後編
ヤクザの頼み事を請け負った俺こと岡田繰太は、青森の田舎で、今までの自堕落な生活にケジメを付けるべく、罰を受ける覚悟をする。しかし以外な展開に拍子抜けしそうになる。
でも前編よりは真面目になります。
うっかり寝てしまった。えーと、今八時半か。それにしても今の夢は……
『俺は山賀シヅの正面に正座している。山賀シヅが、険のある目を突然クワッと見開き、「やれっ」と怒鳴ったその刹那、俺は取り巻きのヤクザ数人に暴行される。殴られ蹴られ木刀背負わされた俺だが、何故だか痛みは全く感じない。
「親分ダメです。こいつはもう人じゃありません」
「そ、そんなわけ」
山賀シヅは驚愕の表情で俺を見ている。
俺は懇願する。
「頭を、頭を割ってみてください。ちゃんと赤い血は出ますから」
山賀シヅが一人のヤクザにアゴで指図する。そいつはどこからか鉄の棒を持ってくると、恐る恐る大上段に振りかぶる。
俺は懇願する。
「思いっ切りだぞ、思いっきりやってくれ」
やくざの、ふんっ、という気合いと共に鉄棒一閃。
ぶしゅっう、という音と共に脳天から流れ出る液体に俺は歓喜した……のも束の間。
赤くないのだ。
底黒く黄色い汁が脳天から止めどなく流れ落ちる。
目に鼻に口に。
臭い臭い臭い汁。
腐った生ゴミ、なんかの死骸、膿、あるいはそれらの混じり合った。
「親分、どうやらこいつはただのゴミ袋だったようですぜ」
ゴ、ゴミ袋って……
ヤクザたちは鼻摘み嘲笑、山賀シヅは納得の微笑。
俺は懇願する。
「もう一回、もう一回だけ」
「なあんだ。魔物だと思ったら、ただのゴミ袋のようだのう。臭くて敵わん。棄ててこいっ」
俺は山賀シヅの野太い声を微かに聴きながら昏倒する』
……という夢の話はさておき、このネットカフェをもう出よう。
三時間パック九百八十円也……か。
――――――――――
ここから駅まで歩くと五分位か。
今の俺は何故か気分がイイ。普通は有り得ないんだがな。
でもその何故の原因はよーく考えればわかる気もするのだが、それを今やってしまうと、せっかくのイイ気分がぶち壊れる気がするので、考えるのはやめておこう。
駅に着いた。電車はもう来ているな。
でもガラガラだな。じゃ、この窓際の席でっと。
ふう、ここから目的地の駅には四十分位で着くらしい。
よーし動き出したぞ。
「うわあっ、ギャア、痛でぇー」
「良ぐねえヤツだなコノッ」
「ギャア」
なんだなんだ?前の前の席。ガキがしばかれてんのかよ。
「オメエ私の財布がら千円盗ったべやこのっ」
あらら、でもそれは家帰ってやってくれや。俺は今気分がイイんだ。
「私で無、私で無、私で無ーじゃあ」
おい坊主、謝っちゃいな。楽になれ。
「オメエでないば、誰盗るってやコノッ」
「と、父っちゃだ」
「ああっ?オメエの父っちゃだっきゃ、もう墓の中だべや」
「けさ、母っちゃが、まだ寝ってらときに盗ったんだ」
なんか切ないけどもうやめとけや母さん。
「したって(だって)」
「まだ突っ張るんだが?」
「したって……」
「悪い事せばだっきゃ地獄さ行ぐんだぞ」
「母っちゃー」
「罰あだりてぐねえよな」
「うん。あだりてぐねえ」
「ようし、わがればイイんだ。オメエいい童児だな」
…… ふうっ、ようやく済んだか。何気に北国の人って気性荒いのかもしれん。母っちゃさんは何気にちょっと綺麗だが。 「ううーっ、で、でも私はやっぱり盗ってねえ」
おいおい坊主。いい加減にせいよ。また蒸し返してどうすんだよ。
「父っちゃって佐々木さんのことだもん」
「ああっ?」 「佐々木さん昨日ウチさ泊まったべや」
「……」
「けさ母っちゃがまだ寝ってら時に盗ったの見だんだもん」
「も、もういいじゃ」
「母っちゃ、佐々木さんさ罰あだるな」
「もういいって」
「佐々木さん、私のごと父っちゃって呼ばねば叩ぐっつ言うんだもん」
「もうどんでもいいじゃ」
うわっ、その佐々木ってヤツはロクもんじゃないな。まず盗ったのが千円ってのがダメダメだ。バレにくい千円、バレても笑い飛ばせる千円、子供に濡れ衣を着せることが容易な千円。
千円ぽっちが一番いけない。
俺にも今に罰が当たるだろうが、母っちゃさんよ、あんたにもろくな未来はないと思うよ。クズ男とくっついちゃ駄目なんだよ。
……罰……か。
