第1章3 助言
節目の季節の春が続いている。
ふわりと吹く温かい風と優しい日差し。
主張し過ぎない花の匂い。
この日も、ライーは定刻に婆の家を訪れた。
「であるからに、ラレンティアは賢王と呼ばれて……クロト?」
ライーの目が持っていた教科書から離れて、座っているクロトに向けられる。
クロトの視線は机に開かれている教科書に向かわず、目の前にある土壁に向かっていた。
クロトにしては珍しい事だと思った。
少しばかりの沈黙の後、もう一度、名前を呼ぶ。
「クロト!」
ライーに強く名を呼ばれ、クロトははっとしてライーを見上げた。
ライーの手にある教科書が目に入り、授業中であった事が思い出される。
「すいません」
消え入るような声で謝った。
貴重な時間を割いてもらっているのに、失礼にも程があった。
申し訳なさに追い討ちをかけるようにライーは心配顔で言ってくる。
「大丈夫ですか?どこか痛みますか?目眩とか?」
「いいえ……大丈夫です。本当にすいませんでした」
「珍しいですね、少し休憩にしましょうか」
顔色が悪いと、優しく頬を撫でられた。
その手の温かさに、現実に引き戻された気がする。
一体自分は何をやっているのか。
授業に集中しないばかりか心配までさせて。
自分を責め立てる言葉が浮かんでは消えていく。
大きな溜息が漏れそうになるのを、ぐっとこらえて視線を上げると。
「飲みなさい。少しは気分が良くなるはずです」
差し出されたそれは、授業が始まる前に、ライーのために入れたお茶だった。
クロトは咄嗟に首を振った。
「いただけません。それは先生のです」
ここでそれを自分が飲んでは、なんのために用意したのかわからなくなる。
「いいから飲みなさい」
ライーには珍しく有無を言わせぬ物言いだった。
それ以上食い下がる事ができずおずおずそれを受け取ると、クロトはゆっくり茶を一口飲んだ。
すっとするお茶は、喉に遣えた何かを流して行ってくれた気がする。
「すいません」
ライーは柔らかく笑んでその場を離れると、窓辺へ。
そうして少しばかり空いていた窓を大きく開け放つ。
風が通り抜けた。
後れ毛がふわりと舞う。
「先生?」
「この辺りの風は気持ちいいですね。花の匂いが交ざって、なんとも癒される」
大きく息を吸い込んで、吐いて。そうして振り返ったライーはなんとも嬉しそうに笑っていた。
「先生…私…」
また喉に何かつっかえて、それ以上言葉にならない。
何か言いたいはずなのに、感じの『何』がわからない。
情けない自分に、クロトは無意識に唇を噛み締めた。
ライーはというと小さな丸椅子を引っ張ってきて、クロトの傍に腰を下ろしている。
「気にする事はありませんよ。頑張り過ぎで心配してたぐらいですから」
柔らかい口調に罪悪感が募る。
そんな言葉をかけてもらえる資格など自分にはないのだと、首を振った。
「頑張っている人ほど、自分は頑張ってないと否定する。頑張りが足りない人ほど、自分は頑張ってると主張する。どこに行ってもそう…」
不思議なものですと、ライーは苦笑した。
「あなたは優秀な生徒ですよ。こちらが心配してしまうほどにね」
何か話さなければと思って、口を付いた言葉は、
「先生…私は一体…なんなんでしょう」
突拍子のない質問に、はたと我に返る。
「スイマセン!今の忘れてください!」
何を言い出すんだ、自分!と突っ込みを入れたい。
そうして出来る事なら穴に入りたい。
そんな気持ちだった。
そんな思いが伝わってしまったのだろうか。
くすりと笑い声がする。
「それを聞いてどうするんですか?」
クロトは驚いて目を見張った。
自分の質問に対して、答えではなく質問で返されたのは初めてだった。
怒らせてしまったのだろうか。
「…すいません」
身を縮めるクロトを見て、ライーの瞳は温かく眇められた。
「責めているわけではありませんよ。そうですね……少し見方を変えてみましょうか」
一つ区切りを入れて、ライーはクロトに自分を真っ正面から見るよう言ってきた。
「はい、僕を見て下さい。真っ直ぐ、視線逸らさないでね」
真正面から見るために座り直したまでは良かった。
しかし、ずっとライーを見続けるのは何やら恥ずかしい。
その思いに呼応するように視線が揺れる。
「ほら、僕から目を離さないで…」
