序章3
鐘の音が聞こえる。
聞き慣れた妙に濁った低い音ではなく、自然に耳に入ってくる高さの音だった。
クロトは小さく身じろぐと、ハッとなって体を起こした。
「ここは……」
目覚めると柔らかいベッドの上だった。
陽の匂い溢れる掛布が、夢心地に気持ち良かったのを思い出す。
ふと視線を上げると、胸が空くような日差しが入り込んで、室内を明るくしているのが分かった。
今にも温かい風が吹くような、そんな気持ちにさせられる。
「おや、ようやく眠り姫のお目覚めか」
静寂はドアから入ってきた一人の恰幅のいい老婆によって途切れた。
老婆はゆったりとした足取りで、クロトに近寄るとベッドの脇に置かれていた椅子に腰を下ろす。
「そんな怯えた顔をせんでいい。可愛い顔が台無しじゃ」
「貴方は一体…私は、どうしてここに…」
更に何かを言い募ろうとして、クロトは言葉を失った。
追手は、姉達は、あの人は――――。
唐突に思い出された衝撃的な記憶に、無意識に掛布を強く握り締める。
それでも体の震えは収まってくれそうにない。
「何やら嫌な事を思い出したようじゃの」
適当な言葉を返す事もできず、クロトは咄嗟に唇を噛み締めた。
口を開けば、どんな言葉が飛び出してくるのかわからなかったのだ。
老婆が大きく息を吐き出したのが分かる。
何か言わなければと強く思う程、頭は真っ白になっていく。
老婆はやれやれといった調子で、掛布を握り締めて白くなってきたクロトの手に、自らの手を重ねた。
そっと手を開かせ、クロトの両手を包むようにして軽く握る。
その皺だらけの手の温かさに、クロトの涙腺は一気に壊れた。
「おねぇ…さまぁ…っつ」
どうして姉達が命を奪われなければならなかったのか。
どうして自分だけが生き残ったのか。
どうしてが幾重にも積み重なって、嗚咽が零れる。
「うっ…ひっく」
老婆は重ねた手はそのままに、もう片方の手でクロトの背を撫でた。
親が子供にするように、優しくゆっくり何度も背を往復する。
老婆は何も聞かなかった。
理由も言わずただ泣いているだけというのは迷惑だとわかっていたが、クロトはどうにも泣き止む事ができず、老婆の服を濡らした。
「幼子が、苦労続きだったようじゃの。ほれ、今は何も考えず身を清めようぞ」
泣き声が鼻をすする音に変わり、ようやく落ち着いてきた頃、老婆はクロトに向かってそう言った。
老婆は椅子からゆっくり立ち上がると、クロトにもベッドから降りるように促す。
小さな幼子のように手を引かれ、クロトは部屋から出た。
連れて行かれた先は浴室だった。
綺麗に清掃されたタイルは、古いながらも光っているように見える。 先程の部屋と同じように室内を照らす日差しが、なんとも温かった。
「さっ、服を脱ぐんじゃ」
老婆の手によってボロボロになっていた服がはぎ取られた。ぐちゃっと丸めたようになっていた髪は丁寧に解かれる。
「実に艶やかな髪じゃ。六十年程前なら、婆も負けんかったがの」
そう言ってお茶目に笑って自らの髪を撫でる老婆に、クロトは小さく笑った。
そんなクロトを横目で確認しつつ、老婆は桶で浴槽の湯を掬い上げると、クロトの頭の上から勢いよく流した。
「わっ!え?…水じゃない…」
「湯は初めてかえ??若い娘が、川で沐浴する生活でもしていたのかのっ!」
最後は気合を入れて言葉を切ると、すぐさま新しい湯が降ってきた。
ジャバジャバと遠慮もなく湯が降り注がれ、クロトは身じろいだ。
「これ、動くでない。こんな老人に肉体労働させておるんじゃから、ちっとは協力せいっ」
「だって…なんだか気持ち悪くて…」
「それぐらい我慢するんじゃな」
今度は容赦なく髪に手を突っ込まれ、わさわさと髪を洗われた。
迷いのない手は、次に体を洗って、顔まで泡を塗りたくる。
「ちょっと待って!お願いだから…」
「問答無用じゃ!!」
クロトの静止の声も老婆にはどこ吹く風だった。
結局、老婆が納得するまでクロトは洗われ続けた。
全てが終わる頃には、クロトはぐったりと日差しを見つめていた。
『湯浴みって…こんなに疲れるものだっけ…』
「まったく、手の掛かる幼子じゃの」
そう言いながらも老婆は笑っていた。
皺がれた手からタオルを受け取り、クロトはお礼の言葉を口にする。
「ありがとうございました」
老婆は満足したように、二度続けて頷きを返した。
