第2章2 誓約
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ルーイッドが持ってきてくれた温かいお茶を差し出され、クロトはお礼と共に受け取った。
ゆっくりと一口飲む。
そうしてようやく全身から力を抜けていくのを感じた。
慣れない緊張感がどうにも身を硬くする。
ふと婆を見れば、お茶を飲んでほっとしたような表情であった。
ルーイッドはというと、この時ばかりは無駄口を叩かず、壁に背を預け黙ったままだ。
「さて、どこまで話したかのう」
婆のその一言が、更なる話の始まりへの合図のようだった。
クロトはカップを持つ手に無意識に力を込めた。そうしていないと、茶の残るカップが手から離れていきそうだった。
「適さない者について、じゃったのう」
答えを求めているわけではない婆の口調に、クロトは浅く頷きを返す。
「魔界の空気が人にとって毒である事はそなたも知っているであろう?」
「はい、先生から教わりました」
「うむ。…逆説的に、魔族にとっても人の世界の空気は毒なんじゃよ。もちろん同じ毒でも、魔界の空気が人間にもたらす影響は桁違いじゃがな。人は魔界にいたらわずか数秒であの世行きだと言われておる」
「…数秒で」
想像すらできない世界に小さく呟くしかない。
「そうなのじゃ。それ故に不可侵条約など体の良い魔族の支配声明だという者もおる……さて、魔族が人の地に住む事によって受ける毒なんじゃが、あまり毒の影響を受けん魔族も存在する」
「それは帝都で生活する魔族の事ですね?」
「そうじゃ。彼らにとってその毒は、人が蚊に刺された程度の害しかない。だから人の世界で暮らしてゆける。しかしあやつにとっては、自分の命を縮める猛毒なんじゃ」
猛毒という言葉に、何故か寒気がした。
冷えていく体をどうにかこうにか温めようとして、クロトはカップを持つ手に更なる力を込める。
「…その差は、一体何から来ているのですか?」
「魔力の強さじゃよ。魔力の強い者ほど、その毒の影響を受ける」
「…赤銅の君は魔力が強い、それ故にその毒の影響を受けやすい。だから人の世界で生きる事に適さないと…そう言う事ですか?」
婆は大きく頷きを見せた。
「そうじゃ。あやつはこの世界中のどの魔族より、人の世界に適さない。あやつが人の世界で生きるという事は、日々命と力を削っているのとなんら変わりないのじゃよ。その証拠に、死にかけたあやつを…そなたは二度目にしているはずじゃ」
婆の言葉に導かれるままクロトは頭の中の記憶を辿った。
一度目は自分が幼すぎてあまりよく思い出せないというのが正直な所。
倒れている赤銅の君に惹かれるようにして誓約の口付けを交わした事以外何も覚えていない。
二度目は忘れもしない、つい最近の出来事だ。
張りのない声。
鋭さを失った瞳。
力ない動作と億劫さが滲み出る声音。
自分に倒れ込むようにして意識を失った赤銅の君。
「ぁ…!」
滑り落ちるようにして自分の手を離れたカップが掛布の上に転がった。
お茶がこぼれ、掛布が濡れる。
ぬるい茶は、掛布に広がるとあっという間に冷たくなった。
「…っつ…!!」
その冷たさがあの時の赤銅の君の体の冷たさとリンクして、頭が真っ白になる。
死が彼を向かい入れようとした瞬間がまざまざと蘇った。
慌てて駆け寄ってきたルーイッド。
トレーの上にあったナプキンで掛布を拭く婆。
見えている二人の行動が、無情にも頭を素通りしていく。
「クロト?おい、クロト」
名を呼ぶルーイッドを、婆は手だけで制してすっと笑んだ。
何故かその笑みが引き金となって、クロトは現実に引き戻される。
「お婆…様?」
訝しげに、笑んだままの婆を見つめる。
何か納得したような、逆に何か諦めたような、静かな笑みだった。
そのどちらの意を含んだ笑みだったのか。
クロトはすぐさま思い知らされた。
婆が深く頷いてこう言う。
「相手に迫り来る死の淵をあれほど身近に自分は感じていたのだと、そう気付いた瞬間は……誰でも思考が働かなくなるもんじゃ」
納得したような物言いがなんだかおかしかった。
それでも『死の淵』という言葉に、体が震える。
目頭が熱い。
じわりと涙が滲んでくる。
何故涙が溢れてくるのか。
「何故涙するかなど、間違っても考えたりするではないぞ、クロト」
またもや口に出していないのに先回りして答えてくる婆。
その事に驚いて、一瞬目を見張る。
