってもいられなくなり、私は集団を抜け出し、走り出した。何をするのか、どうなるのか、全く考えていなかった。ただ、衝動が抑えられなかった。走っている途中で、道に落ちていた大きめの石を掴んだ。私の意思は、彼を撲殺する方向へ向かっているらしい。
そして、大きな衝撃と共に、私は石を彼の後頭部へぶつけた。その直後、彼、ミノーグは、道路に崩れおちた。
私は、ミノーグを殺した。その行為に対する精神の発動は、非常に複雑なもので、そのせいで、私はその場に立ち尽くしてしまった。警官につかまれ、パトカーへ乗せられるまでは、ずっと。
私は、罪を犯した。今度は、本当に。その罰は、四十五年の禁固刑だった。ほとんど、終身刑に近い。最悪の気分だった。せっかく幸せになりかけたのに、もう、あそこへは戻れないのだ。それでも、すこし嬉しいことはあった。刑務所が時計塔と近かったのだ。
それから、私は刑務所の中で、より深くナルコレプシーに陥る様になった。目が覚めるのは、十八時、あの、ベートーヴェンの第九が流れているときだけだ。
こんな話になっちゃったのは、時計仕掛けのオレンジとフィッシャーキングを一緒に借りてきたからだと思う。