老婆が浴室から出て行った後、クロトは大きな溜息を漏らした。
この疲労感はなんだろう。
一人で行った最後の沐浴の清々しさを思い出し、一度深く頷く。
今度からは一人で大丈夫だと、そう言おう。
クロトはそう心に決めた。
◆◆◆◆◆
老婆が用意してくれていた真新しい紺のワンピースは、測ったようにクロトの体にぴったりだった。
今まで来たことのない型の服に、似合わないんじゃないかと、しきりに服を見るクロト。
「お前さんはどこの出身じゃ?ミストラルか?コペルか?」
「え?」
老婆からの唐突な質問に、クロトは俯きがちだった顔を上げた。
上げられた地名を、頭の中の地図と照らし合わせながら、クロトは左右に首を振る。
「テーゼの地で育ちました」
「テーゼ??………あのテーゼかの?」
『あの』が付く意味が分からず、クロトはそうですと返事を返す。
「テーゼか。よくよく話をせねばなるまいな」
独り言のように老婆は呟くと、それ以上何も言わず歩き始めた。
クロトは少しばかり送れるようにして老婆の後に続いた。
誰一人としてすれ違う事なく連れて来られたのは、先程の部屋とは別の部屋だった。
先程の部屋の三倍はありそうな室内の中央には、使い込まれた丸い机と対になった椅子が置かれている。
その一つに座るよう促され、クロトは腰を下ろした。
老婆は浴室での機敏さとは打って変わり、ゆっくりとした足取りで仕切られた奥へと入っていく。
クロトは大きく一つ息を吐くと、部屋を見渡した。
大きな亀。何かを象った刺繍がされた布。大きな水鏡。壁一面に並べられた本。
部屋の大きさの割に物が多い印象を持つ。
もう一方の壁に掛けられた古びた地図に目を留め、クロトは少しばかり首を傾げた。
『ここは一体どこなんだろう…』
クロトは壁の地図の地名を、いくつもいくつも読んで見ては頭を悩ませた。
しばらくして戻ってきた老婆は、茶器が乗った盆を持っていた。
その中の一つのカップを差し出され、クロトはありがとうございますと言って受け取る。
老婆はそのまま机を回り込むと、クロトと向かい合える椅子に腰を下ろした。
盆からカップを取り、一口飲む老婆。
それにつられる様にして、クロトも一口それを飲む。
今まで飲んだ事のないそれは、なんとも爽やかな茶であった。
「さて、まずは名前を聞こうかの」
「クロトです。あなたは?」
「名など遠い昔に切り捨てたのぅ。今はみなお婆と呼ぶ」
「お婆様、ここは一体…どこですか?」
「テーゼから見て東に位置する帝都シプレ。それを更に南下した地であるここはべルックスじゃ」
「ベルックス」
先程読んだ地名の下の方に、そんな名が書かれていた事に気づき、クロトはもう一度地図に目を向けた。
大した時間もかからずベルックスという文字を見つけると、今度はテーゼを探す。
「お前さんが住んでいた地域からここまで、馬でも半年はかかるじゃろう。それぐらいテーゼとは離れた地じゃ」
「私はどうしてここに?」
地図から目を離し、婆を正面から見つめる。
テーゼから離れてはいけないと、固く姉に言われていた。
追手から逃げるために、森を彷徨ったと言っても、こんな遠くまで来れるわけがない。
「婆の古くからの付き合いの者が、お前さんをここに連れ来よった。それが一昨日の話じゃ」
「それは…赤銅の?」
男の名を知らないので、そう表現するしかなった。
クロトの中で、あの男に対して何より印象に残っているのが、男を包む赤銅色だった。
「ここに来よった時はその姿ではなかったが、そうとも言えるかのぅ。まったくあやつは、何年経ってもちっとも変わらん」
そう言いながら楽しそうに笑う婆は、何か過去を思い出しているように遠い目をしていた。
クロトは少しばかり冷えた茶を飲むと、カップをぎゅっと握りしめた。
意を決して、婆に聞く。
「お婆様、その方のお名前を教えてください」
婆はなぜか目を丸くして、盛大に笑い出した。
どうやら、今度は自分の質問に対して笑っているらしい。
「お婆様…私、何か笑えるような事を言いましたでしょうか」
なんだかいたたまれなくなって、クロトは視線をカップの中に落とした。
笑い過ぎて目じりに溜まった涙を、婆は皺がれた指で乱暴に拭うと、これは失礼したとばかりに理由を述べてくる。
