Le piano
僕が今住んでいる家には上等なピアノが一台あって、僕を含めて同居人たちはみな自由に鍵盤を玩んでよいことになっていた。しかし十年も前にこの家の娘のために買われた、この赤いクロスを纏った黒ピアノは、今や右隣の箪笥同様、開かれずに溜まったとりどりの楽譜、小さな自鳴琴の数々と、極彩の造花用の飾り棚と化されていた。なので、弾きたいとふと思ったところでまず置物たちをどかしてやらねばならないこともあり、それは居間の片隅の大きめな家具くらいの認識しか、されていなかった。時折、もう十八になった娘の少女が、練習に明け暮れた幼き日々を思い出し、どこか聞き覚えのあるフレーズを軽やかに奏でる程度が、今ではそれの機能そのものなのだった。
僕といえば普段からこのピアノの向かいのテーブルに陣取って、頬杖をつきしばしば夢想に耽っていた。別段何を考えるというのでもなく、ただたまにはヴィヨンの詩なんかを思い出し口遊みながら、貴族のようにほうけて時間を潰していた。家の者たち、すなわちピアノの持ち主の少女とその両親たちと祖父母の面々は、みな各々に仕事や行きつけのカフェーに向かっており、でなければ大抵自室で過ごしていたので、おかげで下宿人であった僕も、こんなふうに気楽に日々を送ることが出来たのだった。
「少し、いい?」
高くはっきりとした若々しい声で、その日、持ち主の彼女は気軽に僕に声をかけ、(彼女の)その家具に手を掛けた。
「ああ、弾くのか」
立寄って、それに薄くかぶった埃を拭き取るのを手伝いながら言うと、彼女は照れたように笑ってこくんと頷いた。
「何だか時々、無性に弾きたくなってしまうの。不思議ね、習っていた頃は、嫌で仕方がなかったのに」
「そういうものだろう。
ここで聴いていても?」
「いいわ。でも、そんなに上手くないのよ」
「構わないさ」
丸みのある長方形の椅子に座り鍵盤の蓋を開いた彼女の傍らで、そういえば誰かの演奏する姿をこんなに近くで観聴きしたことはなかったと思いながら、左側の壁にもたれて立っていた。これまでは大概、定位置のテーブルに座ったまま微かに動く背中を見つめて耳を傾けていたので、この鑑賞方法は結構に新鮮だった。
ぽろん、というなめらかな音から、流れるように曲は始まった。簡単にアレンジを加えた、ショパンの練習曲だ。しばらく弾いていない割にはすらすらと淀みなく進み、午後二時という明るい部屋の中で聴くには心地が良かった。彼女も、とちらぬようにと多少は険しげな表情だったけれど、口元にはその楽しさが窺える笑みが浮かんでいた。時折、開け放した窓からカーテンを靡かせて麗らかな風が入ってくると、さらに穏やかさは増した。目を閉じれば違う情景が見えてきそうなほどだった。
しばらく眺めていると白と黒の鍵と目くるめ続ける指たちにつられるように瞼が下ちてきた。抵抗せずに目を細め、やがて聴き入ったままで完全に閉じると、実際数年前に離れた地元の風景―見慣れた街や店、共に屯していた友人たちの顔―が、ふと走馬灯のごとく駆け巡って、少しの間郷愁に浸った。こんなふうに懐かしい過去を思い返すのは、僕にしてみれば珍しいことだった。
さらに深く瞑想していくうちに、古い木造の家が見えた。二階建てで、一階は安いビストロになっている黒ずんだ建物。育ててくれた店主の老夫婦も玄関の前に佇んでいた。生まれ育った、家だ。我が家と呼べるたった一つの場所。
戸を開けてみると、またも思い出深い景色が広がった。二十組程度の、建物と同じく使われ続けて古くなったテーブルと椅子が、列を成すように中に並んでいた。一つだけある窓のすぐ脇には、またもや古めかしさを漂わせた裸のままのピアノが置いてあった。こういう庶民的な店を好む作曲家たちのために、確か先代が設けたものだと聞かされたことがある。しかし、この懐古的な映像の中で、一つ覚えのないことがあった。