俺はひょっとして罰に当たりたいのではないのだろうか。今のこの良い気分の原因は、小さな悪事を重ね続け、ついにはヤクザのパシリにまで身を持ち崩した俺の堕落への納得、いわば墜ち切った底の快感なのでは、と薄々思っていた。
しかしそれは違うな。
誰にも同情や憐れみを持たれる謂われの無い俺は、誰も知らない小さな小さな浄化の灯火を今から見にゆくんだ。―――――――――――――――――――
着いたようだ。んー……周りは田んぼだらけ。それに寒いわ。 おっ、さっきの坊主だ。
もう笑ってやがる。強いなお前は。
そうだ一興、この坊主の母親に道聞いてみよう。
「すんませーん。字△×ってここから近いですか」「ああ、近いよ」
母親はやっぱつっけんどんか。なんか疲れた顔してるな。
おお坊主、いい目付きしてんなお前。でもそんなに睨むなよな。
「駅出てそこの県道真っ直ぐ行くと集落あるから」
「ああ、近いんですね」
つっけんどんなのはこの女の性なんだろうな。それなりに訛りを抑えて言ってくれてる。
「じゃあな坊主。頑張れよ」
俺はポケットにあった五百円玉を坊主に握らせ……う、坊主は俺のこと凄い目で睨みっぱなしだ。でもなんか焦点が合ってない気が。
「おいっ、その男どちらさんだば」
ん、野太い声が後ろから。
あん、?ショボい男が立っている。背は小さく真ん中分けの髪型に、インテリ風の黒縁眼鏡。胡散臭いなお前。坊主が睨んでたのは……こいつか。
「佐々木さん。わざわざ迎えにきてけだの」
おーっ、このいかにも千円盗みそーなエロ眼鏡が千円泥棒なのかよ。
「この人さ道聞かれただけだよ」
俺は坊主の顔見たかっただけだがな。
「道だば駅員さ聞けばいいべや」
うるせー、このスケベ分けのエロエロ千円泥棒が。睨んでやる。坊主ももっと睨みな。
「それに今お金もらってしまってさあ」
おいおい母っちゃよ。それはいいから。
「駄目だ駄目だ。返しなさい」
なあにい。てめえ、女の財布から千円抜くクズが偉そうに。なんじゃそのわざとらしい人格者面は。
「俺は道聞いただけなんだけど、なんで怒ってんですか」
「ホントにそれだげだばいいけどな」
はぁ!?この野郎。なんて嫉妬深いんだ。坊主よコイツあ駄目だよな。
「か、金かえせえーっ」 お、おいっ、坊主いきなりかよお前。
「母っちゃさ金かえせー」
「やめなさい一樹」
坊主の名は一樹ってのか。いいぞいいぞ、いけいけ一樹。
「な、なしたばこの童児コノッ」
おっ、エロ眼鏡が狼狽してやがる。一樹、効いてるぞ。
「けさ盗ったの見だんだぞっ」
「なにい、この嘘つき坊ん主。こっちさ来いコラ」
「痛で、痛でぇーヤメロ」
この野郎、子供に手上げるなや。オラァッ、あっ急所蹴っちゃった。
「あ、あぎゃあ」
エロ眼鏡悶絶。水揚げした魚かお前は。
「はぁ、情げ無。一樹行ぐよ」
母っちゃよ、それで正解。成り行き上 俺も一緒に行っていいよね。一樹は……メッチャ喜んでるし。
無邪気だなお前。
「あなたは東京から?」
「い、いえ俺は埼玉です」
「仕事で?」
「ま、まあそうですけど」
うっ、一樹が俺のジャンバーの裾握ってる。可愛い。
「じゃあウチらはここで」
ああ、この古いモルタルの家か。か、一樹よ、そんな爛々とした目で俺を見るんじゃないよ。俺は佐々木の十倍以上はクズなんだぞ。
「ほら一樹、おじさんから手ぇ離しなさい」
「う、うん。おじさん、ありがとう」
「元気でな。頑張れよ」
そのまま生きろ。一樹、俺はお前が大好きだぞ。
――――――――――
ここが山賀シヅの家……か。これはボロいわ。
黒ずんで縁どりが緑がかった表札。これは苔むしてるだけか。表札の文字は消えかかってはいるが、山賀って書いてあるよ。イメージとは違うが、これはこれで怖いわな。
「ごめんくださーい」
あれっ、
「すみませーん」
いないのか。でも俺は待つしかない。
俺は楽になりたいんだ。
それにしても黙ってると寒いわ。
さむいーさむいーさむいーきったぐにぃのぉーあきぃ。
なんじゃいこの唄。口からでまかせとはいえ、俺は浮かれてるようだな。
「あれえ兄様」
ギョッ、爺さん後ろにいたんかい。は、恥ずかしいわ。
「この家さなんか用が?」
「山賀シヅさんにちょっと用事が……」
用事っつーか下手したら殺されにきたんだがな。でもこの爺さん何者なん?
