序章4
そこには仁王立ちした男が一人。
紫のローブを身に着け、腰に剣を差したその男は、婆を見るなりほっとしたように笑んだ。
「なんだ、生きてるじゃねぇかよ。呼んでも出てこねぇから、死んだかと思ったぜ」
「ルーイッド…お前はもうちと常識というものを学んだ方が良いようじゃな」
「説教なら余所でやってくれ。まったく、心配して損した気分だ」
「心配してくれと頼んだ覚えはこれっぽちもないがの」
呟くようにそう言うと、婆はやれやれといった感じで椅子に戻っていく。
男はというと、大股で部屋に入ってくるなり、婆の近くにあった椅子に偉そうに腰を下ろした。
クロトは戸惑いながらも、婆とルーイッドと呼ばれた男を交互に見た。
婆が落ち着いている事もあって、クロトの中の驚きは少なからず去りつつある。
しかし、テーブルを挟んで座る男がなんだか怖くて、無意識にスカートをぎゅっと握り締めた。
不意に男と目が合って、クロトはびくっと体を震わせて俯く。
見慣れない男という生き物だからだろうか。
それともルーイッドと呼ばれた男の雰囲気のせいだろうか。
怖くて怖くてたまらない。
固まったままの自分を、男が値踏みでもするように上から下まで見てきたのが分かった。
咄嗟に息を詰める。
「お婆、このお嬢ちゃんは誰だ?」
男の蜂蜜色の短髪が、小さく揺れて、婆の方に顔を向ける。
その瞬間に、クロトは詰めていた息を吐き出した。
少しばかり黙って、茶を飲んでいた婆が大げさに溜息を付いたのが聞こえた。
「紹介の前に…ルーイッド。お前さんはもうちと声を小さくして喋るのじゃ。でなければ、紹介した所でお前の名は、この子の頭の片隅にも残らん」
ルーイッドはきょとんとして婆を見返し、次いでクロトに視線を向けてきた。
そうして、困ったように蜂蜜色の頭を掻くと、肩を竦める。
「怖がらせて悪かったな、お嬢ちゃん。俺は、ルーイッド・パレス。お嬢ちゃんの名前は?」
先程より少しばかり声が小さくなり、話す速度もゆっくりになった。
ルーイッドの切れ長の紫の瞳が優しく眇められて、クロトはスカートを握っていた手から、少し力を抜いた。
「クロトです」
「クロトか。歳はいくつだ??」
「十歳です」
「十歳か……。十歳にしちゃ、なんだか大人びてるな。なぁ、お婆」
「なんじゃ?」
「ちょっとクロト借りていいか?」
婆は意外そうな顔で笑った。
「婆にではなく、クロトに聞くんじゃな」
「了解」
男は嬉々として立ち上げると、机を回り、さっきの婆と同じように横にやってきた。
見上げるような形になるはずなのに、そうはならなかった。
ルーイッドがクロトの椅子の横で、片膝を付いたからだ。
「ちょっと気分転換に外に出ようぜ。ここに来るのは初めてだろ?すぐ近くに花が綺麗な所があるんだ」
一緒に行こうと手を差し出された。その手は赤銅の君のように大きかった。
「あの…」
助けを求めるように婆を見ると、婆は小さく頷いた。
自分が思っているような怖い人ではないらしい。
認識を改め、クロトはスカートの上にあった手を、おずおずと差し出された手の上に置いた。
◆◆◆◆◆
小さい子を連れて歩くように、ルーイッドは道中ずっとクロトの手を握っていた。
見知らぬ街の中、クロトの目が忙しく左右に揺れる。
こんな風に街中に出るのは初めてだった。
クロトが出かけるのを許されたのは、テーゼの中でも限られた区域で、住んでいた塔から川への道だけである。
テーゼより自然が少ない気がする。
生活する人々が沢山いるからだろうか。
そんな事を考えながら歩いていると、舗装された道の途中で、何人かの人とはすれ違った。
