第1章2 疑問
翌朝。
しなければならない家事をこなす。
洗濯、掃除、朝食の準備。
朝食を終え家事に一段落つくと、クロトは婆の部屋に茶器片手に訪れた。
「今日は一段と張り切っておるようじゃの、クロト」
自室で旅の疲れを癒やしている婆に、お茶を差し出しつつそう言われた。
「いえ、そんな事は…お婆様、今日はこの後、昼食前までお暇をいただ
きたいのですが…」
よろしいでしょうかと婆にお伺いを立てた。
「構わぬが珍しいのう。一体どこまで出かけるのじゃ?」
「シェダルの下へ顔を出そうかと。私の話を楽しみにしているようで」
「この間はセイリス、その前はアイラ、今度はシェダルとな…若い娘に人気のようじゃの。ルーイッドとは大違いじゃ」
おほほと盛大に笑う婆に苦笑を返すより他ない。
そういえばと、茶に口を付けながら、婆の顔がいつになく真剣になる。
「クロト、そなた流行り病の話はライーから聞いたかの?」
「いえ。…今回は歴史学の話で時間が過ぎてしまいまして」
雑談する時間はなかったと言い募ろうとした。
が、婆のただならぬ顔色に語尾か消えた。
「お婆様、流行り病とは一体…」
「帝都ではまだ誰も発症しておらんとの噂は本当のようじゃの。だからライーも何も言わんかったか…まぁクロトに話すほど何もわからんというのが正直な所じゃろうて…」
うむと納得したように言葉を締める婆。
言いたい事がなんともぼやけているのは気のせいではないだろう。
婆にしてはなんとも歯切れが悪かった。
「そう難しい顔をするでない、クロトよ」
はいと即座に答えた。
何やら腑に落ちないが、婆自身が詳しい話をする気がないのなら納得するしかない。
「南方での話であるが、いつ何時、この村に発症者が現れるかわからん。そなたも十分気をつけるんじゃ」
「はい、わかりました。お婆様は体にお変わりはありませんか?」
「わしか?わしは大丈夫じゃ」
軽い口調で笑う婆はいつもの婆だ。
「私より南方からお戻りになったお婆様の方が心配です」
「わしに病など似合わんからのう…なぁに、病の方から退いていくに」
くすりと笑いが込み上げた。
どうやら自分は気にし過ぎのようだ。
「ほれ、早くいかんとシェダルとゆっくり話ができんじゃろうて」
退出を促す婆に、小さく頭を下げて部屋を後にした。
◆◆◆◆◆
入れ替わるようにして、窓から入ってくるのはルーイッドだ。
「流行り病か…なんだか風が変わり始めたな」
丸椅子の背もたれを跨ぐようにして、腰を下ろす。
「そなた盗み聞きとは何事じゃ」
いつもの小言が始まりそうな勢いに間髪入れず、ルーイッドが口を開く。
「俺が寝ころんでた場所の上で話を始めたのはそっち。だから盗み聞きとは言わないんだなぁ、これは」
「そなたには用事を言いつけておったはずじゃが…そうか、庭で寝ころんでおったか。それは知らなんだ」
「あはは…。まぁ細かい事はさておき」
流行り病だと、頭を掻いて、話をすり替えるのはルーイッドだ。
「ルーイッド、そなたどこまで知っておるのじゃ?」
「お婆があいつに気をつけろと言った意味がわかる程度には」
婆の顔色が変わる。
ルーイッドもいつになく真剣な面持ち。
嫌な沈黙が広がった。
先に口を開いたのは、
「ルーイッドよ。クロトは耐えられると、そう言い切れるか?」
茶を片手に難しい顔で語る婆であった。
ルーイッドは遠くを見るような目で、問いの答えを探している。
「わしはそうは思わん。必ずクロトは過去を嘆き悲しみ、そして憎むじゃろうて」
「…お婆、いい加減あいつに誓約の意味を教えたらどうだ?あれから三年……もう受け入れられる年齢だぜ」
そうではないのだと婆は首を振る。
「何をそんなに躊躇する必要がある?時間は過ぎ行くばかりだと、お婆もわかってんじゃねぇか」
「ルーイッド」
おうと即座に応ずる。
「そなたにはわからぬか?あれはまだ子供ぞ」
身の上話をして以来、一度も触れない話題が一つ。
自分自身の気持ちも御しきれず、逃げ回っているのが手に取るようにわかる。
身の内から湧き上がる思いの理由すら見つけられぬ幼子。
「臭い物に蓋しているのとなんら変わらぬ」
「だからと言って、このままじゃ」
「ルーイッド!」
遮られた言葉の先はわかっているのだと、暗に告げられたような気がした。
ルーイッドの目が伏せられる。
「……お婆」
「なんじゃ」
「俺は、あいつには幸せになって欲しいんだよ……」
柄にもない事言ってるのはわかっていると、ぼそりと付け加えられた。
それに頷きを返して、お婆は一度目を閉じた。
そうしてゆっくり目を開く。
「わしもそう思っておる。優しく、脆い幼子故にな」
預けられたとはいえ、我が子のように育てた。