「あれえ、シズが?わんか(すこし)待で」
爺さん簡単に山賀シヅの家に入ってったぞ。もはやここはヤクザの家なんぞではないぞ。ん?でも、この荷物……加山……わからん。
おやっ、さっきの爺さんが手招きしてる。家に入れってことだな。ようし。
爺さんについてって奥の部屋……ってなんかカビくさいな。ん、ここは居間か。
「兄さま、シズってこの人だはんで」
ね、寝たきり老人!?。山賀シヅは医療用ベッドに寝ている痩せっポチの小さいおばあさんではないか。
「お、おじさんはシヅさんとどんな関係なんですか?」
「あ?私が?わは隣の家の爺さまだ」
「で、シズさんっていつもこのまんまなんですか?」
「いーや、時くればちゃんと起きるし、身の回りのことも一応できるはんで」
あー、ほっとした。寝たきりじゃどうしようと思ったよ。
「ただな、耳遠いのどアダマちょっと呆けでまってさ」
まあそうか。仕方ないよね。
「隣近所でみんなして世話してらんだね」
ああ、こういうトコって皆親戚みたいなモンなんだろうね。
「オメエどっから来た?」
「俺は埼玉です」
「んで?なんの用や」
訊かれて当然、俺はもう正直に全部しゃべるよ。
「多分東京在住の、加山さんって人にこの荷物頼まれたんです」
「加山って誰や?」
俺も知らん。ヤミ金ヤクザってことしか。
「どら、その荷物開げでみろ。どら貸せ」
ご、強引だぞ爺さん。うわっ、取り上げられちゃったよ。
こ、この爺さん何気に荒くれ者なんだな。
早速ボストンから段ボール取り出しやがった。
「うわっ、なんだばこりゃ」
そうだろそうだろ、 爺さん見てはいけないもんだったろやっぱり。俺も覗き込んでみよう。
どれどれ、うわっ、 き、金、金の観音様!?