「そなたは、何かしらの意味や理由をつけねば納得しないような…動き出せないような所がある。悪い癖じゃよ。涙が出るなら体の好きにさせるがよい。さすれば、直に心穏やかになるじゃろうて」
不意に頭をぽんぽんと撫でられた。見上げればルーイッドが傍にいる。
その目が優しく眇められた。
「お前は頭で考え過ぎだな。そのうちどっさり髪が抜け落ちてハゲるぞ。それか地味に円形にハゲるとかな」
ルーイッドが茶化してにやりと笑う。
婆がすかさず一言。
「ハゲるかは別としてじゃ、誰の目から見てもそなたは頭で考えすぎるのう。ルーイッド、お前さんはもうちと考えてから行動せねばなるまいな。だいたいそなたがしっかりしていないから」
「あーーっ!ハイハイ、俺は軽率で軽薄で考えなしで…………だぁーっ!もうなんでもいいぜっ」
ルーイッドは肩を竦めて苦笑い。
諦めを含んだ眼差しをよこし、とばっちりを受けたとばかりだ。
クロトは小さく笑った。
そうしていると、自然と体から力が抜けていくのがわかる。
考えるのを二人が止めさせてくれたおかげだった。
穏やかな気持ちで二人への感謝の意を心中で呟いている途中、婆が仕切り直しとばかりに一つ咳払い。
「さてクロト、ようやく核心を話す時が来たようじゃ。心の準備は良いかのう?」
「はい。お婆様、お願いします」
安心したように婆が一度頷いた。
すっと表情が切り替わる。
「誓約とはな、クロト。人の世界で生きねばならぬのに、どう足掻いても生きられぬあやつのような魔族のために存在するんじゃ。誓約を交わす相手の条件はただ一つ。人である事じゃ。誓約成立には、まず老若男女問わずある一人の人間に魔族側が誓約を持ち掛ける。それに肯定の意を持って人間が魔族側に口付けをすれば、誓約成立じゃ。そなたたちもそうであったじゃろう?」
問いかけられ記憶を探ったが、そのどれもが曖昧でなんとも返事し辛い。
困ったように考えるクロトに婆は苦笑する。
「幼き時分の話じゃからのう…まぁ思い出せんでも無理はない。ではあやつと誓約を交わした段階でそなたの鎖骨に痣が浮かび上がったのは、わかっておるな?」
「はい。わかっています」
浮かび上がった痣の存在は、赤銅の君によって教えられた事だった。
誓約の証だとそう言っていたのも、はっきりと覚えている。
「痣が浮かび上がった時点で一期目、その後、痣の数が増える毎に、二期三期と呼ばれておる。そなたは今二期目じゃ。痣はあやつの力に共鳴していてのう、あやつの力が最大になる口付け後とあやつの力が尽きかけている…すなわちあやつが死を目前としておる時、痣に痛みが走るようになっておる。最近痣が痛む事はなかったかのう?」
「いつだったか明確に思い出せませんが…ありました」
答えながら、頭の中で考える。
時おり痛む痣を手で抑えたのは、前々回のライーの授業の後だっただろうか。
すぐ治まったあの痛みは、今思えば赤銅の君の力が底を尽き始めた予兆だったのだろう。
「先程まで下がらなかった熱も、誓約の口付けによって疲労しての事じゃ。あやつの体を癒やし、一瞬にして力を回復させるのじゃから、その体にかかる負担は相当なもんじゃ」
体にかかる負担。
二期目に入って、クロトはそれを強く感じていた。
痣の痛みと熱のせいで数日寝込む事になった二期目。
三期、四期と誓約の口付けを重ねていったら、一体自分の体はどうなってしまうのか。
小さな不安が胸を掠めていく。
そうした中で、湧き上がった疑問をクロトは口にした。
「お婆様、誓約を断ち切る方法はあるのですか?」
「どちらか一方が死なぬ限り何を持ってしても、誓約は断ち切れん」
「では、誓約者同士…殺し合いはできるのですか?」
「…魔族側は相手を殺す事はできん。自らの手で誓約者を殺せば、自らの身に全て返ってくると言われておるからのう。人側は…」
中途半端に切られた言葉。困惑したような難しい表情の意味。
きっと訝しんでいる。
クロトは反射的にそう思った。
先程、誓約者の死を思い、動揺しカップを落とした者の言葉とは思えない。
そう表情で言っている。
次の言葉はこれしかなかった。
「「そなた、一体何を考えておるのじゃ?」」
二人の声が重なった。
クロトと婆の声。
婆は驚きと苦笑を交えた表情。
クロトは悪戯っぽく笑って見せた。
そうしてまずはすいませんと非礼を詫び、本題に入る。