その中には、ルーイッドの知り合いもいて、軽口をたたき合ったりして笑顔で別れていく。
更に少しばかり歩いていると、ルーイッドが自分に合わせてゆっくり歩いてくれているのが、クロトには分かった。
変な沈黙が流れないように、他愛もない話をしてくれたりもする。
テーゼの暮らしを考えると、今の自分は姉達の意に沿わない。
『姉上様が見たら、きっとお怒りになる』
こんな風に、街中を出歩く事。
こんな風に、誰かと手を繋ぐ事。
それも手を繋いでいるのは、異性だ。
そう思ってハッと気づく。
怒られる心配は、もうしなくてもいいという事に。
クロトが約束を守らなかった時、姉達はクロトに罰を与えた。
それは思い出すだけでも悍ましく、辛い経験だった。
しかし、もう罰を受ける事はない。その事実にちょっとほっとしている自分がいる。
それでも怒ってくれる存在がいなくなった事が、クロトには悲しかった。
じんわりと涙が出てきそうになり、クロトは我慢してしっかり前を見た。
柔らかい風が、クロトの腰まである長い髪を弄っては消えていく。
馬車が二人の傍を通り過ぎて行った時、クロトは初めて自分から口を開いた。
「馬は一体何を引いているんですか?」
ルーイッドは驚いてクロトを見たが、目が合うとさっと驚きを消して笑った。
「今のはな、馬車と言ってあの箱の中に人が乗っているんだ」
「じゃあ、あれは?」
前からやってきた荷馬車に視線を移したクロトに、ルーイッドも同じように視線を向ける。
「あぁ、あれは前に人が乗ってるが、後ろにリンゴが乗ってるだろ?人じゃなくああいう荷物を運んでるのを、荷馬車って言うんだ」
「馬車、荷馬車……」
すれ違う度に、これは馬車、これは荷馬車と、クロトは知ったばかりの言葉を小さく口にした。
舗装された道に沿うように並ぶ家々にも、なんだかわくわくして興味を引き付けられる。
「ここは?」
「民家、人が住んでる」
「次は?」
「ここも民家」
「あの看板のある所は?」
「………クロト」
小さな沈黙の後に名を呼ばれ、クロトは立ち並ぶ家々から目を離してルーイッドを見上げた。
ルーイッドは苦笑して、クロトの前に屈んでくる。
視線を合わせ、小さな子供に言い聞かせるように言ってきた。
「町の中の説明なら今度してやるから、今は花を見に行こうぜ。こう何度も止まってちゃ、夜までに辿りつかない」
そう言い終わる頃には、クロトはルーイッドに抱き上げられていた。
そのまま肩に乗せられ、今まで近かった地面が遠くなる。
「ルーイッド様、ちょっ、下ろして下さい」
言葉とは裏腹に、クロトはルーイッドの首に夢中で抱き着いた。
そうしていないとそのままバランスを崩して落ちてしまいそうだったからだ。
「様はいらないな。畏まらず、ルードと呼べばいい。俺の事はお婆以外みんなそう呼ぶ。ほら、急ぐぞ」
歩き出したルーイッドに腹を立てる事も、更に抗議を重ねる事もできず、クロトはただただ落ちないようにルーイッドにしがみついた。
幸い、前からは誰もやってこない。
恥ずかしさに、身が縮むような思いだ。
クロトはこの先も誰も人が来ないよう、切に願った。
◆◆◆◆◆
ルーイッドがクロトを肩に乗せたままいつもの速さで歩き始めると、花が咲いている地まではあっという間だった。
色とりどりの花を目の前にし、クロトは頬を上気させていた。
「こういうの、あんまり見た事がなかったか?」
「はい。初めてです」
先程まで自分の肩の上で体を縮ませていた少女は、どこかに行ってしまったようだった。
肩から下ろすと、すぐさま駆け出した。
途中、花の名前をいくつも聞かれ、ようやく納得したように花の中を歩くクロトの姿を、ルーイッドは子を見守る親のような気持ちで見ていた。