「うーん、兄さまや、東京の加山だって?」
「は、はい」
「誰だべなあ」
「じ、実は俺もよくわかんないんです」
「わがらねえヤツの頼みでこったらトコさ来るっておがしいべや」
ごもっともだが、アンタにそれを説明するのは躊躇するわ。でもどうしようかな。
「私でもわがらねえ事情だばシヅはもっとわがらねえべ」
一々ごもっともですわ。爺さん正しい。仕方ないわなもう。
「あ、あのう」
「なにや?」
「私はあちこちから借金をしてまして」
「うんうん」
「んで、その加山って人から助けてもらったワケですよ」
「ほぉー、して?」
「で、その替わりにシヅさんにこの荷物を届けろと言われまして」
「んでんで?」
「んでんでっていうか、それで来ました」
「ほう、してもオメエ変わってらヤツだな」
「変わってると申しましても、加山って人は怖いっていうかヤクザなもんで」
「ヤグザだあ?」
「は、はあ」
「そのヤグザは雄一だなそれは」
「ゆ、ゆういちといいますと……」
「シヅの息子だ」
「息子!?」
「シヅさ会わす顔ねーもんな。あのバガ童児」
「は、はあ」
とんだ茶番。加山は俺を軽くビビらせて任務を遂行させただけか。たしかに山賀シヅがこんな状態では郵送や宅配ではシヅにこの観音様を届けるのは難しいかもしれない。
この爺さん筆頭に、村人みんなで面倒みているらしい山賀シヅに、金の観音様って……
まず誰かが横取りするに決まってるわな。
俺は証人としての任務も請負わされてるんだろうか。
「ゆ、雄一が何したってや」
おお、シズさん起きたな。か細くて鈴が鳴ってるような声だな。
「シズ起ぎだんずな」
「健三郎がおめえ?」
「んだ私は健三郎だ」
「んで、そぢらさんが雄一が?」
「いや、ちがう。雄一のまあなんだ、知り合いだべな」
俺は呆けた老人の扱いなんて慣れてないし、このけんざぶろう爺さんに任せるしかないわな。
「あんれまあ、雄一の」
「……」
「おう兄さまよ、なんとか言ってやれ」
「は、はい、俺はゆういちさんの友達です」
はぁ、この空気は……これから俺どうすりゃいいんだろ。
「んでよう。雄一はまだ生きでらのが」
「はい。昨日会いましたから」
「ほんとにが?」
「は、はい。」
「雄一なあ、さっき夢さ出で来たドゴでさ」
おいおいけんざぶろう。なんとかしてくれや。っておい。もう居眠りかよ。しかも観音様抱いてやがる。クッ。
「母っちゃ、さようなら、って言ったんだおん」
「は、はあ」
「多分私だばもう死んでらど思うや」
「はあ」
こ、この空気は耐えられん。この観音様を無理矢理受け取らせてさっさと退散しよう。
けんざぶろう、観音から手ぇ離せやオラ。そして起きろ。
シヅさんのベッドのリモコンは、これか。
「あんれまあ、ありがとう。どっこいしょっと」
おっ、シヅさん普通に動けるんじゃん。けんざぶろうは既に大の字かよ。何しに来てるんだよお前は。
もうお前はどうでもいいわ。
「あの、これゆういちさんから預かって来ました」
「あんれまあ小せえ観音様だごと」
小さいっていっても二十センチはあるし、金だからな。最低でも18金、もしかしたら純金なんだからな。
「これば雄一がのう」
「はい」
「生きでれば何とかになったのにの」
はあ、やっぱり死んだと思い込んでるわ。でも確かに渡したからな。
「んんー、オメエ達よ、話ついだが」
けんざぶろうっ。今更起きんのかよ。めんどくせーな。おやシヅさんは観音様手に取りずっと見てるよ。
「俺、用事済んだから帰りますよ」
「まあ待でや、これは一体何だもんだ」
ん、手紙じゃないんかそれ。あの段ボールに入ってたんだな。けんざぶろうってばホントによう。
「貸してください」
「読んで見でけろじゃ」
山賀シヅは観音様の顔見て感極まってる感じだし、けんざぶろうはなんかふてぶてしいし。俺は色々なことが期待外れでショックなんだからな。
「じゃあシヅさん、読みますよ」
って反応ないじゃん。観音様の顔ずっと見たままだよ。
「いいって、いいって読んでまれ。シヅだっきゃ、たまにしか正気さ戻らねえんだ」
「じ、じゃあ読みますよ」
――――――――――
拝啓山賀シヅ様へ
永い間ご無沙汰しておりました。私はあなたの息子の山賀雄一です。私は、あなたもご存知かと思いますがヤクザ者です。
このことは、あなただけではなく、もはや村の人達も皆知っていることでしょう。私は勝手に、あなたはもう亡くなっているものだと思っておりました。でももしやと思い、私の情報網の限りを尽くした結果、あなたがまだ存命だということを最近知りました。