「お婆様。何を考えているのか…正直な所、私にもわかりません。ただ…何をどうするのか決めた時、どうしたらいいのかわからないじゃ話になりません。あらゆる可能性を想定して得られる知識は得たいと思っています。後悔しないために」
「クロト、誓約を交わした事…後悔してんのか?」
今まで話を聞くばかりだったルーイッドに、唐突に問われた。
考えた事がない問いに、少しばかりの沈黙が流れる。
クロトは遠い日を思い出した。
あの時誓約を結ばなかったら、きっと自分は死んでいただろう。
外の世界を知らず、姉達に教えられた偏った知識と誇りを持って。
今の自分と生きる場所を与えてくれたのは、まぎれもなく誓約を交わしたからだ。
ルーイッドを見上げ、次いで婆を見た。
愛しい二人。
「あの時、誓約を交わさないという事は、二人に出会えなかったという事。後悔なんてできるか」
それこそが後悔しない何よりの理由だった。
ルーイッドがくしゃりと頭を撫でてくる。
婆は破顔一笑だ。
「俺はお前が後悔なく生きれりゃ、それでいい。好きに生きろや。たとえあいつが死ぬ事になって、俺やお婆が巻き込まれる事になってもな」
ルーイッドが真っ直ぐに自分を見つめてくる。
先程の婆との会話を気に留めているのが伺えた。
その瞳からも、今その口から紡がれた言葉からも。
「ルーイッド…私はまだ何も決めちゃいないぞ」
早まられては困ると付け加え、苦笑してみせる。
「決めちゃいねぇからこういう言葉が必要なんだよ。いつか…お前が俺や婆を気にして思うように行動できない時がきたらって考えてみろよ。こういう言葉も必要だぜ?」
「確かに。でもな、言わせてもらうが、そういう場面に出くわしたら私は何を犠牲にしても二人を優先するぞ」
「うわっ!すっげぇありがた迷惑!」
「ありがた迷惑だろうがなんだろうが、二人以上に大切なものなんてないんだから、当然の事だ」
「クロト…お前、セリフがキザヤロウだぞ」
「野郎とは失礼な。れっきとした女だぞ」
ルーイッドの次の言葉を待たずして、婆が気合いの入った咳払いを一つ。
クロトはびくりと体を揺らし、ルーイッドは開いていた口をぴたりと閉じた。
婆は満足げに頷くと、クロトを見てこう言う。
「クロト、誓約がそなたの重荷になるのはようわかる。もしそれを苦痛と感じるのであれば、誓約の口付けを交わさずにあやつを見殺しにするんじゃ。さすれば、誓約は絶たれる。それをするしないを選ぶのはそなたじゃが……それこそが婆の言っていた見捨てるという意味じゃ」
婆の言葉にクロトが驚愕したのは言うまでもない。
冗談ではと言いかけそうになって、クロトは即座にその考えを否定した。
こういう場面で、冗談を口にする婆ではない。
「…最初に言っていた見捨てて欲しかったというのは、見殺しにして欲しかったという事ですか」
そう言い終えて最後に一言くっついた。
何故、と小さな呟き。
到底信じられる言葉ではなかった。
婆は苦笑を滲ませ、呟くように言ってくる。
「何故と、問うか…。昔からの交流の薄い知り合いよりも、そなたの方が大事だと。そう言ったら、納得してくれるかのう?」
クロトは首を左右に振って、否と示す。
婆の言葉はとてもじゃないが納得できるような答えではない。
「私は三年間ここで一緒に生活させていただきました。ですが、どこまでいってもぽっと出の人間です。赤銅の君とは…どのような付き合いだったかわかりませんが、昔からの付き合いで…今でこそ、薄い付き合いかもしれませんが、昔は深い付き合いだったのでしょう?それなのに…」
クロトは言葉を詰まらせた。
赤銅の君と婆。そしてルーイッド。
三人の間にどんな事があったのか知らないが、婆と赤銅の君は浅い付き合いだとは到底思えない。
婆が赤銅の君を話す時の表情は、言葉は、親しみがある相手に対するものだった。
『あんなに…ギャップが面白いのだと、笑っていたのに。見殺しになんて…』
「まぁどうしても納得せねばならぬ理由はないからのう。ルーイッドではないが、そなたはそなたが思うままに生きればよいのじゃ」
この話はここで終わりとばかりに、婆はゆっくりと重たい腰を上げた。
持っていたカップを、丸い机の上にある盆に戻すと、振り返って穏やかに笑った。
「少し休むがいい。今日無理して、また熱が上がりでもしたらお互いに大変じゃからのう」
クロトは悩みながらも、はいと素直に答えた。
ただでさえ迷惑をかけているのだから、これ以上更に迷惑をかけるわけにはいかない。
婆は安心したように一つ頷くと、ゆっくりとした足取りで部屋から出て行った。