どこかで見たような女性が、ピアノを弾いているのだ。カールのかかった長い髪の、それなりに美人な女性。上手く視覚できず、色と他にも目元や輪郭が曖昧ではっきりしない。けれど確かに知っているというもどかしさが胸で疼いた。
そして僕はやっと、その核心を導き出した。
未だ見ぬ母の、亡霊だ。
理由もなく、ただそう確信した。靄がかかったように漠然とした存在であった母の。生まれてすぐは共に過ごしたのだろうが、おそらく呼びかける言葉を覚える前に別れてしまった母の。こんな姿、いや、家事をしている姿も、子守唄を聞かせてくれる姿さえも全く記憶に無いのだけれど。数年後、若い頃の彼女だという肖像を見ただけで、とうに顔など忘れた筈だった。忘れたのだと、思っていた。
これは願望の現れなのか。こうやって、ずっと前に聞いた友人の幼少時代の記憶のように、海の母にピアノを聴かせて欲しかったのか。その友人を羨んでいたのか。ジョハリの窓さながら、気づかぬうちにこんな幻影を求めるほどに、僕は垂乳根の愛情を、渇望していたのか。
うつくしい亡霊はゆっくりと指を止め、店内に入ってきた僕の方を見、何かを話すように口を動かすが聞き取れない。尋ね返そうとしても声が出ず、何度試してもさっきのもどかしさが蘇り積もるばかりだ。涙腺が緩んでくることだけがはっきりと感じられる。
彼女はそれを気にも留めずに、そのまま優しく口角を上げた。
ああ、微笑んだのだ、と、今度はすぐに分かった。
気づくと、演奏されていた曲はすでに最終小節に程近いところまで進んでいた。僅かに水滴の垂れてきそうな目を注意深く開き、一瞬、はっとする。残像に残っていた彼女の幻影と実際にピアノを奏でている少女が、同調すろように重なっていた。少し座高の高い方が幻で、まさに幽霊といった風貌で白い編地のように透けていた。けれどそれも一刹那のことで、瞬きをするうちに幻影は音もなく消え、もう現れなかった。呆気にとられそのまま見つめ続けていると、やがて練習曲も終わり、少女は視線に気づきこちらを向いた。
「どうかしたの?」
「……いいや。
それにしても、君、なかなか上手いじゃないか」
頭を振って称賛すると、彼女は笑って立ち上がり、鍵
盤の蓋を静かに下した。
少し考えてから、僕は続けて言った。
「また、こうして隣で聴いても、いいかな」
「もちろん。
わたしのピアノでいいならね」
答える彼女の笑顔には、女の優しさに満ちた、慈愛のようなものがはっきりと窺えた。
このとある下宿屋のピアノが、もはやただの家具ではなく、楽器でもなく、僕にとって見知らぬ思い出の幻灯機となったのは、言うまでもないことだろう。
こんにちは、白州です。
名前は、はくすらんじゅと読みます。宜しくお願いいたします。
ちなみに小説のタイトルは仏蘭西語で、ル・ピアノと読みます。英語のザ(その)・ピアノにあたる言い方です。
お読みいただきありがとうございました。
これは自分が初めて自由に、本当に好きなように書いてしまったものなのでよく分からない点もたくさんあると思いますが、とりあえず昔の外国っぽい雰囲気を感じて下さっていれば恐悦至極でございます。
これは一応訂正版なのですが、書き終えて数日してから直したままなので勢いというか、その頃の書き方がすごく濃く出ています。ボードレールがやっと解ってきて、『巴里の憂鬱』のような作品が書きたくて書きたくてしょうがなかった17の頃の。今の自分の契機になったものの1つなので思い入れも強くて、投稿にあたってもう一度手を加えようかとも思ったのですが勿体なくて止めました。おかげで読みにくくて、申し訳ないです...。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
これからはもっと忠実に投稿していくと思いますので、今後とも宜しくお願いいたします。
お読みいただき本当にありがとうございました。
平成二五年 長月 白州藍樹