手を挙げるような事はしでかさなかったが、どこか自分を卑下するような所があった。
それを時間をかけて、自分を大切にするすべを教えた。
「あやつは一体何を考えておるのかの」
その小さな呟きは、春の風に弄ばれ、消えていった。
◆◆◆◆◆
村外れにあるシェダルの家を訪ねると、にこにこの笑顔で迎えられた。
家に上がり込んでまでする話じゃないと、シェダルを外に連れ出して、花が綺麗なあの場所へ。
ルーイッドに連れて来られて以来、何度となく通ったその場所には、小さな長椅子が置かれるようになっていた。
二人で並んで腰掛け、シェダルがふふっと笑う。
赤いおさげがよく似合っていた。
「この間の話の続きが聞きたいとルーイッドから聞いたんだが、間違いないか?」
「うん!この間のお話、とっても面白かった。運命の三女神はフェイト、デクマ、クロト。ほらちゃんと名前を覚えたよ」
上気した頬、子供特有のきらきらした眼差し。
そんな時期が、自分にもあったのだろうか。
身を乗り出して揺れたおさげ。頭をそっと、撫でてやる。
「すごいな、シェダルは。じゃあ、それぞれがどんな仕事についていたか、思い出せるか?」
「フェイトは………糸を切っていて、デクマはぁ……糸を測ってる。クロトは糸を作っている!」
「そうそう、よく覚えてたな。じゃあ今日はまた昔々の神様達のお話でもしようか」
わぁいと嬉しそうに笑うシェダル。
腰を浮かせて、自分の次の言葉を待つ。
ゆっくりと空を見上げると、心地よい風が頬を撫でた。
「今日は南風だな。南風の神様はアウステルと言うんだ。昔のローマという土地の西南風の風の神様はアフリクス。風の神様がいるから、人間は風の恩恵を受ける事ができる」
「おんけ…い?」
視線を合わせてゆっくりと頷きを返す。
「シェダルは風車を見た事あるか?」
「本でなら見た事ある」
「あれは風が回してくれているんだ。風車が回る事によって、水が汲みあげられたり、小麦が小麦粉になったり…。夏に吹く涼しい夜風、花の種を運ぶ清かな風。人間や自然が生きて行く上で、風はいろんな仕事をしてくれてる。それに感謝しなければな」
「そっかぁ…風の神様はすごいんだ。ねぇ、運命の三女神様は私達に何をしてくれているの?」
率直な疑問に、肌がざわりとした。
「クロトおねぇちゃん?」
小さな沈黙に、シェダルはこちらの顔を覗き込んでくる。
「………彼女達は、人間の命を作っていたと言われている。生命の糸をクロトが作り出し、それを定められた寿命に測るのがデクマ、測られた生命の糸を正確に切るのがフェイト。私達人間の魂は、彼女達が作っていたのかもしれないな…」
「たましい?」
首を傾げてこちらを見るシェダルの髪に触れる。
順に頬、首、肩、腕を通って手へ。言葉を紡ぎながら触れていく。
「魂とは、人間の個体情報だな。シェダルのこの髪も腕も、手も、クロトが作った生命の糸の情報を元にして作られている。その生命の糸は魂と言えるんじゃないかと、私は思っている」
ぽかんと止まってしまったシェダルに、どうやら自分の言葉はうまく伝わってないらしいと悟る。
これ以上うまく噛み砕いて説明する事など、到底できそうにない。
ふっと笑って、シェダルの髪を撫でた。
「ちょっと難しかったかな。さぁ、花でも摘もう。お母さんへのお土産にな」
途端に表情を取り戻して頷きを返すシェダルの頭を、くしゃりとして立ち上がった。
木を賑わせていた花びらが、風に乗って戯れる。
この花の名前を、ルーイッドに聞いたような気がしたが、思い出せない。
「クロトおねぇちゃーん!!」
手に摘んだ花を持つシェダルが、こちらを振り返って手を振っている。
シェダルに向かって頭上で思い切り手を振り返した。
その手をそっと下げて、何気なく手のひらを見る。
運命の三女神。紡ぎ女。
その生まれ変わりの自分。
昔は本当に人の生命を紡いでいたとされている。
では自分が十歳まで紡いだ生命の糸は、果たして人の生命だったのだろうか。
紡ぎ出した生命の糸を、姉達が測り、裁断した。
その後、それはどこへ――。
{運命の三女神の一人と同じ名前なんて、すごいね!!}
私は紡ぎ女の技術と魂を持って生まれてきたから。
{いつになったら満足に役目をこなせるんだか…先が思いやられるわ}
満足に役目をこなせていない私が作った生命の糸は――。
花の中心でシェダルが自分を呼んでいる。
舞う花びらが、身の内に巣食う疑問を抱いて離さない。
動き出さなければと、己を叱咤した。
それでもその後、自分がどうしたのか覚えていない。
不意に湧き上がった疑問は、紡ぎ女であった自分を根底から覆す可能性を秘めている、そんな危ういものだった。