「すまなかったのう。お互い名前も知らずに誓約を交わしたのかと思うと…。いつもの用意周到なあやつの行動とはかけ離れていて、そのギャップに笑ったのじゃ。お前さんと出会った時、あやつはよほど慌てていたに違いまいな」
『出会った時のあの方は…』
婆の言葉に誘われるように、あの時の事をクロトは頭に思い描いた。
慌てた様子はあっただろうか。
『私…あの方の名前も知らない』
ゆっくり話す時間もなかったが、名前も尋ねなかったとは、なんともお間抜けな話だ。
「さて、本題に移るとしようか」
先程とは打って変わった落ち着いた婆の声音に、クロトは慌てて畏まった。
「クロトよ、お前さんは一体何があって、あやつと誓約を交わしたのじゃ?」
誓約という言葉に聞き覚えはあった。
しかしそれを交わしたら、一体何があるというのだろう。
それよりもまず、何があってと聞かれているのだから、姉達の話をしなければならないだろう。
「あの…私…」
カップを握る手が震えているのが、自分でも分かった。
姉達が死んだ話を口にする事は、まだできそうになかった。
話してしまえば、それが現実だと深く思い知らされるのだろう。
そうして落ち込んで泣かない自信は、まだ自分にはなかった。
うまい具合にそこを言わずに、婆の質問に答えられないだろうか。
「助けてもらって、それで、あの…」
婆の黒い目が真剣に自分を見ていたせいもあって、クロトはそれ以上言葉を続けられなかった。
婆は小さく息を吐いて立ち上がったかと思うと、ゆっくりとした動作でクロトの横まで来た。
クロトは座ったまま、婆を見上げた。
婆の皺がれた手が、不意にクロトの額に翳される。
「婆様」
「動く出ないぞ。口を閉ざし、目を閉じよ」
言われるがままに、クロトは目を閉じた。
触れているわけでもないのに、額に温かさを感じる。
「ふむ…そうであったか。まだ与えられた役目には、歳が追いついていないようじゃな」
そう呟くように言って、婆はクロトの肩に手を置いた。
目を開けると同時だっただろうか。
婆は包み込むようにしてクロトを抱いた。
「姉達は戻っては来ぬが、ここで新しい生を送ればよい」
クロトは婆の腕の中、何度も瞬きを繰り返した。
先程起きた時にいっぱい泣いたというのに、まだ涙が溢れてくる。
誰かの前で泣く事を、姉達は止めなさいと言っていたのを思い出した。
誇り高さと潔さ。何をするにもそれが付いて回る。
厳格な姉達。
優しくされた覚えはほとんどなかったが、それでも自分は姉達を慕っていた。
もう会えないのかと思うと、胸が引き裂かれるような痛みに襲われる。
「悲しみは時が癒してくれるじゃろうて」
いつかこの胸は痛くなくなるのだろうか。
婆の体温と優しさが身に染みて、クロトは婆をぎゅっと抱きしめ返した。
「あやつも時期が来れば現れる。はて、そういえばあやつの名を教えとらんかったの…」
赤銅の男の話題に、クロトは小さく身じろいで婆の顔を見た。
悪戯っぽく笑う婆の顔は、この上もなく優しく見える。
「あやつの名はのう…」
少しばかり硬い婆の指に涙を拭われる。
クロトは婆の言葉を根気よく待った。
婆の口が思わせぶりに、ゆっくりと開かれる。
「赤銅の君とでも呼べばいいんじゃ。本当の名は、また再会した時にでも聞くんじゃな」
茶目っ気たっぷりにウィンクをされ、クロトは目を丸くした。
抗議しようと口を開きかけたクロトの口に、そっと指を押し当て、更に婆は続ける。
「誓約を交わした者同士の、名乗り合う楽しみを奪うなぞ、そんな野暮な事はこの婆にはできんのじゃ。さて、ここでの生活について説明をしようかのう」
この話を切り上げにかかったのが分かって、クロトは思い切って婆の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「あの!誓約ってなんですか」
婆の目が驚きに見張られた。次いで、苦笑が広がる。
自分はそんなにも馬鹿な事を聞いてたしまったのだろうか。
クロトは不安に駆られた。
「誓約も知らぬに誓約を交わすとは…。まぁあの状況でお前さんが生き残るにはそれしかなかったとはいえ……」
呟くように小さく洩らされ、クロトは戸惑いを覚えた。
先程の茶目っ気は隠れ、捨てられた子犬を見るような憐れんだ目で、婆はこちらを見ている。
「おい!お婆、まだ生きてるか!」
重たい空気を切り裂く、荒々しい男の声。
婆とクロトは反射的にドアの方を振り返った。