どうやらそのままうやむやにしてもらえそうにない。
戸惑いを抱えながら、クロトはライーを見た。
「そう、そのまま」
榛色の瞳は真剣そのものである。
ライーの真意が見えず、それを探すようにクロトはライーを見続けた。
少しばかりの沈黙の後、ライーは唐突に言ってくる。
「クロト、僕が一体なんなのか答えてみて下さい」
「え?」
「クロトは僕の名前を知っているでしょう?今僕をしっかり見たでしょう?答えてみて下さい」
さぁ、とにこやかに促される。
引き下がるつもりはないとばかりの笑顔が、少し怖い。
クロトは少しばかり顔をひきつらせた。
{僕は一体なんなのか}
ライーの言葉を反芻して、クロトはもう一度ライーを見た。
先程とは違い、探るように、それでいてありのままを受け止めるように見続ける。
そうしてスカートをぎゅっと握り込んだ。
意を決して、口を開く。
「ライー・デルト。…二十二歳、男性。歴史学と地理学の権威…忙しい中、帝都からわざわざ来て下さる私の先生。暖かい榛色の瞳が…誰より似合います」
これ以上良い答えは出てこない自信がある。
正解だっただろうか。
不安が過ぎる。
ライーは何も言わずこちらを見ている。
沈黙に耐えられず、クロトはライーに訪ねた。
「…先生、間違い…でしたか?」
ライーは即座に苦笑を零した。
「正解なんてありませんよ。もちろん間違いもありません。クロトの目に僕がそう映るなら、クロトにとっての僕は、それが全てです」
「私の目に…そう映るなら…」
それが全て。
ライーの言葉を頭の中で何度も繰り返した。
言葉の意味を飲み込めない。
理解できない難しい事を言っているわけではない。
しかし、すっと頭に入ってこない。
戸惑うクロトに、ライーは更に言葉を続ける。
「さて、その答えに僕なりの答えを付け加えましょうか」
クロトはライーを凝視した。
ライー自身の答え、それがとても気になる。
ライーの迷いのない唇が言葉を形作る。
「僕は、ラレンティア陛下の手足だと。そう付け加えさせてもらいます」
堂々と力強い言葉。
クロトはライーを見つめる事しかできなかった。
返す言葉が見つからない。
黙るクロトに気にした様子を見せず、ライーは気さくに笑った。
「さて、今度は僕が答える番ですね。クロト、13歳。お婆様とルードの愛し子。亜麻色の髪は艶やかで、たまにはっとさせられる。周りに人が集まるのは、素直で優しい証拠。私の可愛い教え子。自分の生きる道は、自分で見出せる………と、僕は思っている」
「…先生、私は…」
「何か自分なりに付け加えておきたい事はありますか?」
クロトの中に湧き上がった言葉があった。
それは三つ。
そのうちの一つを、口にする。
「紡ぎの女…それを付け加えて下さい」
「あなたはなんなのか、その答えが出ましたね」
「でも、先生。私は…もうそんなんじゃありません」
「クロト自身の目に、自分がそう見えるなら、それが全てなんですよ。例えどんな嫌なものが見えても、これは違うというものが見えても、否定しなくていいんです」
「…否定しなくていいんですか?嫌な一面なんて、私はあってはならないと思います」
「人間は完璧ではありません。良い一面だけで人は語れません。嫌な一面を受け入れる強さを持たないといけませんね……目を逸らしても、否定しても、嫌な一面は消えたりしませんから」
クロトはライーの言葉を噛み締めるようにゆっくりと頷いた。
『嫌な一面を受け入れる強さ』
不思議だった。
ライーの言葉に、今まで見ないようにしていた感情が一気に吹き出す。
話したい、話を聞いてもらいたい。
強くそう思った。
「先生、私の話を…聞いてくださいますか…?」
不意に視界がぼやけた。
なぜ視界が…と思いながら、ただ一つの事が気になった。
自分勝手なお願いに、ライーはどんな顔をしているのだろうか。
瞬きを繰り返したら、視界が晴れた。
「それであなたが楽になるならいくらでも聞きましょう」
榛色の瞳は、なんて温かいのだろう。
また視界が曇った。
涙が止まらない。
「先生、私は罪を…」
その瞬間、窓の外からバタンとドアが開く音がした。
クロトの自室は、玄関の真上だ。
来客かと思った。しかし、即座に否定する。
急な来客など有り得ない。
(お婆様に何か…!?)