あなたはなんという生命力の持ち主なのでありましょうか。
私があなたの息子としてその村で生活したのが十五歳まで。私は今四十五歳ですから、つまり三十年前に私はその村を出たということになります。
思い起こせば、私がその村にいた十五年の間にも、窃盗や恐喝、傷害等々で警察のお世話になったことは二度や三度ではありませんね。
あなたはそんな私をいつでも庇ってくれました。
それに私は、あなたが一所懸命に働いて稼いだお金を何回持ち出したかわかりません。
そんなときでもあなたはいつも、私を優しく諭すだけで、私には叱られた記憶がほとんどありません。
なんで叱ってくれなかったんでしょうか。
私は知っていました。私は父の連れ子だということを。私が二歳の時に、私の実父があなたと再婚したということを。そして私が五歳のときに、弟の謙二が生まれましたね。今から考えると当然ですが、乳飲み子に付きっきりのあなたをみて、私は嫉妬しました。
私はあの馬鹿な父親の子供ですから、嫉妬心が異常に強い子供だったのです。
私は謙二が生まれてからずっと、謙二のことが大嫌いでした。こんな奴死んでしまえといつも思っていました。謙二をあやすふりをして、鼻を摘んだりしたことも何回かありました。
それでも五歳年下の弟は可愛いもので、いつも一緒に遊んでいるうちに、私は謙二のことが好きになりました。いつも、本当にいつも一緒でした。あなたも、謙二が五歳、六歳と成長するにつれ、私と謙二を分け隔てなく可愛いがってくれました。
そんなある日のことです。私が小学校から帰り、家に上がろうとすると、あの馬鹿親父の声がします。
まだ幼い謙二と話をしていたのです。
酔っていました。
「謙二、オメエはシヅどワアの子供だばってやあ、雄一は違うど」
私はハッとしました。私があなたの子供ではないなんて思いもよりませんでした。
「雄一だっきゃ、バガオナゴの子供だね」
「父っちゃ、バガオナゴってなあに」
「雄一の母っちゃがバガオナゴだってなあ」
私はすぐに駆け足で学校に引き返しました。
そして誰もいない校庭の片隅で、あなたが仕事を終える日暮れまで、ずっと逆上がりをしていました。
あまりに回りすぎて鼻血が出てきましたが、私は構わず回り続けました。
白い体操着の胸の部分に、鼻血の赤いネクタイが出来ました。
「母っちゃの血でねえ。母っちゃの血でねえ」
と、念仏を唱えるように鉄棒を回り続けているところを、ようやく先生に見つかって止められました。
先生に家まで送ってもらう道すがら、私は自分の家系のことを、先生に尋ねました。
先生はそのとき、嫌に険のある目付きをして私を見たので、私は何でもないと誤魔化しました。
それ以来そのことに触れるのは、私の中ではいけないことになりました。
私はその後数ヶ月もすると、例の一件のことも忘れて楽しく暮らすようになりました。
それはあなたが優しかったからです。
あの馬鹿親父の言葉は酔っ払いの戯れ言だったと思えるようになっていました。
そんなある日でした。
謙二が死んだのは。
これから書くことは今まで誰にも話したことはありません。
あの日は日曜日でした。
私は十一歳、謙二は六歳。
謙二は来年小学校に入るという歳で、口数も多くなり、私は少し謙二に生意気さを感じていました。
特にその日は何故か、謙二の虫の居どころがとても悪く、ことあるごとに私に歯向かって来ました。
そこは汚いから歩くなと言えば、わざと歩いて靴やズボンを泥だらけにしたり、私の上着の背中に鼻くそをこすりつけたりしてきました。
あげくの果てには
「ユウイチのバーガ。ションベたれ」などと、子供ならではの悪口を言いながら私の後を付いてきました。
それでも当時すでに五年生の私は、謙二の悪口など気にも止めず、裏山の麓の小さな池を目指して歩いていました。
しかしその道は、アシの生い茂る湿地帯で、注意して歩かないと足を泥に絡め取られるので危険でした。
「こら謙二や、口言ってねんで足元気ィつけろ」
「うるせじゃ、ユウイチこそ気ィつけろ」
その日は常にそんな塩梅で、私はあまりに生意気な謙二に、げんこつを一発くれてやりました。
謙二は泣きましたが、しばらくすると大人しくなり、黙って私に付いてきました。
「謙二、ワアは危ねえはんで叩いだんだぞ」
と私が言うと、突然謙二は怒った顔で、私がほぼ忘れてしまっていた爆弾を私に投げつけました。