馬車すら存在しない辺境の地から、婆の元へやってきたのは疑いようがなかった。
立ち並ぶ家々や、どこにでも咲いている花にすら目を輝かせる。
その点を考えると、辺境の地に住んでいただけでは説明がつかない。
『一体今までどんな生活を送っていたんだ』
何かを思いついたのだろう。
クロトがこちらに走ってくる。
花を手折っていいかを聞かれ、問題ない事を教えると、嬉しそうに笑うクロト。
また嬉々として、花が咲き乱れる中心部へと戻っていく。
そうしていると明らかに十歳の女の子だった。
変に取り繕った、婆の家の一室でのクロトとは別人のようである。
「まったく…酔狂なもんだな…」
遠くのクロトは、花を一本手折っては、もう片方に束ねて歩いている。
何度もそれを繰り返し、小さな花束になった頃には、陽は傾き始めていた。
帰る旨を伝え、抵抗するクロトを肩に乗っけると、ルーイッドは家路を急いだ。
◆◆◆◆◆
婆の元へ戻ると、夕ご飯がしっかり用意されていた。
ずっと何も口にしていなかったクロトは、日ごろになくよく食べた。
クロトと共に食卓を囲んだ婆も、ルーイッドも驚くぐらいの食べっぷりだった。
食事中は主に、ルーイッドが他愛もない話をして、婆がそれにツッコむという図式が出来上がった。
二人の会話を聞きながら、ルーイッドに話を振られたらそれに答える。
それぐらいしか、クロトの出番はなかった。
それでも、いつも以上にご飯が美味しく感じられたのは気のせいじゃない。
誰かと話をしながら食事を取るというのは、クロトにとって初めての事だった。
姉と食事を共にしても、話す事は行儀が悪いと禁止されていたのだ。
楽しい時間はあっという間だった。
食後のお茶を飲むと、クロトはうとうとし始めた。
「ルーイッド、部屋までついて行っておやり」
婆の一声に、なんで俺がと言いながらも、ルーイッドはクロトの手を取って部屋を出た。
ルーイッドのもう片方の手には蝋燭が握られ、足元を淡く照らしてくれる。
半歩後ろを歩くクロトを気遣いながら、ルーイッドはクロトに声をかけてきた。
「疲れさせたみたいだな、大丈夫か?」
クロトは首を左右に振った。
「そんな事ありません。今日は楽しかった」
一面の花畑がまた思い出されて、クロトは欠伸をしながら小さく笑った。
持って帰ってきた小さな花束は、帰ってくるなり婆に渡した。
その花が食卓の中央に活けてあるの見て、クロトが幸せな気持ちを抱いたのは先程の事だ。
「明日からは忙しくなるぞ。あの偏屈お婆がお前をこき使うに決まってる。肉体労働は若いもんの仕事だとかなんとか言ってな」
ちょっと声を潜めながらそう言って、ルーイッドは笑った。
つられる様に、クロトも笑った。
月明かりが差し込む廊下を、少しばかり二人で歩いた。
クロトの部屋の前にたどり着くと、ルーイッドはドアを開けてくれる。
入るよう促され、クロトは月明かりが差し込む部屋へと入った。
ルーイッドも後から入って、ベッドのすぐ近くにある机の上に蝋燭を置いてくれる。
「この中に必要なものはだいたい入ってるだろうから」
ルーイッドは部屋に備え付けられているタンスに大股で近づくと、タンスをこつんと拳で叩いた。
「水差しはそこ、蝋燭はそこ、寝間着はベッドの上の奴。あっ、蝋燭ぐらい消えても点けられるよな?」
「はい、それは大丈夫です」
「じゃあ俺はここらで退散するか。何かあったら腹に力入れて大声出せ。そしたらちゃんと来てやるから」
ルーイッドの気遣いが嬉しかった。同時に安心もした。
「今日は本当にありがとうございました」
丁寧にお礼を言うクロトに、ルーイッドは笑っておやすみと残し部屋から出て行った。