嫌な予感がして、クロトは立ち上がって窓の下を覗き込む。
見覚えのある人物が、ルーイッドに支えられるようにして家の中に入ったのが見えた。
「どうしました、クロト?」
体が勝手に動いていた。
困惑しているライーの脇をすり抜ける。
「先生、ごめんなさい!」
「え?ちょっ……クロト!」
ライーは走り去るクロトを振り返る。
バン!とドアを開いてクロトが部屋から出るのが同時。
振り返った先にはもうクロトの姿はなかった。
「一体何が…」
後にはライーの呟きがぽつりと残された。
◆◆◆◆◆
「それは間違いなく流行り病じゃな…。この村にまでついにやって来よったか…」
「流行り病…?お婆、うちの娘は助かるんですか!?あの子がいなくなったら…私は私は…どうしたら」
語尾が消えて、倒れそうになる女性にルーイッドが慌てて駆け寄った。
「顔が真っ青だ。まずは座って、落ち着いて話をしましょう」
女性は長い赤い髪をだらりと力なく揺らして、ルーイッドの腕をやっとこさ掴んだ。
体制を立て直し、そのまま勧められた椅子に腰を下ろす。
手を貸し終えたルーイッドに、婆が視線だけで茶を入れるように促した。
それに小さく頷いて、ルーイッドは一礼して部屋から出ていく。
さて、と婆は声を出すと、深く椅子に座り直した。
「お婆、うちの娘は…」
「流行り病と言えど、命を落とす事はないからひとまず安心するがよい」
「でも、娘はひどく痛がって…」
死にそうなのだと、女性が涙ぐむ。
「痛みは三日から四日の間に治まるからそれも心配いらん。問題は…」
そこで婆は言葉を止めた。
なんとも難しい顔で押し黙る。
上手い言葉を探しているようだった。
「どうかしましたか?」
婆ははっとして、声のする方に視線を向けた。
思ってもない人物の登場に、婆は目を見張る事しかできなかった。
◆◆◆◆◆
時は少し遡る。
{流行り病じゃな}
ドア一枚越しに、その言葉を聞いた。
半開きのドア。
婆が客人の元へ急いだのがよくわかる。
赤い髪が振り乱されて、自分が思った人物と間違いなくないと、ようやく悟った。
状況の把握に時間はかからなかった。
{娘はひどく痛がって}
その言葉だけで十分だった。
半開きのドアから急いで離れると、足音を殺すようにして勝手口へ。
「ちょっ…お前、先生は…クロト!」
お茶の支度をしているライーを横切り外へ出る。
呼び止められたが、足を止める気はない。
『痛みを消すぐらいなら、紡ぎ女の私でもなんとかなるかもしれない』
赤いおさげを揺らして笑うシェダルが思い出された。
あれから数日しか経っていない。
『シェダル、今、行くから』
クロトは全速力で走り始めた。