「ふん、ユウイチだっきゃ母っちゃの子供でねーべや」
「何だって」
「ユウイチだっきゃバガオナゴの子供だね」
謙二はあの馬鹿親父の口調を真似て、確かにそう言ったのです。
私はもうとっくに、あの馬鹿親父には見切りを付けていましたから、父親の口調を真似た謙二が憎かったのではありません。
そのことを謙二が思い出させたことが憎かったのです。
生まれて初めて血液が逆流するのを覚えました。おそらく私は真っ赤な顔をしていたでしょう。
謙二は謙二で、マズイことを言ってしまったと悟ったらしく、私の顔を悲しげに見上げながら、
「ユウちゃんごめんなさい。ごめんなさい」
と言いました。
やっぱり可愛い弟です。まだ血の逆流は収まりませんでしたが、私は謙二に悪気がないこともわかっていました。これは自分が我慢して抑えるよりないと思いました。
その後まもなく湿地帯を抜け、私と謙二は目当ての池にたどり着きました。
あの池は、あなたも知ってのとおり、子供は近付いてはいけない危険な池です。
小さいけれど、深さが四メートルもある池です。
池の真ん中に古い木製の橋があり、池の中央部分までゆくと、コイが泳いでるのを見ることが出来ます。
私と謙二は、ひとしきりコイを見て帰ることにしました。
私が橋から池の縁に着いて、後ろを振り替えると、なんと謙二は池の欄干に登ってるではありませんか。
「謙二、やめろ。落ぢれば死ぬんだぞ」
私は焦って橋の上に引き返しました。
「ユウイチ来ねえでけえ。ワアはジャンプする」
欄干から橋のハメ板目掛けてジャンプしようとした謙二は、滑って後ろ向きに池に落ちてしまいました。
私はすぐに、橋の中央付近の欄干の下から手を伸ばし、謙二を助けようとしました。謙二も必死にもがきながら私の手を掴もうとして、小さな手を私の方に伸ばします。
しかし、橋から水面までは一メートル位の距離があり、私と謙二の手は少し触れあうことはあっても、なかなか握り合うところまではいきません。否、仮に握り合ったとしても、当時の私の力では、謙二を引き上げるのは無理だったでしょう。
謙二のもがく池の水の音が、段々と弱くなるにつれ、私は泣きたくなってきました。でも私は必死に手を伸ばしながら、謙二に呼び掛けました。
「謙二、頑張れ、もっと手ぇ伸ばせ」
謙二も必死に手を伸ばし、私の中指の第一関節を謙二が辛うじて握った瞬間
「母っちゃあ、助けで母っちゃあ」
謙二の口から出た言葉は、私の名前ではなく、『母っちゃ』という言葉だったのです。私は反射的に自分の手を引っ込めてしまいました。
それから数秒後に、謙二のもがく水の音が消え、謙二の姿は池から見えなくなりました。
私はしばらく魂が抜けたようになり、橋の上でへたり込んでいましたが、ハッと我に返り、謙二の名を大声で呼びました。
「けんじー、けんじー」
いくら呼んでも、水面には波一つ立ちませんでした。私はオーイオーイと泣きながら、家に走って、あなたにこの事を伝えました。
気丈なあなたは取り乱すことなく、消防団や警察へ連絡し、涙をボロボロ流してる私の手を引き、池に行きました。まもなく消防団の人に引き上げられた謙二は、当たり前ですが、すでに死んでいました。
その晩、家に寝かされた謙二の遺骸に寄り添って、あなたは一晩中すすり泣いていましたね。
私も同じ部屋の隅で布団を被り、朝までずっと泣いていました。
それこそ一生分の涙はその時に流してしまいました。
私はあれ以来今の今まで一度も泣いたことはありません。
その後の四年間のことについてはあなたも知っての通りです。
中学校を出た私は、辛い思い出のある村を出て、東京の自動車修理工場で働き始めました。
社長さんはとても良い人で、私に目を掛けてくれ、私もそれに応えようと、それこそあなたのように一所懸命に働きました。
三年が過ぎ、五年が過ぎ、私は皆に信頼されるようになりました。
そんなときです。工場がいきなり倒産してしまったのです。
社長の家族は夜逃げしてしまいました。私達工員はどうすることも出来ずに、工場の前にぼんやり立っていました。
そこに取り立てのヤクザがやってきました。
他の工員達は怖がって逃げてしまいましたが、私は、私を可愛がってくれた社長さんを追い込んだのが、このヤクザだと思ったので、そいつを思い切り睨んでやりました。 そうして、そのヤクザに気に入られた私はヤクザの道に入りました。私は、工場で働いていたときもそうでしたが、ヤクザになってからも、あなたに何度も仕送りしましたね。でもそれはことごとくあなたに返金されたり、受取拒否されました。
私は謙二のことで、あなたに恨まれているんだと思うようになりました。それも当然です。私はあなたの本当の子供ではないのだし、更にはあなたの唯一の子供である謙二を見殺しにしたのですから。
私はヤクザ稼業とはいえ、謙二への贖罪という意味で頑張ってお金を貯めました。そして十年前にその観音様を作らせました。
私は未だ独り者で、家のことには一向に頓着しませんが、観音様に毎朝の水やお供えを欠かしたことは一日たりともありません。
せめて私が死ぬまで、せめてあと何十年かは、謙二の霊を慰めてくれる観音様にお供えを欠かさない。それは私の義務だと思っていました。
ところが。ところがなんです。私はこのヤクザという稼業のしがらみで、いよいよ今日躰を懸けることになったのです。躰を懸けるというのは、ここでは具体的に語るべきことではないのですが、それは、命を懸ける、ということと大体同じ意味です。
これは何日か前に決まったことなのですが、この稼業では、こういうこともあることなのです。
私は、躰を懸ける前に、一目だけでも母っちゃに逢いたいと思いました。
しかし、今まで悪行三昧で生きてきた私が、今更故郷にどの面さげて帰れるのでしょう。
そんな事をすれば、私の決心も鈍ってしまうし、何よりあなたに迷惑が掛かってしまいます。
それに、親の死に目に会えないというのは、この稼業に入ったときに覚悟していましたので、あなたに直接逢う、という甘い夢は、諦めることにしました。一番の問題はこの観音様だったのです。そして何より、この純金の観音様は、まだあの世では幼いままであろう謙二の霊を慰めてくれる、私にとっては大事な大事なものなのです。
私は困りました。私には時間も無かったのです。
そんなときに、私のやっている会社にたまたま電話をしてきたのが、今あなたの目の前にいるであろう岡田繰太君なのです。
私は岡田君との電話を切った後、たまたま岡田君の免許証のデータを見て、ある種の衝撃を受けました。
なんと岡田君は、謙二と生年月日が一緒だったのです。
これこそは謙二が巡り合わせてくれた縁なのだと私は思い、この観音様は、彼に預ければ大丈夫だと確信しました。
岡田君は借金男だし、私が昨日会った様子では、かなり頼りない人間です。しかし観音様があなたの元へ無事に届くということに関して、私は何も心配していません。
なんといっても彼は、謙二に選ばれた男なのですから。最後に言わせてください。私はやっぱりあなたの息子です。
恐らくもう、あなたに逢うことはないと思いますが、いつまでもいつまでも長生きしてください。
今、私は、二度と流さないはずの涙を流してこの手紙を書いています。
さしずめこれは、私の人生の最後の一滴の涙でしょう。
母っちゃ。母っちゃ。母っちゃ。
愛する母っちゃへ。
―――――
か、加山、いや、山賀雄一さん。ハッ、電話しなきゃ。
「もしもしっ、もしもしっ、もしもしっ」
「お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が……」
駄目だ。何度掛けても駄目だ。雄一さん、死ぬな、死んじゃ駄目だ……
「あんれ兄さまや、さっき雄一だの謙二だのってしゃべってらったべ」
「シ、シヅさん」
「あれ達二人ともわあ(私)の童児だんでえ」
「ううっ、シヅさん」
「二人ともとってもとっても良い、わあのワラスだんでえ」
涙が止まらない。雄一さんがホントに死んだのかは知らん。でももう二度と、シヅさんや、このオウオウ嗚咽しているけんざぶろうや、ましてや俺などと逢うことはないのは確信できる。
「二人ともこの観音様みたぐめんこい顔してらんでい」
俺は、息子自慢をなかなかやめないシヅさんを、ギュッと抱き締めて大泣きした。
――――――――――
エピローグ
あの旅から帰った俺は、すぐに仕事を探した。今は建設現場の手元をしている。
それでもなんとか都合をつけて、月に一回以上は青森に行く。用件は色々ある。
まだまだ元気な山賀シヅさんに逢うこと。
謙二君の墓参りをすること。
観音様にお供えして拝むこと。
あの利かん気坊主の一樹に逢うこと。
一樹の母親に……それはこれから頑張る。
あっ、そうそう。観音様をけんざぶろうの魔の手から守ること。
そんなもんかな。
完




